渋谷陽一がリヤカーを引いているとき、おれの父は『宝島』の編集長だったのか?

訃報。

rockinon.com

ロッキング・オン・グループ(株式会社ロッキング・オン・ホールディングス、株式会社ロッキング・オン、株式会社ロッキング・オン・ジャパン)代表取締役会長渋谷陽一は、7月14日(月)未明に永眠いたしました。

 

おれは『rockin'on』の読者だった。Japanはつかない。中学生のころだ。今から30年以上前のことになる。おれは洋楽というものに興味津々になっていた。おれはsuedeが好きだったし、beckが好きだった。そういう情報を読むことができる、インタビューを読める音楽誌、それが『rockin'on』だった。渋松対談で語られているアーティストのことなんてまるで知らなかった。それでも、写真に重ねられた読みにくい色の小さな文字、大量の文章、それは熱心に読んでいた。

 

そんなふうに『rockin'on』を読んでいるおれに、父が言った。「わしが『宝島』の編集長をしているころ、渋谷はリヤカーで雑誌を売り歩いていたぞ」と。

b.hatena.ne.jp

 

「へえ」と思った。ただ、おれのなかでそれは、ロッキング・オンの歴史として刻まれた。

 

……が、それは本当の話だったのか? 父は話を盛っていたのではないか? ちょっと気になった。

 

だいたい、父は本当に『宝島』の編集長だったのだろうか。なにせ、実家には一冊も『宝島』がなかった。おれはそれを確認したことがなかった。

 

が、去年だったか、神保町の古本市で見つけた。

パラパラとめくってみたら、編集人のところにおれの父の名前があった。本当に編集長だったのか。

 

で、渋谷陽一の話になる。渋谷陽一でリヤカーと検索すると、なんか出てくる。おれは父経由以外では知らなかった。が、あの話は本当なのだろうか。

 

その鍵が、この『宝島』の「第八巻第七号通巻第七十九号」(なんだそれは?)にある。これが出た時期と『rockin'on』の歴史を見比べてみればいい。それが創刊当初のことであれば、父の話は本当ということになる。

 

で、この『宝島』の発行日は「昭和五十五年七月一日発行」。昭和55年、1980年。して、そのころの『rockin'on』はリヤカーだったのか?

rockin'on - Wikipedia

1972年8月号(創刊号)、渋谷陽一、松村雄策、岩谷宏、橘川幸夫、大久保青志らによるミニコミとして創刊。定価150円。

1973年冬号(創刊3号)、「ロックファンによるロック専門誌」の表紙文字が登場。4月号から直接販売から取次へと切り替わり、商業誌(隔月刊)として全国配本がスタート。6月号から定価180円に改定。8月号で大類信が表紙デザイナーとして参加。

おい、ずいぶん違うぞ。1980年は?

1980年5月号にて、次号から変わります宣言。増ページ、新コーナー掲載。12月号より『ローリング・ストーン』と契約。

もう、リヤカーではないよな。というか、手元の『宝島』に『rockin'on』の広告のってるじゃねえか。

5月号で「変わります」宣言、7月号で「変身したロッキングオンはその後も健康な新陳代謝を続けながら走りつづけています」は気が早いようだが、いやはや。

 

となると、父が中学校のころに言った言葉はあやしくなってくる。そんなに長く『宝島』の編集長をやっていたという話も聞かないからだ。

 

ひとつ考えられるには、おれの記憶があやしいということ。たとえば、「渋谷陽一は昔リヤカーを引いていたぞ」という話と、それに続いた『宝島』の話とを混合してしまったとか。あるいは、「編集長」とは言っておらず、「編集者」だった可能性もある。まあ、人の記憶なんてそんなものだろう。とはいえ、父はべつに『rockin'on』の読者でもなかったし、昔のものも含めて洋楽ロックには疎い感じだったので、渋谷陽一の昔話をどこかで読んだということも考えにくく、あれは1970年代にじかに近いところで知っていた話だったとは思う。

 

……と、ここから、父と『宝島』と我が家庭史の話になる。

 

この『宝島』の編集人のところに父の名前があるのは書いたとおりだ。特集は『恋愛論ニュー・ウェイヴ'80』(冒頭記事は増井修! おれが読んでいたころのロッキング・オンの編集長。スウェードを取り上げてくれたし、バーナード・バトラーのインタビューもやってくれた。その後、ゴタゴタがあった!)だが、表紙にあるとおり、「アフガニスタン・ゲリラ・ルポ」(冒頭カラー込みのグラビア特集)、「ウィトゲンシュタイン『反哲学』」、「フリー・ジャーナリズムの狼たち」(朝倉喬司)、「高平哲郎の『the NEW YORK』なのだから、なにやらよくわからない。記事にはよくサルトルがどうのといった言葉が出てくる。あ、呉智英の名前もある。おれが中学生のころ呉智英を読んでいると、「昔いっしょに仕事をしていた」と言っていたっけ。

 

で、そのころの『宝島』はどうだったのか。

宝島 (雑誌) - Wikipedia

カリスマ的な編集者によって先鋭化され、『宝島』はマイナー志向の超カルト的サブカルチャー雑誌として確立されてゆくが、ドラッグや精神文化特集など、そのマニアックさ故に部数は伸び悩んだ。発行部数が5000部程度のこともあった。

70年代のことである。手元にある『宝島』はマニアックだ。

そして、1980年代の項目にこうある。

落ち込んだ部数を回復させ、危機を切り抜けるため、『宝島』は関川誠を編集としてそれまでの編集方針を替え、YMO、忌野清志郎などのミュージシャンを好んで取り上げるようになり、1980年代的なパンク・ニューウェーブのファッションや音楽や文化の特集を組むようになった。

うーむ。1980年は端境期やな。売れてない最後の、煮詰まった(誤用?)『宝島』をやっておったんやな。「ドラッグや精神文化特集」とあるけど、編集部に読者からダンボールで大麻がプレゼントされたとか言っていたしな。いやはや。

 

宝島社 - Wikipedia

当時は自治体向けのPR誌や地図など下請けを中心とした事業を行っていた株式会社ジェー・アイ・シー・シー(JICC出版局、通称“ジック”)であった

それはまあいい。おれが聞いていた話では、父はJICCの仕事で北海道に赴任し、北海道の自然に触れて転職を決意したとのことであった。ちなみにおれが生まれたのも北海道の札幌である。おれが生まれたのは1979年のことである。

 

……って、1980年に『宝島』の編集長やってたっておかしくねえか? おかしいよな、上の話と辻褄あわねえよな? おれ、もう生まれてるじゃん、一歳じゃん。

 

というわけで、渋谷陽一の訃報から、なにやら我が家庭史における矛盾が発見される結果となってしまった。どうも父はJICCを辞めるときのことをあまり話さなかったように思う。一方で、その後、JICCの次の会社から独立したときは、「JICC第三営業所」のような名前を使うのを蓮見清一(宝島社の創業者でおれの父と母の仲人)に許してもらっていたらしく、いろいろとわからない。

 

わからないが、まあどうでもいいか。

 

へんな話に付き合わせてしまった。

 

以上。

 

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