ハリー・ポッター -Harry Must Die- 作:リョース
ハリーはその光景を呆然と見るしかなかった。
もしやと思って期待した光景とは全く違う景色が、目の前に広がっている。
ブラックが負けた。ルーピンも相手にならなかった。
伊達に長年ホグワーツにて教授を務めていないということだろうか、戦闘力が二人とは段違いだった。格闘技を修めていないハリーは素人ゆえに、いったいどうやったのかもわからないが、スネイプは身体強化状態のブラックを魔法も使わず処理したのだ。
彼も肉体を強化していない以上、見えなかったはずだ。どれほどの集中力なのか。いや、集中力で済ませられる話なのか? あの狂気に光った瞳を見ると、そうは思えない。
「今宵、アズカバン送りが二人になる……。ああ、甘美なるかな」
「愚かな。無実の者をまたあそこへ送るというのか、セブルス」
「黙れ人外。君には失望したぞ、自分の立場をわきまえたまえ」
呻くように言葉を発したルーピンに、スネイプは杖を振って衝撃破を発する。
空気の塊を叩きつけられたかのようにルーピンの身体がビクンと震え、苦悶の声が漏れた。
ハーマイオニーが悲痛な声を出す。
「スネイプ先生っ! ま、待ってください! 二人の話は聞く価値があります!」
「黙りたまえミス・グレンジャー。出しゃばりもここまで来ると害悪ですぞ」
「お前がそれを言うかねスニベルス。出しゃばりのせいでジェームズに命を救われたお前が」
「黙れと言ったのがわからんのかブラァック! だいいち殺そうとしたのはお前の方だろうが! あいつの名を此処で出す必要があるか!」
杖先から飛び出した魔力弾が、ブラックの腹を打ち据えた。
いったいなんの話をしているのやらわからないが、どうやらシリウス・ブラックとセブルス・スネイプは不倶戴天の敵と言ってもいいくらいの犬猿の仲らしい。
痛みに悶えるブラックを愉悦に染まった顔で見下しながら、スネイプは鼻息荒く言う。
「もうよい。見ているだけで不愉快だ。貴様ら二人は吸魂鬼に引き渡す。罪状は大量殺人に脱獄、婦女暴行。人外、お前は彼奴めを手引きした罪で、吸魂鬼が愛しさのあまりキスしてしまうだろう」
「君は、君は全ての話を聞いていない。誤解だ、セブルス……」
「犯罪者の話など誰も聞く耳持ってくれぬというのは……君もよく知っているだろう?」
「聞いてくれ、セブルス! そのネズミこそ――」
「くどい! 『グンミフーニス』!」
爆発のような音と共に、スネイプの杖先から縄が飛び出した。
ルーピンの口、両腕、両足とすべてに魔力の縄が巻き付き、姿勢を崩して倒れてしまう。
「ああ、わが友リーマスよ。感謝するぞ、毎月の薬を届けに行ったらとても素敵な地図があったのだから、我輩はブラックに気づくことができた。おまけにそれがあるということは、犯罪者の手引きもしていた証左に他ならない。重ねて感謝しよう、我輩の復讐に協力してくれてありがとう」
悔しげにブラックが唸る。
それを満足げに見下ろしたスネイプは、するりと笑みを引っ込めて言い放った。
「連行する。ここから出た瞬間、我輩が吸魂鬼を呼んでやろう」
スネイプは杖を振ってルーピンとブラックを掴むと、引きずって扉まで大股で向かう。
その足がはたと止まった。
ふらつきながらも、ハリーが立ちふさがっていたからだ。
「そこを退け。ポッター」
「ま、待ってください。確かめたいことがあるんです」
「退け、どかんか。我輩が納得のゆく内容であるのだろうな」
「これが、彼らの言う通りなら。ブラックは無実である可能性があります」
「ポッターと名のつく人間は若いと生意気になる法則でもあるのかね? そんなこと、あるはずがないだろう」
「――いいや、あるんだなこれが」
押し潰されたような声で、そう呟いたのは、誰だったか。
はっと気づいたスネイプが目を向ければ、ブラックがぎらぎらした目で杖を振っているところだった。――ロンの杖だ。いったいいつ掠め取ったのか。
思い切り吹き飛ばされたスネイプは、ハリーの足元まで転がった。
何もうつさない目を大きく見開いているが、どうやら死んだわけではなさそうだ。一瞬青褪めてしまったものの、胸が上下に動いているのを確認して、そう判断する。
続いて追撃しようとするブラックに大して、ハリーが無言呪文で『武装解除』を放つ。ぱちん、と軽い音と共に、ブラックの手から杖が離れた。
「何をする!」
「それはこっちの台詞だ! あんたスネイプ先生を殺す気か!」
「薄汚いこいつを生かしておく価値などない!」
「それは、」
ひゅ、とハリーの杖がブラックの喉仏に突きつけられる。
ぐ、と潰れたカエルのような声を漏らしてブラックは咳き込んで蹲った。
他人の喉を突いたというのに、ハリーは氷のような目のまま冷たく言い放つ。
「自分のことを言っているのか? あんたは、何か見せてくれるんじゃなかったのか。スキャバーズをどうにかするんじゃなかったのか」
「ぐ、ぅ……」
「シリウス。ハリーの言うとおりだ。いまスネイプのことはどうでもいい。先に、あいつだ」
ハーマイオニーに縄を解いてもらったらしいルーピンが、ブラックを助け起こす。
苦しがりながらもブラックは、憎悪の瞳でロンを見た。いや、ロンの手の中で暴れているスキャバーズを見た。
ハリーに武装解除されたロンの杖を拾い上げて、ルーピンは言う。
「では、お見せしよう。これがすべての真実だ。これが十二年、我々が欺かれていた現実だ」
スキャバーズが悲鳴をあげた。
ロンの指へめったやたらに噛みついて、彼の指が緩んだ隙間をするりと抜ける。
しまった! とブラックが叫ぶも、ネズミの素早さを人間が捉えられる道理はない。
だがそれならば、人間でなければ問題ないのだ。物陰から飛び出したオレンジ色の毛玉――クルックシャンクスが、スキャバーズの前に立ちふさがる。そして猫特有の甲高い声で叫んで威嚇した。
それに驚いたスキャバーズは、恐慌したかのように一瞬だけ硬直する。
ルーピンはその隙を見逃さなかった。
「『スペシアリス・レベリオ』、化けの皮剥がれよ!」
ルーピンの杖先から射出された薄紫色の魔力反応光が、スキャバーズの身体に命中した。
ロンが悲痛な声をあげるも、ハリーが思い切り抱き寄せて落ち着かせる。
全身が光り続けるスキャバーズは、クルックシャンクスすら無視して走り出した。
しかしむくむくと体が大きくなっているようで、実に走りづらそうだ。
クルックシャンクスが追いついてスキャバーズの行く手を遮ると、彼は壁に開いた穴に向かって飛び込んだ。ここを抜ければ、サイズ上彼らは追ってはこれない。
だが、そこまでだった。
バキバキと木で出来た脆い穴を広げながらスキャバーズはすっぽり挟まってしまい、身動きが取れなくなったのだ。
胴を挟まれた痛みに悲鳴をあげるネズミが、いや、
ネズミと全く同じ動きで、のたのたと動くスキャバーズの動きをそっくりそのまま再現したような動きで、頭の禿げあがった中年男性がのた打ち回っている。
それは、あまりにもおぞましい光景だった。
「
「そうだ。その男こそワームテール。……ピーター・ペティグリューだ」
ハリーがぽつりと呟いた言葉に、ブラックが答える。
ロンがひくついた声を漏らす。
あまりにあんまりな光景を見てしまい、呆然自失としているようだ。
無理もない。自分が子供のころから可愛がって、愛していたペットが実は見知らぬ中年男性だったというのだから。ハリーなら泣いてしまうかもしれない。
喘ぐように事実を否定する言葉を漏らすロンの身体を、更に強く抱きしめた。ハーマイオニーが心配そうに、ロンの手を握っている。
ブラックが穴にはまった小男を乱暴に引きずり出した。
その際に、まるでネズミそっくりの悲鳴をあげたことで、皮肉にもあれがスキャバーズなのだということをハリーたちに印象付けてしまう。
男を見下したような目で、ルーピンが呟いた。
「そしてまたの名を、ピーター・ペティグリューと言う。――十二年前の大量殺人、その真犯人だよ」
やはりそうだ。
ブラックは、無実だったのだ。
しかし、パパとママを裏切った親友という存在は消えたわけではない。それがシリウス・ブラックから、ピーター・ペティグリューに変わっただけだ。
ハリーは胸に抱きしめるロンの身体を、強く抱き寄せた。
普段ならば恥ずかしくてできないことも、いまは安心を得る行為と化している。
ハーマイオニーもくっついてくれている。ロンの背中が温かい。
だというのに、目の前の光景があまりにも寒々しくて、恐ろしくて仕方ない。
「立てワームテール。我が友よ」
心の底から震え上がるような声で、ブラックが呟く。
命じられたワームテール、ピーター・ペティグリューは震えながらも立ち上がった。
そして掠れたような、それでいて耳の奥に響くような声で叫んだ。
「おお、シリウス。リーマス。懐かしの友よぉぉ、ォぐッ!」
言いながらも逃げ出そうとして、二人に取り押さえて壁に叩きつけられる。
ワームテールはヒィーッ、と悲鳴をあげて後ずさった。
ぐずぐずと泣き始めたその姿はまるで子供のまま年を食ったように見えて、とてつもない気持ち悪さを感じてしまう。
「殺さないでくれぇ。死にたくない、死にたくないぃ」
「いいやワームテール。まだ殺さないさ。たっぷり甚振ってからじっくりと殺してやる」
「ひぃーっ」
ぐすんぐすんと涙を流すワームテールを見て、ハーマイオニーが囁く。
「
それは、それは恐るべき精神力である。
だがそれを否定するように、ブラックが唸った。
「いいやお嬢さん。そいつにそんな強さなどない。そいつにあるのは恐怖から逃げるための卑怯さと、力に屈して友をも裏切る臆病さだ」
「そんなことはない……私はあのお方のために、あのお方のために逃げのびていたのだ……」
「嘘をつくな、ワームテール。お前が逃げていたのはかつての仲間たちからだろう? ヴォルデモートはお前が与えた情報で、ポッター家へ行ったのだ。その結果はどうだ? 彼らは、死喰い人どもは主人が破滅したと思い、そしてその原因はおまえにあると思っている」
「う、ううう……」
「……どうだ、ワームテール。おまえ、アズカバンに行ってみるか? きっと大歓迎してくれるだろう。みんなして盛大な花火をお前にくれてやるだろうさ」
「仕方ないだろう! 闇の帝王に従えと脅されたら、そうするしかない。あのお方に目を付けられては、逆らうことなどできない。殺されてしまう……」
辛辣な物言いをされたワームテールが、ついには呟くように反論する。
しかしそれに対してブラックが激昂して叫んだ。
「ならば死ね! 友を裏切るくらいならば戦って死ね、臆病者!」
「誰もが君のように向こう見ずでいられるわけではないんだ、シリウス……」
杖で刺し殺そうとでもしているかのように、ブラックは詰め寄った。
ここでハリーは、声をかける。疑問が抑えきれないのだ。
「……ワームテールが生きてるってことは、……つまりどういうこと?」
「ハリー。さっきも言ったと思うけれど、――言ったかな? まぁ気にしないでくれ――彼こそ、ワームテールこそが、十二年前の大量殺人の犯人だ。そして、ジェームズとリリーを裏切ったのはシリウスではなく、彼なんだよ」
ますますもって意味が分からない。
ハリーのその様子を見てとったのか、ルーピンが説明を続けた。
「ハリー。ワームテールはね、死喰い人だ」
「……なるほど」
「れ、『例のあの人』の!?」
「恐らくね、ハーマイオニー。でも間違いないだろう。私も、つい先ほどまでハリーの《地図》を見るまで、全く気付いていなかった。きっとヴォルデモートに脅され、彼の傘下に入ったのだろう。そしてスパイとなった。ポッター夫妻の居所を突き止めるためだけに」
リーマスの語る内容は、こうだ。
かつてヴォルデモートと彼の配下たる死喰い人が跋扈した、暗黒時代。
反ヴォルデモート勢力として活動していたポッター夫妻はついにヴォルデモートにとって無視できないまでの存在として、彼の織りなす覇道の前に立ちはだかっていた。
殺そうと探しても、どうしても見つけることができない。
ポッター夫妻に関する情報すら見つけることもできない。
夫妻の名を羊皮紙に書いた途端、誰にも途端に見つけられなくなったことから、ヴォルデモートは彼らが『忠誠の術』という魔法で護られていることを看破した。
『忠誠の術』とは、《秘密の守人》という生きた人間に秘密を封じ込めることで、どうやったところで封じた内容を知ることができなくなるという儀式魔法である。
たとえジェームズ・ポッターがヴォルデモートの目の前でタップダンスを踊ろうと、奴にはジェームズの眼鏡すら見つけることはできないのだ。
《秘密の守人》が、その口を割らない限り。
かつて中世魔法界では、《守人》として指定した奴隷を殺し、永遠に秘密を保ったという使われ方があった。ヴォルデモートならば別だろうが現代ではもちろんできるはずがなく、使えない手である。
当初、その秘密の守り人に指定されたのはシリウス・ブラックだった。
彼は友情を何よりも大事にする男で、彼ならばジェームズを売るくらいなら死を選ぶと誰もが信じたものだ。
だがシリウスは、ここで一計を案じた。
誰もが自分こそ秘密の守人だと思うだろう。ならば、誰もが思いもしなかった、ピーター・ペティグリューこそが秘密の守人になればよいのではないだろうか、と。
結果は悲惨なものであった。
あっさりヴォルデモート陣営に寝返ったワームテールは、ポッター夫妻の情報を売った。かつての仲間を売った以上、今までの場所にはいられない。そうして彼はそのまま死喰い人となった。ポッター夫妻が殺害され、その理由を唯一知ったシリウス・ブラックは、怒りのあまり一人でワームテールを追跡。
仮にもかつて友と呼び、同じ時間を過ごした男。裏切りを許してしまった間抜けな自分にも責任はある。殺すには忍びない。裏切られようと、親友の死の一端を担おうと、心の弱さを知っていながら重い責を負わせた自分にも責任がある。
当時のブラックは、ワームテールに自首を促した。その結果が、あの大量殺人である。
ここでもブラックは失敗したのだ。
当時は闇の帝王がハリー・ポッターによって敗北し、消え去った直後。闇祓いに殺しのライセンスすら与えられていた、光によって祓われたはずの闇がこびりついた明け方の時代。
つまり、心の弱さからだろうとなんだろうと、闇の帝王に組した者にはアズカバン送りか、現行犯ならばその場での殺害が許可されていたのだ。アズカバンに収監される恐怖はもちろん、死への恐怖は言わずもがな。小心者のピーターにはどちらも耐えられなかった。
怯えに怯えたピーター・ペティグリューは、その場で大爆発を起こして大勢のマグルを巻き込む。狡猾にも「シリウス、よくもジェームズとリリーを!」と叫び、自身の指を切り落として死体として残したことで、ブラックに全ての罪をなすりつけたのだ。
裏切られてもなお信じていた友の、決定的な更なる裏切り。
信頼ゆえ虚を突かれたブラックは、彼をまんまと逃がしてしまう。人の逃げられるような隙間などどこにもなかった。ならば、ネズミならばどうか。
ピーターが動物もどきであることを知っていた。何故なら、それはリーマスのために皆で習得したからだ。
狼人間であるリーマス・ルーピンは、月に一度学校からいなくなってしまう。それを不審に思ったシリウスとジェームズが、ルーピンの正体を知ってしまった。そこで考えたのは、ルーピンから離れることでも彼の秘密を騒ぎ立てることでもない。
彼が寂しくないように、隣で支え続けるという選択だった。
しかし狼人間は、ヒトを襲うという本能がある。月に一度、満月の夜に狼になっている間は理性も潰されてしまうので、いくら信の置ける親友たちであろうと殺してしまう。
ならばヒトでなければいい。
冗談のような理由で、ジェームズたちは動物もどきになることを選んだ。
魔法使いが動物もどきになる際、その魂を構成する記憶の中から変身先の動物が選ばれる。猫の記憶を孕んだ魂を持つ魔女は、猫の動物もどきに。ワニの記憶を孕んだ魂を持つ魔法使いは、ワニの動物もどきに。
それが一番自然で、また失敗の少ない手法である。
だが三人は、自ら望む動物への変身を成功させた。
それはどれほど難しい事だっただろう。だが三人はそれを成功させた。
叫びの屋敷内に作られた、ルーピンのための部屋。暴れ柳の下にある出入り口へ入るには、その木の幹のコブを触れば大人しくなるという性質を利用する必要がある。ネズミとなったピーターが鞭のような木の枝を避けながら、そのコブを押す。そうして大人しくなった暴れ柳の下から部屋に入って、ルーピンに会いに行くのだ。
もしもルーピンの理性が持たずに暴れだした場合、大型動物に変身したジェームズとシリウスが止める。
それぞれの役割を以ってして、友であるルーピンを支える。
それが彼らの出した答えだった。
だというのに。
彼は裏切ったのだ。命惜しさに、二度も裏切った。
「それゆえの憎悪。ピーターへの殺意こそが、シリウスの……シリウス・ブラックの原動力だったのだろう。……全て私の憶測だが、間違ってはいないはずだ」
「じゃあ、ブラックは……濡れ衣なの?」
「ああ、その通り。ピーターの被害者。まったくの無罪だね。私も気付けなかった。恥ずかしい事だ。親友失格だよ。はずかしい……」
「な、なら『例のあの人』の一番の部下ってのも……?」
「もちろんさ。その噂を聞いたら、ヴォルデモート卿も大笑いするんじゃないかな」
死への恐怖に屈しそうになるということが、どれほど辛い事か。
ハリーにはそれがわかる。去年リドルの手によってバジリスクの牙を胸に刺し込まれたとき。あまりの激痛と恐怖に、殺すべき敵であるはずのリドルにさえ許しを乞い願った。比較的プライドの高いハリーでさえそうなのだ、小心者のワームテールにとってヴォルデモートに迫られるというのは、どれほど恐ろしいことだっただろう。
だが決して許されるようなことではない。
そう、決して。
友を裏切った罪は、重い。
「ロ、ロン。私は君のペットだった。君なら私を殺させないだろう……? ねぇ、ねえ。優しいご主人様……」
「……近づかないでくれ。悪い夢であってほしかった。愛したペットのよしみで、僕は君を殺さないと約束しよう。……僕は、だけど。止めはしない」
「そんな……」
ロンにすり寄って助けを求めるワームテールは、かつての主人に見放される。
今まで自分のベッドに寝せたり、お菓子を分け与えたり、間違いなく愛情を注いでいたのだ。それが実は友達殺しの卑怯者で、自分を隠れ蓑にしていたのだ。
ハリーというわがまま姫と共にいて寛大さが磨かれたロンだからこそ、こうした対応ができたのだ。きっと普通ならば拒絶されても文句は言えないだろう。
「お、お嬢さん。頭のよいお嬢さん。あなたならわかるはずだ……本当に悪いのはシリウス・ブラックだって。た、助けて……死にたくないよぉ……」
「ひぅ……」
ハーマイオニーのスカートを摘まんですり寄ったワームテールに、ハーマイオニーが怯えきった声を漏らす。確かに女子としての目線で見たら、正直言っていまのワームテールは近寄りたい外見をしていない。
禿げた尻尾がトレードマークの太っちょネズミ。それがいまや、太り気味の不潔なハゲ中年である。ハッキリ言って、女からすると見苦しいにもほどがあるだろう。
ワームテールは昏く光る眼を、今度はこちらに向けてきた。
そこに至ってハリーは初めて気づいた。
「ハリー。ああ、ハリー。君なら私を殺させたりしないよねぇ……ジェームズは実に勇敢で優しかったよ。ああ、勇猛果敢なグリフィンドールだったとも。こんな醜くて愚かな私を――」
「――ジェームズの名を持ち出すとは何事か!」
ブラックが大声で叫び、ワームテールの背中を蹴り飛ばした。
傷ついたネズミのような悲鳴をあげて、彼の身体が壁まで転がされる。
埃だらけの床の上をごろごろと転がったものだから、さらに汚れてしまった。
「おまえにその権利があるのか、おまえに! ジェームズとリリーを売ったお前に、そんな口を利く権利など有るはずがない!」
フーフーと肩で息をしてブラックが激昂を収めようとする。
しかしそれでもワームテールは言葉を紡いだ。
「ああ、ハリー……ジェームズはねぇ……」
「まだ言うか!」
「ま、待てシリウス」
ルーピンがブラックを止めた。
彼もハリーと同じく気づいたのだ。
「ジェームズ・ポッターはねぇ、こんな私を――見下していたんだ」
ワームテールが、ハリーに対してまったく媚びていないことに。
唐突に飛び出してきた言葉に、ブラックとルーピンが固まった。
ハリーたちも驚きのあまり、ワームテールの目を見てしまう。
彼の、薄い色の瞳が、暗く泥のように濁っていた。
それは、それはまるで――
「私は学生の頃から要領の悪い子でねぇ。誰かが何かを決めてくれないと、何もできないような愚図だったよ」
ワームテールが語り始めた。
しかしその内容には怨みや憎しみが込められていて、楽しい話ではないと思わせる。
その異様にぎらついた瞳の力に、場にいる全員の靴底が重くなってしまった。
続きが語られる。
「しかしそんな私も誇りがあった。勇気ある寮、グリフィンドールへ入れたことだ。おちこぼれの私はハッフルパフに行くのがお似合いだと、母によく言われたものさ。だが私はグリフィンドールに入れた。楽しい学校生活になるだろうと思ったさ……ポッターとブラックに出会うまでは」
ワームテールがブラックを睨みつけた。
それは今の今まで、情けない声を出して命乞いをしていた者の出来る顔ではない。
警戒したルーピンが杖を向けるも、彼は全く意に介さず床に唾を吐いた。
顔どころか全身が薄汚れているために、恐ろしい形相だ。
「彼らは素晴らしく活発で、悪戯好きなムード―メーカーだった。私が勝手に劣等感を抱く程度にはね。少しでも人気者になりたくて、勇気ある者たちに憧れて、彼らと仲良くなれば自分を変えられるかと思ったが……それは大きな間違いだった」
「なにが、何が間違いだったんだ」
「分からないのかシリウス。君たちは私をどういう風に扱った? 私が周りになんて言われていたか、知っているか?」
「どういう風って……」
言いよどんだブラックに、ワームテールが噛みつく。
「《ブラックの腰巾着》さ! 確かに私は劣っていたから、君達と対等の友達になるのは難しいだろうねぇ。だがそれなら君たちは、別の友を大事にする姿を見せるべきではなかった! しかも、しかも私を使って! ネズミの状態で暴れ柳に向かって何度放り込まれたか、覚えているか? ネズミだ、ネズミだぞ!? 私が変身させられたのは、矮小なる小動物だ! 暴れ柳の鞭が当たれば、私はぺしゃんこになって内臓をぶちまけ即死していたのだぞ! 毎月だ、毎月その恐怖を味わった! そんなのを強要するのが友か? それが友なのか? そうなのか!? 言ってみろ、シリウス・ブラック!」
感情を爆発させて、ワームテールが喚き散らした。
ハリーは考える。きっと、ジェームズ・ポッターもシリウス・ブラックも、彼をぞんざいに扱ったつもりはなかったのだろう。だが、手のかかる舎弟のようなものとして無意識に下に見ていたのかもしれない。
彼は自分たちが守ってやらなくては。彼にも活躍の場を与えてやりたい。そういう気持ちは、受け取る側の気持ち次第では、見下されているようで残酷な暴力にしかならない。お前は自分たちより弱い。これは教育だ、この役割をこなせ。
そういう風に、受け取られてしまったのだろう。
「あのころの君たちは、とんでもないクズだった」
「お前がそれを――」
「ああ、クズさ。調子に乗って、傲慢で、世界は自分たちのもので、自分たちこそが正しいと思っていた。そう思い込んでいた愚か者どもだ」
思いの丈を吐露するワームテールに、ルーピンが静かに語りかけた。
「確かに。あの時の私たちは浮かれていたのだろう」
「リーマス……」
「事実だろう、シリウス。私たちは彼がこんな思いでいたことに全く気付けなかった」
「遅いよリーマス。いまさら気づいてもね」
卑屈な笑みを浮かべるワームテールを、ハリーはただ眺めていた。
何の感想も浮かばない。何もコメントできない。
友情の擦れ違いが、ここまで恐ろしい未来を生み出してしまうだなんて、考えたくもない。
他人事ではないのだ。ハリーとてロンやハーマイオニー達と決定的にすれ違えば、どうなるかなどわからないのだ。
片や、弟や舎弟のように扱ってきたブラック達。
片や、対等の友人になりたかったワームテール。
そんな思いでいたら、噛みあうはずもない。
ワームテールが凄惨な表情を張りつけたまま、にちゃりと口を開く。
「――私はね、君たちがずっと
笑みを浮かべているも目が全く笑っていない顔で吐き捨てられた言葉に、ブラックとルーピンがひどくショックを受けた顔をした。
きっと、きっとまだ二人とも、心のどこかで彼を信じていたのだろう。
ヴォルデモートへの恐怖で裏切ってしまった、心の弱い愚かなる友人だと。
裏切りによって友を殺し、許せない存在にはなってしまったが、かつての楽しかったあの思い出まで嘘だとは微塵も思っていなかったのだろう。皆で笑いあったはずの、悪戯仕掛人の一角は、最低にして悪辣な悪戯を最後に残したというわけだ。
だからなのか。
皆が硬直した隙を狙ったワームテールが、今までの鈍足は演技だったのかと思わせるほどに素早い動きで部屋の外へ飛び出した。
クルックシャンクスがフシャーと飛び掛かるが、それはワームテールの拳に吹き飛ばされてしまう。床に叩きつけられる愛猫を見て、ハーマイオニーが悲鳴をあげた。
怒り狂ったブラックとルーピンがともに魔法を撃ち込むものの、それは当たらなかった。
ワームテールが水に溶かした墨のような闇を振り撒いて、まるで滑っているかのような動きで疾駆しているのが原因だ。あの動きには覚えがある。一年生の時、禁じられた森で見た
それより、杖もなしに、魔法を使うとは。
杖は魔法式を組み立てる強力な補助道具だ。実質、それがなければ魔法使いはマグルと大して変わりはない。だが魔力を体内に持っていて、魔法の理論を知っていれば、出来ないこともない。
無論代償はある。普段なら一の魔力を消費して十の魔法を使える魔法使いでも、杖がなければ五〇の魔力を消費して一の魔法を使えたらいい方だ。更に杖というホースがないため、人間という蛇口から噴き出す
ハリーは残り香のように漂う闇に、負の感情が詰まった邪悪な魔力を感じた。これがヴォルデモートが教える闇の魔法なのだろうか。
「逃がしてなるものか!」
そう叫んだブラックが、我先にと駆け出す。
ルーピンが一緒に駆け出そうとして、ふと、こちらへ視線を向ける。
そうしてぎゅっと目を瞑り、開けると冷徹な光を湛えて見据えてきた。
「ハリーだけ来てくれ。ハーマイオニーはロンの脚を治療してやってくれ」
「待って、僕たちも行く!」
ルーピンの言葉にロンが反論した。
未だに信用しきれていないのもあり、またハリーを一人だけで戦場に立たせたくないということもある。しかしその真摯な言葉は、ルーピンによって否定された。
「だめだ」
「どうしてだよ!?」
「君の脚の怪我は、君が思っているより酷いもののはずだ。それにハリーの戦闘力なら耐えられると判断したのであって、君たちではついてこれない。いいかい、ワームテールは死喰い人。奴は、人殺しなんだぞ」
そう言い残すと、ルーピンはハリーの手を引いて走りだした。
連れられて走ったハリーは、一度だけ二人を振り返ったものの、すぐに駆け出す。
叫びの屋敷に残された二人は悔しそうに呻いた。
しかしそうするより確実な行動がある。ハーマイオニーはロンのズボンを捲りあげると、杖を構えて魔力を練り始める。
早く治療して、ハリーの助けになりたい。
その一心で、二人は静かに呼吸を整えたのだった。
木組みの床が過ぎると、平らにならされた土を踏んで二人は駆け続ける。
出口にあたる暴れ柳の方からは、既に戦闘音が聞こえてくる。
――ワームテールは今の今までネズミだったはず。杖は持っていないはずだ。
だが、現に戦っているということは、杖があるのか? それとも先ほどのように、杖なしで魔法を行使しているのだろうか。
「駄目だ、危ないハリーっ」
「えっ」
暴れ柳の下から飛び出す直前、ルーピンに腕を引き寄せられてストップをかけられる。
ドスンと目の前に木の枝が叩きつけられたことでその行動に感謝をささげた。
見れば、驚くべきことに振り回される枝の中でブラックとワームテールが戦っていた。ブラックは身体強化を行って、青白い軌跡を描いて跳び回っているのに対し、ワームテールは下半身が闇に包まれて霧のような尾を引きながら飛び回っている。
やはりワームテールは杖を持っている。ブラックはロンの杖を使っているが、奴は、ワームテールはいったいどこからあの杖を手に入れたのだろうか。
強化した肉体から繰り出されるブラックの強烈な魔法を、避ける動作がそのまま魔法を使う杖の動作に繋がっているワームテールが反撃する。互いに憎悪をぶつけ合っており、ただ激情が振り撒かれているだけだというのに、物理的な衝撃を伴っているような気さえする激しさ。
あまりにも濃すぎる感情とあまりにも暗すぎる感情の爆ぜ合いが、ここまで酷いとは。
ハリーは思う。こんな醜い光景など、あっていいものではないと。
「なんだよ、これ……」
両者とも杖先から何か魔力で形成した刀剣らしきものをぶつけ合い、相手の首を飛ばそうと互いに戦うかつての親友たち。片や裏切りへの報復を果たさんと、片や積年の劣等感と怨みを晴らさんと。
そして。決着がつく。
足跡が陥没するほど強く地面を蹴ったブラックと、上空から猛スピードで急降下するワームテールが同じ呪文を叫んだ。
槍の呪文だ。ブラックとワームテールの杖先に、螺旋状に激しく回転する魔力が纏われて相手を刺し穿たんと突き出される。穂先同士がギャリギャリと不愉快な音を立てて激しくぶつかり合う。
凶暴な笑みを浮かべるブラックと、滝のような汗を流すワームテール。
やはり、先ほど杖なしで行使した魔法が響いているのだろうか。
しかし結果は、相打ちだった。
ワームテールの杖が左腕ごと吹き飛び、激痛のあまり悲痛な絶叫が吐き出される。
ブラックの持つロンの杖も粉々に破砕し、彼の全身から螺旋を描いて血が噴いた。
片腕を失って血と悲鳴を撒き散らすワームテールが地面をのた打ち回り、傷ついた獣のようにその場に蹲って唸って痛みを堪えるブラック。
その光景はあまり見ていたいものではなかった。
「あっ、まずい!」
暴れ柳が倒れた二人を打ち据えようとするのに気づくが、ハリーが動くには遅かった。
オレンジ色の閃光がしゅっと目の前を通り過ぎ、ぴたりと柳の枝が大人しくなる。
目を向ければ、口元を赤く汚しながらも暴れ柳のコブを押さえつけるクルックシャンクスがいた。
ほう、と息を吐く。
「……ルーピン先生、決着がついたみたいだよ」
敬語は使わない。
ワームテールが生きている以上、彼らの主張の方に理があることはわかった。
だが一度裏切られたと思ってしまった以上、感情としては少し難しいものがある。
ゆえに、先生呼びはしても敬った態度は捨てることにした。
「どうする。ワームテールを捕まえる?」
ブラックが無実である一番の証明は、ワームテールの存在だ。
あの男が女子寮でハリーに詰め寄ったことは、ちょっと許せそうにはない。
だが無実の罪で十二年も吸魂鬼の傍にいたのだ。あれらの脅威を良く知っている身からすると、狂ってしまうのも分かる気がする。
だから。
だから、ブラックが無実であることを証明するくらいはいいのではないだろうか。
ジェームズの親友であり続けた彼の手助けをするくらいは、いいかもしれない。
きっと彼も喜ぶだろう。
……しかし、そういえば、先ほどからルーピンの返事がない。
二人の戦いを見て呆けているのだろうか。
「……? 先生、聞いてる?」
「ハリーッ、危ないわ!」
どうしたのかと思って振り返って、ハリーは金縛りに遭った。
ルーピンがいない。
いや、居るにはいる。だがそれはもはや、ルーピンではなかった。
狼人間だ。
身体のところどころに、ルーピンが着ていたスーツやローブの切れ端が残っている。
いや待て。なぜ、いったいどうして?
ルーピンは確かに狼人間だった。しかし、しかしどうしていま……?
ちょっと待て。スネイプはどうして来た。
確か彼は、ルーピンの部屋で《忍びの地図》を見たと言っていなかっただろうか。
では何故ルーピンの部屋に来る必要があった。
彼の担当教科は、何だったか。
「ぐ、ぅあ――!?」
ルーピン・ウルフが振り上げた前足に脅威を感じ、咄嗟に盾の呪文を張った。
しかしあろうことか、ルーピンはその前足で持っていた自身の杖をハリーに向かって投擲してきたのだ。その速度たるや、まるで銃弾のようだった。
紙切れのようにハリーの張った盾を貫いて、杖先がハリーの左肩に突き刺さる。刺さっただけならまだいいが、有り得ないほどの衝撃にハリーの小さな体は、出口から外へと放り出された。
背中から叩きつけられたハリーは、ずざざと血を削りながら滑る。
こぽ、と口から血がこぼれた。
肩に刺さっただけで、内臓にまでダメージが伝わったとでもいうのか?
「うぐ、ぅあ……」
「ジェームズッ!?」
ブラックがそう叫び、ハッとしてショックを受けた顔をする。
一瞬でもハリーとジェームズを見間違えて、咄嗟に呼んでしまったのだろう。
その呼び声にハリーが横に目を向ければ、ブラックの向こうでワームテールが何かをしているのが見える。あれは……奴が持っているのは、ハリーの杖か。吹き飛ばされた際に手から転がって行ってしまったようだ。
彼は自分の消し飛んだ左腕の傷口に杖先を向け、なにやら唱えている。すると、周囲に飛び散った肉片や血液が、彼の腕に飛び込んでいった。傷を治すつもりか。
ハリーは自分の肩に突き刺さったルーピンの杖を引き抜いて、ワームテールに杖先を向けた。
「『エクスペリアームス』!」
パチン、とワームテールの手からハリーの杖が弾かれ、持ち主の手へ飛んでくる。
憎々しげにこちらを睨んだワームテールの身体が、徐々に小さくなる。ネズミに変身するつもりかとハリーが失神呪文を放つも、急激に的が小さくなったワームテールに当てることはできなかった。
逃がしたか。
そして先程まで自分が吹き飛ばしたハリーには目もくれず、ルーピン・ウルフは一番近くにいるロンとハーマイオニーに目を向けたようだ。涎を垂らし牙を剥いて、完全に理性を失っているのが見て取れる。
それに気付いたブラックは、何かを小さく呟いて駆け寄ってきた。途中で巨大な犬に変身して、ハリー達とルーピン・ウルフの間に入り込む。
「し、シリウス・ブラック!」
ハリーの悲鳴があがる。
爪と爪が、牙と牙がぶつかり合う獣同士の戦い。
駆け寄ってきたハーマイオニーがハリーを引っ張って、戦場から離脱させる。
「ハリーッ、危ない! 行っちゃダメ!」
「で、でもっ。でも、あいつが死んでしまう! ブラックには、シリウスには聞きたいことが山ほどあるんだ! 死なれたら困るんだよ!」
「だめだ、ハリー。君が行ったら、君が死んでしまう!」
ハーマイオニーとロンの拘束を解こうとしても、肩からどくどくと流れる血がそれを許さない。ハリーの顔色は見る見るうちに蒼白になり、振りほどこうと暴れる力も抜けてゆくのが二人にもわかる。
後ろからばたばたと走ってくる音が聞こえてきた。
顔を怒りに染めたスネイプだ。
ハリーたちの顔を見て、ロンの肩に掴み掛ってシリウスの居所を問おうとしてくる。
「ウィーズリーッ! ブラックめはどこに――」
しかし、たったいま目の前で終わった戦いを見て、動きを止めた。
黒く大きな犬が血まみれで横たわり、低いうなり声をあげる狼人間がこちらを見ている。
真っ黒で動物的な瞳が、まっすぐこちらを見据えている。
スネイプは素早く回り込むと、三人を自分の背中に隠した。そして杖を抜いてルーピン・ウルフに向かって素早く何かの魔法を放つ。
鼻面に魔力反応光が命中したルーピン・ウルフは痛々しげな悲鳴をあげて、滅茶苦茶に腕を振り回しはじめた。顔の周りに赤黒い魔力反応光が飛び回っていることから、継続的に何らかのダメージを与えているらしい。
ルーピン・ウルフのあげる痛々しい悲鳴と、倒れ伏したブラック。そして、スネイプの背中。ハーマイオニーとロンの叫び声に、どこからか聞こえてくる遠吠え。
貧血を起こして膝をついたハリーは、抱きしめてくるハーマイオニーとロンに身を預けるようにして倒れ込んだ。
スネイプの悲壮な横顔が、気を失う前に見た最後の光景だった。
*
いつもの天井だ。
ということは、医務室か。
つまるところ、またすべてが終わってしまったのか。
ハリーの知らないうちに年末パーティも終わってしまったに違いない。
そして、シリウスも捕まったのだろう。
もう吸魂鬼にキスされてしまったのだろうか?
「ハリーや。起きなさい、ハリー」
静かな声が聞こえる。
ハリーはがばと飛び起きようとして、額に手を置かれたので起き上がれなかった。
微笑んでいるような、悲しんでいるような顔のダンブルドアが居た。
何故起き上がらないようにしたのかと疑問に思えば、ハリーの胸や腹に直接シーツが乗っている感覚がする。なるほど、裸なのか。いや下着もか。紳士だなこの爺さん。
シーツを胸元に引き寄せて、ハリーは上半身を起こした。
肩から胸の上部にかけて、白い包帯で覆われている。なにやら呪文が書き込んでいるあたり、治癒力をあげているのだろう。今は痛みがない。
「校長先生」
「気が付いたかね、ハリー」
「……あれから、どれくらいが過ぎました」
残酷な問いかもしれない。
しかし、聞かなければならない。
答えによってはこれからやることが全く違ってくるのだから。
「ハリーや。落ち着いて聞きなさい、いいね?」
「はい」
「時間はあれからほとんど過ぎておらん。せいぜい一時間かそこらじゃ」
「――ッ、」
「落ち着きなさいと言ったじゃろう」
頭をぽんぽんと優しくたたくダンブルドアに、ハリーは訴えた。
「ブラックは、シリウス・ブラックは無実でした。真実の裏切り者はピーター・ペティグリューだったんです」
「……そのようじゃの」
「ひとつ問わせてください。……気付いていたんですか?」
ハリーの、昏く濁った目が蛇のように細められる。
ダンブルドアは悲しげにそれを見つめた後、はっきりと言い切った。
「いいや。わしも完全に信じ込んでおった。憎みすらしていた」
「そうですか……」
何か知っていて、それがハリーたちの成長になるとかいう理由でのことならば。
ハリーは一年生の最後に宣言したように、ダンブルドアを殴るつもりだった。
だが何も知らないのならば、仕方のないことだ。
そうであれば、対策を考えねばならない。
そのためにはまず、今ブラックがどうしているかを知らねばならない。
「……ブラックは、……いえ、シリウスはいまどこに?」
「ああ。……ハリー。落ち着いて聞くんじゃ」
「……まさか」
「……うむ。シリウスの処刑はつい数分前に始まってしもうた」
一気に力が抜ける。
胸元からシーツが滑り落ちて肌を晒してしまうも、全く気にならない。
ダンブルドアが気遣って、ハリーに入院着らしきピンク色の上着を羽織らせた。
その感触でようやく我に返ったハリーは、ぼろぼろと涙をこぼし始める。
本当に、ほんとうに涙もろくなってしまった。
感情がすぐ表に出てしまう。
「彼は、ああ……ぼくは彼を憎んでしまった。無実なのに! 濡れ衣だったのに! い、今から行っても、やっぱりシリウスは……」
「うむ。……手遅れじゃろう」
「ああっ、そんな……そんな……」
「――でも。手がないわけではないのよ、ハリー」
俯いて涙していたハリーが、がばと顔をあげる。
閉め切られていたはずのカーテンの向こうから、ハーマイオニーが顔を出していた。
ところどころにガーゼを張り付けていたりと、彼女にも怪我が目立つ。
だが、どういうことだ?
手がないわけではない……つまり、なにか手だてがあると?
「そう。シリウスを助けるには、ミス・グレンジャーの協力が必要不可欠じゃ」
「――
ハリーが大声を出して話を遮ったため、ハーマイオニーの肩がびくりと震える。
ダンブルドアは、ハリーが叫ぶのを見越していたように静かな顔のままだ。
その顔を見つめる、いや、射殺すように睨みつけるハリーは怒りのあまりか真っ赤な視界の中、老人に言葉を突き刺した。
「ハーマイオニーの協力が必要? ちょっと待ってください、ダンブルドア先生。それがどういう意味か、あんたわかって言ってるんですよね」
「……そのつもりじゃ」
『君たちの成長を見たかったのじゃ。万が一の事があれば、わしが何とかするしの』。
二年前、かつてダンブルドアが放った言葉だ。
いくら安全が確保されているとはいえ、成長を促すためクィレルを泳がせて、ハリーたちと対峙するのを許した。結果としては成功だったものの、下手をしたら命を落としていたのだ。
その時にハリーは、ダンブルドアを殴ろうとした。
「ハーマイオニーは、――ロンもですけど――ぼくの最も信頼する、もっとも愛する親友なんです」
「……知っておるつもりじゃ」
これも一年生の時に話した。
次に、二年生の時はダンブルドアの力が及ばず、危険な目に遭わせてしまったと謝罪をされた。
そして三年生のいま。
ダンブルドアは、積極性を以ってハリーの大事な人を危険に巻き込もうとしている。
「巻き込むな、と言いましたよね」
「……確かに」
「――覚悟しろ、クソジジイ」
胸のあたりに包帯を巻いただけの下着姿で、ハリーはベッドから飛び降りた。
そして思い切り振りかぶり、捻りを加えたその拳をダンブルドアの鼻に叩き込む。
今度は、避けなかった。彼はその拳を受け入れた。
ダンブルドアが顔を抑えて膝をつき、ハーマイオニーが短い悲鳴をあげる。
ハリーの拳から、赤い液体がぽたりと一滴垂れた。
「ぐ、むぐ。……すまなかった、ハリー」
「ぼくじゃなくて、ハーマイオニーに謝ってください。……それと、ぼくも申し訳ありませんでした。退学なりなんなりと受け入れます」
「――いや、退学などとんでもない。これはわしの間違いじゃ。そう、わしの責任なのじゃ……」
なにかを諦めたような、どこか一気に老け込んだダンブルドアが立ち上がる。
そしてハリーとハーマイオニーに、頼み込むように言った。
具体的にはなんなのか分からなかったが、その目は今までと何か違うように思える。
「頼む。シリウスを助けてやっておくれ」
「……でも。でも、どうやるんですか、ダンブルドア先生」
ハーマイオニーから服を手渡されながら、ハリーが泣きそうな顔で呟く。
その質問には、ハーマイオニーが答えた。
「ハリー。私が全教科を受講していたのを覚えている?」
「聞いたのは最後の方だけど、あまりにショッキングな内容だからね、もちろん覚えてる。……それがなにか?」
「そのために使った道具を、いまここで使うの。《
ハーマイオニーが懐から取り出したのは、奇妙な懐中時計だった。
まるで中世の地球儀のような形をしている。
砂時計のようなモノの中には小さな銀河が詰まっているようにきらきらしていて、時間を忘れてずっと見ていたくなるような、惹きこまれるほどに不可解な魅力があった。
逆転時計? とは、いったいなんだ?
「《
「……つまりどういうことだってばよ?」
「それはタイムマシンじゃな」
「なるほど」
実に分かりやすくまとまった。
しかしタイムマシンなどマグルの知識だろうに、よく知っていたものだ。
というか、何だ? つまり小説の題材にもなっている、過去改変をやれということだろうか。
記憶喪失後のロックハートが贈るファンタジーシリーズでいま話題沸騰中の、児童書《ギルデロイ・ロックハートと聖者の杯》を思い出す。
あれは確か、黒髪の悪い魔女(なぜか親近感が湧いてくる)によって記憶を消されたロックハートが、自分の思い出を取り戻すために親友の魔法戦士とともに過去へ飛んで、アーサー王伝説を好き放題に塗り替えるという話のはずだ。過去世界でなにかをすれば、現代世界に何らかの影響が出るというバタフライ・エフェクトがテーマの作品である。マグルが考えるような題材だろうに、ロックハートの話題性もあって英国魔法界ではそれを原作にした演劇が作られるレベルの人気を博している。
さて。
問題はその《バタフライ・エフェクト》である。
蝶々が羽ばたくような小さな出来事でも、そこから離れた場所の将来の天候に大きな影響を与えてしまうような、無視できない巨大すぎる現象を生み出すかもしれない。といった、カオス理論におけるそういう考え方のことだ。ちょっと違うかもしれないが、日本魔法界ではよく起きる現象であり、風が吹くだけで
それと同様のことが起きるかもしれない。
さらに言えば、三作目の《ギルデロイ・ロックハートとアヴァロンの囚人》で取り上げられた、ロックハートの行動によって未来の自分が消滅しそうになってしまった展開。いわゆる《タイムパラドックス》も問題だ。
ハリーが何か仕出かしたことによって誰かが消えたりなかったことになってしまうだなんて、そんなことを考えるとハリーは過去に跳んでも何もできないような気さえする。
ハリーの不安な顔を見てとったのか、ダンブルドアが穏やかに声をかけた。
「ハリーや。過去へ行くのにあたって、一点だけ注意がある。それは『知り合いに会ってはならん』ということじゃ」
「えっと……それは、つまり、」
「無論、シリウスは別じゃよ。それ以外の人物じゃ。特に、君たちが今日会った人間には決して会ってはならん。自分自身に出会うなどもっての外じゃ」
つまり、矛盾が出るということだろう。
はっきり言ってしまえば、過去世界においてハリー達が知らない日本人と会おうが、その時点では大して影響はない。ハリー達からしてみれば「過去とは違う出来事」であるが、その日本人にとっては、「その時起きた出来事が唯一の現実」ということになるからだ。
だがハリー達が行動する時間は、かつてその時間でハリー達自身が活動していた場所だ。つまり自分自身とバッティングする可能性すらあるということ。
いまのハリー達にそんな記憶がない以上、巨大すぎる矛盾が生じる。
更に言えば、その日本人が誰かに「あそこでハリー・ポッターにであった」等と言えば、その瞬間から世界に矛盾が生じる。そこから世界による修正が効かなければ、待っているのはすべての崩壊だ。
だからこその、『知り合いには会ってはならない』という忠告。
ハーマイオニーがネックレスのように首にかけていたチェーンを、ハリーの首にもかけるために杖を使って長さを調節していた。
いったい何の素材で作られているんだろう、とハリーがチェーンを触ろうとすると、ハーマイオニーにべちんと強い平手で叩き落とされる。
若干涙目になったハリーがダンブルドアを見遣る。がんばれ、と目で返された。
「ただ一回きり、まわすだけで十分じゃろう。透明マントを忘れぬようにな」
「はい先生」
ダンブルドアがカーテンの外に歩み出て、最後に顔だけを出して注意した。
「よいか。くれぐれも、見られるでないぞ」
そしてシャッとカーテンを閉められる。
ハリーは急いでシャツを羽織って、ズボンを穿く。肩が少し痛んだが、無視できるレベルだ。シャツの前を閉めると包帯が邪魔であることに気付いたため、かなりのボタンを開放したままにした。そのままではあまりに心もとないので、ローブを上から羽織る。
さて、とハリーはカーテンの向こうを覗き見た。ボロボロのロンが眠っている。
ハーマイオニーも呼ぼうとしたが、《逆転時計》の設定に四苦八苦していたためぎろりと睨まれて断念した。
ハリーはロンの寝顔を眺める。血が足りずに倒れたとの話だったが、その割りにはなんだか間が抜けている。すぴすぴと寝息を立てているのもまた愛嬌がある。
にへら、と微笑んだハリーはその額にキスを落としておいた。きっと置いて行ったら怒るだろうし、なによりハリーはロンやハーマイオニーにキスをすると、心の底から暖かくなってきて、何でもできる気になってくる。
何故だか火照った体温を冷ましながら、ハリーはハーマイオニーのもとへ戻った。
「行くわよ、ハリー」
「うん、行こう。シリウスには、聞かなきゃいけないことがあるんだ」
ハーマイオニーが魔力を流し込み、《逆転時計》を起動させる。
時計が激しく回転し始めると同時、水の入ったワイングラスを叩いた時のような、澄んだ音が響き渡った。その音はハリーたちに纏わりつくかのようにぐるぐると周囲を泳ぎ、それと同時に周りの景色がおかしくなり始めた。
夜も遅かった空が見る見るうちにオレンジ色に染め上げられる。シャッとカーテンが開けられたかと思うとハリーたちをすり抜けて、マダム・ポンフリーがせっかく整えたベッドを崩してこちらを向いたまま後ろ向きに走り去って行った。ガーゼと消毒液のボトルを持ったウィンバリーがやってきたと思ったらそれを戸棚にしまい、またも後ろ向きに去ってゆく。ダンブルドアとマダム・ポンフリーが何やら支離滅裂な言語で話をして、きょろきょろとあたりを見回したダンブルドアがマダム・ポンフリーと共に薬品保管庫へ行った、その瞬間。
ハリーたちは時の逆流から放り出された。
奇妙な体験をしたせいで変な気分になったハリーは、隣のベッドを見る。……ロンがいない。
「ようこそ、一時間前の世界へ。今頃はシリウス・ブラックや私たちが《叫びの屋敷》にいるころよ」
「一時間も前かぁ。これカンニングとかばっちりじゃん。まぁ使ったら厳罰に処されそうな気はするけど」
「まぁ、その通りよね。逆転時計の悪用とかアズカバンレベルは固いわよ。……あと一時間後には私たちここに立っていないと、タイムパラドックスで大変なことになるから気を付けてね。……ところで、どうやってシリウスを助けたらいいのかしら」
「それもあるけど、ねぇハーマイオニー。ぼくはあの時、途中で気を失ったから知らないんだけどさ。あのあとはどうなったの?」
ああ、と頷いてからハーマイオニーは応える。
「スネイプ先生が魔法で人狼になったルーピン先生を追い払おうとした時に、他の狼の遠吠えが聞こえてきたの。狼人間は仲間の声に反応するっていう習性を持つから、ただの狼か、考えたくはないけれど他の人狼がいたのかもしれないわ」
「そんなもんルーピン先生だけで十分だろうに。ハグリッドが芸でも仕込むつもりだったのかな」
「冗談言ってる場合じゃないし、そのジョーク、ロンのセンスそっくりよ」
それはあまりにも失礼というものではないだろうか。
「とにかく、それでルーピン先生がどこかへ走り去った後に、スネイプ先生はシリウスを捕縛したわ。天文台の塔のてっぺんに幽閉して最後にホグワーツの景色を見せながら死なせてやるって言ってたから、私たちが行くべきはここよ」
つまり。牢屋の中に先行しておいて、シリウスが放り込まれたら中から手引きをするという腹積もりだ。
しかしそれにはきっと問題がある。
「でもそれ、吸魂鬼が一体でもいたら失敗するんじゃないかな」
「あっ」
「あいつらは感情を読んで行動するから、気配消失薬を飲んで透明マントで隠れても見つかるんじゃないかなあ……」
まずいことになった。
いきなりの作戦破綻である。
先のダンブルドアの話だと、処刑はその場で行うらしいことを言っていた。
「じゃあシリウスを死刑場へ護送中に襲って奪い取るという手段は使えないね」
「ハリー、それ発想が完全にテロリストのそれよ」
「平和的解決はもうできそうにないよ」
ああだこうだと話しているうちに、扉がガチャリと開く。
それに気づいたハリーは、咄嗟にハーマイオニーをベッドの上に突き飛ばした。
自身も布団に飛び込んで毛布を引っ被る。
これで一応は見えないはずだ。
「あら? おかしいわね、誰かいたと思ったのだけれど」
「ポピーや、気のせいではないかね?」
すっかり忘れていた。
そういえば隣の部屋にはこの二人が居たんだった。
突然ハリーによってベッドに押し倒されただけでなく、腰の上に圧し掛かられたハーマイオニーが驚きのあまり口をパクパクさせている。それに人差し指を当てて喋らないようにして、ハリーは異空間から透明マントを引っ張り出した。二人の体をそれでくるんで、するりとベッドから滑り降りる。
ヌンドゥ相手に役立った《気配消失薬》は持っていない。あれがあるとないでは、隠密性は大違いである。だからまず向かうべきは魔法薬学に関連する部屋だ。
……ん? いや、ちょっと待て。
ダンブルドアのじいちゃん、こっち見てね?
(……ッ、そうだ! あのヒトぼくが一年の頃、透明マントがあってもこっちに気付いてた節があったよな!? ってことは見えてるのか、この状況が!)
ハリーは無言で身体強化魔法を用いて、ハーマイオニーを抱きかかえた。
魔力が感知されてしまうだろうが、いっそのこと約一時間後まで追いつかれなければいいのだ。
猫のように素早く開いていた窓から飛び出して、ハリーは地面に着地すると同時に強く地面を蹴って城の壁に取りついた。窓枠やら排気口など、壁の出っ張っているところに足を引っかけてぐんぐんと登ってゆく。
抱えられているハーマイオニーはいつ振り落とされてしまうか気が気ではないようで、ぎゅっとハリーの首に抱きついていた。うーん、暖かい。
「よっと。うーん、あそこかぁ」
辿り着いた屋上から天文台の塔を見上げると、吸魂鬼がひゅんひゅんと飛び回っている。
そろそろ叫びの屋敷では騒動が始まった頃だろうか。
つまり、残りほんの十分かそこらでシリウスはあの塔に閉じ込められる。
時間的猶予は全くない。
ハリーは《忍びの地図》を開いて誰もいないことを確認してハーマイオニーに合図する。彼女は屋上の床に杖を向けると、無音で大穴を開けた。朽ちるようにして穴が開いたことから、なにやら腐らせたようだ。
そこから侵入すると、薬品保管庫に直接行ける。まさか天井に大穴を開けてまで盗もうとする生徒がいるとは思うまい。それに、気配消失薬は四年生で習うような魔法薬だ。恐らく実習で作ったものが保管されていると睨んだのだが……ビンゴだ。
色とりどりな液体が入っているビンが保管されている棚の中に、目当てのものがある。
「は、ハリーの乗り心地は最悪だわね……。さて、とりあえず気配消失薬よね。空でも飛べればいいんだけれど、学校の箒は厳重に管理されてる上に《流れ星》だから、逆立ちして逃げた方がよっぽど早いわ。だから逃走ルートは陸路になると思うの」
「逃走ルート?」
「ハリー? シリウスをあそこから逃がしただけじゃ、また捕まって逆戻りするだけよ。彼が逃げ切れるようにしてあげなきゃ」
「……だったらワームテールをボコって晒せば、無罪が証明されるんだし、ちょうどいいや。その線でやろう! っていうか殺ろう!」
「やれないわよ。しかも彼は私たちと直に会っていたのだから、自分たちと会うことにもなるじゃない。そんなことしたら発生した歴史の矛盾に対する修正現象がループして世界がドカンよ」
「クソっ、みすみすあいつを逃がすことになるのか……。っていうか、なんでそんな危険物を生徒に渡すかな。ちょっとおかしいんじゃない?」
「私の自制心と行動管理力を信用してくれたと思いたいけど、でもよく考えなくても十三歳に渡すようなもんじゃないわよねこれ」
多少の文句を漏らしながら、目当ての魔法薬を複数回収して脱出する。
そして何やら声が届いてくる。
これは確か……そう、魔法大臣コーネリウス・ファッジの声だ。スネイプを褒め称えているようで、スネイプの声は聞こえないものの、何をどうしているのかを見事に実況してくれている。
どうやらシリウス・ブラックを処刑するために学校中の吸魂鬼を集めにいくらしい。
塔の上を見れば、吸魂鬼たちが扉を通って次々と屋内に入ってゆくところだった。
これは好都合だ。
内部から侵入するよりは、外壁をよじ登った方が手間が少なくて済む。
更に言えば、吸魂鬼自体と出会いさえしなければ、奴らをごまかす手間が省ける。
「ハーマイオニー」
「まかせて」
ハリーは透明マントをハーマイオニーに預けて、受け取った気配消失薬のうち一本を飲み干す。ハーマイオニーがマントをかぶって数秒すると、匂いやら視線やら、そういった彼女の気配が完全に消えた。彼女も服用したのだろう。
身体強化に全魔力を注ぎ込んだハリーは、屋上を駆けて助走をつける。走り幅跳びのような恰好で飛び出すと、杖から魔力縄を射出して天文台の塔から突き出ている彫像に巻きつける。
反動を利用して窓枠に飛び乗ると、蜘蛛が壁を這うように素早く塔を上り始めた。いまは透明マントをまとっていないので、できるだけ素早くこなすしかない。
最後の最後にバランスを崩して落ちそうになる者の、強化された身体能力頼みで壁を蹴って高く跳びあがり、シリウスの閉じ込められている部屋の扉に向けて魔力縄を撃ちこむ。
通常ならばそのまま地面へと落下してしまうが、縄を杖内に巻き戻すように縮めることで己の身体を引き寄せ、無理矢理に塔のてっぺんまで踏破を成功させた。
「シリウス!」
扉には格子窓がついているようだ。完全に牢屋そのものである。
教育施設に監禁用の場所があるってどうかと思う。
格子を掴み、顔を覗かせると驚いた顔のシリウスが向こうに居た。
その顔がおかしかったのか、生きていた安心感からか、ハリーは微笑を浮かべる。
「ハリ、エット。なぜ……」
「助けにきた。あんたはここで死ぬべきじゃない」
シリウスが杖を持っていないと油断していたのかどうかわからないが、どうやら扉に魔法的な防護はかかっていないようだった。
開錠呪文であっさり開いた扉を潜って、いまだに唖然としているシリウスの手を取る。
「ハリエット……」
「ぼくは、正直言ってまだ複雑な心境だ。あんたは無実だった。でも夜ベッドの上で見たあんたは怖かった。殺されるかとも思ったし、女としても危機を感じた」
「あ、いや、それは」
「いいんだ。アー、あまりよくないけど、もういいんだ。あんたがワームテールを探していたっていう事情があったのは、分かったから」
ハリーが手を引っ張ると、見た目と反してシリウスの身体は異常なほどに軽かった。
できるだけ朗らかに微笑んで、ハリーは言う。
「さあ、行こう! 《二代目悪戯仕掛人》たちから受け継いだ《忍びの地図》が役に立つ時が来たんだ!」
懐から起動したままの《忍びの地図》を出して、状態を確認する。
この屋上に続く階段の下には、《コーネリウス・ファッジ》と《セブルス・スネイプ》がいる。だめだ、この道は通れない。それにぞくぞくと吸魂鬼が集まっている。
別ルート、ハリーがやってきた壁伝いを見てみれば、途中の窓際に《ポモーナ・スプラウト》が動かない。うたた寝しているのかもしれないが、しかし窓際から微動だにしないのでこのルートは使わない方がいいかもしれない。
しかしそうなると飛び降りた方が早いかもしれない。……しかし上から見てみれば、天文台のてっぺんはホグワーツで一番高い場所であることがわかる。いくら身体強化で頑丈になっているとはいえ、脚の骨の一本や二本は覚悟するべきかもしれない。
そうして悩んでいると、シリウスが杖を貸してくれと言ってくる。
一瞬警戒してしまうものの、彼は無実だったのだ。それにジェームズの親友ということは、それだけで信頼に値すると思う。……ワームテールとかいたけどさ。
「はい」
「ああ。『アニムス』、我に力を。『レウィスレーウェ』、羽根のように」
ハリーから杖を受け取ると、シリウスは身体強化呪文と、もうひとつハリーの知らない魔法を自分にかけた。
身体強化の青白い魔力反応光のほかに、彼の足には薄緑色の魔力反応光がうっすらと纏われている。魔法式を見るに、どうもこれも肉体に作用するものであるようだ。
何の魔法かを看破しようと目を凝らしているハリーに、シリウスが腕を伸ばしてくる。
「え? きゃ、わぁあ!?」
ハリーは思わず悲鳴を漏らしてしまう。
なんと。なんと、お姫様抱っこをされてしまった!
膝裏と肩にぶっきらぼうに添えられた手と、堅い胸筋がハリーの身体に密着する。
なんていうか、ものすごいドキドキしてしまうのは不謹慎だろうか?
いや仕方ないと思う。シリウスは十二年の牢獄生活にも拘らず、随分と見事な肉体をしているのだから。ちょっとくらい反応してしまうのはしょうがないことだと思う。
「喋ると舌を噛むぞ」
「うそっ!? う、わ……っ!」
シリウスはハリーを抱えたまま突如駆け出したかと思うと、迷いなく塔から飛び降りた。
金切り声をあげてしまいそうになるものの、ぎゅっと目を瞑ってハリーは耐える。
すとん、と意外にも軽い音を響かせてシリウスは見事に屋上へ着地した。しかし恐ろしいことに、床が彼の靴底型に陥没しているではないか。ここでハリーは先程の魔法が、衝撃を和らげる結果をもたらす何らかの効果を付与していた事に気づいた。
ハリーへの衝撃も全くない。彼はいったいどこでこんな技術を学んだのだろう。
「さて、ハリエット。《地図》を」
「え、あ。うん……」
袖に入れていた地図を取り出し、内容を眺める。
廊下の向こうから生徒が数人歩いてくる。おいおい、外出禁止時間だろうが。
懐から出した気配消失薬のビンをシリウスに投げ渡して、ハリーは誰も来ない方向へ行こうと小声で合図する。しかし、隠れる場所がない。
なにか隠れるものはないかと探し回っていると、ふと廊下の端に寄せられたダンボール箱が目に付いた。
……いやいやいや、ちょっと待て。
ダンボールて。
「シリウス」
「……おい、君はまさか」
「あれに隠れよう」
まずシリウスが渋々といった具合にダンボールを被る。そしてハリーが、シリウスの長い脚の間に挟まるようにしてすっぽりと入った。
この後どうするかをひそひそ声でシリウスに伝えて、完成だ。
これで完璧だ。
内側に銀色の長いひげがくっついているのを見る限り、見つかる気がしない。
「おい、なんだあれ……」
「……関わらない方がいい」
まぁそりゃそうだよね。
男子生徒三人組がそそくさと立ち去ろうとする姿を見て、ハリーたちはダンボールをかぶったまま立ち上がる。ヒィッという悲鳴が後ろから聞こえてきたがそれを無視して、四足の不思議生物は身体強化されたまま高速で走り出した。
夢に出る。
完全に気配を殺して高速疾走するダンボールという非現実的な光景を、あえて複数人の生徒に見せつけることに成功。
誰もいない廊下に入った途端、シリウスがダンボールを脱いでハリーから杖を受け取った。
すると、ばしゅ、と控えめな魔力反応光とともにニョキニョキとダンボールから脚が生えてきて、あらぬ方向へと全力で走り出して消えて行った。
あれで囮になるかは若干疑問だが、こちらに注意が向かなくなるのならいいことだろう。
「先の廊下で生徒が集まっているようだな」
「邪魔だね。うん、ちょっと待ってて」
心配はいらない。
なぜならとても頼りになる者が近くに来ている予感がするからだ。
ハリーは《忍びの地図》を覗き込むと、やはり目当ての者が見つかった。
壁にとんとんと足をぶつけて囁く。
【いるかい、バジリスクちゃん】
【もちろんです】
《地図》には、壁の中に《H》の頭文字が揺らめいているのを表示していた。
この表示がされるのは、本名を忘れてしまった蛇の友達、バジリスクしかいない。
城が騒がしくなってきたのを察知してハリーのもとへ来てくれるだろうと確信していたが、本当に来てくれるとは。頼れる友人に心の中で感謝する。
シューシューと喉の奥から奇怪な音を漏らしはじめたハリーを、シリウスがぎょっとした目で見ている。ちょっと悪戯っぽく笑って、ハリーはバジリスクとの会話を続けた。
【頼んだよ】
【お任せください、ハリー様】
ハリーがバジリスクに合図を送ると、壁の奥の方で金属がひしゃげる鈍い音が響いた。
ばしゅ、と遠くの方で勢いのいい水音と、男子生徒の悲鳴が聞こえてくる。
バジリスクに頼んで、トイレのパイプを少々ぶち壊してもらったのだ。きっと先ほどの悲鳴は、激しいウォッシュレットを喰らったのだろう。
手元の《地図》を見る限り、次々と男子トイレの方へ名前たちが集まっていくのが見える。
行き先の廊下が無人になった。
「行こうシリウス」
「……ああ、行こうか」
流石製作者の一人というべきか、どうやらシリウスは《忍びの地図》の内容を熟知しているようだ。彼は現在地から一番近い、ハニーデュークス店の地下に出る抜け道を選んだ。
するりと滑るように中に入ると同時、シリウスが唐突に変身して犬になった。何故かと思って地図を覗き込めば、遠くの方からこちらに向かっていくらか吸魂鬼が素早く移動しているのが見てとれた。
天文台のところにスネイプとファッジの名があることから見るに、どうやら逃走がバレたらしい。
強化された脚力にまかせて、二人は素早く抜け道を走ってホグワーツの敷地から出る。
ここから先において地図は役に立たない。「『いたずら完了』!」と唱えて地図を羊皮紙に戻すと、懐にしまい込んだ。
床の石畳を外してハニーデュークスへもぐりこむと、甘い匂いのほかに人の気配はしなかった。
ひとまず、ホグワーツからの脱出は成功だ。
「いや、気を抜いちゃだめだ。シリウス、ホグズミード郊外の森の中を抜けよう。叫びの屋敷とは反対側の方へ行かないと。向こうはスネイプ先生にバレちゃってるし」
「……ああ、そうだな」
少しだけ微笑んでいたシリウスが、ハリーが話しかけると途端に真面目な顔つきになる。
いまの行動のどこに笑う要素があったのかハリーにはわからなかったが、脱出できるんだし嬉しくないわけがないだろうと思ったことでその疑問は余所に追いやられた。
現在地はホグズミードの中心だ。
時刻からしていくらか人がいるはずである。ここから先には、見つからずに行ける道理はない。
「……、ん」
「どうした、ハリエット」
突然立ち止まって、何やら声を出したハリーにシリウスが問う。
その疑問も、ハリーが手を伸ばして正体を晒させたことで氷解した。
ハーマイオニーだ。
透明マントを被ったハーマイオニーが、いくつかの小瓶を持って現れたのだ。
複数の《気配消失薬》に、一杯で一週間分の食事になる魔法薬のビン、物理的な傷を治す魔法薬に魔法的な傷を癒す魔法薬。諸々のサバイバル向けなビンがずらりと並んでいた。
傷を治す系統の魔法薬はハリーも考え付いたが、食糧関係はまったく想像していなかった。なるほど、逃げ続けるために必要なものとはこういうものだったのか。
確かに人間、食べなければ生きてはいけない。
「はい、シリウス。これとそれとあれと、日持ちしないものから順に消費していくのよ。痕跡を残さないためにも使用済みのビンはポイ捨てしないで回収すること。生水は飲んだらだめですよ、寄生虫が入っていたら魔法を使えない状態だと一発で終わりますから」
「……君は、聡明な魔女なんだな」
「ほ、褒めたってなにも出ませんよ」
透明マントを肩にかけた状態で中途半端にかぶっているため、奇妙に細くなったハーマイオニーが次々とシリウスにビンを渡してゆく。
持ちきれないほどのビンを渡されて困り顔のシリウスに、見かねたハリーが異空間から引っ張り出した麻袋を渡した。ハグリッドが編んだ頑丈な袋だ。中には複数個のロックケーキが入っているが、これもついでにあげてしまおう。
さて。
本当なら杖を用意できれば一番だったのだけれど、流石にそれは無理だ。
生徒の物をかっぱらってしまえば、シリウスは本当に犯罪者になってしまう。それはいけない。せっかく潔白の身だったのだから、これ以上余計なものを背負う必要はないのだ。
「さあ、ハリー。あとはホグズミードを抜けるまで気を抜いちゃだめよ」
「わかった。任せてよ」
二人は愛しい親友をぎゅっと抱きしめて、互いに頬へキスをした。
ハーマイオニーはここで待機だ。
シリウスを送ったあと、今度はハリーがバレないように城へ帰る必要がある。
そのためのサポート要員として、ここで待っていて貰わなければならないのだ。
それに大人数だと見つかりやすくなる。
隠密が最重要である今回に限っては、ハリーただ一人の方がいいのだ。
親友と別れ、ハリーはシリウスと共に木々の間を疾駆する。
奇妙なほどに誰もいない。
吸魂鬼の襲撃も予想したものの、まだホグズミードまで行ったことに気付いていないのか影も形も見当たらない。まだ無形守護霊しか出せないハリーとしては、大量に襲われた場合は追い払える気がしないので、これは助かることだった。
ホグズミードの家々がずいぶん遠くに見える。
ハリーが腕時計をちらりと見ると、残りは三〇分ほどしかない。あれだけ素早く移動したというのに、もう半分も消費してしまった。
だったら。
聞いておきたいことを聞けるタイミングは、今しかない。
「……あの、」
「……ハリエット」
ハリーが話しかけると、同時にシリウスも言葉を投げてきた。
だんだんと走る速度が緩み、しまいには立ち止まってしまう。
それに倣ってシリウスも歩みを止めた。
二人して同じく、共に何やら言いたいことがあるようだった。
ハリーは期待と不安を綯い交ぜにした表情であるのに対して、シリウスの方は蒼白な顔色だった。健康状態が悪いということもあるかもしれないが、どうやら楽しい話ではないらしい。
「……シリウス、先にどうぞ」
「………………いいや。君から先に頼むよ」
何かを振り払うようにかぶりを振ったシリウスが、呟くように言う。
ならばと甘えることにして、ハリーは言葉を紡ごうとした。
しかし声が出ない。
緊張で声が出ない。
まるで……そう、まるで、男の子に告白する女の子のような気分だった。
「し、シリウス……シリウス、おじさん」
「……ああ、ああ。なんだい、ハリエット」
かろうじて流れ出たか細い声を、シリウスは拾い上げるように返事をする。
そんな彼の顔に、ハリーは勇気を振り絞った。
敵に立ち向かう類の勇気ではない。命を懸ける必要はないけれど、それでも、ハリエットというただ一人の少女にとっては一世一代の勇気であった。
「ぼく……ダーズリーの家に居たとき、ときどき考える夢があったんです」
ぽつり、と。
そう前置きを零して話し始めてしまえば、あとは洪水のようだった。
恥ずかしくて、非現実的で、ハーマイオニーやロンにさえ言ったことのない夢。
別に隠していたわけでは、ない。
言ってしまったら同情を買うと思い、秘匿していたわけでもない。
ただ、なんとなく言えなかった。
単なる夢の話。
「いつか、ああ、いつの日か、親戚の人が誰か、ぼくをこの絶望から救い出してはくれないかと。そして、その親戚の人がぼくを引き取って、一緒に暮らしてはくれないかと」
それはハリーが歪まず、ハリーの瞳が汚泥のように濁ってしまう前の話。
女の子なのだからぼくも学校の子みたいにスカートを穿いてみたい、と言って痛い目に遭っていた頃の夢。
まだ希望を捨てられずに、地獄からの脱却を乞い願っていた幼い時の、希望。
「ああ、その時は、ぼくは、その人のためにパイを焼きたい。ペチュニアおばさん譲りで、アップルパイは得意だから。……ええ、きっと。休日のおやつの時間は、ぼくの仕事なんです。玩具なんていらない。服だって何でもいい。お化粧品なんてどうでもいい。……ぼくは。ぼくは、その夢想した親戚の人と、静かに暮らしていたい。そんな、妄想のような、ありもしない希望を抱いていたんです」
「……ハリエット、きみは……」
絞り出すような声で、思いの丈を吐露するハリー。
対するシリウスは掠れたような声で、恐る恐る問いを投げた。
それを胸で受け止め、ハリーは
「ええ、シリウス。ぼく……えっと、その。全部終わったら、そう、全部終わったら。無実だと判明して、ヴォルデモートもどっかいなくなって、そう、平和に。平和に、なったら……」
シリウスは言葉の続きを待つ。
どこか辛そうに、どこか悲しそうに。
そして、ハリーは。
できるだけ可愛く見えるように、できるだけ朗らかに見えるように。心の底からの期待を込めて、蕾が花開くような微笑みを浮かべた。
「――ぼくと暮らしてください。シリウス、ぼくの希望になってください」
冷や汗が流れる。
言ってしまった。ついに、言ってしまった。
聞きたいこともあったはずなのに、つい口を衝いて出てしまった。
もしダメだったりした場合はなんて顔をしたらいいのだろう。
泣いてしまうかもしれない。
でも、でもとハリーは繰り返す。
もしも、もし本当にオーケーだったら?
やっぱり泣いてしまうかもしれない。
シリウスが困った顔をしている。ああ、しまった。唐突過ぎたか。
ハリーには家族がいない。
両親の記憶がまったくない。
だからなのか、ハリーは家族というものに飢えている。
散々自分を虐げてきたダーズリー家も、本人は否定するであろうが家族と見做している。
いったい何本ハリーの骨を折ってきたかわからないダドリーでさえ、まともに話せるようになった最近では親愛を覚える時があるのだ。ひょっとすると被害者が誘拐犯に親しみを感じてしまう感情と似ているのかもしれない。
そんなハリーが持つ、ちいさな欲望。
それがつい、口からぽろりと出てしまったのだ。
「そうか。……そうかぁ……」
目を閉じて、天を仰いで。
シリウスは噛み締めるようにその言葉を聞いていた。
「まさか、……まさか君が、そんなことを私に思ってくれていたなんてね……」
「……い、嫌ですか?」
恐る恐るハリーが問う。
もう既に目が潤んでいる。
シリウスは、それに対して「そんなことはない」と呟く。
それは。
それは、つまり。嫌じゃないということ?
つまりそれは、えっと。
「な、なら……!?」
「いや。本当にすまないが、その未来はきっと来ない」
ハリーの顔がにわかに輝くも、続く言葉に一気に曇った。
やはり、だめなのか。
じわりじわりと湧いてくる涙が、止められそうにない。
いま泣いてしまったら、シリウスはきっと辛いだろう。
うぬぼれているのかもしれないけれど、自分が断ったせいで少女が泣きだせば、きっとそう思ってしまうはずだ。
「ご、ごめんなさいシリウス……む、むちゃくちゃ言っちゃって……」
「…………、……いいや、違う。……違うんだ、ハリエット」
「やっぱりぼくじゃだめだよね。こんな、こんなおでこに傷のある男女じゃ……」
「違うんだハリエット。君は……そう、君は悪くないのだ」
ぼろぼろと涙が出てきてしまう。
やはり止められない。哀しくて、そして空しくて涙が止まらない。
つい自分を卑下してしまうハリーであるが、シリウスがそれを否定する。
シャツの前を開けているせいでお腹が寒いけれど、いまはあまり気にならない。
洟をすすって、シャツの袖で涙をぬぐって。
ハリーはシリウスの言葉を聞く覚悟を決めた。
「悪いのはこちらだ。恨むなら、ヴォルデモートと……そして私を恨め」
シリウスが、沈痛な面持ちでそう呟く。
どういう、ことだろう。
ハリーは訳が分からなくなってきた。
期待した分だけショックが大きくなるとは知っていたけれど、予想以上にダメージを受けてしまっているのかもしれない。ちょっと、落ち着かなくては。
ヴォルデモートはともかく、シリウスを恨む?
これはどういうことかと改めて考えた、
その、
時。
「――――――えっ……?」
強い衝撃と共に、ハリーの思考が止まった。
敵襲か。
ついに吸魂鬼がやってきたのだろうか。
――なのに寒くない。
しかし、絶望的な気持ちになっている。吸魂鬼の特徴なのに。
ああ、そうかとハリーは納得した。
闇祓い達という線もあったな。そういえば、彼らはシリウスを追っている。つまりそれに協力したぼくも犯罪者だ。
トンクスにハワード、ウィンバリーたちを敵に回しているんだ、攻撃くらいされる。
――だけど痛くない。
しかし、息がとても苦しくなっている。攻撃されたと思ったのに。
……だめだ。
認めたくない。
現実を認められない。
ハリーはぼろぼろと涙をこぼしながら、そして口の端から唾液を零して、目の前を見た。
まるで自分の身を引き裂かれているような顔で、一筋の涙を流しながら。
それでいて目が、シリウスの黒くて濁った闇のような瞳が。
憎しみに染まった眼でハリーを射抜いている。
ギリギリとか細い首を握り締めるシリウスの指が。すごく痛い。
息が出来なくて肺に酸素がなくなって。とても、苦しい。
「――ハリエット。……なぜなら、私は、……君を殺しにきたのだ」
憤怒と憎悪を込められた目で、心を許そうとした人に睨まれるのが、
ひどく、悲しい。
【変更点】
・スネイプにとってルーピン≧ジェームズ>越えられない壁>シリウス。
原作よりも好感度の高低が激しい。ピーターはそんなのいたっけ状態。
・ピーターも好感度を変更。しかも原作と違ってある程度は帝王に忠実。
・ロンの杖が御臨終。一年間伸びた儚い寿命でした。
・可愛さ余って、の逆。不良が捨て犬を理論で、ハリーは彼に好感を抱いた。
・バックビークが居ないので、走って逃走。メタルギアハリエット。
・シリウス戦の発生。
【オリジナルスペル】
「レウィスレーウェ、羽根のように」(初出・34話)
・体重を軽くする魔法。高いところから飛び降りたりするのによく使われる。
元々魔法界にある呪文。魔法的側面から見て軽くなるだけなので、体重計は変わらない。
少女よ、これが絶望だ。
ピーターに関しては、ちょっと乱暴な兄のような気持ちで接していたらイジメと受け取られて知らないうちに憎悪されていたというケース。そのせいで厄介な敵になってしまったのだから、色々と救われない。
逆転時計はほんと十三歳に渡すような代物ではないと思います。ですけどまぁ、細けぇこたぁいいんだよ! カオス理論って何でしょうね。儀式魔法?
そしてシリウスの殺意。今回は正史と同じルートを辿りながら、その内容がだいぶズレてきたことを象徴するお話です。ハリーは生き残れるのか。っていうか凄く教育によくない状況だ。がんばれダンブルドア、がんばれ教育者たち。
アズカバン編は後々に向ける伏線だらけな感じですが、次回でようやく終わります。
歴史の矛盾も怖いけど、HMDの誤字や矛盾も怖い。