追悼渋谷陽一さん
渋谷陽一さんが亡くなった。
間違いなく僕の人生を大きく変えてくれた恩人の一人でした。
1998年、なんでもない大学生だった自分は、ある日母親から「渋谷さんという人から電話だよ」と受話器を受け取って、そこで株式会社ロッキング・オンに入社が決まったことを社長から直接伝えられた。
そこから5年間、当時渋谷の桜丘町にあったロッキング・オンのオフィスで働いた。あの頃は怒られたりどやされたりしていた記憶ばっかりだ。今の自分が振り返っても、社会人として全然なっていなかった。よく僕みたいなのが拾ってもらえたなと思う。1000人とか2000人とか応募して2〜3人採用されるような倍率だった。宝くじにあたったようなものだったと思う。
2000年、ロック・イン・ジャパン・フェスの立ち上げに現場で携わらせてもらったのは得難い経験だった。有名なエピソードだけれど、トイレの数には本当にこだわっていた。それだけじゃなく駐車場とかバスとかそのあたりのオペレーションにも心血を注いでいた。
ロッキング・オンはもともと雑誌を作っている会社だ。フェスを立ち上げるとなれば興行のプロであるイベンターに力を借りる必要がある。きっと、そのあたりの運営を任せてしまうという判断もあり得たと思う。でもそうしなかった。自分が手綱を握ること、インディペンデントであることを徹底していた。フェスというのは雑誌と同じくメディアである。だとするならば大事なのは何か。観客に伝わるのは何か。その本質的なことを経営者として誰よりも鋭く見抜いていたのだと思う。
でもそんなこと当時は全然わかってなかった。ただただ社長は僕にとっては怖い存在だった。ちょっとでもだらけていたりしたらすぐに見つかってしまう。背後から声をかけられる。
その後いろいろあって僕はロッキング・オン社を離れて、それからずいぶん経つ。
今も本棚には学生時代から読んでいた『ロックはどうして時代から逃れられないのか』や『音楽が終った後に』が、手の届く場所にある。文章家としての渋谷陽一さんにはとても大きな影響を受けたと思う。僕がダメ社員だったのもあって直接薫陶を受けるような関係にはついぞなることはできなかったけれど、音楽との向き合い方や、社会への視線など、本当に沢山のことをその文章から学ばせてもらった。
それよりも何よりも、メディアというのはどういうことか、その本質はどこにあるのかを、学ばせてもらったようにも思う。
僕の敬愛する先輩たち、ロッキング・オン出身者は自ら雑誌やメディアを立ち上げている人が多い。小規模な出版社としてはなかなか珍しいことでもあると思う。
72年に創刊された『rockin' on』の基本原理は「聴き手が主体である」というものだった。業界に精通したプロではなく、ひとりの素人である聴き手は、であるがゆえに作品に対して”個”として向き合うことができる。そういう聴き手と読者が音楽批評の当事者であるということを標榜していた。
それと同じようにフェスを立ち上げたときも、イベント運営に精通するプロの目線ではなく、その場に”個”として参加するオーディエンスの当事者としての目線を何より大事にしていた。だからトイレの数にこだわった。
そしてその思想や理念を実現するためにインディペンデントな体制を守り続けてきた。敬愛する先輩たちはそういう渋谷陽一さんのメディア哲学を遺伝子として受け継いでいるのだとも思います。
僕も沢山のものを受け取ったと思うのだけれど、でも、その恩は何一つお返しすることはできなかったような気がします。
ただただ、偉大なる先達だと思い続けています。
心から冥福をお祈りいたします。