参政党、さや氏―異色の履歴・不遇の遍歴
・参政党さや氏、東京で2位当選の衝撃
20日投開票の参院選で躍進した参政党候補の中で、ひときわ注目を集めたのが、東京選挙区で当選したさや氏だ。選挙前、ほぼ無名に近かった新人のさや氏が約66万8000票余りを獲得し、同選挙区2位に付けたのは、壮挙と言ってよい。
一方同氏を巡っては、選挙期間中さまざまな発言が物議を醸したのは既報のとおりである。
・「チャンネル桜の歌姫」という横顔
そんなさや氏と私はかつて長く同僚であった。彼女に初めて出会ったのは今から約15年前の2010年。以来、私は足掛け5年にわたって、保守業界でさや氏と「同じ釜の飯を食う」ことになったのである(*ちなみにさや氏は、保守業界では一貫してローマ字小文字の”saya”と名乗っていた)。
この原稿は単に、参議院議員といういち公人の人物評ではない。私とさや氏の保守業界での”生活”は、参政党前史に該当する重要な意味を持つ期間だ。よってさや氏の遍歴は、そのまま参政党の本質を別角度から炙り出すことになるだろうことを、私は確信するからである。
私とさや氏の邂逅は、先に述べた2010年。当時保守系CS放送局だったチャンネル桜(正式名称:日本文化チャンネル桜)に私が初出演した番組であった。そこで評価された私は、自分でいうのは恥ずかしいが「期待の若手」として、トントン拍子に同局で出世していくことになる。
さや氏は私と同い年(1982年生まれ)で、この時すでに同局に出演して久しかった。2008年に「APA論文問題」で事実上航空幕僚長を更迭された田母神俊雄氏の冠番組、「田母神塾」のアシスタントに抜擢されていたのだった。つまり彼女は私の先輩だった。
さや氏は演歌歌手からキャリアをスタートさせ、そののちJAZZシンガーに転身した。このころチャンネル桜の社長に見染められて同局に出演するようになった。
さや氏いわく、学生時代にニューヨークへ旅行したとき、同地で「アメージング・グレイス」の素晴らしさに出会い、歌手を志したという。このことは当時、彼女を紹介する番組テロップや印刷物にも必ずと言ってよいほど引用されていたし、彼女自身のライブやコンサートでも、特別に思い入れのある曲として何度も歌われたのだった。
アメージング・グレイスは誰しもが知る讃美歌である。奴隷商人だったジョン・ニュートンが奴隷船を操船している際、大西洋で嵐に遭遇する。暴風雨で死を覚悟したニュートンは、元来信仰心は薄かったが、そこで初めて神に助けを求める。すると不思議と嵐は収まり、ニュートンの船は奇跡的に難を逃れた。
この経験から真の信仰心に目覚め、自らの非人道的な行いを悔い改めたニュートンが作詞したのが、このアメージング・グレイスである。
話を戻すが、このころさや氏は、「チャンネル桜の歌姫」と渾名されていた。むろん私は音楽方面には素人だが、彼女の歌う民謡や唱歌、国歌などは立派なものだと思った。
・神谷宗幣氏とさや氏、初めての出会い
2011年の東日本大震災を経て、2012年になるや、それまで同じ放送局内でのキャスターとして、すでにさまざまな場面で共演したり仕事をしたりする関係だった私とさや氏の二人に、冠番組をやらないかという大命が下った。これが本格的な私とさや氏の共演番組にあたる。
2012年末に衆院総選挙があり、安倍晋三氏率いる自民党が大勝する。民主党政権の4年弱が終わり、待望の安倍政権となっただけあって、保守業界は高揚感に包まれていた。そんな中で、私とさや氏の番組は順調に人気番組になっていった(とはいえ、狭い保守界隈の中で、という留保が付く)。高齢男性が寡占する同局のキャスターで、この番組は最も若いこの二人が担当するということになり、ある種の目玉番組ともいえた。
番組は生放送の形式をとったので、私とさや氏とは周一回、必ず渋谷のスタジオで顔を合わせる関係になった。このとき私はのちに参政党代表になる神谷宗幣氏に出会い、2013年になると参政党の原型になる、氏が運営するユーチューブチャンネルでレギュラー番組を担当することになった。
また私はのちに参政党や神谷氏の著作を半ば独占的に出版することになる出版社の青林堂で、雑誌の編集長を任されており、神谷氏へのインタビュー企画を紙面に載せることになった(このあたりの詳細は、拙稿『参政党とは何か?「オーガニック信仰」が生んだ異形の右派政党』(2022年7月、YAHOOニュースエキスパート)を参照のこと)。
まさに第二次安倍政権誕生の高揚が冷めやらぬ中、保守業界において「一強」の地位をほしいままにしていたチャンネル桜に、私は「ゲスト出演」という形で神谷氏を紹介することになった。この時の写真が、上記のふたつのものである(共に2013年4月*写真手前の赤いハンマーは通称”ピコピコハンマー”と呼ばれ、さや氏がゲストの”過激な”発言を掣肘する際に使用する役割となっていた)。
この写真に写る神谷氏が、のちに参政党を設立し、さや氏までもが参政党から立候補して参議院議員になるとは、当時の私はよもや信じなかったであろう。現在の私もこの当時を振り返るとき、いまだに信じられない思いである。いま思えば、さや氏と神谷氏の邂逅はこのときが初めてのことであった。
しかし2013年に神谷氏をゲストに呼んで共演したからと言って、彼女と神谷氏の間になにかしらのコネクションが出来たわけではなかった。さや氏は当時、名刺を持っておらず(名刺を作らない主義だったようだ)、神谷氏と連絡先を交換した、という記憶も私にはない。この時点でさや氏にとって神谷氏は「数多くいる番組ゲストの一人」としての薄い印象だけだったに違いないのである。
・「田母神ガールズ」としての”忠臣”
2013年末、チャンネル桜が運営する政治団体が、猪瀬直樹東京都知事(当時)の辞職に伴う翌2014年2月の東京都知事選挙における元航空幕僚長の田母神俊雄氏の擁立を決定した。これが「同じ釜の飯を食う」同志としてチャンネル桜で仕事をしてきた私とさや氏の命運を分かつことになった。
チャンネル桜のレギュラー・常連出演者らは、同局の政治行動・集会等にも無条件で協力するのが業界の慣行になっていた。さや氏の役回りは、基本的には集会等で謳われる国歌等の独唱である。
田母神氏の出馬はチャンネル桜だけでなく、保守業界全部を巻き込む一大政治運動であった。むしろ彼の選挙に進んで協力することは、「名誉」であるとされた時代である。
この時さや氏は、「田母神塾」のアシスタントであるという関係性もあって、当然のごとく田母神氏の応援運動に従事することになる。世に言う、「田母神ガールズ」の誕生であった。
私はというと、田母神氏個人の人柄には親しみを覚えたが、政治家としての資質には懐疑的であった。田母神氏の主張には事実誤認が多く、その歴史観の中には、GHQやコミンテルン(共産主義団体―現在は存在しない)が日本社会を篭絡しているという陰謀史観が横たわっていた。それに加えて排外的な性質も散見された。なので私は、協力して当然とされた田母神氏の応援から、「家の水道工事の立ち合い」「海上自衛隊の取材」などの理由をでっちあげてまで逃げ回った。
関ヶ原の役における小早川秀秋軍のごとく、一向に千葉の自宅に逼塞(ひっそく)して動かない私に業を煮やした幹部連は、あるとき私を呼び出した。
「さやちゃんは、某ラジオ局の仕事を捨ててまで閣下(当時、田母神氏は通称閣下と呼ばれていた)の応援をしているのに、古谷君は一体何なんだ」
この当時、さや氏は横浜出身という縁から、横浜市の某FMラジオ局で小番組のMCを担当していた。チャンネル桜以外のメディアに中々お呼びがかからなかったさや氏にとって、民放ラジオ局での仕事には特別な意味があったと思われる。しかし彼女が都知事選で田母神氏を連日応援することで、政治的中立性の観点から以降の出演が無くなったのだ、と聞いた。実際に私がサイトを確認してみると、理由の真偽はどうであれ以降の出演が無しになっていたのは事実だった。
そんな”忠臣”のさや氏を引き合いに出して、チャンネル桜の幹部連は私の「不忠」を責めた。しかし私は田母神氏の陰謀論的世界観にはついて行けず、それを否定するどころか祭り上げるという、この業界全体を覆う言論的倫理観にも非常に強い不信感をすでに抱いていた。結果、私は田母神氏の選挙戦の最終日に短く一回だけ応援演説をした以外、鉄の中立を貫いたのである。
このときの私の「選挙応援への不参戦」が原因で、私はチャンネル桜で担当していたすべての番組を罷免された。ということは、私とさや氏の番組も消滅ということになった。2014年5月のことであった。
・さや氏の静かな「怒り」
既知の通り田母神氏は同選挙で約61万票余を得るも落選した。「田母神ガールズ」として八面六臂の活躍を見せたさや氏から選挙後、
「どうして古谷君は応援に来なかったの」
と詰問された。口調こそ穏やかだったが、その奥に怒りの感情が混じっていたのを私は見逃さなかった。「みんなが応援したのに、おまえだけ来なかったのは裏切りだ」というニュアンスは私が勝手に解釈したものだが、当たらずとも遠からずと言ったところか。
私はこのころ、狭い保守業界を飛び出しさまざまな媒体に寄稿するまでになっていたが、そのときある媒体で、群馬県大泉町の在日ブラジル人街のことを書いた。
同県南部に位置する大泉町は元来日系メーカーの冷蔵庫工場があり、ブラジル人らの集住地になっていたが、白物家電の製造が低調となるや、彼らがそのまま同地に定住し、やがてブラジル料理店や雑貨などを扱う店が軒を連ねるようになる。俗にいう「群馬のブラジル」こと大泉町である。
そこで私はブラジル料理を堪能し、アポなしで教会に行って説法を聞き、ブラジル人がいかに地域住民と良く共生しているのかをさや氏との雑談の中で話した。さや氏との仕事生活5年間の中で、これほど露骨に嫌悪の表情を見せたのは、このときが初めてであった。
「ちょっと親切にされたぐらいで、外国人を良く言うのはどうなんだろう?」
さや氏のこの言葉が、今でも耳膜の奥に残っている気がする。しかし彼女は、音楽関係の仕事で長駆ブラジルまで行ってきたと嬉しそうに語っていたのだが…。
・「田母神ガールズ」後も”忠臣”として
私がチャンネル桜から永別した後も、さや氏はチャンネル桜の”忠臣”として同局に残り続けた。私にとって先輩にあたるさや氏が、引き続きチャンネル桜で活躍している姿は、頼もしい限りであった。
私がチャンネル桜から去って数年、彼女が自身のSNSで入籍を発表したときには、流石に昔の馴染みで祝いのコメントを書こうかと悩んだが、結局辞めた。さや氏からすれば、私は「田母神氏を応援しなかった裏切り者」と映っていたに違いないと思ったからである。
ところが2020年にチャンネル桜が主体となって政治団体「新党くにもり」が結成され、翌2021年に衆議院選挙が行われる段になると、さや氏は国民民主党から立候補の誘いを受けて応諾の姿勢を見せた。
しかしチャンネル桜側としては、自らの政治団体「新党くにもり」からの出馬をせずに、国民民主党から立候補するのは「重大な反党行動」として認識された。結果、さや氏は出馬を断念したが、チャンネル桜側との関係はこの一件で冷え込んだ。これが原因となって、経済評論家の三橋貴明氏などと共に、チャンネル桜から離別したという由である。
これは私の伝聞情報ではなく、チャンネル桜の番組内で解説されていた事実だ。その後、さや氏や三橋氏が参政党に関与することになったのは言うまでもない。
あれほどの”忠臣”であったさや氏。人生で最も多忙な20代後半から30代のほとんどを「チャンネル桜の歌姫」として同局に貢献してきたさや氏が、参政党に進んだのは何故であろう。私は、彼女のこの行動は非常に合点がいくところであった。
・「論客」としては見なされず…
確かにチャンネル桜でのさや氏は人気者であった。しかし「田母神ガールズ」という事例が示すように、彼女はオピニオンを発信することを求められて居たわけではなかった。選挙の華、番組の華、集会の華、アシスタント、または司会者…。
男性高齢者が寡占するこの業界にあって、さや氏が自らの世界観やオピニオンを積極的に開陳する機会はほとんどないのだった。事実、チャンネル桜は2013年に電子版のムック(不定期刊行物)を刊行する事業を始めた。電子版ではあるが、一応言論雑誌風の体裁は整えられていた。私は当時、レギュラー番組を担う傍ら、このムックの編集をも任されていたのである。
ムックには、チャンネル桜の常連出演者らによる寄稿が収録されていた。しかしさや氏の原稿は一度も掲載されなかった。さや氏は論客とはみなされていなかった。辛辣に言えば、オピニオンを発するレベルではない、と見なされていた。
当然そこにはこの業界特有の、男尊女卑と封建的価値観が色濃く作用している。実際、さや氏はついぞ、同局において、長々と自説を開陳する機会は与えられなかった。むろん男尊女卑の色彩を奪胎しても、彼女の言論レベルは未熟であった、というのは客観的な評価なのかもしれないし、私もそう思う。
しかしさや氏はそんな境遇に耐えられなくなったのであろう。15年以上も同局に尽くしていながら、「一人前」と見なされない中で、徐々に自立の自我が芽生えていったのかもしれない。「別の場所でなら私はもっと活躍できるはずだ」という観念は、立身出世欲が強い人間が持つ典型だが、さや氏の場合は、仮にそうだったとしても、その前段に15年間の「忠臣」があることに留意が必要だ。
対して参政党は、さや氏に参院東京選挙区からの立候補という破格の条件を提示した。”忠臣”は現在の主に見切りをつけて、別の主を欲したのであろう。
・参政党を生んだのは保守業界なのかもしれない
参政党の政策や、神谷氏の発言には強い批判や、場合によっては抗議も相次いでいる。さや氏の発言も同じで、批判される場合が少なくはない。事実をもとにしない議論や政策は無意味で危険だと私は思っている。
しかし長年組織に献身してきたのにもかかわらず、思うようなポストや栄誉を与えられない人々の怨嗟は、人間社会の中で無視できない。神谷氏は私の紹介でチャンネル桜に出演し、私が編集長だった雑誌で保守論壇に橋頭保を作ったが、全く長続きしなかった。(詳細は、拙稿『参政党とは何か?「オーガニック信仰」が生んだ異形の右派政党』を参照のこと)
なぜなら実力がなかったからである。知的な努力を最低限続けていれば、狭い業界であってもチャンスは与えられるが、それが叶わないのならば自分で政党を作ろう―、という流れがのちの参政党になった。
さや氏はどうだろう。15年間の”忠臣”にも拘らず、業界の中では論客として満足に認められなかった。なぜか。実力がなかったからである。
しかし実力がなく、ある程度の知的才覚も無いからといって、単に追放してしまってそれでよいのだろうか。
織田信長の重臣であった佐久間信盛は、実力第一主義の家臣団にあって、目立った勲功を上げていないという理由で高野山に追放された。信盛は追放されるまで、約30年間もの長きにわたり織田家の家老を務めた”忠臣”だった。
しかしその人心を無視した冷酷な信長のやり口が、家臣の中に恐怖心や猜疑心を生じせしめ、ひいては本能寺の変に繋がったと考えるのは、突飛と切り捨てるまでには至らないであろう。”凡百の忠臣”を無下にした結果がどうなるかは、故事が示しているかもしれない。
さや氏の大好きな、アメージング・グレースには次のような一節がある。
I once was lost, but now I am found.
Was blind, but now I see.
私は見捨てられていたが、いま見出された。
私の目は見えなかったが、今は見える。
(訳・三宅忠明)
ジョン・ニュートンは前述の通り、神への信仰に目覚めてこの歌を作った。さや氏は何に目覚めたのだろうか。それとも最初から目覚めていなかったのだろうか。
彼女の今後6年間の議員活動を見守りたい。(了)