ハリー・ポッター -Harry Must Die-   作:リョース

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8.パッドフット

 

 

 

 ハリーは杖を振り回し、魔法式を構築する。

 練り上げた魔力が体内を循環して、杖先へと集約してゆく。

 声帯を震わせて言葉(スペル)を発し、イメージを確定させて魔法を放った。

 

「『ルーモス』、光よ!」

 

 ぽふっ。という軽い音と共に、杖先に明かりがともった。

 試験官がウムと小さく頷いて手元のボードに何かを書き込む。

 期末テストだ。ヨーロッパ魔法学校全体での学力調査のためだか何だか知らないが、期末試験では毎回魔法省から専門の魔法使いや魔女がホグワーツで試験官を務めている。

 試験監督はホグワーツの教師がしっかりと行っているうえに、カンニング防止用羽ペンなる者を用いている。特に羽ペンを採用してからのホグワーツでは、カンニングを成功させたものは皆無だ。

 つまり失敗してとっ捕まった不届き者は存在するということである。

 ハリーの杖灯り魔法を見届けたヒゲの生えた試験官が、光源を強弱するよう命じる。それにしたがって、ハリーは豆電球レベルの明るさから太陽のような輝きまでを杖先で再現する。ほほう、と口髭を撫でながら感心した声を試験官が出したことが、ハリーの自尊心を満足させてくれた。

 最後に追加点をあげるから、何か自分の得意な呪文を見せておくれと中年女性の試験官がハリーに言ってきた。それを聞いたハリーは、ではと前置きして何か頑丈なターゲットを要求した。

 

「『プロテゴ・パリエース』、堅き壁よ」

 

 口髭の試験官がステッキのように長い杖を振るうと、鋼鉄のような鈍い輝きを持つ円柱が床からせりあがった。ノックしてみると、鈍い音が鳴る。これは相当固いだろう。

 隣で実技試験を受けていたロンが「うわぁ」という顔をする。

 ハリーが嬉しそうな笑顔を浮かべていたからだ。

 

「では、見せてちょうだい」

 

 中年女性の試験官の合図と共に、ハリーは練り上げた魔力を消費して叫んだ。

 

「『アニムス』、我に力を!」

「身体強化呪文! 僅か十三歳で!」

 

 ヒゲの試験官が驚いた声を出すが、ハリーとしてはまだ驚いてもらっては困る。

 必要に迫られた習得した数々の呪文。実践するために覚えたものではあるが、努力して得たそれらが評価されて嬉しくないわけがない。ハリーは笑みを深くして、思い切り床を蹴って天井まで跳びあがった。

 天井に着地すると同時、掃除しきれていなかった少量の埃が舞い散る。それをバックに、ハリーは杖を振ってスペルを唱えた。

 

「『フリペンド・ランケア』、刺し穿て!」

 

 三本の紅い魔力槍がハリーの周囲に出現し、合図と共に円柱に突き刺さる。

 半分ほど突き刺さってはいるが、それでもいまだに破壊はされていない。

 試験官たちがざわざわとどよめいていた。

 

「何だあの呪文は」

「恐らく創作呪文でしょう。いやはや……」

「流石はハリー・ポッターか」

 

 天井を蹴って円柱に着地したハリーはさらに杖を振る。

 言うは一言。ルーピンとの課外授業で取得した、便利な魔法……というより、小技だ。

 

「『リピート』!」

 

 ハリーが一言だけ叫ぶと、先ほどと同じ槍が出現し、また円柱に突き刺さる。

 『直前呪文』である。この呪文よりひとつ前の呪文を、杖が記憶している限り繰り返すことのできる単純な魔法だ。理論さえ理解していれば魔力を送り込むだけでできるので、ハリーにとっては簡単極まりないことだった。

 

「『リピート』! 『リピート』! 『リピート』! 『リピート』!」

 

 まるでナールのように槍だらけとなった円柱は、哀れ破砕寸前である。

 杖を真っ直ぐ円柱に指して、ハリーは微笑んだ。

 

「『バースト』」

 

 途端、全ての槍が爆発。

 魔力で編まれた槍ということはつまり、魔力の塊である。

 そのためそれらすべてを爆発力に変換してしまえば、とんでもない威力になるのだ。

 試験官たちが驚いて声を上げるも、試験官の方へ飛んでゆく円柱の破片などはハリーが無言呪文で全て砕いているため危険はない。その異様な動体視力も、身体強化の賜物だ。

 ぱらぱらと床に散らばった欠片の降りしきる中、ハリーは優雅に一礼した。

 

「ブラヴォーッ!」

 

 試験官が拍手をする。

 調子に乗って散々好きにやってしまったが、どうやら高評価だったようだ。

 安堵と共に、もう一度礼をする。

 これで呪文学の試験はかなりの高得点を得ることができたはずだ。

 

 闇の魔術に対する防衛術。

 これの試験監督は、どうやらルーピンのようだ。

 太った魔女の試験官や、馬面な魔法使いの試験官が実技教室の端に座っている。

 教室の中央に宝箱のようなデザインの衣装ケースが置かれているのが目に入る。あれには見覚えがある。ハリーがルーピンとの課外授業でお世話になったボガートが入っている箱だ。

 

「試験番号一〇六番、ミス・ポッター。さ、前へどうぞ」

 

 馬面の試験官に低い声で言われたので、ハリーはさっさと前に出る。

 箱の前に立ち、ルーピンが開け放つ用意をした。

 ルーピンと目が合うと、悪戯っぽくウィンクされる。

 なるほど。

 好きにやれということですね。

 

「始めてください」

 

 試験官の声と同時に、ボガートの入っている箱の蓋が開けられる。

 飛び出してきたのはやはり吸魂鬼だ。万が一シリウス・ブラックになったときは騒然となるかもしれないと思っていたが、吸魂鬼でも十分どよめかれていた。

 身体が寒くなってきた気がするが、それは気のせいだ。ボガートにそんな力はない。

 つまりこれはハリーが吸魂鬼のことをトラウマとして見ているということ。

 ハリーは杖を構え、クィディッチで優勝した時のことを思い出して叫んだ。

 

「『エクスペクト・パトローナム』、守護霊よ来たれ!」

 

 スプレー状に広がった無形守護霊が、ディメンター・ボガートを抑え込む。

 試験官からどよめきと歓声があがった。

 《身体強化魔法》も《守護霊魔法》も、両方ともN.E.W.T.レベルだというのだから、十三歳の魔女が不完全ながらも両方とも習得しているというのは驚くべきことなのだろう。

 ハリーは杖を振るうと、スプレーのように広がっていた守護霊を一つに束ねて鞭のようにする。慌てるディメンター・ボガートの身体にするりと巻き付いた守護霊は、そのまま衣装ケースの中にダンク・シュートした。

 ルーピンがケースを閉めて「やるじゃないか!」と叫ぶ。試験官たちも興奮した様子でガリガリと手元のボードに何やら書き始めていたので、まぁ悪い結果にはならないだろう。

 魔法薬学。

 試験監督であるスネイプの無言の妨害を除けば、うまく《痩せ薬》を作れた自信がある。

 薬草学。

 多少手こずったものの、ネビルに教えを乞うたおかげで筆記は良い点を取れた自信がある。ただ実技では、試験に使われるはずのボウトラックルがハリーを恐れて逃げ回ってしまったので、どうなるかわからないのが懸念事項だった。

 魔法史。

 眠気が最大の敵だった。以上。

 

「うあ――――っ! 終わったァァァ――ッ!」

 

 談話室に寝転がったロンが、大声で叫ぶ。

 期末テストが終わって心の平和を享受するロンと、深々と溜め息をつくハリー。そしてすべてをやりきったかのように燃え尽きてぴくりとも動かないハーマイオニー。

 三人は人が慌ただしく行き来するグリフィンドール寮内で、だらりと過ごしていた。

 これであとは数週間、消化試合のような授業をこなすだけで今学期は終わる。

 ブラックが侵入するなどして大騒ぎにはなったものの、昨年の秘密の部屋騒動や一昨年の賢者の石騒動などは、その年の中ごろから前触れのようなものがあった。

 しかし今年はそれがない。ブラックのそれがそうだというのならば話は別だが、学校内の何かよくわからない奇妙で危険な場所で命が危ない状況に陥ることはないはずだ。

 概ね平和に終わった。そのはずだ。

 

「あっ、ねえハリー。ヘドウィグが来てるよ」

 

 ソファからずり落ちてさかさまになっているロンが、窓を見てそう言う。

 コツコツとくちばしで窓を叩く白フクロウは、確かにハリーのヘドウィグだ。

 ずり落ちてめくれあがっているロンのお腹がなぜだか気になったが、ハリーはとりあえずヘドウィグのもとへ急いだ。窓を開けると、春も終わりの暖かな空気が部屋になだれ込む。

 それと同時に談話室に入ってきたヘドウィグは、ハリーの腕にとまるとその足で握っていた手紙をハリーに取れと差し出す。ありがたくその手紙を頂戴すると、ヘドウィグは満足そうにホーと低く鳴いてから、ロンが食べようとしていたビーフジャーキーを掠め取って、さっさと窓から出て行ってしまった。

 文句を言うロンを宥めながら手紙を見れば、なんと、ハグリッドからだった。

 二人を呼んで――ハーマイオニーをなんとか起こして――手紙を開く。すると、バックビークが亡くなったことの悲しみを乗り越えた様子のハグリッドの文字があった。

 バックビークの写真を入れた額縁が完成したので、見に来ないかというお誘いだ。

 それって遺影なんじゃないかなとハリーは思ったが、受けないわけにはいかない。

 なにせ大事な友人が哀しみに打ち勝ってくれたのだから。

 

「ハグリッド!」

「おう、ハリー。なんだかしばらく見ないうちに随分と可愛らしくなったな。え?」

 

 自分の腹に抱きついてきたハリーの頭をぐわっしぐわっしと撫でながら、ハグリッドは相好を崩す。続いてやってきたハーマイオニーとロンの頭もごりごりと撫でて、三人を小屋へ迎え入れた。

 入った途端に三人の目に入ったのは、壁の一面を大きく飾る額縁だった。バックビーク――処刑されてしまったヒッポグリフの写真がデカデカと入っていた。他にも何かの魔法生物らしき写真が入っているので、これらは全てかつてハグリッドが飼っていた危険なモノたちなのかもしれない。

 

「……ねぇハリー。これ、アラゴグだよな?」

 

 ロンが耳元で囁いてきて、くすぐったくて耳を擦りながら指差した先を見る。

 大勢の蜘蛛に埋もれるようにしてハグリッドが笑顔で手を振り、隣で巨大蜘蛛が楽しげにハサミを動かしていた。あのかしゃかしゃという音が聞こえてくるようだ。

 うわぁ。

 捕食シーンのような様相を呈する写真を見なかったことにして、ハリーは他の写真へも目を移す。見るだけで何かがゴリゴリ削られそうな名状し難いよくわからない魔法生物と一緒だったり、ドラゴンと一緒に撮った写真も見つけた。おや、フラッフィーズたちと写った写真もある。

 ハグリッドがお茶を入れてくれたので、最後にバックビークの写真を眺めると、目を細めてハリーを見て、お辞儀をしてくれた。嬉しくなったハリーもお辞儀を返し、写真越しに撫でると椅子についた。

 こぽこぽと琥珀色のお茶がお手製らしいマグカップに注がれ、しばらく四人で香りを楽しむ。

 おっと。と声を漏らしたハグリッドが砂糖の入った陶器の器を棚から取り出し、木のスプーンを添えてテーブルに置いた。お茶菓子は久々に食べるハグリッドのロックケーキだ。

 ボヴァギヌファサと噛み砕きながら、ハリーはなんとなくハーマイオニーが砂糖入れを引き寄せているのを眺めていた。全教科の試験を終えるという偉業を成し遂げたのだ。きっと甘いものがほしいのだろう。

 そうして砂糖入れの蓋を取ったハーマイオニーは、短い悲鳴をあげた。

 

「スキャバーズ!」

「え? 君の猫が食い殺した僕の家族がなん……ごめんハリー足踏まないでくれ潰れる」

「君ら仲直りしたはずだろう。これ以上拗れるようなことはやめてくれよ」

「違うわ、ロン。スキャバーズが居たのよ、ホラ!」

 

 ハーマイオニーが差し出してきた砂糖入れの中を見てみれば、痩せ細ったスキャバーズが砂糖まみれになって丸くなっていた。

 歓喜の声をあげたロンがそれを拾い上げ、優しく抱きしめる。

 何か言うことは無いのかとロンをジト目で睨むハーマイオニーに対し、ロンは無視して愛鼠を可愛がるだけだった。

 

「ペットのことになると、誰しもがちーっとだけバカになっちまうんだ。ロン。それにハリーにハーマイオニーもだ。ペットのことはな、友達をなくさねぇ程度に精一杯愛してかわいがっちゃれよ」

 

 今のハグリッドが言うと重みがある。

 お茶会を終えると、テストが終わったのだから暇な時間ができるだろうということで次のお誘いを受けた。快く承諾して、三人は城へと戻る。

 道を歩いているとき、フシャアという声が聞こえたかと思うとハーマイオニーのクルックシャンクスが飛び掛かってきた。ロンがスキャバーズを庇って蹲り、ハーマイオニーが慌てて愛猫を引き剥がす。

 激怒しそうな顔になったロンが「その猫をどっかにやってくれ!」と叫ぶと同時、ハーマイオニーが固く拘束していたはずのクルックシャンクスが彼女の手をするりと抜けてロンの方へ、正確にはスキャバーズへと襲い掛かる。

 これは見過ごせないとハリーが躍り出て、ハーマイオニーには悪いがクルックシャンクスを叩き落とした。

 驚いた様子のクルックシャンクスがハリーとの距離をじりじりと測っている。まさかの愛猫への平手打ちという暴挙を行ったハリーに、ハーマイオニーがやめてくれと叫ぶ。

 もはや、仲直りだとかそういう状況ではない。

 しかしここで異変が起きた。

 もはやほとんど憎悪を見せていたロンの顔がハッとなり、スキャバーズをポケットに突っ込むとこちらへ駆け出してきたのだ。何をするつもりかと驚いたが、ロンの方が早い。

 

「ハリーッ、伏せろ!」

 

 いきなりロンに抱きしめられて目を白黒させたハリーは、彼の勢いのまま押し倒される。

 強く抱きしめられながらゴロゴロと転がりながら、ハーマイオニーの驚いた声を聞く。

 何故ロンがこんなことをしてきたのかという混乱は、彼自身の悲鳴で消し飛んでしまった。

 

「ろ、ロン!?」

「来るなハーマイオ、ごォあ!?」

 

 起き上がりざま、ロンは走り寄ってくるハーマイオニーに振り返って制止を唱える。

 しかしその言葉も、ロンに飛び掛かってきた真っ黒な犬が原因で途切れてしまった。

 巨大な犬はロンを地面にたたきつけると、そのズボンを咥えて引きずり始めた。どれだけ力が強いのか、ロンの必死な抵抗も空しくずりずりと連れて行かれてしまう。

 これに慌てたのはハリーとハーマイオニーだ。

 ロンの身体よりも大きい犬など、危険極まりない。しかも今は、ロンが連れていかれそうになっているではないか。

 あれだけ体の大きい犬だったら、ロンを食い殺すことすら容易だ。

 

「ろっ、ロン!」

「だめだ! 来るなって言ったろう!」

 

 引きずられながらも気丈に叫ぶロンの声は震えていた。

 当然だ。あんな目に遭えば怖くないはずがない。犬に飛び掛かられた際にぶつけでもしたのか、酷い鼻血がだらだらと流れている様も痛々しい。

 異様なまでの速度でロンを引きずってゆく巨大犬を追いかけるハリーとハーマイオニーは、ふと周囲が異様な雰囲気になったことに気付く。

 しかし今はロンを助けねばならない。

 木の根もとに大きく開いた(うろ)のような洞穴のような狭い隙間に、ロンが引きずり込まれてゆく。足を引っかけて必死に抵抗しているようだったが、乾いた木材がへし折れるような音と共に足がぶらりと垂れ下がってしまった。

 ハーマイオニーの悲鳴を聞きながら、ハリーは無言呪文で自らに《身体強化魔法》をかけると、その場を跳ぶ。倒れ込みながらも間一髪、ロンのローブの端を掴んだ。

 あとは無理にでも引っ張って助けるのみ。見殺しになんかできない。

 

「痛ッ!?」

 

 立ち上がったハリーの踝に鋭い痛みが走り、体勢を崩してしまう。

 次に、片膝をついたハリーの腕にクルックシャンクスが飛び掛かって噛みついてきた。

 ローブを離すわけにはいかなかったので痛みに耐えるも、今度はロンのローブの方に飛び乗ってゆく。ロンを引っ張り出す邪魔をされては本末転倒。

 なおもロンのローブを引っ張ろうとするも、クルックシャンクスに思い切り噛まれた手では、少々握力が不足していた。痛みのせいで力が出ないのだ。

 するりと手を抜けてしまったロンのローブを見て、ハリーが悲痛な声をあげる。

 

「ハリーッ! 上ぇ!」

 

 今度はなんだと見上げれば、まるで鞭のような何かがハリーに飛来してくるところだった。身体強化の恩恵で得た動体視力を使えば、それは何かの枝だということに気付く。

 はっと見上げれば、大量に枝分かれした先にある枝一本一本を振り回して怒り狂っているかのような様子の木があった。

 《暴れ柳》だ。

 近づくものはなんであれ叩きのめすようになっている魔法木であり、いったい何のために誰が創ったのか、もしくは何の意味があって進化してきたのかさっぱりわからない、はた迷惑な気だ。

 さらに去年はヌンドゥのウィルスをばらまいたという、はた迷惑どころか超迷惑なことをしでかしたやつだった。犬とロンを追ってこんなところまで来てしまったのか。

 ぺたりと地面にくっつくようにして攻撃を回避したハリーは、次いで左手足を地面につけて振り下ろされた枝を右向きに転がって回避する。

 次々と加えられる鞭のような攻撃を捻り、転がり、飛び、跳ね、まるで猿のように縦横無尽に動き回って次々と攻撃を避けてゆく。

 

「きゃあっ!?」

「ハーマイオニーッ!?」

 

 しかしそれもハーマイオニーの悲鳴がなければの話だ。

 暴れ柳が彼女の太ももに絡みついて、まるで人形のように振り回しはじめた。

 あの速度で振り回され続ければ、内臓が口から飛び出してしまうかもしれない。

 そんなグロテスクな光景は見たくない。

 何より、彼女が死んでしまうのは絶対に駄目だ。許されることではない。

 

「ハーマイオニー! だいじょ――」

「『カペレ』、掴めっ!」

「えっ?」

 

 突如発されたスペル。

 ハリーも以前使ったことのある魔法だったそれは、単純に相手を掴むだけの簡単な呪文。

 ただ、暴れ柳に捕まっている彼女がそれをやればどうなるのだろう。自明の理である。一緒になって空中を暴れ回るだけだ。

 

「うわぁぁぁっ! おっ、降ろしてくれえ!」

「なに泣きごと言ってるの!」

 

 厳しい。

 振り回されるハリーはハーマイオニーにしがみつくも、彼女の「今よ!」という叫び声と共に放り投げられてしまった。

 甲高い悲鳴を長々と叫びながら吹っ飛んだハリーは、先ほどロンの引きずり込まれた穴の中へとすっぽり入ってゆく。確かハーマイオニーは勉強が得意で運動が苦手な子、だったような気がするが、気のせいだったのかもしれない。

 ごろごろと穴の中を転がって落ちてしまい、少々どころではないが痛い。痛いが行動できないほどではない。後ろからハーマイオニーが降りてきて、二人がぶつかって重なり合わなければ。

 

「無茶したけれど、上手くいったわね」

「ハーマイオニー。ほら、胸の上から退いてくれ」

「……本当に大きくなってきたわね。憎いわコレ」

「いだだだだだだ! 揉むな! 引っ張るな!」

 

 もしその場に居れば、ロンが赤面しそうなことをやってのけるハーマイオニー。

 しかしふざけている場合ではない。硬くなりすぎていた緊張感は溶かすことができたが、ほぐし終えたのならば次は鎧をまとって戦いに向かわなければならない。

 ハリーは一度《身体強化》を解除して、魔力を温存することにした。

 あの巨大な犬の目的がどうであれ、ロンに危害を加えるというのならば容赦はしない。

 そう、大事な親友だからだ。

 朱く染まった頬を隠すように、ハリーはハーマイオニーと共に駆け出した。

 

「本当に暴れ柳の下にあるのか、この場所」

「ええ。変に整ってるわよね」

 

 そうなのだ。

 ハリーたちは全速力で道なりに進んでいるが、その道が妙に整っている。

 でこぼこがなく、何か石などでっぱりがないので非常に走りやすいのだ。

 明らかに人工的な手が入っている。つまりこの洞穴は何らかの目的を以ってして、暴れ柳の下に造られたもの。いや、逆かもしれない。この洞穴が先にあって、暴れ柳を植えたのだろうか。そう考えるとしっくりくる。

 暴れ柳という、誰も近づかないような植物の下に隠し通路。明らかに何かに見つかりたくない施設、または物があるのだろう。

 そんな場所を知っていて、なおかつそこにロンを引きずり込んだあの犬は、恐らくただの犬ではあるまい。

 魔法使いの訓練を受けた、いわゆる《使い魔》というやつか。はたまた知能の高い魔法生物か。ひょっとすると例によって闇の帝王の息のかかった何者かが操っているのか。下手をしたら動物もどきという可能性すらある。

 ハリーはハーマイオニーに杖を抜くようにと忠告して、自身も袖の中に杖を仕込んだ。

 洞穴のところどころに、樽やら木箱やらが見えてくる。

 明らかなる人工物。そして走っていた地面も、踏み固められた土から木板に変わっていった。どこかの建物の地下に続いていたのだろうか。

 

「……ハーマイオニー。見て」

「血だわ。……ロンのかしら」

 

 小声で囁き合い、床についた赤を見る。恐らく、ロンの鼻血だろう。

 点々と続いたそれは、どうやら階段を通じて上に続いているようだ。

 古ぼけた階段は、踏めば確実に軋んで音がする。

 あの犬だけがいるならば、まだいい方だ。しかしそれを操っていた魔法使いがいた場合はどうしようもない。気づかれてはならない。

 ハリーは十秒ほど集中すると杖を振り、無言呪文で空間を裂いて中から目当ての物を取り出した。甘いジュースのビンだ。魔力とは精神力に依存するものであるため、飲まないよりは飲んだ方が生成量はマシである。

 ハーマイオニーにも渡して、一気に飲み干す。空き瓶を捨てた時に音が鳴っては本末転倒なので、ごみも空間内に放り込んだ。そして取り出すのは、丸めた《透明マント》。手で持てるサイズの物のみがこの空間に出入りできる条件なので、こうでもしないと透明マントは持ちきれないのだ。

 それを被ったハリーは、無言呪文で《身体強化》を再開する。

 さっとハーマイオニーを抱きかかえ、耳元で囁く。

 

「いいかい、ぼくが階段を無視して跳ぶから、着地と同時に突入する」

「分かったわ。ハリーは右側と部屋の奥をお願い。私は左側と入ってきた扉の順に杖を向けるわ」

「オーケー。確かに奇襲されたらヤバいものね。後ろは失念してた」

「さ、行くわよハリー。王子様を助けてやりましょう」

 

 ハリーが目を閉じ、開けば泥のように濁った瞳が危険な色に染まっていた。

 ハーマイオニーもそこまでではないにしろ、覚悟を決めた目になっている。

 ぐ、と足を曲げてなるべく音をたてないようにして床を蹴る。

 滞空時間を短くして、ふわりと着地。そして素早くハーマイオニーを解き放った。

 いつもの真面目な彼女からは想像もできない動きを見せるハーマイオニーが扉を蹴り開けると、ハリーも同時に突入した。

 二人が同時に、それぞれ別々の方向へ鋭く杖を向ける。

 視界の先、右側には燃えるような赤毛の男の子が倒れていた。

 こっちに向けて何かを叫ぼうとしている。

 

「二人とも逃げろ! 奴だ、奴だったんだ! ブラックは動物もどき(アニメーガス)だ!」

 

 背後、つまりハーマイオニーの真正面から魔力反応光。

 彼女の身体が吹き飛ばされてハリーの矮躯を巻き込んで倒れ込む。

 独特な風切り音を杖が弾かれて空中を回転する音と断定。

 ハーマイオニーが背中越しに小さくハリーの名を呼び、次の行動を提案してくる。

 時間がないため渋々ながら承諾。ハーマイオニーの失神を確認。

 二発目の紅い魔力反応光がハリーに向かって飛んできた。

 ハリーはそれを、

 

「なにっ!?」

 

 ハーマイオニーの身体を盾にして防いだ。

 身体強化の恩恵により、その場を高速で離脱する。

 三発目の魔力反応光がハリーの向かう先に飛んできたが、袖口から飛び出させた杖を振るって無言呪文での『盾の呪文』で防ぐ。無事、壁に()()

 壁に押し付けられるような勢いが残っているコンマのうちに駆けだして、下手人の影へと跳び蹴りを放つ。向こうは驚きながらも冷静に回避したようで、その長い髪を幾本か引きちぎっただけで命中には至らなかった。

 半ば予想はできていたが、実際に目にするとあの夜のことを思い出してしまって鳥肌が立つ。だがこれはチャンスでもある。ジェームズとリリーの仇。そしてその親友、ピーター・ペティグリューの仇。そしてリーマス・ルーピンを裏切って傷つけた心の報いを受けさせることができるのだ。

 

「流石はハリエットだ。そこまで完璧な《身体強化魔法》が使えるのか。だが、瞬間的な魔力運用に粗が見えるようだな、無駄に消費しているぞ」

「黙れ。殺す」

「……恐ろしい子だよ、きみは」

 

 ブラックが振るっているのは、ロンの杖だ。

 芯が少しはみ出しているのが、ここからでも見えるお下がりの杖。つくづく敵に奪われることが多い杖だ。何かそういった運命にでも呪われているのではないだろうか。

 脂っこい髪とヒゲを振り乱すブラックは、素早く杖を振り、膨大な魔力を瞬時に練って編み込む。その早業は見事の一言に尽きた。見た目はともかく、その所作は美しいと評してすらいいほどの一つの芸術だった。

 

「本物の魔法を見せてやろう、ハリエット。『アニムス』、我に力を!」

 

 同じ身体強化か! とハリーが心中で叫び、その場から飛び退いてブラックの背後に回る。

 そしてハリーが見ていたのは、小汚い床だった。

 

「…………は?」

 

 脇腹が痛い。

 どういうことだ?

 いったい何が起き――、

 

「ぐっふ、お……!?」

 

 鳩尾に肘鉄での衝撃。

 吹き飛んだ先で背中に蹴撃。

 その場で浮いている状態で胸に拳撃。

 動きは見えている。だがこちらより数段早く、更には動きが精密的だ。

 ブラックは格闘技を習得しているに違いない。動きがどこかで見たことがある。

 最後にブラックは、ハリーの袖と胸倉をそれぞれ掴むと、背中を使って肩越しに投げ飛ばしてしまった。床にたたきつけられてウッと息が詰まったハリーは、右手から杖が蹴り飛ばされたことに気付くのにすら数秒を要した。

 そうか。ブラックは、シリウス・ブラックは、ハリーと同じタイプの戦い方をするのだ。

 身体能力を底上げして、高速化で物理的に相手を打ちのめすことを好む。いくら強力な魔法とて、当たらなければ意味がない。決闘における最強魔法である武装解除ですら、当たりさえすれば勝利が確定するという条件付きだ。

 更に相手の意識の隙をついて行動するのがうまい。

 現にハリーには、ブラックの動きを読むどころか、捉えることすらできなかった。

 こんなの、ハリーの完全上位互換じゃないか。

 これが、ブラック。

 シリウス・ブラック。

 

「ハリー、ハリーッ!」

「しっかりしてハリー!」

 

 数秒か数分か、どうも意識がとんでいたようだ。

 ハーマイオニーの声が聞こえるあたり、短くもない時間気を失っていたらしい。

 口の端に垂れていた唾液を袖で拭きながら、ハーマイオニーに助け起こしてもらってブラックを睨みつける。その手でくるくると三本の杖を玩んでいた。

 

「魔力配分の甘い瞬間を突かせてもらった。思い知ったろう、ハリエット。魔法戦闘にはパワーだけでなく精密さも、そして魔法に頼らぬ肉体の強さすら必要なのだよ」

 

 ブラックが諭すようにハリーに語る。

 何も反論できない。

 ハリーは自分が女であるために非力だと考えているが、それにしたって格闘技を覚えることでいくらかは緩和できる。日本の格闘技には、相手の力を利用して吹き飛ばすことのできるニンジュツすらあるというのだ。

 ハリーは何も言い返せない。

 攻めて何かを言い返したいと思い、彼の罪を責める事にした。

 

「友達殺しが偉そうに」

「だまれ」

 

 ブラックの憤怒の声が聞こえる。

 彼がもう少し理性的でなかったら、きっとハリーを蹴り飛ばしていただろう怒りだ。

 やはりこいつにはこの手で責めるのが有効的らしい。

 

「さあ、そいつをこっちへ寄越せ」

 

 ブラックが温かみを感じさせない、氷のような声で言い放つ。

 ロンに強く抱きしめられた。脚が折れ、鼻から下を真っ赤に染めて、引きずられている際にあちこちをぶつけたのか青痣まで拵えていながら、それでもハリーを守ろうと抱きしめて後ろに回し、自分の身体を盾にする。

 ハーマイオニーも抱き寄せるとハリーの隣に無理矢理引き寄せ、ロンは蹲った二人の壁となって両手を広げた。殺すなら先に僕を殺せと言わんばかりの眼光に、ブラックは目を見開く。

 そして一度固く閉じ、ゆっくり開くとロンの瞳を見据えた。

 

「ハリーは殺させない。僕の名誉に、命に賭けても二人は殺させない」

「……違う、私にハリーを殺せるはずがない」

「嘘を吐くな。僕を引きずり込んだ後、やっと殺せるって何度呟いていたか忘れたのか」

「ああ、嘘ではない。今夜私は憎き者を殺すのだ。十二年間、待ち続けた……」

 

 殺すのはハリーではない、ということか? しかしその後に否定している。

 ならばいったい誰を。ハーマイオニーか。それともロンか。それとも狂人ゆえの戯言か。

 ロンならば、先ほど引きずり込んだ際にさっさと殺してしまえるだろう。

 ならばハーマイオニーか。確かに彼女は、ブラックが女子寮に入ってハリーを襲おうとした際に、邪魔をしたことがある。恨みを持っていてもおかしくは……いや待て。

 あいつはあの時、ハリーを襲おうとしていたではないか。

 だが、だがあの時ブラックは「奴の居場所を言え」と言っていた。

 それはつまり、いったいなんの……?

 

「シリウス・ブラック!」

「むっ!」

 

 突如部屋中に響き渡った大声と共に、杖がブラックの側頭部に突きつけられる。

 先ほどハリーたちが入ってきた扉から中へ侵入してきたのは、くたびれたローブの男。

 ルーピン先生だ。

 

「先生ぇっ!」

「そいつです、そいつがシリウス・ブラックです!」

 

 ハーマイオニーとロンが叫ぶ。

 ハリーは知っているだろうさと内心思っていた。

 かつての親友。裏切りの友。友殺しの男。共に育った兄弟のような友人。

 知らないはずがなかった。

 

「ああ、知っているとも。大量殺人鬼の大馬鹿野郎さ」

 

 ハリーは直感した。

 ルーピンの物言いに、悪意や敵意といったモノが全くない。

 むしろ感じられるのは親しみ。そして親愛だ。

 ショックだった。人を信頼する事を知ってから、ロックハートに大人という者の本質を教わってから、まともに信頼できる大人というのは貴重だと思っていた。だから、だから彼は信頼できるのかもしれない、と思っていたのに。

 助けに来てくれた教師を見る目が凍りつくように冷え切って、ハリーの瞳が汚泥のように暗く濁った。その様を見ていたのか、ルーピンもブラックもハリーの目を見つめてくる。

 冷たく睨むハリーは、桃色の唇から絶対零度の責めを放る。

 

「裏切り者め」

「……ああ、私は裏切り者さ。いままでパッドフットを裏切っていたんだよ、ハリー」

 

 教師然とした、いかにも優しげな声でルーピンは言う。

 苦悩しているような、それでいて罪を受け入れているような聖人めいた顔に、ハリーは吐き気を催した。こんなモノを信頼していたのか……。

 ルーピンの言葉に苦虫を噛み潰したような顔で、ブラックが吐き捨てる。

 

「その名で呼ぶな、リーマス」

「拘り過ぎだよ、シリウス」

 

 親しげに名前で呼び合い、そして固く抱き合ったその姿は、間違いなく親友のそれだ。

 裏切っただとか、騙しただとか、殺しただとか、そう言った闇を一切感じさせることのない、煌めく夏の太陽のような友情。

 それを目の当たりにして、三人の顔が変わった。

 ハリーは憎悪に染まり、ロンは恐怖に染まり、ハーマイオニーは悲哀に染まった。

 

「なんて、ことなの……」

 

 ハーマイオニーがボロボロと涙をこぼして、しゃくりあげながら訴える。

 

「う、裏切ったのね。……グルだったんだわ。ル、ルーピン先生。……あなたっ、あなたやっぱり……人面獣心のけだものなのよ!」

 

 ハーマイオニーの嘆きと罵声に、ブラックが怒りに身を乗り出した。

 短い悲鳴をあげた姿を見て、ルーピンがブラックを止める。

 

「う、ううっ。先生が、手引きしていたんだわ。……ぶ、ブラックが校内に入れるように、教師権限を、も、も、持っているのなら、うっく、女子寮へだって、入れますものね! お友達のためなら、あなた、なんだってするのよ!」

「それは違う、ハーマイオニー。私はこの十二年間、シリウスの友ではなかった。本気で彼こそが悪だと信じていた。だが、今は違う。それだけの話だ」

 

 ルーピンの返答に、ハーマイオニーの流す涙の量が増えた。

 哀しくて悲しくて、しかしそれでいて悔しくて。ぼろぼろと泣き続ける。

 怯えながらも、涙を流しながらも、それでも睨みつけてハーマイオニーは叫んだ。

 

「先生を、せんっ、せんせぇを信じていたのに! ひっく。だから正体を知っても黙っていたのに、信頼に足る人だと思っていたのに。しょ、所詮は、狼人間だったのよ!」

 

 狼人間。

 スネイプが無理矢理に授業で出した、アレのことだ。

 そこでハリーはなるほどと合点がいった。

 魔法生物としての狼人間は、元は人間であるケースが現代ではほぼ十割である。かつて真祖の狼人間に噛まれた人間が、そのウィルスを体内に送り込まれて体組織が変質。そもそもの生物として変化させられて狼人間となってしまったのが始まりとされている。

 真祖の狼人間は、もはや絶滅したとされている。かつて今よりも闇が深く濃かった時代は吸血鬼もまた魔法使いたちの脅威とされており、天敵同士であった二種族で争って敗れたのが真祖の狼人間だったのだとか。

 それはまぁいい、上級生で習う魔法史の内容だ。

 問題は、人間をベースとして生まれた狼人間も真祖と同じく、月に一度満月の夜に瞳孔から芳醇な魔力の詰まった月光を取り込むことで、変化(メタモルフォーゼ)するのだ。

 巧妙に隠してはいたが、ルーピンは月に一度だけ授業にいないときがあった。毎月のことではない。実技授業が主体だったルーピンの闇の魔術に対する防衛術は、そもそも授業数が少なくすることでうまいこと本人の不在を隠していたのだ。

 何故なら、月に一度は狼人間に変身しているのだから。

 狼人間になった場合、人間としての理性はなくなる。ただのケダモノより性質の悪い別の何かに変化するのだ。その行動原理は食欲とも性欲とも言われているが、その中でも最たる性質は、闘争本能が人間の何十倍にも引き上げられるということだろうか。

 

「聞いてくれ、ハーマイオニー、ロン、ハリー。私は狼人間だが、まだ教師のつもりだ。君たちに真実を教える義務がある。私はそう思っている」

 

 ルーピンがそう言い、ロンの脚から血が流れている事に気付く。

 治療しようとしたのかは分からないが、近づいた途端にロンが鋭く叫んだ。

 

「ち、近寄るな、狼男!」

 

 うわずったその声に、ルーピンは酷く哀しそうな目をして、一歩離れた。

 その様子を見ながらも、ロンは激しく糾弾する。

 

「彼女たちを噛む気だろう、手を出すな怪物め!」

「やめろ! リーマスにそんなことを言うんじゃ――」

「黙れ、黙れ殺人鬼が! 絶対に、絶対に殺させないぞ!」

 

 そう、狼人間とはとにかく襲ってくるのだ。

 理性なく、周囲で動くものすべてに対して敵対的になる。

 これが狼人間が、魔法界社会で排斥される一番の理由だ。

 月に一度、人を認識できない危険な獣になる。しかも噛まれればウィルスを注入されて、同じ狼人間にされてしまう。そんな人間を、いや化け物と一緒に居たいと思う人間がどこにいるのか。答えは否だ。

 脱狼薬という魔法薬が開発されてからは、彼らにも多少は人権が認められている。元人間なのだ。それが当然だ。だが今までは狼人間に噛まれるとイコール人間としてすら見られていなかったことを考えると、これは大きな進歩である。

 だが世間は冷たい。

 人権があろうと、恐ろしい怪物であることに変わりはないのだ。

 ゆえに、ルーピンがホグワーツの教職を得るには相当な苦労があったのだろう。

 分かりやすい授業に、生徒たちと楽しく会話できる度量。優しい性格の先生。

 狼人間であろうとも、これだけ紳士的な男なのである。

 月に一度、暴走しすぎないようにスネイプ先生が《脱狼薬》を煎じていることも分かった。これだけ周囲に配慮しているのだから、他人に危害を加える心配はない。

 だからハーマイオニーは、ルーピンの正体に気付いていながらもそのことを秘匿したのだ。スネイプが狼人間の課題を出して気づくよう仕向けたのも、恐らくボガート・スネイプの一件を知っての怒りから八つ当たりに近いことをしたかっただけなのだと見抜いて。親友であるハリーとロンにも言わずに、ルーピンの名誉を守り通したのだ。

 なのに。だというのに。

 リーマス・ルーピンはシリウス・ブラックと通じていた。

 親友を裏切って殺したかつての友と、同類なのだ。

 

「リーマス、殺そう。早く殺そう!」

「落ち着けシリウス」

「もう待てない! 十二年っ! 十二年もこの時を待ったんだァ!」

 

 髪を振り乱し、激昂したかのように叫び回る。

 その様はまさに狂気。

 十二年分の殺意に漲らせた男の目は、汚泥のように濁った漆黒が溢れていた。

 ハリーはその眼を、いつも鏡越しに覗き込んでいたことを思い出す。奴はぼくと同じだ。長い年月を生きる力もないのに、憎しみを原動力に殺意で心を湧き立たせて無理矢理延命してきた、歪な有様。現状を打破できる力がないので、ただただ感情だけが溢れだして心の器がヒビだらけになっても尚、湧き出す心を抑えきれない。

 この男はそういう目をしている。

 いや、ひょっとしたらハリーより悪いかもしれない。ハリーには何もなかった。家族も、友も、心の拠り所が何もなかった。だが彼は違う。ホグワーツで悪戯仕掛人として過ごした美しい記憶があり、共に夢を語り合った信頼する友がいた。

 この男は自らそれらすべてを捨て、親友を裏切って殺したということなのか?

 そう考えると何かがおかしい。

 自分と同じ目をしているというのに、その選択肢だけはおかしい。ハリーがブラックならば、そう、ハリーが大人になってロンやハーマイオニーを裏切れるだろうか。

 当然、答えは否。断じて否。

 そんなことをするくらいなら死んだ方が余程マシだ。喜んで死のう。

 おかしい。

 あの眼をする人間が、たかだか赤の他人(ヴォルデモート)のために親友を裏切るなど、できるはずがない。もっとも、学生の頃からジェームズたちを欺いていたというのなら、話は別だ。現にルーピンという仲間もいたのだ、絶対にできないということは無い。

 だからこれは賭けだ。

 ハリーにとって、有り得ないほどに分の悪い賭け。

 しかし他に手はないのだ、

 目玉が飛び出しかねないほどに大きく見開いて、ブラックはこちらに向けて怒鳴る。

 

「そいつをこっちに渡せェ!」

「いやだ! お前にハリーを殺させるものか、絶対にだ!」

 

 ブラックの叫び声に、震えながらもロンは勇気を振り絞って大声で返した。

 両手を大きく広げたまま、英国魔法史の中でも最悪の部類に入る殺人鬼を前にして、身を挺して二人を守る姿勢を崩さない。

 それはどれほどの勇気なのだろう。どれほど自分たちを大切に想ってくれているのだろう。ハリーはこんな時だというのに、なんだか嬉しくなってしまった。

 だが今はそんな場合ではない。

 ロンを殺させるわけにはいかないのだ。

 

「やめろ、ロンを殺さな――」

「渡すのはそいつだ! そのネズミだッ!」

「いでくれ……えっ、ネズミ?」

 

 思考が停止する。

 ネズミ? どういうことだ。

 この場でネズミというと、ロンが左手で握り締めているスキャバーズしか有り得まい。

 まさかこいつは遥々ペットのネズミをぶち殺すためだけにアズカバンを脱獄したとでも言うのだろうか。

 

「……ネ、ネズミ? こいつ、こいつか。スキャバーズのことか?」

「そぉぉぉうだ! さぁ、寄越せ! 私にそいつを殺させろぉ!」

「な、なんなんだこいつ……」

 

 ハリーは困惑しながらも、スキャバーズを見る。

 ロンの手から、いや、ブラックから逃れようとじたばたもがいて、ロンの指にしきりに噛みついている。ブラックの話を理解しているのだろうか。それとも、動物的な本能で殺意が自分に向けられていることを察知しているのか。

 興奮状態にあるのかロンはそれに気づかず、血が出ているというのに握り締めたままで離す様子がない。

 スキャバーズは両手足をばたつかせ、虫のような尻尾をぶんぶんと振り回して……、

 ……尻尾?

 ハリーは自分の頭の中で、電気が閃いたような感覚がした。いや、そんなバカな。有り得ない。ばかばかしい妄想だ。……だけど、だけどそれでもこれが一番しっくりくる。ブラックのあの眼の、説明がつく。

 完全に主観のみで構成された仮説が、ハリーの中でいまもっとも真実味を帯びていた。

 震えながらも、ハリーはロンを後ろからそっと抱きしめた。

 

「ハリー……?」

「……ロン、渡してみよう。スキャバーズを、あの男に渡せばわかる」

 

 ロンが困惑し、難色を示すように唸った。

 ハリーは抱きしめる力を強める。ぼくを信じてくれ、と無言で訴える。

 痺れを切らしたブラックが奪い取ろうと歩を進めるものの、ルーピンに制止された。

 しばらく唸って迷った果てに、ロンは小さく呟く。

 

「……殺したら許さないからな」

 

 そう一声添えて、ロンはスキャバーズを握る手を前に出した。

 キーキーと悲鳴をあげているスキャバーズは、本当にこれから殺されようとしていることがわかっているような気がする。魔法界のペットたちは人語を解するほど頭がいい。少量でも、魔力を持っているからだ。だがスキャバーズは、一度たりとて特別な力を示したことがないという。

 なら、ならば。ひょっとして、ひょっとするのか。

 

「さぁお見せしよう。一世一代の種明かしを! まやかしの時間は終わりだ、ワームテ――」

「――いいや。終わるのはそちらのほうですぞ、化物め」

 

 第三者の声。

 スキャバーズに向けて杖を振り上げていたルーピンが声の主へと振り向くと同時、彼の身体が吹き飛ばされて壁に叩きつけられた。

 ハリーが視線を移せば、そこには息を切らしながらも、狂喜の笑みを浮かべたスネイプが居た。目は憎悪に煮えたぎっており、それなのに顔は歓喜の色がありありと見てとれる。

 明白に、狂人のそれである。

 咄嗟の事に怒り狂ったように、唸り声をあげながらブラックが飛びかかった。

 無言呪文で身体強化でも用いたのか、ハリーの目にはかろうじて見てとれるほどの速度で、ブラックはスネイプに殴りかかった。

 しかしスネイプも負けてはいない。ブラックが殴りかかった腕を引き寄せ、そのまま顔面に肘打ちを入れる。鼻が折れたのかはわからないが、血を噴き出してよろけたブラックの鳩尾に杖を突き出す。ウッ、と息が詰まった奇妙な声を漏らしらブラックは、次の瞬間に勢いよく吹き飛んで、ルーピンの身体を押し潰した。

 からからと、シリウスの持っていたハリー達の三人の杖が床に転がる。ハーマイオニーが素早くそれを回収した。これで、戦力は手に入れた。

 だが、だが……。

 ハリーはチラと壁の隅で団子になっている男二人を眺める。

 二人分のくぐもった苦悶の声が聞こえる。ブラックとルーピンが、蠢いて立ちあがろうとしているところだった。スネイプがそれに杖を向ける。

 

「ぐっ……」

「黙っていたまえ。きさまを捕まえるのが我輩であったならと、何度、何度思ったか……」

 

 スネイプの陶酔したような声に、ブラックが鼻で笑った。

 しかし喉を突き刺すような杖の動きに、黙らざるを得ない。

 今のスネイプの目は危険だ。怒りに狂っていて、正気ではない。

 

「セブルス、待て。待ってくれ。説明させてくれ。シリウスは無実だ」

「そう言うと思いましたぞ、人狼殿。おまえたちはいつでも、べったりだった。庇い合うのは当然……だから我輩は反対したのだ。このような怪物を校内に入れれば、必ず問題を起こすと」

「スネイプ、きさま!」

「黙っていろと言ったのが分からんかブラァァーック!」

 

 バーン、と大砲のような音を立てて、ブラックの身体が紙屑のように天井に吹き飛ぶ。

 ばちんと天井に叩きつけられたブラックの身体は、重力に従って床に落ちる。

 ハリーはもはや、その光景を呆然と見ているしかできなかった。

 展開が急過ぎる。

 恐る恐る、スネイプの顔を見る。

 爛々と輝いた目で、倒れ伏したブラックに向かって呟いた。

 

「――復讐は、蜜より甘い。終わりだな、ブラック」

 




【変更点】
・ホグワーツの期末試験をよりそれっぽく。
 知識は確実な戦力になるため、原作よりかなり成績はいい。
・雰囲気がちょっとだけ女の子っぽくなったハリー。
・ハリーに影響されて戦い方が渋いハーマイオニー。
・ブラック超強化。

【オリジナルスペル】
「プロテゴ・パリエース、堅き壁よ」(初出・33話)
・盾の呪文の亜種。防御の壁を出すだけなのに、習得難易度は地味にイモリレベル。
 元々魔法界にある呪文。内部魔法式を途中で変更できるという、怪物呪文。

「リピート」(初出・原作4巻)
・直前呪文。一節呪文(シングルアクション)で発動できるため、闇祓いには重宝される。
 元々魔法界にある呪文。ハリーとお辞儀の決闘で出現した呪文の簡易版。

「バースト」(初出・33話)
・炸裂呪文。一節呪文。魔力で出来た物体限定で、その内部魔力を爆発させる魔法。
 ジェームズ・ポッターが開発、リーマス・ルーピンが発展させた呪文。

「カペレ、掴め」(初出・30話)
・対象を握る魔法。目に見えない大きな掌で、対象を掴むだけの魔法。
 元々魔法界にある呪文。浮遊呪文とはまた違った用途の、生活上で役立つ魔法。

危うくスネイプの存在を忘れて出番が削れるところでした。
ついに現れたピー……ターはまだ出てきていない。スネイプ! 復讐は蜜より甘い。映画の日本語吹き替えで聞けるこの声は、実にぬるりと耳に入り込んできてそれだけで孕んでしまいそうな気がします。
アズカバン編、クライマックス。今回はあまり本編と大きな違いがありませんでしたが、ハリポタとしてもHMDとしても重要なお話となりました。
残り2話。残り2話でとんでもない展開を納める事が出来るのか……。それはダンブルドアのみぞ知る。

※おじさんが捕まってた年数を訂正。十二年に増えました。ナムサン!
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