「国家のワクチン政策よ、記録と検証から始めよ」

──“打った”私だからこそ、いま伝えたいこと

 

かつて、私は“打った”。そして、人にも“打った”。

 

もともと私は、生粋の反ワクチン派だった。

自然医学も学んだ医師として、いまも“薬剤最少生活”を実践している。

異物を体に入れるという行為には慎重でありたい。

当時から新型コロナワクチンには、医学的・倫理的に強い疑問を抱いていた。

 

だが、現実はそうした信念を許してはくれなかった。

 

海外に住む息子たちが、誰よりも先に接種を済ませたこと。

勤務先からの暗黙の要請。

そして、命懸けで現場に立つ医師たちが次々と腕を差し出していく光景──。

 

還暦を目前にしていた私は、
「60歳以降はおまけの人生」と以前より思っていたこともあり、

ある時、被験者になる覚悟を決めた。

 

だからこそ、いま私はこの問いを放つ。

贖罪の気持ちがある。背負わなければならない責任がある。

 

“打った”自分だからこそ、

“打たせた”立場にいた自分だからこそ、

この構造と向き合い、声を上げる義務がある。

 

私が問いたいのは、単なるワクチン可否ではなく、

「利権と一体化した医療政策の構造」そのものである。

 

あの時、何が起きたのか。

いま、何が静かに終わろうと(はじまろうと)しているのか。

そしてこれから──私たちは何を知り、何を問い続けるべきなのか。

 

 

今朝、こんなニュースが飛び込んできた。

 

65歳以上の高齢者と、基礎疾患を持つ60~64歳を対象とした「新型コロナワクチンの定期接種」。

国がこれまで1回あたり8,300円を助成してきたこの制度が、2025年度から廃止の方向で調整に入ったという。

 

自己負担額は、現在の最大7,000円からさらに上がる見込み。

一部自治体で補助が継続される可能性はあるが、全国一律ではない。

 

この報道を見て、私は静かに疑問を抱いた。

 

「国が主導し、半ば強制的に推進してきた“あのワクチン政策”の行き着く先は、いったいどこなのか?

 なぜ“やめる”という判断は、そこにないのか?

 

 

私は医師として、接種の提供側でもあった。

だからこそ、心の奥に残る“複雑な感情”がある。

 

接種したかどうかではない。

あの制度設計は、本当に正しかったのか?

 

そう問う医師がいてもいい。

いや、語らなければならないと私は思う。

 

 

とくにいま懸念しているのが、

日本が独自に推進している「レプリコンワクチン」の路線である。

    •    世界のどの国がこれを採用しているのか?

    •    なぜ定期接種という枠組みにまで拡大し、巨額の税金を注ぎ込むのか?

    •    いったい誰が守られ、誰が本当に利益を得ているのか?

 

こうした問いに、科学的・倫理的に答えられる体制が、

いまの日本にあるとは、正直、思えない。

 

 

だからこそ、私は訴えたい。

 

そもそも医療に必要なのは、「記録」と「検証」である。

 

「誰が、いつ、どこで、どのワクチンを打ち、どんな経過をたどったか」──

その個別のリアルな情報こそが、未来のエビデンスになる。

 

たとえば北欧や欧州諸国では、国家レベルで統一された電子カルテが整備されており、乳幼児期からの予防接種履歴をはじめ、医療データが個人単位で一元的に管理されている。

 

科学と政策の信頼性は、こうした“記録”の土台の上に築かれる。

 

──残念ながら、日本においては国防・セキュリティ上の理由から、国家主体による統一電子カルテの実現は、現時点では現実的とは言えない。😭

 

だが、だからこそ「個人単位のスマート医療」こそが、今後の鍵となるはずだ。

 

一方で日本は、「誰が・いつ・何を打ったか」さえ国として把握できていない。

ここに、制度設計としての重大な欠落がある。

 

 

だから、次に向かうべきはここだ。

    •    個人単位で選べる「スマート医療」へのシフト

    •    一律ではなく、状況に応じた選択肢の設計

    •    感情論ではなく、「情報と信頼」にもとづいた政策

 

ワクチンにおいても、「打つ・打たない」が正義ではない。

問うべきは、「選択と記録の仕組み」そのものである。

 

 

最後に、ひとことだけ。

 

ワクチン政策とは、科学と倫理と哲学の交差点に立つべきものである。

金と数だけで動くべきではない。

 

そして私は、その交差点に一度立った者として、

贖罪と責任の気持ちをもって、これからも声をあげ続けていきたい。