第6話 再会

【静:金色の鳥籠と、悪夢の残響】

 暗闇。

 まず聞こえてきたのは、スマホが机上で震える、不快な通知音の連続だった。

 次いで、無数の人間が一斉にキーボードを叩く、乾いた打鍵音。その音が空間を埋め尽くし、俺は身動き一つ取れないまま、その中心にいた。

 目の前には、虚空に浮かぶ無数のコメント。


『どうせ天神の金だろ。パトロン見つけてよかったなw』

『信者も教祖もキモすぎ。早く捕まれよ犯罪者』


 文字が、じわりと滲むように実体化し、冷たい指となって俺の肌を撫でていく。息が詰まる。

 耳元では嘲笑う今宮の声、蔑む佐々木の視線。そして、俺のすぐ側で、玲奈と莉愛が、氷のように冷たい瞳で俺を見下している。

『…失望したわ、圭佑。あなたも、しょせんはその程度の男だったのね』

『Kくんのせいで、私たちの人生、メチャクチャだよ…!』

 その全てを操る、顔のない黒い影が、ゆっくりとこちらに手を伸ばす。


「――ッ!!」


 俺は息を吸い込むこともできず、ベッドから跳ね起きた。

 心臓が肋骨の内側を滅多打ちにしている。悪夢の残響が、超高級ホテルのスイートルームの、無音の静寂に溶けていく。

 湾岸エリアに聳え立つ、天神グループ所有のタワーマンション。その最上階フロアを、玲奈が「今日からここが、私たちの『城』よ」と言って、丸ごと事務所兼、メンバー全員の『寮』として改装している。その準備が整うまで、ここは仮の住まいだ。


 その時、軽やかなノックが扉を叩いた。「おはようございます、神谷様。朝食をお持ちいたしました」

 ワゴンに並ぶのは、完璧な半熟のエッグベネディクト、色鮮やかなアサイーボウル、そして絞りたてのオレンジジュース。ホテルマンは、完璧な笑顔で深々と一礼し、音もなく部屋を退室していった。

 ここは、居心地のいい金色の鳥籠だ。


 クローゼットには、俺のものではない、ハイブランドの服がずらりと並んでいた。黒を基調とした、ミニマルなデザインのジャケットを手に取り、鏡の前に立つ。

「…似合ってねえな」

 独り言が漏れた。「俺なんかが、モデルでいいもんかねえ…」


【動:日常への逃避と、光の影】

 ロビーに降りると、折り目正しいホテルマンが深々と頭を下げた。

「神谷様、お出かけでございますか。お車の手配を」

「いや、いい。電車で行く」

 逃げるように回転扉を抜ける。駅の改札でICカードをタッチすると、無情な電子音と共にゲートが閉まった。残高不足だった。舌打ちしながらチャージ機に向かう。高級ホテルでの豪勢な朝食と、数千円のチャージ。そのギャップが、今の俺のちぐはぐな立ち位置を物語っていた。


 撮影スタジオの眩いライトが、俺を現実から切り離していく。

「神谷さん、もう少し肩の力抜いて。リラックスして…そう、あ、今のいい!最高です!」

 カメラマンが興奮気味にシャッターを切り続ける。俺は言われた通りに、少しだけ気だるそうに、腰に手を当ててみただけなのに、何がいいのかさっぱりわからない。だが、モニターを見ていた女性スタッフたちが、小さく「…オーラ、ヤバ…」と囁くのが聞こえた。


 撮影が終わり、スタジオを後にする。帰り際の廊下で、すらりとしたモデルの女性とすれ違う。彼女は俺の目の前でわざと立ち止まり、吐き捨てるように、冷たい声で言い放った。

「邪魔」


 スタジオを出たところで、スマホが震えた。画面には、相沢詩織からのメッセージが表示されていた。

『相沢詩織:お疲れ様です。神谷さん。』

『相沢詩織:昨日の件で、至急お話したいことがあります。お昼はいかがですか?』

『相沢詩織:お店は予約しておきます。』

 ビジネスライクな文面に、有無を言わせない意志の強さが滲んでいた。


 指定されたのは、全室個室の和食店だった。洗練された私服姿の彼女は、俺を静かな個室に促した。

 詩織の口から語られたのは、佐々木が時折口にしていたという、「私たちをバックアップしてくれる、もっと上の人がいる」という不気味な言葉。そして、その背後にいるであろう企業の名。

「…クロノス・インダストリー。天神グループの、長年の宿敵よ」

 詩織は、静かに続ける。

「今の社長は城之内という男だけれど、実質的に会社を動かしているのは、その懐刀…神宮寺という男。野心家で、手段を選ばない危険な人物よ。いずれ、クロノス・インダストリーのトップに立つのは、間違いなく彼でしょうね」

「…神宮寺…」

 俺は、その名を反芻した。


「これは、単なる復讐じゃない。『戦争』よ。あなたには、信頼できる『剣』と、正確な『情報』が必要になる。私を、あなたの情報源として使って。でも、私一人じゃ足りない」

 詩織はそこで言葉を切り、俺の目をまっすぐに見つめた。

「あなたを裏切った男…今宮という男がいるわね?」

「冗談じゃない!」俺は思わず声を荒げた。「あいつとのコラボ配信、あんただって見ただろ! 俺を笑ってたんだぞ!」

「ええ、見たわ。だからこそ、使えるのよ」

 詩織は、全く動じることなく言い放った。「彼は、利益のためなら魂すら売る男。そして、ITの天才。敵の懐に潜り込むには、彼のような『毒』が必要不可欠よ。信用なんてしなくていい。利用するの。そして…」

 彼女は、冷たい目で俺を見据えた。「使えないなら、捨てればいいじゃない」

 彼女の瞳は、ファンや恋人を求めるものではなく、信頼できる「共犯者」を求めるものだった。


【静:城と、共犯者の流儀】

 その日の夕方。俺は一人で、湾岸エリアにそびえ立つタワーマンションの最上階、新たな城(事務所兼・寮)を訪れていた。

「待たせたわね」

 現れたのは玲奈だった。彼女が纏うのは、権力そのものを仕立てたような、黒のパンツスーツ。

 しかし、彼女は一人ではなかった。その後ろから、派手な柄シャツに色付きメガネをかけた、チャラついた男――今宮が、ひょこりと顔を覗かせた。


 脳裏に、悪夢がフラッシュバックする。嘲笑う今宮。血が頭に上り、全身の筋肉が硬直する。殺意。純粋な殺意が、俺の思考を塗り潰そうとする。だが、その瞬間、詩織の『利用するのよ』という冷たい声が、頭の中で響いた。俺は、奥歯を強く噛み締め、燃え盛る怒りを理性の檻に押し込めた。


「圭佑。感情的になるのはやめて。彼は使えるわ。…あなたも、もう分かっているはずよ。その前に、あなたの新しい城を見て回りましょうか」

 玲奈に促され、俺たちは広大なフロアを歩き始めた。床から天井まで続くガラス窓からは、ミニチュアのような東京の夜景が一望できる。

「ここが司令室兼リビング。各メンバーの個室は、あちらの廊下の先に用意してあるわ。もちろん、あなたの部屋もね」

「いやー、しかし広いですなあ。俺も仲間に入れてくださいよ、圭佑さん」

 今宮は、悪びれる様子もなく、懐から取り出した扇子をパチンと広げた。

「…まだお前を信じた訳じゃない」

 俺は、冷たくそれだけを返した。

 その時、玲奈のスマホが、静かだが鋭い着信音を立てた。彼女は画面を一瞥すると、少しだけ眉をひそめる。

「ごめんなさい、圭佑。佐々木の件で、警察関係者からよ。少し後処理に行ってくるわ」

 玲奈はそう言うと、一枚のカードキーを俺に手渡した。「これ、ここのセキュリティカード。渡しておくわね」

 彼女はそう言い残し、ヒールの音を響かせて部屋を出て行った。残されたのは、俺と、俺の人生を滅茶苦茶にした男。


 静寂の中、今宮が扇子で口元を隠しながら、楽しそうに言った。

「で、早速なんすけど、手土産ありやすぜ。あんたを掲示板で誹謗中傷したアンチ、一人特定完了。この都内の大学生」

 彼はそう言うと、自分のスマホを取り出し、慣れた手つきで電話をかけ始めた。

「もしもし? 神谷圭佑さんのファンなんですけどぉ」

 今宮は猫なで声で相手を油断させ、一瞬で用件を済ませると、通話状態のままのスマホを俺に差し出した。

「ほら、どうぞ。ご本人登場っす」

 俺はスマホを受け取り、耳に当てる。電話の向こうで、相手が息を呑むのが分かった。

「神谷圭佑だ。掲示板で俺を誹謗中傷したな?」

「…はっ、番号が割れたからって、何ができんだよ?」

 強がる相手に、俺は静かに告げた。「別に。ただ、一つだけ言っておく。今夜、お前の人生の全てを懸けて、必ず、お前の元へ辿り着いてやるからな」

 俺は一方的に電話を切り、スマホを今宮に投げ返した。「行くぞ」

「りょーかい」

 今宮は、楽しそうに扇子をパタパタと仰ぎながら、俺の後に続いた。


【動:王の暴走と、聖女の祈り】

 その夜。俺は今宮が運転する車の助手席に座り、大学生のバイト先であるコンビニの前で張り込んでいた。

 バイトを終え、疲れきった顔で出てきた大学生の前に俺が降り立つと、彼は絶叫し、全力で逃げ出した。

「――逃がすかよ!」

 今宮がアクセルを踏み、車が後を追う。俺はポケットからスマホジンバルを取り出し、配信を開始した。

『【神谷圭佑・緊急生放送】リアル鬼ごっこ、始めます。』


 大学生は路地裏で転倒し、車がその行く手を塞ぐ。俺は車から降り、泣きながら命乞いをする彼に、冷徹な尋問を始めた。

「おい。とぼけるなよ。お前が俺宛の、あのクソみてえな葉書をポストに投函したんだろ?」

 大学生は、恐怖でガチガチと歯を鳴らし、失禁していた。

「ひっ…! な、なんでそれを…!」

「質問に答えろ。あの葉書を送ってきた『田中』って男と、どういう関係だ?」

 大学生は観念したように、全てを話し始めた。「…アンチコミュニティの掲示板で知り合いました…。俺は、ただの運び屋です…!」

「運び屋だと?」

「は、はい…! 田中って奴から、普通の郵便で、嫌がらせの葉書が俺ん家の宅配ボックスに送られてくるんです…!それを、夜中に俺のマンションの近くにあるポストに、投函するだけなんです…!」

 その言葉に、俺は凍りついた。俺の自宅住所が特定される、遥か以前から、あの葉書は俺の元に届いていた。

 俺は、大学生の胸ぐらを掴み上げた。「――じゃあ、なんでだ! なんで、俺の家が、あいつらにバレてたんだ!」

「し、知らないです! 本当に知らないんです! お願いします、命だけは…!」


 俺が、さらに黒幕の情報を引き出そうとした、その瞬間だった。

「――やめて、圭佑くんっ!!」

 甲高いブレーキ音と共に、タクシーから莉愛が飛び出してきた。

「配信が始まった瞬間から、絶対にこうなるって思ったから…! 圭佑くんを止めるために、ずっとコメントと掲示板を監視してたんだからね!」

 彼女は、俺と大学生の間に、震える足で立ちはだかった。

「お願い、圭佑くん…! こんな、こんな悲しい顔、見たくなかった…!」

 莉愛の瞳から、大粒の涙が溢れ落ちる。


 その涙が、俺の頭に上っていた血を、一気に冷ましていく。

 けたたましいサイレンの音が、路地裏に響き渡る。赤色灯の光が、俺たちの顔を不気味に照らし出した。

「…掲示板に、書き込まれてる…!」莉愛が、震える手でスマホの画面を見せる。そこに表示されていたのは、おぞましい文字列だった。『【緊急】クロノス・インダストリーの神宮寺に殺害予告をした神谷圭佑が、大学生を襲って生配信中』


 警官たちが、こちらに向かって走ってくる。その一瞬の隙を突いて、大学生はもつれる足で立ち上がり、闇の中へと消えていった。

「――クソがッ!」

 俺は、コンクリートの壁を力任せに殴りつけた。あと一歩のところで、まんまと逃げられた。


 俺はゆっくりとジンバルを下ろし、配信を停止した。そして、誰もいない闇の向こう…大学生が消えた方向を睨みつけ、まるでそこにいる真の黒幕に語りかけるように、絶対零度の声で宣告した。

「…いいか、よく聞け。お前がどこの誰だろうと、必ず見つけ出して、法の下で裁いてやる。だが、今は莉愛の顔を立てて、この場は引いてやる。…震えて眠れ」


 俺は莉愛の肩に手を置き、その瞳を真っ直に見つめた。

「…泣かせて、ごめんな。莉愛」

「…圭佑くんの、バカ…っ」

 莉愛は、そう言って俺の胸に顔を埋めた。

「車に、戻るぞ」

 俺は彼女の肩を抱き、今宮が待つ車へと向かった。


 車に戻ると、後部座席の莉愛は、ただ静かに泣き続けていた。重い沈黙の中、運転席の今宮がバックミラー越しに俺を見て、軽口を叩いた。

「玲奈さんには、今日の件、言ってなかったんすか?」

「…あいつにやらせる仕事じゃない」

 俺が吐き捨てるように言うと、今宮は楽しそうに口笛を吹いた。

「へえ。妹さんも守って、お姉さんの手も汚させない、と。さすが『兄貴』っすね」

「…その言い方、やめろ」

 俺の苛立ちを乗せて、車は東京の夜を滑るように進んでいく。王として悪を裁く道を選んだ俺と、ただ一人の人間として俺を案じる莉愛。そして、その全てを面白がる共犯者。

 俺たちの歪な関係が、今、確かに始まってしまったことを、莉愛の涙が何よりも雄弁に物語っていた。

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