京都アニメーション放火殺人事件で亡くなられたすべての方々に、謹んで哀悼の意を捧げます。
被害に遭われた方々、遺族、ご関係者の皆さまに、心よりお見舞いを申し上げます。
2019年7月18日。36名の命が奪われ、32名が負傷するという未曾有の事件は、関係者やアニメファンのみならず、社会全体を深い悲しみに包みました。犯人の死刑判決は一度確定しましたが、司法手続きは今なお完全には終結していません。33億円以上の義援金の受付が締め切られてから約5年。たとえ今後刑が確定し、執行されたとしても、戻らぬ命は戻らず、深く刻まれた心の傷が癒えることもないでしょう。この事件に「終わり」が訪れる日は、おそらく永遠に来ることはないのだと感じます。
事件が起きた当時は、参議院議員選挙の真っ只中でした。全国に衝撃が走ったことは忘れもしません。私自身も街頭に設置された義援金ボックスに、わずかながら募金を託しました。以来、毎年7月18日には静かに黙祷を捧げてもきました。それをわざわざ発信するのは偽善的ではないかと自制していましたが、6年後の今日、奇しくも6年前とほぼ同じ日程の参院選の中で迎えているこの日に、あらためて事件のことが強く思い出されました。
事件当時、私は京都アニメーションの作品をあまり観たことがありませんでした。それでも、この凶行が決して許されるものではないという感情はありました。やがて作品に触れていく中で、その想いは静かな確信へと変わっていきました。
私が初めて観た京アニ作品は『氷菓』でした。神山高校の古典部に集う折木奉太郎や千反田えるたちが、日常の小さな謎を解く物語。「青春は、優しいだけじゃない。痛い、だけでもない。ほろ苦い青春群像劇。(公式サイトより)」
ニワカの私が説明するまでもないですが、『氷菓』の美しさは、京都アニメーションの丁寧な作画と演出に裏打ちされていました。光と影の演出、繊細な色彩、人物の感情を表現しきった表情や仕草。背景には飛騨高山の空気感が緻密に再現され、すべてが一つになって、『氷菓』という作品はまるで「生きて」いるかのようでした。OP曲「優しさの理由」や、千反田えるの瞳の輝きに現れる「好奇心」は作品を通じたテーマであり、「日常の中の特別」を見つける喜びの尊さを際立たせています。
遺された作品は、今も私たちの心を癒し、後世へと受け継がれていきます。しかし、それを生み出した多くの方々がもうこの世にいないという事実は、あまりにも重く、残酷です。作品のスタッフクレジットに彼らの名を見つけるたび、「この続きを、もう同じ人たちが作ることはできない」という非情な現実が突き刺さります。アニメや小説がフィクションである一方で、この事件は紛れもなく現実であると、改めて思い知らされます。
2020年7月18日、事件から1年後。京都アニメーションは追悼映像を公開しました。遺族や社員の方々が静かに手を合わせる姿に、多くの人が胸を締め付けられたことでしょう。あの映像の中で、「作品を作り続けることで、彼らの遺志を継ぐ」と語られた希望の言葉の通り、京都アニメーションは今日も、優れた作品を世に送り出し続けています。その不屈の姿勢と精神、そしてそれを支えるファンの存在こそが、事件の犠牲者への手向けであり、祈りの形なのだと思います。
どうか、すべてのクリエイターが安全に、健やかに、創作を続けられる未来が、永遠に続いてほしいと願ってやみません。
しかしながら、この事件を、特定個人への誹謗中傷や政治的な利用、あるいは政治的批判の材料に用いるような言説には、強い怒りと憤りを禁じ得ません。言論の自由は当然、尊重されるべきものです。同時に、自由の下に発露された冒涜的な言葉や行為に断固たる批判や抗議をすることもまた言論の自由の場において保障されるべきことです。私は、失われた命や作品を利用した冒涜的な言葉とそれを発信する者には最大級の非難をしたい。
根拠も道理もない逆恨みから生まれた犯人の怨念によって多くの命が奪われました。そして私は、そうした暴力に共鳴するかのような言説を発信する人々を、犯人の次に憎むべき許しがたい存在だと当時から今まで変わらずに考えています。
こうした私自身の感情の表明も、ある意味で事件を「私的に」利用しているのかもしれません。だからこそ、このような「お気持ち」をここまで綴るのは、これが最初で最後であってほしいとも願っています。そう願いながら、ありのままの気持ちを、今回だけは綴らせていただきました。
永遠の眠りについた魂に、そして2019年7月18日の出来事を胸に抱き続けるすべての人の心に、どうか安らぎが訪れますように。
2025年7月18日
6年目の今日を悼み、静かな祈りを終えて。