「首を斬る快感」を語るおやじが許せなくて 武田鉄矢さんと父の物語

聞き手・後藤遼太

 おやじのことは、大っ嫌いでした。

 目がギラギラしていて、不満があると大声を出して。それが全部、恫喝(どうかつ)するような口調なんです。復員兵で、骨の髄まで軍隊に染まった人でした。戦後はなんだか、不機嫌に生きていましたねえ。

 戦争中は、フィリピンと中国北部の戦線にいたそうです。おやじいわく、「日本一勇猛果敢な連隊」だったんだとか。

 記憶の中のおやじは、酒を飲んでは戦場体験を話していました。いや、語るなんてもんじゃなく、何というか「うめき」みたいなものかな。バラバラの断片の記憶が、お酒を飲んでうめき声と一緒に漏れてくる。そういう感じです。

 「フィリピンの上陸作戦では、連隊の先頭を切って走った」とか、「マッカーサーを捜してバナナ畑をさまよった」とか。でもじきに、圧倒的な米軍の逆襲が始まるわけです。悲惨な経験もしたのでしょう。

戦中の価値観に染まり、酒に逃げる父と「関係を断ち切っていた」という武田鉄矢さん。当時は「トラウマ」という言葉も知りませんでしたが、父の苦しみに気づき思いは変化していきます。記事後半にはインタビュー動画もあります。

 あるとき、渡河作戦の最中に流れ着いた戦友の遺体を踏んだそうです。博多弁で言うと、「靴がいぼる(埋まる)ったい、腹の中に」。内臓が腐ってズブっと腹に入るんでしょうね。その悪臭と無残さ。

 捕虜になって、ネギばかり食わされたそうです。過酷な記憶がよみがえるのか、料理にネギが入っていると怒る怒る。

酒乱、家族への暴力

 「中国の匪賊(ひぞく)のヤツらを、日本刀で何人か斬った」と自慢することもあった。首を切り落とす快感を話すおやじが、本当に嫌で嫌で。母ちゃんはおやじの横で静かに首を振っていました。おやじと周囲には、「断層」がありました。

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武田鉄矢さんの父・嘉元(よしもと)さん(右)と母・イクさん。実家の武田たばこ店の前で=ネクストワン提供

 彼の夢は、大日本帝国の勝利だったんです。敗北によってアメリカの時代がやってきて、それに対する不満と怒りが渦巻いていたんでしょう。おやじの戦後は、皇居前で正座したまま、その姿勢のまま終わっていったんじゃないですかね。

 ところが、母は進駐軍の将校の家でベビーシッターをして一晩1ドルも稼いでくる。360円。当時からすれば大金ですよ。男が10時間肉体労働をやって「ニコヨン」、つまり240円をやっと稼ぐ時代です。

 母のアメリカびいきは相当なものでした。母にとって戦時中の日本軍の思い出は、それはもう不快なものばかりだったようです。「軍部は威張ってばかり。それに比べてアメリカの将校さんはマナーがよくて。負けるはずたい。負けてよかったったい」て。

 次男坊の私もアメリカ大好きでね。戦争ドラマ「コンバット!」ばかり見て、(主人公の)サンダース軍曹に夢中。ヨーロッパ戦線の戦いぶりとか、もうワクワクして見ていました。

 それを見たおやじはイライラした声で「こげんうまくゆくか、ばかちんが!」とか「鉄砲の音が一発でも鳴ったら、人間動かなくなるったい」とか吐き捨てていました。

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武田鉄矢さん=2023年11月7日午前9時34分、東京都世田谷区池尻2丁目、小林正明撮影

 12歳上の兄が大学を出て地元の新聞社の試験を受けた時のことです。おやじが兄に「新聞社の試験に出るから、歴代天皇の名前だけは覚えておけ」と言うんです。

 悲しい声かけですよ。兄が「そんなものが出るわけない。出るならアメリカの歴代大統領たい」と答え、つかみ合いのけんか。まだ小さかった私は本当に嫌でした。おやじと折り合いの悪い兄は家を出て、姉たちもやがて家を出て行きました。私もおやじと取っ組み合いのけんか、しましたよ。

 当時の光景をいま遠くに思い浮かべると、分かるような気がします。おやじには「居場所」が無かったんだと。

 戦争に負け、軍が解散し、博多に帰ってきた次の日から鉄工所の旋盤工として油まみれで働いてきた。二等兵のごとく自分に従うはずだった息子たちは自分にはまったく理解できない「戦後民主主義の子」になっているという混乱。そして、米軍将校の家に「女中」のように仕える女房に対する怒り。

 おやじは月給1万円そこらの旋盤工でした。子ども5人を抱えて金は出て行くばかりなのに、少ない給料を全部はたいて、飲んでしまうんです。やけ酒ですよ。飲むと暴れ出してお膳をひっくり返す、鉄拳をふるう。そのうち包丁を持ちだして、「飲んだオレが悪かった。これから切腹する」なんて芝居がかったことを言う。みんなで止めて、母ちゃんはわんわん泣いてね。

後で知ったトラウマの意味

 「トラウマ」なんて言葉、あのころは私たち知りませんでした。私が兵士のトラウマのことを知ったのは、ベトナム帰還兵を描いた米映画「ランボー」を見てからでした。

 全部振り返ると、おやじは戦争によるトラウマの傷のうずきに耐えながら、油まみれになって高度経済成長期の中で働いていたんだなあと。

 きついですよね。戦争で負けて帰ってきて、日本経済を立て直すために安い給料でアリのように働いて。トラウマのひりひりするような痛みを抱えて、それを酒でしか癒やせない境涯だったんだろうなあ。

 しかし私は、おやじの生前、彼との関係をどこかで断ち切っていました。

 色気づいて高校生ぐらいになると、戦争の話をしても何の反省もないおやじが恥ずかしくてね。ほら、元兵士がメディアに出て「平和が一番」とか言うじゃないですか。うちのおやじは、そんなこと一言も言わないんです。いつまで経っても「うちの連隊は連戦連勝だった」とか、「武器さえあれば勝っとう」とか、そんな話ばかり。

 私の鉄矢という名前だって、「もう1回アメリカと戦争になるだろうから、そのときは武器に恵まれますように」とつけたものです。戦争はいけないとか、まったく思っていませんでした。

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武田鉄矢さん=2023年11月7日午前9時59分、東京都世田谷区池尻2丁目、小林正明撮影

 大学在学中に「フォークシンガーになりたい」と家を出て、上京しました。母ちゃんに「1年だけ」という約束で。おやじは「お前、まさか美空ひばりの仲間になれると思うとか」と不機嫌な顔で言っていました。

 そして出した博多弁の歌「母に捧げるバラード」(1973年)で人気に火がつきました。母ちゃん、大喜びでね。

 週刊誌の方が我が家まで取材に来たことがありました。どうやら、私の歌から「母子家庭のにおい」がしたらしく、記者が母に尋ねたんです。「お父様はどの戦線でお亡くなりになられたのですか」って。母ちゃん調子に乗って、「フィリピンで死にました。見事な最期でした」と答えたそうです。

 家の奥に隠れていたおやじがこれを聞いて、記者が帰った後で大げんかですよ。母ちゃんが言い放ったのが「あんたが死んどった方が、あの歌が盛り上がるったい」。もう、喜劇ですよね。

 このころ、戦友会に出たおやじは連隊長から「武田!」と呼ばれ、直立不動になったところ「あの武田鉄矢は、貴様の息子か」と握手を求められたそうです。涙を流して話していました。彼の人生での喜びは、私の存在ではなくて「連隊長に褒められた」だったんですね。

 80年、日本武道館で開いたコンサートに両親を呼びました。集まったお客さんを見たおやじは、「これ、みんなお前ば見に来た人か」と感想を漏らしていました。それから3年ほど後、病に倒れて死んでいきました。

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武田鉄矢さんと父・嘉元(よしもと)さん(右)=ネクストワン提供

死んでからの「和解」

 生きている間、おやじとは和解できませんでした。死後、彼の不機嫌の正体がゆっくりと「溶けてきた」気がします。

 たとえば、戦争を経験した司馬遼太郎阿川弘之の作品を読むと、文章の中でおやじとよく似た人にすれ違うような気がするんです。おやじの不機嫌や無念というようなものが、どこか伝わってくる。戦後の日本の中で、言葉では言い表せないトラウマと生きた男たち。おやじと同時代を生きた人たちの言葉から、おやじを探り当てる作業というのかな。

 私が住む芸能の世界の先輩に、吉田正という大作曲家がいます。シベリア抑留を体験しました。あるいは歌手の三波春夫も抑留経験者です。彼らのむやみに明るい歌の中に、何か渦巻く感情を感じるんです。

 嫌というほどトラウマを抱えた戦争経験者たちが、そのトラウマから己を引き離すためにつくった華やかな世界が戦後日本の芸能界なんじゃないか。私はそんな気がするんです。

 心の傷を芸術に昇華できたそうした人たちの奥に、物も言わず沈んでいった多くの人がいる。そこに、戦争のトラウマを抱えたすべての人の顔が並んでいる気がして、おやじもその一人だと感じた時に、すごく許せる気がしたんですよね。

 おやじは確かに問題でした。私はずっと、その問題を抱えて生きてきました。どうしてあげん不機嫌やったとやろか。あげん暴れないかんかったとやろか。その問いを捨てずに持ち続けていると、答えが次々思いつくようになりました。

 死んでからの方が、おやじとよく語り合っている気がします。今は「あんたもつらかったねえ」と言ってあげられる。こんな友達感覚の言葉をかけたら、おやじ、また不機嫌になるかもしれないけれど。

【動画】「戦争から帰って居場所がなかった」という父について語る武田鉄矢さん=小玉重隆撮影

 たけだ・てつや 1949年、福岡市生まれ。72年にフォークグループ「海援隊」でデビュー。79年に始まったテレビドラマ「3年B組金八先生」シリーズでは、主人公の坂本金八を演じた。「101回目のプロポーズ」「龍馬伝」など、多くの映画やドラマに出演している。

武田さんの父の「戦争トラウマ」とは 広島大院・中村江里准教授

 戦争で心に傷を負った元兵士の家族30人以上に聞き取り調査をしてきました。いつも不機嫌で、アルコールを手放せず、戦場の断片的な記憶を繰り返し吐き出していたという武田鉄矢さんの父の様子は、多くの復員兵の姿と重なります。

 アルコールや薬物は、つらいトラウマ記憶を和らげるための「自己治療」として使われてきました。だからこそ手放せなくなり、その結果、依存症になることもあります。

 周囲と「断層」があったというお話も印象的です。トラウマ体験とは、言葉にできないような恐怖や心が耐えられない衝撃を受け、その結果として自己や他者、世界全体への信頼感が破壊されてしまう体験です。このため、家族や友人、恋人などとの感情的なつながりが損なわれてしまうのです。

 日本兵の場合は、戦争に負けたことと、戦地での加害行為が戦後明るみに出たことで、この「断層」はより大きいものになったと思います。

 戦中さながらの言動と戦争トラウマがどう関係するか、不思議に思われるかもしれませんが、実は元兵士によく見られるパターンの一つです。戦地の体験に共感してもらえず孤立無援感を抱き、「戦争に染まっている」時だけ肯定感を得られる。そういう意味で、戦中の価値観に固執するのは、トラウマの裏返しではないでしょうか。そうやって何とか自分の過酷な経験に肯定的な意味を見いださないと、自分が壊れてしまう。

 しかし、本人が何とか折り合いをつけたとしても、武田さんのように世代間の倫理的葛藤を生み出すこともあります。

 ほとんどの元兵士が亡くなった今、戦争トラウマの調査・研究を行うことは簡単ではありません。それでも、家族から証言を集めると、共通するいくつかのパターンが浮かび上がってきます。戦争トラウマの記憶は、長年「恥ずかしいこと」としてそれぞれの家庭に埋もれてきました。武田さんのように著名な方がオープンにしてくださったことには、大きな意味があると思います。

    ◇

広島大学大学院准教授・中村江里さん

1982年生まれ、一橋大学大学院特任講師などを経て2020年から現職。専門は日本近現代史。心を病んだ元兵士とその家族の戦後史を研究しており、インタビューの協力者を募っている。著書に「戦争とトラウマ」。連絡はenakamura@hiroshima-u.ac.jpメールするまで。

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この記事を書いた人
後藤遼太
東京社会部|メディア班キャップ・平和担当
専門・関心分野
戦争や平和について、歴史
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    長島美紀
    (SDGsジャパン 理事)
    2023年12月7日11時0分 投稿
    【視点】

    武田鉄矢さんの「母に捧げるバラード」、私も「武田さんは母子家庭なんだな」と勝手に思っていました。まさかいつも不機嫌なお父さんがいたとは、と驚き、そして記事を読み進める中で切なさを感じさせる、そんなインタビューです。 戦時中、日本軍の兵士の多くが戦争神経症と呼ばれる心の病を患ったものの、軍部は存在を否定し、戦後も当事者や家族は「恥」と考えて多くを語らなかったといわれています。実際、元日本軍兵のトラウマの問題が取り上げられるようになったのは、ここ最近の印象があります。 デーヴ・グロスマンの『戦争における「人殺し」の心理学』では、兵士を戦地に送り込むために、適切な条件づけを行い、適切な環境を整えることで、誰でも人が殺せるようになること、ただしその後自責と嫌悪からトラウマを引き起こす兵士が多いことが指摘されています。武田さんのお父さんの場合、さらに妻の稼ぎが対戦相手であったアメリカ将校の家庭から、そして武田さんのアメリカびいき、ということも重なったのでは、と想像します。お父さんのトラウマは、周囲との断絶と不機嫌な態度でしか自身の感情を表現できない、ご自身でもその理由が分からない苦しさだったのではないでしょうか。 『戦争における「人殺し」の心理学』ではベトナム帰還兵について触れ、帰国後の反戦の風潮と兵士への非難の中で、社会に適合できなくなった兵士が引きこもり、アルコール依存症など社会に適合できない状況が記されています。そしてそれは、どんなに人を殺すのに慣れたとしても、精神的打撃を知らず知らずのうちに受けているのだということです。 日本では自国の兵士が人殺しをしていた時代から80年ちかく経ち、兵士のトラウマをめぐる課題への関心は薄れつつあります。しかし世界に目を向ければ、戦死者数こそ少ないものの、紛争や暴力は増加傾向にあります。このことは戦闘行為に従事する人口が一定数存在すること、人を殺す緊張の中にいる人がいること、わたしたちがニュース映像で目にする紛争にはそんな人たちが映り込んでいること、を示しています。 兵士のトラウマを考えることは、紛争と暴力の意味を考えることでもあります。武田さんの話を通じて、ぜひ戦争とは何か、一人ひとりの人生をどのように壊してしまうのか、改めて考えたいと思います。

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  • commentatorHeader
    天野千尋
    (映画監督・脚本家)
    2023年12月7日11時0分 投稿
    【視点】

    ちょうど先日、塚本晋也監督の映画『ほかげ』を観ました。まさに「戦争トラウマ」から逃れられない人たちの心のもがきを、生々しく描いた作品でした。 見終わってふと感じたのは、今までの戦地から戻った兵士の方々の心の傷について、あまり知らなかったし考えたことがなかったかも、ということでした。 その理由について、以前出ていた中村江里さんの記事を読み、初めて理解しました。 https://digital.asahi.com/articles/ASR875TPBR7TUTIL03K.html?iref=pc_rensai_short_1903_article_6 https://digital.asahi.com/sp/articles/ASR8G61ZKR89UTIL02H.html たしかに、戦争そのものの悲惨さについては学校の授業や映画や漫画などを通じて学ぶ機会が少なからずあり、また元兵士のトラウマについても『タクシードライバー』や『アメリカン・スナイパー』などのアメリカの作品で扱われているのを見ていました。その一方で、日本の元兵士の方々のトラウマを取り上げたものは、ほとんど目にしてこなかったように思います。 心の傷は恥ずべきもの、隠すべきものだと蓋をして70年以上の長い年月が過ぎたこと、今もなお残された深い傷が疼いていること、また戦争というものがそれほどまでに長期に、世代を超えて人間を苦しめるのだということを実感します。 この記事からも、武田鉄矢さんのお父さんの不機嫌なうめき声が聞こえてくるようでした。

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連載戦争トラウマ 連鎖する心の傷

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