ハリー・ポッター -Harry Must Die-   作:リョース

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謎のプリンス
1.影に這寄る闇


 

 

 

 ハリーは現実逃避したかった。

 どうしてこんなことになったのだろうと思わずにはいられない。夏休みのダーズリー家は、ここ数年でだいぶ生活環境が改善されてきた。それはいい、それはいいのだ、大いによろしい。

 ペチュニアからの扱いは、子供の頃とは比べるべくもなく改善されている。炊事洗濯などを任されるのは以前と変わりないが、彼女の技術を教えてくれるようになってからは苦ではなくなっている。まるで本当の娘のような扱いはくすぐったくもあるが、まぁ、悪くはない。

 ダドリーからの扱いも、本当によくなった。仲がいいとは言えないかもしれないが、理由もなくハリーに殴りかかる非常に文化的なスポーツをおっぱじめることもなくなり、互いの趣味(他者をぶっ潰すためのトレーニング)が合致することもあって、おすすめのプロテインだったりハリーの体躯に効果的な筋トレだったりを相談することも多くなっている。

 バーノンは知らん。どうでもいい。

 そんな楽しくはないが苦痛でもなくなったダーズリー家での生活において、ハリーは久々に生クリームをたっぷり塗りたくったような、重々しく濃厚な苦痛を味わっていた。

 

「ビッグ・D……ッ! なぜここが分かった!?」

「お前らのチンケな隠蔽なんてものはな、この町の警察にとっちゃ紙屑同然なんだよ」

 

 ド派手な色をしたシャツの上に、これまた派手な色のスーツを着た男が何人も目の前で狼狽えている。その手には拳銃やらナイフやら、いろいろと物騒なものを携えていた。彼らの後ろには赤いスーツを着た大柄な禿男が、高級デスクで頬杖をついてこちらを眺めている。

 どうみてもマフィアの方々です。本当にありがとうございました。

 

「よくも俺の住む街を汚してくれたな。覚悟しろ、悪党」

「ぬかせ、チャンピオン……!」

 

 カッコよく啖呵を切ったダドリーに、警察官たちから歓喜の声が漏れた。ハリーとダドリーの後ろには警察官たちが大勢そろっており、銃を構えもせずボクシングチャンピオンであるダドリーの活躍を心待ちにしていた。ハリーは英国へ税金を払うことの無駄さ加減を思い知った。

 事の始まりは、地元マフィアの横暴(ハリーは寡聞にして自分の住む閑静な住宅地にマフィアがいることさえ知らなかった。ダドリーの交友関係が心配である)にキレたダドリーが警察署に殴り込みに行って「俺の活躍が見たい奴はついてこい!」と怒鳴ったことだった。何を言っているのかわからねーと思うが、ハリーにもよくわからなかった。頭がどうにかなりそうだった。常識外れだとか『まともじゃない』とかそんなチャチじゃもんじゃあ断じてない、もっと意味不明なものの片鱗を味わっていた。

 警察官たちがそれに歓声をあげてついてきたのもよくわからないし、バーノンがダドリーにお供しなさいと命令されたのもよくわからない。ダドリーが危機に陥った場合、『名前を言ってはいけない魔のつくアレ』で助けてくれるとでも思っているのだろうか。

 それに苛立った禿頭の男、たぶんドン・マロニーだかアルパカマンだか、そのあたりの名前だろう彼が、机から大きな拳銃を取り出してダドリーに銃口を向けようとする。

 いくら訳の分からない状況とは言っても、従兄を殺されでもしたらバーノンが何と言うか分かったものではない。ハリーは手近にいたマフィアの男の膝を蹴り飛ばして、ダドリーの盾としてドンと彼の射線上に置いた。

 

「んな……ッ」

「隙がデカいぜ、ベイビー」

 

 ダドリーがハリーへセクシーウィンクを決める(オエッ)と、その拳を振りかぶって盾にされた男を殴り飛ばす。一九〇センチはあろう大男を吹き飛ばしたダドリーは、砲弾代わりにされたマフィアの彼は、数メートルをすっ飛んでドン・ナンチャラを巻き込んで倒れこんだ。

 それにいきり立った男たちが拳銃を構えるものの、懐に飛び込んで顎を殴り抜くダドリーによって次々と昏倒させられてゆく。同士討ちを恐れて発砲できない彼らを思うまま殴り続けるダドリー。おお我らがチャンプ、ビッグ・D! 英国一の拳を持つ男は、数十人いたマフィアたちを数分もかからず全員拳ひとつでブチのめしてしまった。

 パンチ一発でゴツめの成人男性が数メートル以上は吹っ飛ばされていく光景を見て、ハリーは魔法っていったいなんだったんだろうと感慨深くなる。ハリーが『身体強化呪文』を使って可能とする現象を、ダドリーは鍛錬と体重と超カロリーで可能にしているのだ。マグルだからといって侮っているヴォルデモート卿がタコ殴りにされる日も近いかもしれない。

 女とみて侮り、人質にしようとした構成員もいたものの、ハリーを羽交い締めにしようとして金的に蹴りを喰らって悶絶する。その構成員の髪の毛を掴んで無理やり跪かせて顔面を靴の裏で蹴り飛ばすと、妙に嬉しそうな声を挙げて彼は失神していった。

 

「くそったれ! 不甲斐ねぇ奴らだ! どけ、てめえら! 俺が出る!」

「ぼ、ボス!」

 

 禿頭の大男が怒りに任せてデスクへ拳を叩きつけると、おそらくマホガニー製であろう高級デスクが真っ二つに割れて粉砕される。恐れをなした構成員たちが場所を開けると、机を蹴り飛ばしてボスがずんずんと歩み寄ってくる。

 彼が懐から取り出したのは銃ではなく、ひとつの針なし注射器だった。何をする気かとハリーが訝し気に眺めていると、彼は注射器を自分の首筋に押し付けて、パシュッという軽い音と共に中身の薬品を自身に注入してしまった。するとどうだろう、野太い雄たけびをあげながら、ボスの肉体が見る見るうちにスーツを引き裂いて上半身裸のムキムキマッチョマンへ変貌し、肌の色が漆黒の闇色に染まって身長も三メートルほどの怪物になってしまった。

 人語かどうかも怪しい雄たけびを叫びながら、ボスはダドリーに向かって殴りかかる。それをダドリーは真っ向から迎え撃って、拳と拳が激突したことで衝撃波が発生し、マフィア事務所のガラスと言うガラスが割れて飛散する。連続で放たれる拳によって宙を舞うガラスがさらに細かく粉砕され、きらきらと空中を舞う。その中で殴り合い続ける二人は、まるで神話の英雄の絵図であった。

 

「なんだこれ」

 

 一体全体、ハリーの知るマグル界はどこへいってしまったのだろうか。

 少なくとも、こんなアメコミみたいな世界観ではなかったはずだ。周りの警察官やマフィア構成員たちがお互いのヒーローを少年のように応援しているのもまた、ハリーの困惑に拍車をかける。男の子のロマンとか言われても、ハリーは女の子なのでよくわかりません。

 次第に殴り合っていたダドリーとマフィアのボスも笑顔になり、笑いながらさわやかに殴り合っている。それを冷めた目で眺めていると、マフィアのボスが顎を殴り抜かれて床に倒れこんだ。スタンディングポーズを取るダドリーに、もはや警察もマフィアも関係なく歓声が贈られる。

 

「ビッグ・D! ビッグ・D! ビッグ・D!」

「ドン・マロン! ドン・マロン! ドン・マロン!」

 

 ビッグ・Dと呼ばれるダドリーと、すっかり元の人間っぽい見た目に戻った(アイツ本当に魔法族じゃないんだろうな?)ドン・マロンと呼ばれるマフィアのボスは、称賛の嵐を浴びながら互いの健闘を讃え合い、がっちりと握手して硬く抱き合う。

 その男気溢れる光景に、男たちは歓声をあげた。ハリーは困惑した。

 

「やっぱりビッグ・Dは俺たちのヒーローだ! ですよね、ハリー姐さん!」

「やかましい」

「ビッグ・Dの身内だったなんて、ハリー姐さんの腕っぷしも納得だぜぇ!」

「うるせぇ」

 

 若いマフィアと警察官がそれぞれハリーの肩に手を置いて、興奮気味にまくしたてるのをハリーは手を振り払って冷たく答えた。それにマフィアの方はハリーが股間を蹴り上げた彼だ。ハリーを見る目が若干怪しいし、振り払われたことで嬉しそうにしているのは、実に奇妙だ。

 ハリーは胴上げされているダドリーとドン・マカロニマンを眺めながら、どうしてこうなったんだと自問する。次第に興奮してきた野郎どもによって、ハリーもまた胴上げされてしまう。もはや抵抗するのさえ面倒くさくなってきた。宙を舞いながら、ハリーはダドリーがこちらに向かってウィンクしてきたのを目撃する。

 

(どうだい、ハリー。俺はこんなにビッグになったんだぜ?)

 

 ナチュラルにテレパシーを送ってきたダドリーに、ハリーは宙を飛ばされながらマグルと魔法族の違いという深淵な問題について思考を深めるのだった。

 案の定、答えは出なかったのでダドリーに気品あふれる返事をすることにした。

 

(だまれ)

 

 その次の週、朝っぱらからバーノンの機嫌が悪い。

 愛しの愛息子ダドリーが地元マフィアをその拳で叩きのめしてボランティア集団に更生させたことで『まとも』であることを披露し、プリベット通りに、いやサリー州リトルウィンジングに、いやいや英国中にダーズリー家の『まとも』っぷりを知らしめたことで上機嫌だった彼のご機嫌は、見る影もなくウロンスキーフェイントのごとく急降下して地面を掘り進んでいた。

 その理由は、ハリーの格好にあった。ペチュニアが用意した彼女の新しい洋服にいったい何ポンドかけたのだとか、ぴかぴかの靴は何シリングかけたのだとか、あの忌々しい黒髪を梳くのに何ペンスかけたのだとか、心配でならない。その分ダドリーにかけるべきお金を、あの魔のつくなんちゃらを操る訳の分からん小娘にかける金銭なぞ、一ペリカたりともかけたくなかった。

 腹立たしいのは、その姿が様になっているということだ。肩にフリルをあしらったグレーのハイネックニットと、黒のワイドガウチョパンツ。靴はカジュアルになりすぎず、しかし気品のあるデザインをペチュニアが選んでいる。ハイネックニットは体にフィットするタイプで、ハリーのスタイルの良さがよくみて取れる。背中まで伸ばしている黒髪はうなじのあたりでまとめて邪魔にならないようにしていた。派手過ぎず、しかし地味ではない髪形である。

 そして彼女は、バーノンにとって悔しいことだが、来週の誕生日で十六歳になる現在、かなり美人と言える範囲にある。若いころのペチュニアに似ている。彼女の妹のリリーの娘なのだからむべなるかな、認めたくないがハリーの顔は整っている、のかもしれない。整っている、のだろう。整っているとは思いたくない。整っているんだよなちくしょう。ああして『まとも』な格好をしていれば、どこに出しても恥ずかしくない娘なのだ。その正体が『名前を言ってはいけない例の魔のアレ』使いなのだと思うと、外面がいいだけにバレたときが恐ろしい。

 隣で従妹の姿を見て満足そうに頷きながらプロテインをバケツ一杯飲み干しているダドリーの顔もまた、バーノンの不満を増大させるものであった。あれだけ頭のおかしい『まともじゃない』姪っ子を、ああして妻と息子が可愛がるような未来が来るとは思わなかった。幼少期は手の付けられない獣のような娘だったにもかかわらず、ああして照れてはにかんでいれば悪くはない……いや何を言っているんだ悪いところだらけじゃないか、ばかばかしい。

 姿見の前で一回転して全身を確認しているハリーを見て、ペチュニアは涙を流して喜んでいる。まるでリリーの若い頃のようだと言って泣く彼女に、ハリーは彼女を労わって椅子に座らせ、ダドリーと一緒にリリーの思い出話を拝聴している。ハリーは食い入るように話を聞いているが、ダドリーは若干飽きているようだ。それでも我慢して話を聞いているあたり、ボクシングチャンピオンになった彼は男が上がったということなのだろう。妻が自らすすんで妹の話をするなど『まともじゃない』と言ってもいい事態だが、仮にも血のつながった妹なのだ、簡単に片付けることのできない複雑な想いもあったのだろう。バーノンは愛する妻が満足するならばと、そこに触れてやることはしなかった。

 バーノンの怒りの原因は、ハリーがおしゃれをする動機にある。色気付いて、どうせ男とデートでもするのだろう。ふしだらではしたない『まともじゃない』理由なので怒鳴りつけてやりたいところだが、それはペチュニアに止められている。女の子のデートは邪魔するものじゃありません、と言うのだ。妻もハイスクールの頃はそういう経験があったのだろうかとも思ったが、あまり聞きたくないのでその話はそこで打ち切った。

 

「お見舞いに行くのでしょう? お相手の名前をうかがっていなかったわね」

「ああ、うん。そういえばそうだったね」

 

 耳を巨大化させて盗み聞きしていたバーノンは、姪のお出かけする理由がデートではなく見舞いだったことに気をよくした。自分たちは医者ではないため入院している者に会ったところで何をどうすることができるわけでもなく、バーノンは見舞いという行為自体にあまり意味はないと感じているのだが、しかし世の中には見舞いに行かないことを『まともじゃない』と思う人間もいる。そう思われてしまうのは嫌だ。そのため、バーノンも己の会社の社員が入院した際には、たとえ下っ端の小汚い労働者であろうとも必ず見舞いに行っている。

 会社という閉じられた世界の中において、風聞とは、案外ばかにできないものだ。現在バーノンの経営するダーズリー穴あけドリル株式会社は、フランスのメイソンドリル会社と日本の立花重工という『まとも』な会社と取引を始めてから、業績も右肩上がりで左団扇なウハウハのヒャッホー状態なのだ。これもすべて『まとも』な人間とだけ関わってきたおかげといえるだろう(バーノンが立花重工社長の妻が日本魔法界の首相と知れば、発狂することは間違いないのでハリーは黙っている)。見舞いという行為、転じて人間関係へ心がける気遣いと言うものは、それだけ重要なのだ。

 ハリーもようやく『まとも』な感覚を身に着けてきたかと感心していると、ハリーと話していたペチュニアが途端にか細い悲鳴をもらしてピカピカに磨かれたキッチンの床へ崩れ落ちた。へらへらと力なく笑っているあたり、『魔のつく例のなんちゃら』アレルギーだろう。驚いて彼女を抱き起しているハリーを手伝うダドリーもまた引きつった顔を浮かべているあたり、まず間違いない。

 

「ハリーッ! きさま、ペチュニアに何を言ったァ!」

「えっ。いや、あの……お見舞いする相手の名前なんだけど……」

 

 怒鳴りつけたバーノンは、戸惑うハリーの返答にブチキレそうになった。たかが名前を聞いたくらいで、人は卒倒するものではない。やはり『まともじゃない』思考は残っていたか。魔のつくアレ的なサムシングはやはり、この世にあってはならない邪悪である。バーノンは確信した。どうせハリーが口にしたのは人の名前ではなく呪文的なアレであろう。間違いない、名前を聞いただけで卒倒するなど、『まとも』に考えて有り得ない。最近手に入れたバーノン自慢の日本酒《華郷印の魂》を賭けてもいい。

 名前を聞いただけで人が卒倒するなど、絶対にありえないのだ。

 

「いったい誰なんだ、その見舞う輩というのは!」

「えっと、あー……シリウス・ブラック」

 

 バーノンは倒れた。

 それを見たダドリーがもうどうにでもなーれと言う顔でペチュニアをソファに寝かせて、父親を放って冷蔵庫へプロテインのお代わりをしに行った。

 シリウスへの見舞いは、ふくろう便でダンブルドアから許可された。意識を取り戻したと聞いてハリーは思わず泣いてしまったが、心の底から安堵したものだ。今すぐにでも『両面鏡』でシリウスと話をしたかったが、彼の意識は取り戻したり深い眠りに落ちたりと安定していないらしい。それに、病院ではああいった強めの魔道具の使用は禁じられている。仮にも入院患者なので、仕方のないことだった。

 今現在の時刻は、午後六時だ。七時頃にウィーズリーおじさんが迎えに来るという話だったので、シリウスに見せるために精一杯おしゃれをしているのだが、突如として暖炉を模した電気ストーブが緑色の炎を巻き上げたので、ダドリーが仰天してプロテインのシェイカーを取り落し、それを踏んづけて床に尻餅をつきながら絶叫した。

 もちろん電気ストーブなので火が出るような作りにはなっておらず、そもそもそんなことになれば消防車のお世話になることは間違いない。格子をバラバラに吹き飛ばしてなお天井を舐めるほどの勢いを放つ炎を見て、ハリーはそれが煙突飛行の炎であることを分かっていた。ウィーズリーおじさんには必ず、絶対に、煙突飛行でのお迎えはやめてくれと懇願してある。せっかくペチュニアやダドリーの態度が軟化したというのに、むやみに魔法を見せつけてハリーへの待遇を悪化させる必要はない。それに待ち合わせの時間には早すぎる。いったい、誰がこんなことをしたのかとハリーは訝しんで、即座にポケットから杖を引き抜いて杖先を暖炉へ向けた。

 魔法の杖を目撃したダドリーが恐怖のあまり漏らしそうになったが、仮にも英国チャンピオンが情けない姿を見せてはならないと思ったらしく、股間を両手で抑えてもじもじしながらハリーの隣へやってくる。正直言ってめちゃくちゃ不気味なのでやめてほしい。

 

「誰だ」

「杖を向けるのはやめてくれないかね。ミス・ポッター」

「そう思うのなら、せめてアポイントメントは取るべきだね」

 

 ハリーによる誰何の声に、落ち着いた声色の返答が戻ってきた。

 耳の奥底に残るようなハスキーボイスの持ち主は、いかめしい顔つきをした魔法使いだった。その豊かな髪の毛と傷だらけの顔は、まるで老ライオンのような印象を受ける。かつてこの家を訪れた魔法使いの中には、アーサー・ウィーズリーのように魔法使いであることを隠しもしない奇抜な服装であったり、キングズリー・シャックルボルトのように立派な背広に身を包みどこからどう見てもマグルにしか見えない気遣いのできる人物がいた。暖炉からのっそりと出てきた人物は、どうやら前者のようだ。

 現れた人物は傷だらけの顔に、まるでライオンのように膨らんだ髪形をした老年の魔法使いだった。床とソファで倒れこんでいるダーズリー夫妻に片眉をあげたものの、それ以外には何も反応を示さない。ハリーから視線をそらさず、はやく杖をしまえと命じているようだった。

 渋々と杖を下げるハリーは、しかしそれをポケットへしまうことはしない。まるで酔っ払いが拳銃を持っているような危険人物を見る目でダドリーがこちらを見ているが、それを気にすることはなかった。

 

「私の名はルーファス・スクリムジョール。新しい英国魔法大臣、だ」

「闇祓いのボスじゃなかった?」

「それは、前職、だ。ファッジに代わり昇進したのだよ」

 

 知っている。あえて問いかけた質問に、スクリムジョールはよどみなく答えた。

 ルーファス・スクリムジョール。彼は元々、魔法省の魔法法執行部闇祓い局の局長を務めていた男だ。強硬的な姿勢を持つ過激な男で、世の中が不安定な時に選ばれるリーダーの見本のような性格をしている。闇祓いとしての腕前は優秀であり、若手の闇祓いでは最強とされるアーロン・ウィンバリーには劣るものの、キングズリー並みではあるらしい。デスクワークがメインとなる局長でありながらその実力とは、恐れ入る。

 以上の情報は、昨年度末から手紙のやり取りをしているファッジからのものだ。小物なあの男は、いまではハリーのご機嫌とりに忙しい。マグル側の英国首相に大臣交代の挨拶に行ったことも、ホグワーツの警備体制についてダンブルドアと密なやり取りをしていることも、孫娘のフェリシティがハリーの大ファンであることなどなど、あらゆることを手紙で教えてくれているため、ハリーはかつての確執は水に流して都合のいい情報源としている。

 

「それで、大臣。何故ぼくの家に? さっきも言ったけど、アポイントメントなしってのは、だいぶ不躾なんじゃないかな。ただでさえ物騒な世の中なのにさ」

「それについては、謝罪、しよう」

「……ハリー、こいつ絶対なにも悪いと思っちゃいないぜ」

 

 スクリムジョールが礼儀正しく頭を下げたが、ダドリーがハリーに向かって小声でささやいた言葉には、首肯するしかなかった。言葉の節々を妙に強調するしゃべり方のせいか、彼がハリーを侮っていることは嫌と言うほど伝わってくる。それが分かっているからこそ、ハリーは敬意を見せていない。口調も目上の者に対するものではなく、ぶっきらぼうなままだ。

 彼はダドリーの言葉が耳に入らなかったかのように振る舞い、杖を振るうと空間を裂いて、テーブルの上にバタービールの瓶をごとりと乗せる。ハリーは詳しくはないが、おそらく上物だろう。

 

「お近づきのしるしに、だ」

「……なんだって?」

「かつての魔法省は、君に対して大変な失礼を働いた。どうか、仲直り……を、検討してもらいたいと。思って、ね。それでは、今日のところは、これにて。失礼させていただくよ」

 

 いまの魔法省は君と懇意にしたいのだ、と暗に示す言葉を残して、スクリムジョールは暖炉へと歩みを進める。言いたいことだけを言ってさっさと去ろうとする姿には、傲慢さと意志の強さが垣間見えた。

 ハリーはそれを見送らず、バタービールの瓶が置かれたテーブルの近くにあるソファへどかっと乱暴に座ると、ビール瓶へ手を伸ばす。そしておもむろに、それを手に取るとラベルを手荒に引っぺがした。

 ダドリーが驚いて目を見張るのを無視して、スクリムジョールが眉を寄せる顔を確認した。ラベルの裏側に書かれている魔法式は、魔眼で視る限り発信機のような役目をはたしている。飲んだ者の位置を術者へ伝えるようなものだろう。ハリーがそれを破り捨てると、込められた魔力が暴発したのか、ラベルは燃えてしまった。

 床へごろりとバタービールの瓶を放り投げて転がしたハリーは、スクリムジョールをにらみつける。片眉を動かした新しい魔法大臣は、ソファへ深々と座ったままのハリーへ尊大に言い放った。

 

「おやおや、これは異なこと。こんな商品だったとは、三本の箒に苦情を出さねばな」

 

 仕掛けた罠を看破されたことに慌てれば可愛げもあったものの、そういう物言いをされてはハリーも黙ってはいられない。ソファへ座ったままのハリーは、相手が年上だとか社会的地位のある人物だとか、そういった事情をすべて無視して言い放った。

 

「失せろ」

「……君はなにもわかっていないのだ。ダンブルドアも、君も、なにも……分かっちゃあいない……。いずれ、理解するときが来るだろう。……いずれ、な……」

「二度目は言わない。ぼくは、自分を盗聴盗撮しようって輩とは仲良くできない」

 

 女性の、しかも十五、六歳というお年頃のプライバシーを覗き見ようとする輩を信用できないのは、まあ当たり前である。スクリムジョールはハリーの言葉を全く理解できないというそぶりを見せて、くるくると回転しながら煙突飛行で去っていった。

 緑色の炎が残滓としてちろちろ電気ストーブを焦がすさまを見つめながら、ハリーはため息を漏らす。嵐のような男だった。自分の意志を貫き通す硬さ以外のものは感じ取れず、他者を気遣うといったことができるのか甚だ疑問である。

 

「やっこさん、誰も信じてませんって顔した奴だったな」

「……なんで平然としてるんだい、ダドリー」

「ははっ、流石に慣れたかな。はははッ。ははッ。はーッ!」

 

 スクリムジョールと会話している間、怯えながらも割といつも通りの態度を出せていたダドリーに疑問を持って聞いてみれば、遠い目をして平坦な声で回答が返ってきた。笑い声がうわずっていたことには触れないでおいてやろう。実の父母がぶっ倒れている中での魔法族の訪問は、彼にとってかなりのストレスだったに違いない。

 父親をひょいと抱き上げてペチュニアの横たわるソファの下に転がして、ダドリーは彼氏に会いに行くと言って家を出ていった。癒されに行ったのだろう。もう彼の趣味嗜好について、ハリーは口を出さない。ダーズリー夫妻には内緒にすることは約束しているのだ、いつか彼自身が覚悟を決めたときに、自分で打ち明けるだろう。

 

「それで、ダンブルドア先生。入ってきたらどうなんです?」

「おや。では、そうするとしよう。お招きいただきありがとう」

「こんばんは、先生」

「やあ。こんばんは、ハリー」

 

 ダドリーが玄関を開けて去っていく様を見送っていたハリーは、ずっと玄関先に立っていながらにしてダドリーが気づかなかった人物を見逃すはずはなかった。

 白いヒゲに、同じ色の長い髪の毛。きらきらと輝くブルーの瞳のきらめきを増すかのように、その折れ曲がった鼻には半月メガネがかけられている。魔法使いであることを隠しもしないブルーのローブは、ラメ入りなのか瞳と同じように光を反射していた。

 図々しいことを平然とのたまい、ダンブルドアはダーズリー家へと上がり込む。もちろん、ハリーがダーズリー家の人間でないことなど百も承知だろう。勝手に来客を許したとバーノンが知れば、怒り心頭になるかもしれない。

 

「それで先生、どうしてこの家に? ぼくはてっきり、ウィーズリーおじさんが迎えに来るものだとばかり思ってましたよ」

「ちょいと代わってもらったのじゃ。きみ個人にも用事があったからの」

 

 ダンブルドア直々にダーズリー家へ訪問してきただけでも驚きだというのに、ハリーへ個人的に用事があるなどと、いやな予感しかしない。いぶかしんでいることに気づいたのか、ダンブルドアはいつも通りの微笑みをハリーに向けるだけだった。

 さっそくシリウスへの見舞いへ行こうと言うハリーだったが、しかしダンブルドアは待ったをかけた。リビングに転がっているバタービールの瓶に気づいたのだろう。

 面白がった彼は、キッチンの椅子に座りながら杖を振るうと埃っぽいコップを二つ出現させ、そのバタービールをコップへと注いでハリーへ差し出した。盗聴魔法は仕掛けられていたが、その魔法はすでに取り除いている。飲み物に罪はないのだから、まあ飲んでも構うまい。

 

「ところでハリー、このバタービールはどうしたのかね?」

「ああ、これですか。スクリムジョール大臣が、さっきダーズリー家へやってきましてね」

「ほほう、彼が」

「乙女の私生活を覗き見するのがお望みだったようなので、丁重にお帰り願いました」

 

 コップの中身を一気に飲み干してお代わりを乱暴に注ぐハリーが明らかに怒りを覚えている様子を見て、ダンブルドアはくすくすと笑った。そういう老人だと分かっているハリーはそれを咎めなかったものの、常識的に考えて、贈り物に盗聴器と監視カメラを一気に仕掛けるような人物が自分の教え子の家に押し掛けたと知れば、教育者として怒るべきところではある。そこはダンブルドアがハリーの実力を信頼していると思っておくことにしよう。現に盗聴魔法を仕掛けたことを看破し排除しているのだから。

 ダンブルドアがスクリムジョールに関して批判的なことを言わないのは、きっと彼が有能な男だからなのかもしれない。ファッジと比べると明らかに行動派の人物であり、日刊予言者新聞によれば、ヴォルデモートの復活を信じており、それの対策を行っている。

 同じく新聞記事には、ダンブルドアとはあまり仲が良くないという事も書かれてはいたが、彼がその話を持ち出すことはなかった。無駄に追及することもなかったので、新たなる魔法大臣についての話はそこで打ち切ることになる。

 

「ハリーや、きみは来年度で十七歳……魔法界において成人扱いとなる」

「ですね。……ところで僕は本来ひとつ年下なんですけど、そこらへん大丈夫なんです?」

「うむ、問題ない。君はこの世に生まれ落ちた時点で一歳児の肉体じゃったからの」

「なるほど。それじゃ、来週で十六歳になれるわけですね」

「さよう。きみの誕生日には、友人たちから素晴らしいプレゼントが届くことじゃろう。それでのう、ハリーや。きみは幼いころからこのダーズリー家に預けられ、きみを危険から遠ざける守護魔法の効果を持続させるため、この家を生活の拠点として維持し続けてきた」

 

 妙に説明的な物言いだが、ハリーは黙って頷いた。

 ハリー(ハリエット)の母、リリー・ポッターがハリー・ポッターにかけた愛の守護魔法は、ヴォルデモートがハリー(ハリエット)を造り上げる際に幼子のハリー・ポッターを素材にしたことによって、彼女にも流れている。

 それとは別に、死喰い人といった特定の邪悪から彼女の発見を妨げるといった魔法は、ダンブルドアがこのダーズリー家にかけたものだ。ハリーやダンブルドアは、ヴォルデモートが次代の自分を産ませるためにハリーを製造したことが判っているが、他の死喰い人達がそれを知っているとは思えない。ヴォルデモートはおそらくハリーが子を産むまで殺すことはないだろうが、危険であることに変わりはないのだ。ポッター夫妻の娘となる少女を危険から守るために、守護魔法をかけるのは道理である。

 その守護魔法は、《ハリーが未成年の間、血族の家を自分の帰るべき場所だと思う限り持続する》という代物。ハリーはヴォルデモートによって造られた人間ではあるが、その素材にはジェームズとリリー・ポッター、ヴォルデモートの三人が用いられている。つまりハリーの身体に流れている血は、ポッター家、エバンズ家、リドル家の三家。ジェームズとヴォルデモートの親族がことごとく亡くなっている以上、彼女にとっての血族は、いまや伯母のペチュニアと従兄のダドリーしか残っていない。つまりこの魔法を適用するために必要な家は、ダーズリー家のほかにないというわけだ。

 こんな複雑で強力な大魔法を十五年間(先ほど彼女自身も口にしたが、その特殊な生まれから、ハリーは同年代の友人たちより本来ひとつ年下である)も保ち続けるというダンブルドアの偉大さはすさまじいが、それでも未成年の間という制約がついてしまった。

 そのことは、ハリーもダンブルドアに説明されて重々承知している。その守護魔法が、来年の誕生日を迎えると解けてしまうこともだ。

 

「だからこそ、あともう一年間。彼女をこの家に迎え入れてほしいのじゃ」

「……?」

 

 ダンブルドアの物言いに、ハリーは首を傾げた。まるでハリー以外の人物へ話しかけているようだった。彼の視線の先には、床にぶっ倒れたままのバーノンと、ソファで眠っているペチュニアしかいない。よもやどちらかが起きて話を聞いているのかと思ったが、どちらも身動きしないのでわからなかった。

 先ほどの言葉を述べることで満足したらしいダンブルドアは、ハリーを見舞いにつれて行くのでお預かりするとその場で宣言した。ダーズリー夫妻のどちらかが、すでに意識を取り戻して狸寝入りしていることを確信しているようだ。

 去年より中身が詰まったトランクを持って自分の部屋から出てくると、ウンともスンとも言わないダーズリー夫妻を置いて、ハリーはダンブルドアと共にダーズリー家をあとにしてプリベット通りを歩く。『姿現わし』で即座に移動する方が早いのにそうしないのは、きっと歩きながら話したいことがあるのだろう。ダンブルドアが口を開くのを待っていると、彼はハリーの気遣いへにこりと微笑んでから話しかけてきた。

 

「ハリーや、きみは『姿現わし』の資格を持っておらんのう」

「ええ、まあ。まだ十七歳じゃありませんから」

「理論は知っておろう? なにせ昨年度、秘密の特訓で会得しておるようじゃからの」

「……、…………はい」

 

 ダンブルドアは本当に何でもお見通しだった。

 昨年度、ハリー達は闇の魔術に対する防衛術の教授になった『名前を言いたくもない例のアレな人』からの反抗心、もとい勉強の必要性を感じて、《ダンブルドア・アーミー》という名の秘密の私塾を開いた。そこでハリーは、『姿現わし』の練習をしている。失敗して体の一部がバラけた経験はもちろん、成功した経験をも味わっている。彼はきっと、その時のことを指して言っているのだろう。

 私塾の名前は、現実にはありもしないダンブルドアの私設軍隊を恐れる『アレな人』への当てつけだ。しかしその名前が原因で、ダンブルドアに不利益を与えたことがある。ゆえにハリーにとっては、そのことを話に出されると少々気まずいのだった。

 

「ほっほ。別に責めはすまい。きみの勤勉さには本当に驚かされるし、感心なことじゃ」

「……ありがとうございます。ところで、なぜ今そんなことを?」

「シリウスへの見舞いの後、わしと共に行ってもらいたいところがあるのじゃ」

「よっぽど危険なところでなければ、よろこんで行きますよ」

「少なくともプリベット通りよりは安全なはずじゃ」

 

 それならば、きっとこの世の天国だろう。

 ハリーと約束を得たダンブルドアは、左腕を彼女へと差し出す。『付き添い姿現し』の合図だ。それに従ったハリーはダンブルドアの腕に手を乗せると、それと同時にへその裏側がぎゅっと掴まれてひっくり返されるような奇妙な感覚を味わった。

 ぎゅぱっ、と今まで存在しなかった物体が空気を押し出す音を聞きながら、ハリーは目の前の建物に目を向ける。以前もアーサー・ウィーズリーの見舞いに行ったときに目にした、聖マンゴ病院だ。

 最初に『移動キー』でワープを経験した時は無様にひっくり返ってしまったものの、今ではそのような事もない。しっかりとした足取りで病院内へ入ると、あちこちから視線を感じた。日刊予言者新聞ではハリーの顔写真と共に『例のあの人』の復活を告げているし、隣には今世紀最強の魔法使いダンブルドアもいる。これで注目されない方が不思議と言うものだ。

 サインをねだる受付嬢を適当にあしらって、見舞客のバッジをもらったハリーとダンブルドアは、特別病棟へとまっすぐ向かう。駆け足になりそうな気持を抑えながら、ハリーは病室へ急ぐ。ダンブルドアもまた、焦りを隠せないハリーを咎めることはしなかった。

 

「シリウス!」

「お、ハリエット。よく来たな」

 

 大慌てで病室へ飛び込んだハリーを待っていたのは、ベッドの上で蛙チョコレートをかじっているシリウスだった。

 普通に起きとる。というかノンキにチョコなんか食ってる。

 

「シリウス?」

「なんだ、ハリエット。蛙チョコ食べたいのか?」

 

 もぐもぐと蛙チョコを食べきったシリウスは、ふたつめを麻袋から取り出してひらひらと振って見せる。ハリーは蛙チョコを無視して、シリウスの首にかじりつくようにして彼の身体を抱きしめた。

 

「シリウスーッ!」

「おおっと、ハリエット。どうしたんだ、情熱的だな」

 

 ハリーの体重を支え切れなかったのか、ベッドにぼふんと沈んだシリウスの胸に顔をうずめて、ハリーは泣きじゃくるように彼の身体を抱きしめて、その名を呼び続けた。シリウスはそんな彼女の黒髪を優しくなで続け、ダンブルドアに視線を向ける。微笑ましそうに頷かれるのみで、どうやら止める気はないらしい。

 ぐりぐりと頭を押し付けてくるハリーを撫でながら、シリウスはダンブルドアと会話する。

 

「それでダンブルドア、どうです?」

「うむ、ハリーは了承してくれたよ。これから彼のところへ行くつもりじゃ」

「ああ、この子が行くならあの爺さんも喜んでオーケーしてくれるでしょうよハリエットちょっと痛いあと熱い摩擦で熱いもうちょっと抑えて」

 

 シリウスがハリーをべりっと引っぺがして、ダンブルドアと近況を語る。

 ハリーはシリウスに甘えることに夢中でよく聞いていなかったが、どうやら自分はこのあとどこかへ連れて行かれるらしい。先ほど言っていたことだろうか。いまは愛する家族の匂いに包まれていたいので、ダンブルドアの微笑ましいものを見る視線とかはどうでもいいのだ。

 思っていたよりずっと平気で健康そうなシリウスの様子に、ハリーは歓喜を覚えるが、しかしハリーが抱き着いて押し倒してから、彼が起き上がる様子がない。それを疑問に思ってみれば、シリウスのもとへ屋敷しもべ妖精が歩み寄ってくる。

 

「シリウスお坊ちゃま、おトイレのお時間ですよ」

「……クリーチャー」

 

 車椅子を押している屋敷しもべは、驚くべきことにブラック家に憑いているクリーチャーであった。初めて会ってから最後に顔を合わせたときに至るまで、彼はブラック家の純血思想に背くシリウスやその仲間であるハリー達へ毒づいて悪態をついて溜息をついて、とにかく憎悪したり嫌悪したりしていたはずだった。

 それだというのに、なんだろうね目の前の彼の態度は。まるで小さい子供に対するような声色で、それでいて嫌味なく嬉々としてシリウスの世話をしようとしている。しかも下の世話を。

 

「その呼び方はやめろって……」

「ですがお坊ちゃま、クリーチャーめはブラック家のしもべです。なればこそ、あなた様のお世話をしてきた身としては、再びお坊ちゃまのお世話をできて感無量なのでございます」

「いや、だからその呼び方……」

「さぁ、ちっちーとうんちのお時間ですよ。ふふふ、まさか再びクリーチャーめが()()()を変える役目を仰せつかるとは。あなたの可愛さを忘れていたクリーチャーめが愚かでした」

「いや、ほんとその呼び方……」

 

 話を聞く限り、まるで聞き分けのない子供をあやすベビーシッターのような印象を受ける。おそらくいまのクリーチャーにとって、シリウスは三〇代の成人男性なのではなく十にも満たない子供に見えているのだろう。

 シリウスはブラック家の純血主義に染まり切っていたクリーチャーを毛嫌いして、クリーチャーはブラック家の長男に生まれながら血を裏切るシリウスを侮蔑していた。互いに憎しみ合っていたというのに、不思議なものである。

 それというのも、シリウスが下半身不随となったことで、彼に四六時中ともに世話をする存在が必要になった。いまは専門の魔法によって壊死しないようになっているが、下半身の自由が利かない。それはつまり、ひとりでは起き上がることはもちろん、トイレも自由にできないということだ。小も大も我慢するための命令が脳から下半身へ伝わらないためである。それゆえ、四六時中シリウスについていることが容易な屋敷しもべ妖精であるクリーチャーに彼の世話をする役目が回ってくるのは、必然だったといえるだろう。

 ハリーはクリーチャーのことを、よく思っていない。それどころか、殺せるチャンスがあれば闇へ葬ってやりたいとさえ思っている。何故かと言えば、彼は裏切り者になる可能性があったからだ。

 ダンブルドアの調べによれば、昨年の神秘部での戦いにおいて、ハリーを魔法省へおびき寄せる役目をクリーチャーは請け負っていたというのだ。ベラトリックス・レストレンジは、ブラック家の出身である。そのため、シリウスに仕えるのが嫌になったクリーチャーは彼女へ会いにゆき、ハリー・ポッターをおびき寄せる手伝いをする代わりにシリウスからの解放を約束させる契約を交わしたのだという。具体的な手段としては、『両面鏡』を隠すことでハリーとシリウスが連絡を取れないようにするというもの。それによって偽の手紙による詐欺を完璧に仕上げるためだったのだ。しかし結果はご存知大失敗。ハリーは毎晩シリウスとおしゃべりをしていたため、いつ愛する娘から連絡が来てもいいように肌身離さず『鏡』を持っていたことで見事に計画は頓挫した、というわけである。

 情報ソースは、シリウスへ忠実になったクリーチャー本人から。シリウスが不自由な体になったのでやむを得ずクリーチャーを頼ったことで、シリウスのことを世話すべき子供であると認識して母性(?)に目覚めた彼は、実にペチャクチャと様々なことをしゃべってくれた。計画が失敗して本当に良かった。ハリーはその話を聞いた瞬間からこれ以上の裏切りをする前にクリーチャーを殺すべきだと主張したが、それはダンブルドアがやんわりとハリーを諭すことによって退けられた。シリウスの屋敷しもべの扱いにも問題があったし、何より今はもう裏切る可能性はなかろうということだ。

 結果、こうして介護妖精クリーチャーが爆誕。優秀なその介護によってシリウスの下半身の尊厳は護られ、赤ん坊扱いされることで彼は今までのしもべ妖精への扱いを反省する。ハリーは愛する後見人のそんな様子を見て、げんなりしてしまう。ダンブルドアは屋敷しもべへ少しだけ優しくなれたシリウスとハリーを見て微笑んで、ブラック家の務めを果たせるクリーチャーは狂喜乱舞していた。

 

「必ず手紙は送ってくれよ。かならずだぞ、ハリエット」

「もちろんだよシリウス。絶対に忘れない」

 

 別れ際に、手紙でのやり取りを忘れないようにとシリウスからの懇願を受ける。病院内では『両面鏡』のような特殊な魔力を発する魔法具の仕様はできるだけ控えるよう言われており、そのためシリウスが退院するまでは手紙でしかハリーとの連絡は取れない。それゆえの懇願だろう。未だに嫌いなクリーチャーからの献身的な愛を受け取るには、シリウスはまだ大人になり切れないのだ。

 精一杯の強がりと、持ち前の明るさで二度と運動できないことを嘆くことなくハリーに笑って見せたシリウスの姿に、たしかにハリーは励まされた。本来お見舞いに行く側が励ますべきだというのに、こうまでされてしまっては自分が子供だったことを認めるしかないとハリーは内心で嘆息した。その心境を見抜いているダンブルドアは、彼女に余計なことをいう真似をせず、黙って聖マンゴ病院のロビーへと歩みを進める。

 煙突飛行用の暖炉が並んでいるエリアへと進むと、ダンブルドアはハリーへ自身の手を取るようにと言う。彼の目的とする人物へ訪問するには、どうやら『姿現わし』で行くつもりのようだ。

 

「煙突飛行で向かうのでは?」

「それではたぶん、逃げられるでの」

 

 ずいぶんと物騒なことを言ってくれちゃうじゃないの。

 ハリーはそう思いながらも、決して口には出さなかった。口にせずとも伝わるからだ。辛辣な感想にダンブルドアは可愛らしい悪戯を受けたかのように微笑んで、紳士ぶってその手を掲げる。ハリーもまた淑女ぶって、その手に自分の白い手を乗せた。ふざけたやり取りに互いに微笑んでから、二人の姿はぎゅぱっと螺旋を描いて空気を巻き込み消えたのだった。

 

 

 ひとりの影が、空気を押しのける音を伴って姿を現した。

 目深にフードを被った影は、シルエットから女性であると判断できる。そして即座にふたたび、その場から『姿くらまし』して消えてしまう。後を追ってきたのか、もう一人の影がその場に『姿現わし』してくる。こちらも同じくフードを被っており、その正体が女性であること以外に判別できない。

 どうやら前者の女性を見失ったらしいフードの女は、癇癪を起してゴミ箱をあさっていた動物へ緑色の閃光を放つ。やせ細ったキツネが、哀れにもケンと悲鳴を上げてこの世を去った。

 フードの女を撒いた女性は、スピナーズ・エンドという袋小路にその姿を現し、急いて歩みを進める。高級なヒールが削れるのも構わず、通りの一番奥にある家へその細い手を伸ばし、数回のノックを叩きつける。工場地帯のよどみきった空気に眉をひそめる女性は、家主が出てくるまで執拗にノックをつづけた。

 数分の間そうしていた彼女は、ドアの向こうへ苛立った足音がやってくるのを耳にしてドアから手を離す。わずかに開かれたドアの隙間から黒い闇に染まった長髪がのぞく。陰気な土気色の顔と、胡乱な目つきの男の名はセブルス・スネイプ。決してハンサムとは言えないその顔を見て安堵した女性がフードを脱げば、薄い金髪が流れ落ちる。年相応にしわの刻まれた、しかし美しさを損なわない顔の持ち主は、名をナルシッサ・マルフォイという。

 

「これは、これは、これは。お久しぶりですな、ナルシッサ」

「……急ぎの用ですの。お話できますか?」

「無論ですとも。お入りなさい」

 

 ナルシッサがスネイプの部屋に入れば、壁はすべて本の背表紙で埋め尽くされていた。シックで落ち着いた色合いの調度品でまとめられているが、ランプひとつが照明具として活躍している薄暗さは、持ち主に似て陰気な印象を彼女に与えた。

 スネイプがナルシッサへソファをすすめると、彼女は恐る恐る古ぼけたソファへ座り込んだ。ローブからのぞく白い手は、寒さか恐怖か、いずれにせよ細かく震えてひとところに落ち着かない。

 

「飲むといい」

 

 綺麗に片づけられたテーブルには、ワイングラスがふたつ置かれていた。まるでナルシッサの来訪を予知していたかのような光景に、彼女はいちじるしい恐怖を覚えた。スネイプによって注がれたワインを飲もうと、震える手でグラスを持ちあげるも、あまりにも激しく震えているため水面は荒ぶる海のように暴れまわり、よく磨かれたテーブルをよごしていた。

 スネイプが対面に座り、静かにワインを口に含む。じゅうぶんに味を楽しんだ彼は、静かに口を開いた。

 

「それで、ナルシッサ。なぜ我輩のもとへ?」

「……ここに私が来てはいけないことは、重々承知しています」

「では、なおさら何故来たのかね。ルシウスはこのことをご存じで?」

「いいえ、いいえ。……主人は私がここへ来ることを知りませんわ」

 

 震える声のナルシッサへ落ち着くようスネイプが言うも、彼女は恐怖によって震えるばかりで効果が見られない。ワインをもうひとくち飲むよう強く進めると、彼女は怯えながらもちびちびと飲んでゆく。ひとくち飲むごとに、彼女の震えが収まってゆく。グラスひとつを空にするころには、彼女の唇から漏れる英語は、もとの正しい発音へと戻っていた。

 

「……セブルス、お尋ねして申し訳ありませんわ。ですが私には、もう、あなたしか助けてくれる人が思い当たらないのです」

「ルシウスに頼めばよい。あなたの夫ですぞ」

「ですが、主人は『例のあの人』のしもべです。あのお方の意に背く真似はできません」

 

 ここにきて、はじめてスネイプが片眉を上げた。闇の帝王が彼女にやるなと言ったことを、ナルシッサは破ろうとしているのだ。それは明確な帝王への叛逆に他ならない。帝王が白と言えば黒も白くなり、やれと言ってやらねば死罪となる。

 だが彼女にとって、闇の陣営への忠誠よりも優先すべきことがあった。

 

「息子たちのことです」

「ドラコと、スコーピウス。実に優秀な魔法使いたちだ」

「ええ、ええ。私の可愛い息子たち。彼らを助けてやれるのは、あなただけです。セブルス」

 

 ふたたび震えが始まった彼女に対して、スネイプは二杯目のワインをすすめた。ゆっくりとグラスをあおるナルシッサは、たどたどしく言葉を紡ぐ。

 

「主人は、神秘部の戦いに参加しませんでした。帝王がそれをお望みになったからです。ですがそのために、義兄のロドルファスや他の者のように、アズカバンへ行くことはありませんでした。それに腹を立てた者がいるのです」

「ふむ」

「あの方は、……あ、あのお方は、スコーピウスへ、し、仕事を命じました」

 

 しゃくりあげるようになったナルシッサへ三杯目のワインをすすめるものの、今度こそ拒否されてしまう。スネイプは眉をひそめながら、ヒステリーを起こしかけているナルシッサの言葉を待つ。美しい金の髪の毛をかきむしりながら、ナルシッサは半ば叫ぶように言う。

 

「できるわけがない! あの子は、まだほんの子供です! 成人さえしていない、子供なのに! それなのに、あのお方は命じなさった。ご自身さえ不可能なことを……」

「なるほど」

 

 スネイプは、ナルシッサが決して言葉にしようとしないその内容を察した。闇の帝王にできないことがあるなどと口にするくらいには、彼女も追いつめられている。若いころの美貌を未だに損なわず魅力的なままの女性は、しかし見るからに痩せてしまったためにその美しさを保てるのもわずかと言ったところであろう。人間の心は、肉体に影響をもたらす。

 ふたたび激しく怯え始めた彼女は、ついに絶望の声を漏らしてソファから崩れ落ちた。

 

「殺されてしまいますッ! わたッ、私の可愛い息子が……ッ! ああ、……ああ……! お願いセブルス、助けて……! あの子たちを、たすけて……」

「無論ですとも、出来る限り助けましょう。口約束しかできませんがね」

 

 ナルシッサはスネイプの言葉に満足しなかったらしい。

 だんだん面倒になってきたスネイプは、多少ぞんざいに彼女を慰めるものの、悲嘆にくれるナルシッサが気づく様子はない。長くなりそうだと悟ったスネイプは杖を振って、ワインのお代わりをキッチンから『呼び寄せ』、ふたたび静かにワイングラスへ注いだ。

 

 

 空気を押しのけて物体が現れる、『姿現わし』独特な音を響かせて、老人と少女はさびれた村の小さな広場に出現した。年齢としては孫娘と散歩に洒落こむ姿に見えなくはないが、問題は老人の格好が奇妙奇天烈なままであることだった。

 ハリーはさび付いた公園の遊具を眺めながら、ダンブルドアに問いかける。

 

「どうして目的の人物の家へ、直接『姿現わし』しないんですか?」

「おう、おう。ハリーや。それはさすがに非常識な魔法族の間としても、常識的ではない。例えるならば、スネイプ先生へ魔法薬の質問をするために彼の入っているトイレの扉を吹き飛ばして挨拶しに行くようなものじゃ」

 

 彼の話を要約すれば、魔法族の間では訪問を拒む機会を与えるべきであるというのが常識らしい。そもそもホグワーツと同じように、魔法族の建てる家には外部からの悪意ある『姿現わし』を禁じる魔法がかけられている場合がほとんどである。

 そういった魔法をかけてある家では自室からキッチンまでの短い距離を『姿現わし』する愚か者はいないため、大して不便に感じる者はいないだろう。だが近年のウィーズリー家では双子が日常茶飯事として行っているため、ハリーにとってはあまり想像できない話だった。

 要するに、他人の家へ訪れるのにわざわざ窓を割って転がり込むのは、いくらなんでも失礼であるということだ。

 

「ああ、あの家じゃ」

 

 ダンブルドアが指さした先の古ぼけてはいるが綺麗に掃除された一軒家を見て、そしてハリーは石造りの家から二度見するかのようにダンブルドアの腕へを目を向けた。

 驚いて声が漏れる。ダンブルドアはそれに気が付いて、ローブの中に腕を引っ込めたが、彼女はもうすでにばっちりと目に納めてしまっていた。しなしなに萎びて、真っ黒に焦げていたのだ。一瞬見間違いかと思ったが、ローブの中へ隠れていった彼の腕は間違いなく人間の肌がしていて大丈夫な色をしていなかった。

 

「ダンブルドア先生、その手はどうしたんです?」

「それについては追々語ろう。非常にドラマチックで刺激的な話題じゃからして、もっとふさわしい場で語りたいのでのう」

「……必ずですよ」

 

 有耶無耶にして説明義務を怠ろうとする様子が見えたので、ハリーはくぎを刺しておく。あっさり見破られたことに対して、ダンブルドアは驚くでもなく優しく微笑むだけだった。

 校長の腕のことは放っておいて、目的の家へ歩みを進めるうちにダンブルドアとハリーはほぼ同時におのれの杖を取り出した。目的とする一軒家の玄関ドアが、ひとつだけの蝶番にぶらさがって揺れている。どうやら、ドアを蹴破った無礼な先客がいたようだ。そしてその無礼者は、決してハリー達を迎え入れるために紅茶を淹れてくれるほど好意的な人物ではあるまい。髑髏の仮面をかぶった連中が暴れまわっている昨今、いやな想像をするにはじゅうぶんな光景であった。

 ハリーは袖の中に仕込んでいた杖を右手の中に滑り込ませて構え、ダンブルドアへ視線を向ける。彼が頷いたことで、魔法使用の許可は得られた。ハリーはまだ十五歳であるため、未成年である。魔法省の未成年魔法使用の『におい』探知に引っかかるのだが、そばにダンブルドアがいれば問題ないのだが、命のやり取りをするかもしれない状況下でそれを気にするのも阿呆だろう。

 

「……」

「…………」

 

 壁にべったりとこびりついた赤い絵の具を見て、ハリーはこの家の持ち主の運命を悲観した。こうなると捜索すべきは人ではなく、モノなのかもしれない。

 『探査呪文』を家にかけるかと目で問えば、ダンブルドアは首を横に振った。『探査呪文』は探し物には便利だが、探される側からすると自分を追いかけている者がいるとバカ丁寧に教えているようなものである。こうした状況では好ましくない魔法だった。

 杖を持って、ハリーは滑るように玄関をすり抜けてキッチンへと向かう。ゆっくりと歩を進めるダンブルドアは杖を構えてさえいないが、そのブルーの目は油断なく部屋の隅々へ張り巡らされている。

 

「誰もいません」

「こちらもじゃ」

 

 キッチンを眺めるハリーは、そこかしこに魔法の痕跡を見つける。これでマグルの空き巣が荒らしまわったという線は消え去った。ますます警戒心を高めたハリーは、リビングのすべての家具を注視して回る。いつ隙間からフェンリール・グレイバックみたいな外道が飛び出してきてもいいように、つねに魔力を練り上げて『武装解除』を放つ用意をしてある。

 寝室を見終えたダンブルドアが首を横に振ると、残るはリビングのみになる。ダンブルドアが扉を静かに開いて道をつくると、ハリーは静かにリビングへ滑り込んだ。姿勢を低くして、ソファや脚の折れて倒れたテーブルの影を静かに移動する。

 このリビングも、ほかの部屋に負けず劣らずひどいありさまだ。柱時計が時を刻むことなく、床へ倒れこんでいる。床に叩きつけられ四散した皿の上には、まだ暖かい湯気を揺らめかせるチキンが転がっていた。グラスを真っ二つにされて絨毯へシミを広げるワインを見れば、つい一瞬前までそこにいた下手人の気配を感じさせる。

 ハリーは面倒になって、家具の陰に隠れているであろう犯人を部屋ごとシビれさせるつもりで、部屋全体へ電撃を走らせることを考え着いた。実行しようと魔力を練れば、ふとダンブルドアが自身の肩に手を置いたことで魔法式が途切れてしまう。

 何をするのかと目で問えば、彼は呆れたように微笑んでいた。その表情が解せなかったハリーは、怪訝な顔のまま校長先生の行動を見守る。

 ストライプの趣味の悪いガラをしたソファの前で立ち止まったダンブルドアは、おもむろにソファを杖先で突っついた。割と力が込められたそれは、ソファが悲鳴を上げたことで引っ込められる。

 

「アイタッ! 悪かった、私の負けだ!」

「いたずらもここまでやれば立派なもんじゃのう、ホラス」

 

 面食らったハリーは、ソファから手足が生えて顔が浮かび上がったことで、変身術を用いて隠れていた男がいることを悟った。魔法式だらけの部屋で、変身していることに気づかなかった。

 まさか、この反則的な魔眼を持つ身であるのに、魔法を見破れなかったとは。愕然としているハリーの様子に気づいているダンブルドアは、にっこりと微笑んでいる。知らず自信過剰になっていた長い鼻を折られたことを、よい教育だと思っているのだろう。

 

「我が友アルバス、なんでバレた?」

「本当に死喰い人が君を襲ったのならば、家の真上に闇の印が撃ちあげられていたはずじゃ」

 

 ホラスと呼ばれた老年の男があちゃーと己の失態を悔しがるそばで、ハリーは最初から死喰い人の襲撃でなかったことに気づいていたダンブルドアのことをジト目でにらみつけていた。こんにゃろう、という意思はじゅうぶん伝わったらしい。お茶目なウィンクを返されては、もう何も言えなかった。

 片づけを手伝って家具を次々と直していくダンブルドアを見ながら、壁に塗りたくられた赤い液体が床に転がっていた瓶の中に飛び込んでいき、ハリーの目の前を浮いてホラスの懐へと帰ってゆく。そのラベルには《ドラゴンの血》と書かれている。手の込んだいたずらだとあきれていると、ホラスはハリーを見つけて喜色満面に寄ってきた。

 

「ほほう、ほほう。ほっほう! ではこちらの可愛らしいお嬢さんが!」

「そうじゃの。彼女が君のよく知る、ハリエット・ポッターじゃ。ハリーや、彼はわしの古い友人にして元同僚の、ホラス・スラグホーンじゃ」

 

 どうも、と挨拶をすると、スラグホーンは満足そうに笑って挨拶を返した。

 握手を求められたので、ハリーは快く応じる。老人らしい節くれだった堅い皮の手の平だが、弱くはない。骨もしっかりしているため、わりと健康的な生活を送れているらしい。

 どうやらスラグホーンは美人が大好きなようで、それを隠しもせず笑って言い放ち、ハリーは自分の笑みが引きつるのを阻止するのに必死だった。オヤジの無意識なセクハラというやつである。もしハリーが少年であれば、ここまで好意的ではなかったのかもしれない。

 なぜあんな手の込んだいたずらをしていたのかとハリーがあいまいに笑って問えば、死喰い人が会いに来たと思ったのだと笑って種明かしをした。たしかに物騒な世の中だが、あそこまで徹底した偽装工作を行う人物もまれだろう。

 

「それで、ホラスや。今回はわしらだったが、きみの偉大なる才能を求めて、わしは彼奴らめが勧誘に来るものと思っておったが。わしの予見は外れてしまったかのう」

「いいやアルバス、当たっているよ。だが、やつらには誘いをかける機会を与えなかった。ほぼ毎週、私は棲み処を変え続けている。この家の本来の持ち主は、いまは日本の北海道でバカンスを楽しんでいるころだよ」

 

 部屋の持ち主からすれば、ああまで清々しく荒らしてくれれば、にこやかなお礼と共にスラグホーンへ銃弾の一発でもぶち込んでやりたくなるものだろう。

 マグルの家を転々として死喰い人陣営に影も掴ませないやり方に、ダンブルドアは感心した表にひげをなでていた。そうしてひとしきり彼の話を聞いていると、ダンブルドアは静かに話を切り出した。その様子から、これこそが本題だったのだろうとハリーは察する。

 

「ところでホラスや、ホグワーツに戻る気はないかね?」

「ない」

 

 ダンブルドアの勧誘は、若干食い気味に即答された。

 

「あそこはマグルの家よりも安全じゃよ?」

「アンブリッジのうわさは聞いたぞ。私は激務の末に聖マンゴへ入りたくはない」

「あれは、女史がフェンリール・グレイバックを城内へ招き入れたからじゃ」

 

 誘いを断る口実にたいして、ダンブルドアもまたすぐに切り返した。ハリーは今聞いてもはらわたが煮えくり返る思いだった。いまもアンブリッジは聖マンゴで自分の状態を認めることができず、満月の夜になると悲しそうに遠吠えしているとのことだ。ハリーはそれを聞いてもちっともカワイソーとは思わないし、ザマミロ&スカッとサワヤカな笑いが出て止まらない。

 ダンブルドアの言葉に、スラグホーンは口実を失った。いくらなんでもそんな馬鹿なことをした女を言い訳に使いたくはなかったらしい。

 

「しかしなあ。私はもう働かずともよい年齢だと思うのだが」

「わしより若いじゃろうて」

「きみと他の一般人を一緒にしないで欲しいな」

 

 頭は真っ白で、顔にも深いしわが刻まれている。

 たっぷりとしたお腹は別だが、たしかに老年の彼に教鞭を取れと言うのはいささか厳しいのかもしれない。ハリーはダンブルドアの勧誘は失敗に終わりそうだと思って、適当にリビングの飾りつけへ目をやった。

 どうやらスラグホーンはさまざまな私物を持ち込んでいるようで、だんまりを決め込んでいる《隠れん防止器》や、笑顔のスラグホーンと若者たちがおさめられた写真立てなどが暖炉に置かれている。

 その中の一枚に、ハリーは見覚えのある笑顔を見つけたことでソファから立ち上がる。ダンブルドアとスラグホーンの視線を背中に感じながら暖炉へ歩み寄り、写真立てを手に取る。その様子を見て、スラグホーンは満足そうにハリーへ声をかけた。

 

「私のお気に入りの生徒だよ。リリー・エバンズ」

「……母です」

「そう、きみのお母さんだ。非常に魅力的な子だった。魔法薬の天才とは、ああいう子のことを言うのだろうな。我が寮に来るべきだと常々思っていたが……彼女はいつも笑って今の方がいいと言っていたよ。いやはや、ステキな子だった」

 

 続けてスラグホーンは、隣の写真立てに写る人物は、自分のおかげで魔法省に入省できて今でも政治的意見について求めてくれるだとか、ハニーデュークスの店長は私の教え子で、毎年誕生日プレゼントに箱一杯のお菓子を送ってくれるといった自慢を始めた。おそらく彼は、蒐集癖のあるマニアのような男なのだろう。

 ハリーは彼の言動で、もともとスラグホーンが魔法薬を教えていたのだと気づいた。おそらく、スネイプの前任者なのだろう。そう思うと、彼がホグワーツで教鞭をとっていないことは実に惜しかった。彼がそのままでいてくれれば、きっと幾人ものホグワーツ生が蛇のような嫌がらせを受けずに済んだに違いない。

 

「我が寮とは?」

「偉大なるスリザリンさ。私は寮監だったんだよ」

 

 ほー、とハリーは眉を上げた。どうやらスラグホーンの予期していた反応とは違ったらしく、すこし目を開いた彼は、そのまま言葉をつづけた。

 

「この寮の名を出すと、たいていのグリフィンドール生は顔をしかめるのだがね。やれマグル生まれをどうだの、純血だからなんだのと。それに対抗してスリザリン生もまたぎゃーぎゃーと……おっと、もちろん私は違うぞ!」

「ふふ、でしょうね。寮の所属で人間が決まるわけじゃ……ないですから」

 

 慌てて言葉を付けたすスラグホーンのコミカルさに思わず笑いながら言ってしまったが、ハリーはドラコの顔を思い浮かべて、同時にヴォルデモートの言葉も思い出してしまって少し言葉に詰まった。だいじょうぶだ、自分はドラコ・マルフォイを異性として意識しているわけではない。そのはずはない。

 思わず漏れてしまったものだが、言葉の続きを期待して少年のようにドキドキしているらしいスラグホーンの目に逆らえそうにない。ダンブルドアがなにやら微笑んでいるのをつとめて無視して、ハリーは言葉をつづけた。

 

「寮も、血も、人間を決める理由にはなりません」

「ほほう、ではハリー。人が人を決めるのは何が一番の要因だと思うね?」

「ここで勇気だと即答できれば、模範的なグリフィンドール生だったんですけどね」

 

 ハリーの冗談めかした言葉に、スラグホーンは嬉しそうに笑った。

 ここでこうして生徒に対するような問いかけをしてしまうあたり、スラグホーンは教師として長年やっていたのだろうとうかがえる。ダンブルドアの嬉しそうな顔を見て、やってしまったといわんばかりの顔をしているのが、まさにその証拠だ。

 彼の問いかけに、ハリーは少しだけ迷って、なんとなく思い浮かんだ言葉を答える。

 

「ぼくは誰かのために何を為したか、だと思ってます。正義を信じて闇祓いになり犯罪者を掴まえる人生を邁進したり、後進へ間違った人生を歩ませないために教師になったり、人生は楽しいものだと教えるためにクィディッチ選手になったり……」

「他者のために、何かを為せるか。それが君の言う、人を決める要素かね」

「あんまり格好良く言えませんでしたけど」

「いや、いや、いや。その年でそれが分かっているならば十分だとも」

 

 ハリーはいよいよダンブルドアの嬉しそうな顔を無視できず、ついに体ごと背けてしまった。ガラにもなく語ってしまったことで、耳が赤くなっていることに気づかれなければよいのだが。

 スラグホーンは愉快そうに、しかし苦々しい笑みを浮かべていた。耳がいたそうだ。

 

「ほう、ほう。ほっほう。アルバス、私を勧誘するために彼女を連れてきたのは、リリーの娘であるという理由だけではなく、こういう考え方をする子だからなのかね」

「ほっほ、わしはハリーの成長が嬉しい」

「う、うるさいな」

 

 思わず言い返したハリーの生意気な言葉に、スラグホーンはついに腹を揺らして盛大に笑った。何が面白いのかハリーにはわからなかったが、どうやらスラグホーンとダンブルドアにはわかっているらしい。互いに顔を見合わせて、くすくすと笑い合った。

 ハリーにはよくわからなかったが、どうやらホラス・スラグホーンの勧誘は成功に終わったらしい。あの笑顔を見て、よもや断るなどという言葉が飛び出ることはあるまい。

 

「なるほどね、アルバス。君の企みは見事に成功したというわけだな」

「どうやらそのようじゃ。出来る限りの好待遇を約束しよう、ホラス」

「たっぷりとしたお給料と、広々とした教員私室を用意してほしいね」

 

 よしよし、と満足そうに笑ったスラグホーンが、杖を振ってキッチンのワインセラーから高級そうなワインを『呼び寄せ』る。生徒から贈られたワインの中に、とてもいい逸品があったので記念にそれを飲もうという話だ。

 ダンブルドアがグラスを三つ用意して、ハリーのグラスには先にぶどうジュースを注いでおく。ハリーは自らが語った持論でスラグホーンをホグワーツへ迎え入れることに成功したことになるのだが、どうにも釈然としない気持ちであった。

 

「おや、アルバス。そのワインがどうかしたかな? さすがお目が高い。アンブロシウス・フルームが私の誕生日プレゼントにと送ってよこしてくれた、かなりの高級品だぞぉ」

「……いや。なんでもないよ、ホラス。きっとわしの、気のせいじゃ」

 

 ワインをグラスに注ぎながら、スラグホーンがダンブルドアに問いかけるも、珍しく歯切れの悪い返答がなされた。珍しいこともあるものである。

 スラグホーンが教師になれば、まことに不思議なことに今年も空席になっていた、闇の魔術に対する防衛術の教師が決まる。これで来年のいもり試験に向けた勉強も不安はなくなるだろう。どうやら優秀な人間への執着心があるようだが、それも悪人という印象はなかった。少なくとも、アンブリッジほどひどい授業はするまい。

 どうやら先ほどのダンブルドアのブルーの目は、ワイン瓶に刻印されたマークが気になっているようだった。乾杯を促されて、ハリーら三人はグラスを静かにぶつけ合う。

 

「乾杯! そうだな、うん。平和な世の中に、だ!」

 

 スラグホーンがお腹を揺らしながら笑い、美しい赤紫色の液体が注がれたグラスをくいと煽る。ダンブルドアもまた唇を湿らせ、ハリーはぐいっとぶどうジュースを飲み干した。

 はやくハーマイオニーたちに会いたいなと思いながら、ハリーは赤く湿ったグラス越しに、ワイン瓶を眺める。見覚えのない印だ。純血家系の家紋かもしれないが、ハリーはそこらへんに詳しいわけではない。どうせこのあと、ダンブルドアに連れられて『隠れ穴』へ行くのだからロンやハーマイオニーに聞くのも悪くはないだろう。

 そう思ってハリーの覚えたマークは、三角形の中心に真円が収められ、その円を杖のような棒が貫いている印であった。

 

 




【変更点】
・ダーズリー家のハリーへの好感度。バーノンは知らん
・シリウス生存。クリーチャーやブラック家の相続はなし
・スネイプ家にベラトリックスが来ていない
・スラグホーンがハリーにかなり好意的


謎のプリンス編。いったい誰イプなんだ……。
ハリーの心が強くなっているので、今年もさらにつらいことが押し寄せてくることでしょう。がんばってくださいねハリー、シリウスおじさんは生きているからきっと大丈夫だよ。
不穏オブ不穏。昨年度にグレイバックがホグワーツに侵入しているので、ホグワーツ教師陣としては胃薬が手放せないことでしょう。頑張れスラグホーン先生。
明日、11月23日はファンタスティックビースト上映ですよ! 見ろよ・ケダブラ!
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