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土屋顕史の西村賢太評

ブログ「分け入つても分け入つても本の山」を運営していた土屋顕史という人がお亡くなりになっていたらしい。

このブログは時々覗いていて、最近閉鎖されて見れなくなっていたのでどうしたのかなと思っていたのだが、今朝Xに関連ポストが流れてきたのを見て知った。

シナリオを執筆していて作家にもなりたかったとブログには書かれていたが、持病があり余命長くないことを悟っておられたようだ。

自分は彼の西村賢太評を読んで感銘を受けた。

西村賢太の作品批評としてなかなか面白いし、このまま誰にも読まれずに失われるのは惜しい文章だと思うので、以下に紹介したい。

もしご遺志に反することが明らかになったり、著作権継承者の方からご異議が出されれば削除する。

 

*  *  *

 

■ 「一私小説書きの日乗 憤怒の章」 エッセイ│ 2017/08/26

「一私小説書きの日乗 憤怒の章」(西村賢太角川書店

→結局、作家生活って幸福なのかなあ、といまさらながら考えさせられた名著。
作家で生活するってそこまでおもしろいことなんだろうか?
むかしは古臭い作家の日記を読んで、たいそうあこがれたものである。
しかし、現代文学の旗手、われらが兄貴、西村賢太氏の日記を読んでも、それほど――。
要するに作家は人生体験や読書体験という貯金がなくなると書けなくなるわけでしょう?
それでも作家だから書くのだが、
作品は編集者や編集長からダメ出しをこれでもかと食らう。
作品も人権意識が過剰なご時世、ほぼ書きたいことが完全に書けるということはない。
西村兄貴はサラリーマン根性をバカにしているが、
この日記で作家は同業界の人の本をべた褒めしているので、作家の世渡りを知る。
やたら古株や自分に目をかけてくれたものへの賛辞を繰り返し、
小説を書けない書けないと言いながら、高い税金を払い、
毎日おなじようなことを繰り返し、おなじような文体で生き、ささいな自己充足をはかる。
著者が業界の大御所、ビートたけしを描写する文章からは、
作家自身がバカにするサラリーマン根性以上のサラリーマン精神を感じたものである。
賢太兄貴はいまよりも、たぶん「苦役列車」の時代のほうが幸福だったのでは?
弟分の当方としては、いまけっこうな肉体労働をしているつもり(絶対女性不可)。
7時間で(重い?)パチンコ台を620運び、内部を簡単に処理して、
人力でベルトコンベアーに流す作業がどれほど辛いのかはわからない。
あんがい楽勝なのかもしれないが、こちらの軟弱な身体は悲鳴をあげており、
あざも痛みもけっこうあるが、思うのは、これはいわば修業で、
この軽作業(じゃない!)をあと3週間続けたら(短期派遣)、
わが男性性も復活して女性をレイプできるような凶暴性も再生するのではないか?
肩や腕に筋肉がつき、身体が引き締まれば女を支配したくなるのではないか?
わたしは西村賢太を非常に女性性の強い作家だと正体を疑っている。
ホテルに顔もわからぬ売女をよびつけて射精できるほど男性性は強くないと。
知らない人といきなり性行為におよぶのは本が好きな男にはできないと思う。
女性は身体をあずけるだけだから(マグロというらしい)繊細なものでも可能な商売だろう。
賢太兄貴は高額納税者となったいま幸福なのだろうか?
もしかしたら顕史(わたし)は苦役時代のいまがいちばん幸せなのかもしれない。

 

■ 「薄明鬼語 西村賢太対談集」 対談集│ 2016/11/28 

芥川賞作家の西村賢太の書くのは身のまわりのことを題材にした私小説といわれるもの。
世の中にはふたつの目があって、それは「世間の目」と「わたしの目」である。
徹底的に「わたしの目」「わたしの言葉」にこだわるのが私小説である。
たとえ高級スーツを着用した10人がノーといっても、
しかし「わたしはイエスと思う」と言えるのがほんものの私小説作家。
それにしても世の中は厳しいなあ。
契約期間が来年3月まであるのにクビにして、
おまえが勝手に辞めたんだろうとやるのが大人の社会というものか。
そうしてかの男もあの男も偉くなり、高級スーツを着て、愛人を持ったのだろう。
「わたし」をいかに消すかがおそらく実社会を生きるコツである。
「わたし」の思いを捨ててスーツとネクタイに身をまかせる。
そのつらさやかなしさも十分に文学たりえるだろうが、それは私小説ではない。
今日わたしを路頭に迷わせた社会上層部の証人3人にはこころの痛みはないのだろうか。
まあ、世の中、こんなもんさとわたしのことなど明日には忘れ去っているのか。
石原元都知事に妙にかわいがられている私小説作家の西村賢太はいう。
ある若手美人作家との対談で――。

「あんまり編集者の言うことを聞かないことですな。
「ここをこうしたら」とか「もう一回書いたら」とか、言われませんか。(……)
僕はもう編集者に手を入れられることに対してすごい神経質ですよ。
それをされちゃうと、自分の文章じゃなくなっちゃいますからね」(P82)

わたしは文章にはこだわりやプライドといっためんどうくさいものがあるけれど、
ことお給料のためにやっている賃仕事についてはまったくもって上のいいなりであった。
「直せ」「ダメ」と言われたらいくらでも何度でもやり直したものである。
まえの先輩もそうだったがおれについてきたら正社員だと上司はみんなに口にしていた。
それでもこうして突然クビになって、しかし自己都合退職扱い(失業給付ゼロ)。
バイトを自他の勘気でクビにしておきながら、勝手に辞めたんでしょう、
となるのが世間常識。
せめて西村賢太くらいには「わたしの目」「わたしの言葉」をたいせつにしてもらいたい。
成功者の西村賢太中年による人生アドバイスはこうだ。
人間、どう生きるべきか。

「いや、人の意見は無視することです。
無論、僕のいかにも成功者気取りの、この勘違い意見もね(笑)」(P83)

世間の真実は多数決。世間の真実は肩書勝負。
しかし、「本当の真実」はわたしが決めるということ。西村賢太とわたしが共有する秘密だ。

 

■ 「西村賢太対話集」 対談集│ 2016/11/28

→これを読んでいたころちょうどうちのパソコンが壊れて修理に出していて、
すると賃労働より家へ戻って来てからすることがないのである。
パソコンがあれば安酒を飲みながら、
今日の職場であった些事笑事を底意地悪く思い返しつつ陰気に笑い、
ネットをロケットニュース24や2ちゃんねるの孤独な男性板に接続したものだ。
それがパソコンがオシャカになってしまったため、帰宅後にすることがなにもない。
仕事は年齢にふさわぬ肉体労働だから疲れもひどく難しい本を読むことはできない。
結句、山のように積まれている本のなかから、
芥川賞作家の西村賢太の対話集を引き抜きそこね、
あやうく「本の山」で遭難するところであった。
当時はバイトながら大会社の安定した職に就いていたため、
ついぞ経験したことのない安定という公明虚妄に身も心もやられ、
無頼派として知られる西村賢太の対話集を斜め上から、
ときおり憫笑を浮かべさえしながら他人事として読み散らかしたものであった。
が、その後いきなり「退職勧奨」を受けることと相成り、はや来月には無職の身である。
どうで自分にはこのような人生しか送れないのかと世を呪いながらも、
変質者的に次はなにをやらかしてやろうかなどと悪夢想している。

もしかしたらバブルが西村秋恵文学を育てたのかもしれない。
本書にバブル当時の日雇い賃金の月収計算が書かれているが、
あろうことかいまの我輩よりも高い収入を健太青年は得ながら、
文学陶酔および私小説漁色および優雅な買春遊戯をしていたのである。
西村賢太といえば中卒で文学理論もまるで知らず、
Fとかいう野垂れ死にした行き倒れ病死作家を師匠として仰いでいると聞く。
西村賢太は文学修行の経験はなく、ただただFにのめりこんだだけだという。
西村賢太は文芸誌でのさばっているやつらに言いたいことがあるという。
いいことを言うじゃないか、このやろう!

「そうじゃなくて[文学理論じゃなくて]、あなた方も、
どんな大学を出たにしても、やっぱりのめりこむほど好きな作家っているでしょう?
と、その模倣から入ってませんか? と、お聞きしたいんですがね。
しかしその連中に言わせると、自分たちはそういう好きな作家、敬愛する作家がいても、それとは別個に自分独自の才能で小説を書いて、
文芸誌に載っているんだというえらそうなスタンスにいるもんですから。
僕はそれとは明らかに違って、
本当に骨董趣味から入ったような書き手だと自分で思ってますので」(P30)

ここ数日へんな咳がして、吐き気も著しく、あるいは結核やもしれぬ。
気が狂うほどの年月おれを認めてくれなかった世間に対する吐き気も重なり、
病床において安酒を薬とごまかしながら飲用し現在、
いままで当方を虐待してきた人間をひとりずつ妄想のなかで焼き殺しているところだ。
妄想のなかでなら現実をどうでも再構成することができる。
ノンフィクション作家のFが西村賢太に小説は事実かどうかを問うている。

「西村さんの小説に書かれている出来事は、ほぼ事実なんですか?」

「いや、僕の場合はそれを尋ねられた媒体や場所により、
「ほとんど事実です」と言ったり、「ほとんど嘘です」と言ったりで、バラバラにしています。
一概に言えないんですよ。「私小説」の中にも小説という言葉が入っている通り、
あくまでフィクションが前提ですから、ノンフィクション的な部分を強調しすぎて、
読者に単なるフィクションと捉(とら)えられてしまうと、
小説としては失敗作ということになります。
努めて、虚構と事実の狭間(はざま)を曖昧(あいまい)にするよう心がけています」(P168)

やってやろうじゃないかと思うた。
もはや芥川賞作家でタレントの西村賢太が落ちぶれることはなかろう。
ならば、わたしが冬空の下、無職無収入、公園のベンチで凍死するのもありであろう。
なにものにもなれなかった文士以下の敗残者の醜悪な亡骸を満天下にさらすのも悪くない。
絶命寸前、わたしは文学という魔の正体を知ることになろう。

 

■ 「棺に跨がる」 最近の小説│ 2015/12/06 

→純文学と大衆文学の違いっていうのは、
新しい世界(言葉)をつくっているかどうかなのだと思う。
世界というのは、言葉でできているから、
新しい言葉を知るというのは世界が変わるということなのね。
おおっと、こういう世界や人の見方があったのかという驚きのあるのが純文学。
善とか悪とか、正義とか犯罪とか、人情とか、
手垢(てあか)のついたものを現代風に設定を変えて再生産したのが大衆文学。
たとえばさ、こういう人間が「いい」みたいなお決まりがあるじゃないですか。
男ならイケメンでバリバリ仕事をして、そのうえウィットがきいていて、
家族思いのものがいい、みたいな。
女の理想像みたいのは、やっぱり美人が「いい」みたいのがあるわけで。
そういうのに対して、こういう女性の魅力もあるんだよ、
という新しい女性像を描いているから西村賢太はまだ純文学なのだと思う。

「北町貫多に肋骨を蹴折られて以降、
秋恵が平生放つ雰囲気は、何やら一変したようである。
もとより、さのみ快活でもない、どちらかと云えば物静かな質であり、
見るからに大人しそうな――ラッシュ時の埼京線の中にでも放り込めば、
確実に痴漢の餌食にされそうなタイプの女ではあったが、
それでも気を許した相手には普通に饒舌をふるえば軽口も叩く、
極めて当たり前のコミュニケーション能力は発揮していたものだった」(P47)

沿線に住んでいるけれど、ラッシュ時の埼京線は地獄よ。
あれだけは馴れることがない。結局は言葉という話だったか。
九州や北海道の人が埼京線って聞いてもわからないという話はそうなんだけれど、
よく痴漢されそうな女性の魅力みたいなものを西村賢太は発見しているわけ。
新たな価値を創造しているといってもよい。
だけど、いま思ったけれど、みんなけっこうふつうの人も創造しているとは言える。
だって、結婚している人が多いじゃん。
それぞれ相手に新たな魅力を発見しているとも言えるわけでしょう。
この人の魅力はわたしだけが知っている、みたいなさ。
他人から見たらありふれた男女にもかかわらず、よくまあやるもんだと。
話を小説に戻すと、カップルや夫婦はそれぞれこんなことを考えているのかもしれない。
いや、女は違うのだろうが、男はこういうロマンチストなところがある。
そこを西村賢太はうまく言語化している。

「どんなことがあっても、この女は自分から離れることはない、
との自信は、これまで頻々と行なってきた暴力や暴言後の、
先に述べたような展開の様子で一種裏付けめいたものを得続けていたが、
またそれとは別に、根が限りなくロマンチストにできている彼は、
結句(けっく)彼女と自分とは、
心の奥底に抱えている孤独がどこまでも共通するものであり、
どうで彼我は出会うべくして出会い、共鳴するべくして共鳴し合った、
いわば運命に導かれた二人であると信じきっているところがあった」(P48)

男ってみんな甘ちゃんなんだよねえ。女に勝てるはずなんかない。
小説の設定だが、北町貫多(西村賢太)も同棲相手の秋恵によくやるなあ。
彼女がカツカレーを作ってくれ、それを平らげているところを「豚みたい」
と言われた男はぶち切れて女を殴る蹴るで肋骨をへし折ったという。
秋恵はさ、トンカツとかお惣菜で買ってくるんじゃなくて、自分で揚げるわけよ。
カレーもむろんレトルトではなく手づくり。
いまどきそんなに尽してくれる彼女はいるのかな。
いや、いるかもしれないけれど西村賢太レベルで(失礼!)。
まあ、小説だから嘘だから。

人からつくってもらった料理ってなんとも感想が言いにくいよね。
外食や惣菜と違って、つくった人の顔が味に影響しちゃう。
編集者だってそうで、「新人」の小説には好き勝手を言えるだろうけれど、
中堅どころともなれば小説の「正しい」客観的な感想なんて言えないと思う。
小説家になりたかったら井上靖がやったように、編集者を接待すればいいのかも。
あるいは先に贈り物を渡したり、裏金や利権をプレゼントしておく。
客観的な小説の感想なんて、だれにも言えないと思う。
料理もそうだけれどって、カレーから話が飛んだのか。
西村家では本当かどうか知らんが、
カレーをつくると翌日のために(味を変えるために)ツナ缶を入れるらしい。
おえっ、きんもっ、って話だが、賢太によると、これは由緒正しき江戸川カレー。
まあ、貫多の同棲相手の女性も気持が悪いというようなことを言って、
せっかくわざわざ彼女のためにカレーをつくってあげた男を怒らせるわけだが。
江戸川カレーもそうだが、家庭料理は母親対決のようなところがある。
ツナ缶入りの江戸川カレーを否定された貫多は、
母親の味を侮辱されたような気がしたことだろう。
以下は結局、男が女に求めているものは母性であることがよくわかる。
女の肋骨をサッカーボールキックでへし折った男は彼女のためにカレーをつくる。
ある願いを込めて、である。

「これを口に運び、咀嚼し、嚥下してくれたなら、
向後二人の食卓には再びカレーも並べられることであろう。
そしてその頻度が増える毎には、例の忌わしき記憶の方も薄まって、
代わりに彼女の従来の寛容が復活してくれることであろう。
そして更には彼女独特のあたたかな母性も蘇えり、
ひねくれ者の凍える心の彼を包み、
その存在をまた全肯定してくれることであろう。
それはきっと、そうなることに違いあるまい」(P100)

まあ、そうならないのがおもしろいのだが。
男のつくったカレーは肉が多くて豚くさいと女はいやな顔をする。
いやはや、男と女は難しいっすねえ。
さらにはツナ缶を入れる江戸川カレーでさらなるさらなる闘争に入る。
江戸川カレーの存在自体が純文学だよなあ。
カレーってほんと家によっていろいろ味が変わりそうだ。
カレーチェーン店のココイチはだれにも嫌われない味を目指したっていうけれど、
それは大衆文学の世界で純文学は江戸川カレーである。
聡明な美人がヒロインになるのが大衆文学ならば、
ラッシュの埼京線にぶち込んだら真っ先に痴漢されそうなのが純文学の女性像。
ポークカレーにツナ缶ってどんな味がするのだろう。

おれもけっこう料理をするとき、お決まりを破るほうなのね。
料理するときにレシピを守る人と、命がけで(はあ?)逆らうバカにわかれるよねえ。
料理なんてレシピどおりにつくっても、
みんなおなじになってつまらないだけだと思うけれども、だがしかし、
そうは口では言っても我輩の口は江戸川カレーを受けつけないような気がする。
秋恵ちゃんのカツカレーなら豚のように食うけれど。
しかし、カツカレーっておかしくない?
カツはカツでカレーはカレーで食うのがうちの流儀だったから。
今度やってみたいのは、ちくわぶカレー。
おれはこってりしたカレーが好みで、
それにいくらカレーとはいえ酒のつまみにしたいから、
けれどうどんにかけちゃったら単なるカレーうどんになってしまうので、
そこでそこでおつまみのちくわぶカレーって話。
荒川カレーとか命名して編集者にご馳走したらデビューできないかな――って無理無理。
それ、とってもとってもまずそうだもん。
ああ、いい小説でしたよ。

 

■ 「寒灯・腐泥の果実」 最近の小説│ 2015/06/10

「寒灯・腐泥の果実」(西村賢太新潮文庫

→そういえば昨日バイト先の書籍倉庫で、
西村賢太の文庫本「小説にすがりつきたい夜もある」を大量に見たなあ。
うちの倉庫だけで850冊出ていたから、
売れなくなったというのはデマでまだ十分に採算の取れる作家なのだと思う。
この本を読んでつくづく西村賢太さまと自分は似ているといやになった。
嗅覚の鋭さまで似ているのでウエッとなった。文才は似ていないのに、くそったれ。
似ているからわかることもあって、賢太の書くことは嘘なのである。
しかし、あれは嘘でありながらまさしく本当のことなのだからおもしろい。
あんな小説は嘘だろうと思って西村賢太に舐めた態度を取ったら、
この男はリアルに小説に書いてあるような非道行為をその人にやるだろう。
小説を本当だと思ってビクビク接したら、
菩薩(ぼさつ)さまのようなお人に見えるかもしれない。
私小説が本当に起こったことを書くものだとすれば、本当に起こったこととはなにか?
心のなかで思ったことも本当に起こった事実なのだから。
西村賢太のゆがんだところがとても好きである。
作者を模した貫多は同棲相手の秋恵に言う。

「老若男女を問わず、態度のいい奴とか他人からムヤミに好かれてる奴なんてのは、ぼく、一切信用しないことにしてるんだ。
なぜって、そういう手合いは四面楚歌に陥った経験なんて全くないんだろうし、その寂しさも金輪奈落わかりゃあしないだろうからね。
所詮、ロクなもんじゃねえよ。
そもそも他人に好かれる術を心得ているところが気に入らないじゃねえか。
根性が、浅まし過ぎんだよ」(P37)

新居の管理人とトラブルを起こすところもおもしろい。
なんでも管理人がゴミのことでいちゃもんをつけてきたらしい。
こういうとき常識人は大人の態度で接するべきだが、
貫多は(おそらく賢太も)そうではない。
トラブルがあったほうが人生は活性化することを私小説の天才はよく知っている。

「管理人は、いかつい容貌をした貫多の目つきの異様さを見てとったらしく、たちまち恐怖の入り交じったような警戒の色を、その額縁眼鏡の奥に浮かべたようであった。
この見るだに懦弱そうな表情に、〝勝てる”との確信を抱いた貫多は、すぐと気を取り直したように初対面の挨拶やら桃の礼やらを柔和に述べてくる老人の言葉を一切無視し、冷たい眼差しで先方を凝視したまま、早速に一連の問い合わせに関する、その真意についてを質し始めていた」(P50)

世の中には異様な目つきをできる人とできない人がいるのである。
やべっ、こいつこええよ、という異様な目つきのことである。
もちろん、異様な目つきをできない人のほうが圧倒的多数派になる。
常に自分は迫害されているという妄想をキープしていなければ異様な目つきはできまい。
決して恨みを忘れないという重度の病的なまでの粘着性が人に異様な目つきをさせる。
たまにブルブルッと震えがくるような異様な目つきをできる人がいるものである。
その目にふつうの人は参ってしまうのである。参るとは降参のことである。
温和そうなテレビライターの山田太一氏もよく見ていると
たまに異様な目つきをすることがある。
さて、目は口ほどに物を言うというのは真実で、
もしかしたら目のほうが言葉よりも感情を伝えやすいのかもしれない。
日本語の通じない外国人が多い職場で働いていると
目で会話するというのが本当によくわかる。目と目で通じ合うのである。
ものごとをどう見るかも目の能力いかんである。
貫多は秋恵との甘い同棲生活を客観視できる異様な目つきを有する。
自虐も自慢もできるのが西村賢太のおもしろさである。

「それは貫多もその相手たる秋恵も、互いに根はひどく大甘にできてるフシがあるだけに、こうした二人の暮しは傍目から見れば、トウのたった一組の男女による見苦しきママゴトじみた行為に映るやも知れぬ。
所詮は冴えないカップルの、痛々しい凭(もた)れ合いの図に映るのかも知れぬ。
だが当の貫多にしてみれば、今のこの生活は到底手放せぬ無上のものであり、そんな彼に寄り添っていてくれる六歳年下の秋恵は、やはりどこまでもかけがえのない、何よりも大切な存在だった」(P102)

ある現象をプラスからもマイナスからも見(ら)れるのが作家の才能だろう。
西村賢太はマイナスの極北からお寒い現実を描写するのがとにかくうめえったらない。
西村賢太のすばらしさはほかにもあって、
いまは日本で天皇陛下レベルまで偉くなってしまった若い女性さまを怒鳴れるところだ。
男と女の能力差は圧倒的なのだから、
これはスウェーデンの文豪のストリンドベリ先生もおっしゃっているが、
女は犬のように叱りつけるのがいちばんいいのかもしれない。
貫多は馬鹿野郎とか弱き女性である秋恵を怒鳴りつける。

「怒声を浴びせられた秋恵は、キュッと身を縮こませつつ、チンとうなだれて目を伏せる」(P123)

チンとうなだれるという表現がとてもいい。いいったらない。
でたぜ、賢太節と喝采をあげたいところである。
きっとチンとうなだれたとき秋恵はとてもかわいい目をしていたんだろうなあ。
犬は大嫌いだが、チンとうなだれる女はさぞかしかわいいいだろうと思う。
西村賢太はおのれのマイナス体験、トラブル体験を元手に小説を書いているのだ。
もし作家などというからきし食えない名誉職業にあこがれるものがいたら、
人生でどんな体験を積んでいけばいいかはおのずと知れるところであろう。

 

■ 「人もいない春」 最近の小説│ 2014/04/20 

→まったく成長しようとしない西村賢太がどこまでもどこまでも愛おしい。
どうで諸人くだらぬ労働なんかしたくないのが当たり前だのクラッカーで
仕事で成長するとか嘘八百だよなあ。
恋愛で成長するなんて偽善もいいところで、愛するより愛されたい尽くされたい。
ああ、経済的に養ってくれてメシも作ってくれる秋恵みたいな女が現われないかしら。
人から評価されたい、人をこばかにしたい、楽をして金を儲けたいなあ。
くうう、さみしいぜ。友がほしい、女がほしい、金がほしい、こんちくしょっ!
狂おしいほどに成功者が妬ましく、
機会があったら足を引っぱって奈落の底にひきずり落としてやりたいぜ。
人の苦しみがこちらの楽しみ。人の楽しみはこちらの苦しみ。
くそお、とりあえず女、女、女だ。
しかし、ぼく、どんな成功者になっても西村賢太さんは兄貴のように慕っているんデス。
これが真の愛読者というものなのでR♪

 

■ 「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」 最近の小説│ 2014/04/19 

「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」(西村賢太新潮文庫

→いまごろになってようやく芥川賞受賞作「苦役列車」の単行本に収録されていた
「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」を読んだのだが、これがおもしろくてたまらなかった。
だいたい5ページに1回くらいの割合で大笑いしたのではなかったか。
いわゆる新人作家は日本にいらっしゃる数少ない読書家さんに、
芥川賞作品だけはかろうじて読んでいただけるのである。
しかし、その(おそらく)9割9分がそれだけで該当者への興味を残酷なまでに失う。
高度情報化資本主義経済(ってゆーの?)はかなしくもそういうものである。
だから、このため、兄事する芥川賞作家、西村賢太氏は偉大なのだ。
賢太さん、おまえ(失礼!)、正直、おもしろすぎるぞ!
私小説と銘うっている本作品に書いてあることすべてが本当で同時に嘘であるところがいい。
文壇ではむかしからじつのところいちばん偉かったのだが、
いまでは明々白々に出版界の最高権力者であることが露呈した編集者さんを、
たかがリーマンにすぎないじゃないかとバカにしているのが
どこまでも本当でしかも嘘でとてもよかった。
ここが最高によかった。以下引用文中の藤澤清造とは、
一流の芥川賞作家である西村賢太氏が敬愛しているとされる三流未満の物故作家である。
芥川賞作家はどんな有名作家も批判できない編集者さんにたてついてみせる。
こちとら実作者はサラリーマンにすぎない編集者なんかよりも偉い。

「――そりゃあ、そうさ。
何しろこちとらは、かの藤澤清造のお仕込みなんだからなあ。
そこいらの、何を背負って小説書いているのかサッパリわからねえ、ただ編集者(リーマン)に好かれてよ、売文遊泳してるだけの老人や小僧連中と一緒にされちゃ悲しいぜ」(P157)

西村賢太兄貴は、ダメ人間、人間のクズのおもしろさを小説内で体現している。
もちろん、そういうことができるのは実際はそうではないからなのだろう。
氏の住居1階にあるオリジン弁当まえで待ち伏せしていたら、
尊敬する賢太兄貴はサインどころか握手までしてくれそうなので、
そういう本当のことは知りたくないがためにとてもとてもストーカー行為はできない。

 

■ 「私小説のすすめ」 評論│ 2013/02/27 

私小説のすすめ」(小谷野敦平凡社新書

私小説に対する批判はひと言で終わり、「おまえに興味がない!」に尽きる。
タレントの暴露本ならまだしも、一般人の日記みたいのをだれが読みたがるか。
ブログとかも、これを勘違いしている人が多いので本当に困る。
どうして(わたしも含め)みんなさ、
他人が自分に関心を持ってくれるとか期待しちゃうんだろう。
私小説は売れないって、そりゃあ、だれもあんたなんかに興味がないからだよ。
と言いつつも、わたしは柳美里氏の私エッセイや西村賢氏太の私小説は大好きだ。
なぜかと考えるに、あれらは嘘を書いているからである。
このことは後に再度触れるが、そのまえにまずプロフィールが重要だ。
柳さんの若いときは、ものすごい美人だと思う。
たぶん、こちらの趣味が悪いのかもしれないが(これも柳さんに失礼な物言いだ)、
あの手の暗い顔の美少女は好きなものにはたまらなくいいのである。
在日コリアンで家族に虐待されたという悲劇性もまた美少女ぶりを輝かす。
柳美里さんが林真理子女史の顔をしていたら、まず読まなかっただろう。
西村賢太兄貴も、父親が強姦で捕まっているという経歴がおもしろいのだ。
それにあの全身いんちきといった風貌もわたしの好むところである。
話は戻って、柳美里姉貴も西村賢太兄貴も嘘を書くからおもしろいのである。
かの作家たちの作品を読んで事実そのままだと思うものは、
ちょっと世間を知らないのではないか。
いや、あれらを事実起こった通りだとだまされていたほうが楽しめる、
というのも私小説のメカニズムとしてあるのではあるが。
私小説というのは本当にあったこととして嘘を書くもの。
物語小説というのは嘘だと断っておいて本当のことをこっそり書いてしまうもの。
わたしはそういう小説観を持っているけれど、
どうやら元大阪大学助教授の小谷野敦博士は異なるようである。

「あと、私小説であるからには事実に基づいているわけで、
その事柄が起こった日付などの時間的経過を、まずきちんと把握する必要がある、
人間の記憶というのはあてにならないもので、
実際には同じ日に起きた出来事を別の日のことだと思っていたり、
僅か三日の出来事を一週間くらいかかったものと思っていたりするものだ」(P151)

だから、私小説がおもしろくなるのである。
「人間の記憶というのはあてにならないもの」だから、
たとえたいしたことのない現実でも私小説ではおもしろく書けてしまうことがあるのだ。
事実をそのまま書くのならルポになってしまうわけだから。
本当の洪水のなかにちょろっと嘘を入れる、このあんばいが私小説のうまいへたを分ける。
私小説を読む楽しみは、どこが嘘かを探ることだと思う。
反対に物語小説を読みながら、どこが本当かを探るのもまた楽しい。

「だが、私小説には私小説なりの論理がある。
私小説を書く際には、他人のことを、事実を曲げて悪く書くのはいけない。
それはむろん小説に限らない、当然の論理である。
逆に、自分のことを、事実を曲げてよく書こうとするのも良くない」(P178)

たぶん著者は一生このことを理解できないのだろうが、事実などないのである。
ある事件が起こったとする。AとBがいたとする。

A(主観)←(事実)→B(主観)

あるのはAの主観とBの主観だけで客観的事実というものは存在しない。
もしかりに、このときにCという人間がいたとする。
このときCもまた主観を持つのだが、それがABと完全一致することはありえない。
まあ、Aの主観あるいはBの主観、どちらかに似ているということはあるだろう。
このとき「多数派は正義」の論理が働いて、
AあるいはBが事実を言っていると世間は判断するが、しかし、
もしDという人がいたら違うほうの肩を持つかもしれないわけで、
もし二対二になってしまったら、今度は肩書が勝負になるようなこともあるだろう。

私小説を書く喜びは現実をゆがめることにあるのではないかと思う。
俗に女流作家は被害妄想の強いほうがよろしい、と言われるのも、
たぶんこういう事情による。
西村賢太氏の私小説など、嬉々として自己を悪く飾っているではないか。
柳美里氏は家族をなんと悪人のように書いていることか(あれは家族だから許される)。
私小説を書くことで、現実を改変する喜びが得られるのである。
一般に辛いことも私小説に書いたら落とし前が着く、というのは、
言葉にしてしまうとすべてが嘘になってしまうからだと思う。
最後に断っておくが、この主張は正しいものではない。
なぜならば著者は元大阪大学助教授のベストセラー作家、
つまりわたしよりも肩書が上だからである。
ほとんどの場合、肩書の上のものの意見が正しいこととして通用する。
これを批判する気もなく、世間とはそういうものなのである。
このため、万が一拙文が著者のお目に触れても、
どうかお気を悪くなさらないでいただきたい。
なぜなら読み手の大半は小谷野博士のご意見のほうが正しいと思ってくれるでしょうから。
変にあわてると、肩書の安定感が揺らいでしまうのでご注意あれ。
格下は相手にしないのが大物の証なのである。

 

■ いろいろ告知や雑感 雑記│ 2012/06/07

明日6月8日、19:25~教育テレビ(っていまはいわないの?)で再放送がある。
伝説の怪奇放送「ようそこ先輩 西村賢太」。
映しちゃいけないものが、いろいろ映っていたような気がする。
こちらの錯覚かもしれない。

(参考)「ようそこ先輩 西村賢太
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2829.html

成り上がり天下人になった芥川賞作家の西村賢太氏の日記をネットで読む。
いくら作家が出世をしても私淑かつ兄事するわが純粋な気持に変わりはないので。
残念ながら5月分しか読めなかった。
思ったのは、意外とお酒をおのみにならないんだなァ。
それからサウナは運動なの? 
不健康な生活で早死にできそうで羨ましい(いや心配だ)。

これをいっていいのかはわからないけれど、あんまり幸福そうじゃないよね。
忙しくて好きな本もまったく読めていない模様。
テレビ局で逢った芸人におべっかを使ったり、賢太兄貴がいじましくなってくる。
結句、人生は成功するまでが楽しいのかもしれないにゃ~。
いつか成功したいと夢見ている生活がもっとも幸せなのかもしれない。
いざ成功しちゃったら忙しくて日々を振り返る暇もない。
といっても、いつ落ち目になるかわからないから多忙な生活から逃れられない。
偉くなると好きなこともいえない。かつてのような不義理もできなくなる。

尊敬する賢太兄貴に聞いてみたい。
成功したいまと、苦役に満ちていた過去とどちらが幸せか。
きっと「秋恵」さんと同棲していた時期のほうが、いまよりよほど生き生きしていたんだろうな。
たとえ「秋恵」さんから絶交された直後の苦悩の時期でも、
いまの浮ついた生活よりは充実していたんでないかい?
それと金はあるんだろうから、もっといいものを召し上がってください。
自堕落に酒をもっとのまなきゃダメ。先生の文学がダメになりますよ。
大酒をのんでたくさん失敗するのが私小説作家の肥やしでしょう?
編集者に敬称なんてつけないで悪口を書いてほしいな~賢太兄貴には。
先日、読んでいない文庫本を本屋で見つけて2冊とも買いましたからね。

あの賢太兄貴もすっかり芸能人になったみたいだ。
こちらは芸能界のことを恥ずかしくなるくらい知らない。
例の次長課長も今回の騒動ではじめて知ったくらいだから。
もちろん、オリエンタルラジオも知らなかった。
これはわたしの努力が足らないよね。
昨日のAKB48総選挙、最後のほうをちょっと見ていたら若い子がいっていた。
名前は忘れちゃったけれど21歳のかわいい女の子が「努力は必ず報われる」って。
すんません。あっし人生で努力が足りませんでした~。
15歳年下の小娘から説教されるおっさんになるとは思わなかったぜ、ふう。

まえにブログのコメント欄で聞かれたけれど答えなかった。
今月15日の山田太一紺野美沙子トークショーには行きますよ。
予習として昨日、戯曲「日本の面影」を再読しておいた。
おまけにシナリオ「キルトの家」も読む。感想は後日。
そうそう同日、銀座シネパトスで成瀬巳喜男監督「おかあさん」「妻」を見る予定。
水木洋子脚本の「おかあさん」はわたしが選ぶシナリオ・ベスト10に入る傑作なので。
銀座は高確率で道に迷うんだよな。東京でいちばん嫌いな街である。
つぎに嫌いな街、渋谷で最近ようやく道に迷わなくなった。好きな街は池袋と上野。

どうでもいいことを書き連ねると、オウムの高橋克也容疑者は若いよね。
防犯カメラの映像を見たけれど、髪の毛も黒々としているし54歳にはとても見えない。
やはり逃亡生活をしていると生きる張りがあるから老けないのだろう。
以上、だからなに? ということを延々とだべってみました。

 

■ 「ようこそ先輩 西村賢太」 雑記│ 2011/10/15

NHK「課外授業 ようこそ先輩」を視聴する。
今日登場する先生は前科一犯の芥川賞作家・西村賢太氏(44)。
授業のテーマは「私小説を書いてみよう」ということらしい。
兄事する西村先生のことをあまり悪く言いたくないのだが、氏はのっけから嘘をついている。
子ども相手に嘘をつくのは汚い大人だぞ。
私小説の書き方として西村賢太の教えるのが「自分のダメなところを書こう」――。
デタラメを言うな西村賢太よ!
私小説を書くこつは、いかにうまく嘘を書いて読者を騙すかではないか。
具体例を示そうではないか。
この番組で純真な子どもたちと穏やかに触れ合っている西村賢太先生の私小説から。

「ぼくは昔から子供とか小動物とか、そう云う類のものが大嫌いなんだ。
向こうからも好かれたことがないしね。
土台、子供なんてのはまともに話が通じるような手合いじゃないんだから、
殆ど白痴や狂人と選ぶところがないよ。
所かまわず糞小便を垂れるし、怺(こら)えもなく胃液を吐くし、
どうにも小汚くって始末に負えねえ。
甘い顔をみせると、どこまでも厚釜しくつけ上がってくるしな……
あんなにの可愛がって育ててる奴らの気が知れないぜ」(文庫版「小銭をかぞえる」P20)

人間のするマイナスの告白は、どうしてか真実らしく思われてしまうのである。
そこをうまく突いたのが私小説というジャンルだ。
たとえば、サラリーマンが会社に遅刻をしたとする。
「具合の悪そうなお年寄りがいたので病院まで付き添ってあげました」
よしんば、これが本当だとしても、間違いなく上司は信じてくれないだろう。
「うっかり寝坊してしまいました」と答えたら、あんがいおとがめもないものだ。
宿題を忘れた子どももおなじこと。
「宿題はやったけれど、弟がノートを間違えて持って行ってしまった」
こう教師に本当のことを報告しても、言い訳としか思われず、
かえって嘘つきだと軽蔑されてしまう。
反対に「宿題をするのを忘れました」と嘘をついたほうが、
「この次は気をつけるのよ」程度の注意で済むので気が楽だ。
繰り返すが、どうしてかマイナスの告白のほうが本当らしく思える。
これが私小説書きの要諦なのだが、西村賢太はいちばん重要なことを教えない。

「自分のダメなところを書こう」――。
学童たちは先生がたに「ダメなところを教えてください」と聞きに行く。
ここはたいへんおもしろかった。
男性教諭がまごまごして答えるのは、「会議中にときどき居眠りをする」。
えええ、本当にその程度かな。女子生徒を見て、欲情することもあるんじゃないかい。
もしここでこういう告白をしたら、とても本当らしく思えるはずである。
ふたたび、これが私小説の醍醐味なのである。
「先生のダメなところを教えてください」
健康的な若い女性教諭が答えていわく「朝寝坊をやめられない」。
クンニが好きな西村賢太はニヤニヤしながら「もっとどす黒いことを教えてもらおう」。
このように学童を煽るのだから、ここは本領発揮である。
「ゆきずりの男と何度か寝たことがある」
こういうダメな告白をしたら、とても真実めくのだが、彼女は小説家ではなく教師である。
女性の教頭先生は「掃除が嫌いなの。みんなに言わないでね」。
どうして教師は本当のことを言わないのだろう。
「校長が憎らしくて何度か意地悪をしたことがある」
こんなふうにダメなところを告白するのが本当の私小説なのだが。
校長先生にも、純朴な学童たちは質問に行く。
「校長先生のダメなところはどこですか?」
人格者ぶった校長の答えは「禁じられている油ものをつい食べてしまう」。
嘘をつけ。校長まで成り上がるために、どれだけの人をあなたは蹴落としたのだ?
卑怯な手を使ったのも一度や二度ではないのではないか。
お偉い校長先生が、かりにこういう告白をしたら私小説になるのである。
ちなみに、出世するとはどうしようもなく他人を蹴落とすことなのだから、
この校長先生がことさら悪人というわけではない。

こうして江戸川区の小学生たちは西村賢太の指導のもとに
私小説を書くにいたったのだが、申し訳ないけれど、どれもつまらなかった。
西村賢太私小説の肝心なところを教えていないからである。
私小説のポイントは「自分のダメなところを書くこと」。
もうひとつは「嘘をついても構わない」――先ほど確認したことだ。
三つ目のポイントは、「他人をバカにすること」なのである。
友人や恋人の隠している、人に知られたくないと思っている秘密の欠点を、
これ見よがしに暴き立てるのが芥川賞作家・西村賢太氏の私小説作法ではなかったか!
西村賢太の小説のどこがおもしろいかといったら、
人をバカにするのが天才的にうまいからである。

1.自分のダメなところを書こう。
2.マイナスの嘘ならついても構わない。
3.自分のみならず他人の隠している欠点も暴こう。
以上3点が西村賢太私小説作法だが、小学校で教えられるのは1のみであった。
私小説を書くメリットはまだあるのだが、これも先生はうまく教えていなかったのではないか。
自分のダメなところを針小棒大にデフォルメして書くとなにがいいのかといったら、
やたらと他人から「いい人」に思われるのである。
私小説の内容を本当だと思って作者に逢うと、実像はそうではないので好きになってしまう。
愛情乞食の私小説書きは、こういうことも計算して創作をしているはずである。
けれども、このテクニックはなかなか小学生に教えられるものではない。
したがって、西村賢太氏の先生としての資質を裁いているわけでは断じてない。
言葉は嘘である。なにかを言葉にした瞬間、それは嘘になる。
おそらく西村賢太柳美里といった一流の私小説作家は、
この言葉の持つ虚構性を直観的に理解していると思う。
言葉が嘘まみれであるからこそ、辛い体験をあえて書くことによって人は救われる。
であるからして、この真理を私小説書きがみずからおいそれとばらすわけにはいかない。
私小説というジャンルは、言葉が嘘であることに支えられているのだ。
この番組をまとめると、結句、賢太兄貴の教えなぞ(もしあればの話だが)、
はなから人生経験の少ない小学生が、
教室でみんないっしょに仲良く学習できることではない、ということだ。

 

■ 美談力 雑記│ 2011/10/14   

午前中病院に行き抗生物質をもらう。診療費1010円、薬代610円なり。
NHK「スタジオパークからこんにちは」を視聴。
今日のゲストは芥川賞作家の西村賢太先生。
小太りの薄汚いオッサンもNHKに出ると、
ひとかどの人格者のように見えてしまうのが不思議。
高学歴・高収入の美人アナウンサーに「生放送は初めてですか?」と聞かれ、
「ナマは好きなんですけど、生放送はね。いや、ナマは好きなんですよ」
と自己のキャラをニヤニヤしながら強調する賢太兄貴は場慣れしており、
まるであたかもタレントのよう。
怪しいのは最初のひとコマだけで、
あとはすっかりNHKの美談力に西村賢太も負けてしまう。
日本のマスメディアの偽善臭さは相当なものだが、
その最たるものはNHKの美談力ではないか
なんでもかんでも美談に仕立て上げてしまうNHKのパワーには恐れ入る。
そういえば不倫大好きでだれとでも寝る
(を真偽はともかく売りにしていた)私小説家・柳美里も、
偉い先生としてNHKによく出ている。
おなじように女をボコボコに殴り蹴飛ばし、借りた金を返さないロクデナシが、
NHKの番組では苦労のあげく成り上がった名士のようになってしまう。
偉大なるかなNHKの美談力!
視聴者からの質問コーナーでも穏当なものばかり。
「NHKの受信料は払っていますか?」なんて質問が取り上げられたらおもしろかったのに。
受信料なんざマジメに優等生然として支払っているのがばれたら、
今後お得意の無頼芸もしょせんは八百長と見透かされてしまうことだろう。
明日朝9:30から西村賢太の「ようこそ先輩 課外授業」が放送されるとの番宣を報じて、
NHKの美しく為になる有意義な午後のひと時は終了する。
大学の同期でNHKに入社した政治家秘書の娘だという美女をふと思い出す。
もう名前は忘れてしまったが、いまごろ出世していい思いをしていやがるんだろうな。
毎日うまいものを食べ、友人にも恵まれ、かならずやだれからも羨まれる結婚をしている。
けっ、おもしろくねえな、とゴホゴホ咳込む。
負け癖のしみこんだ身体がカッカと熱いのは自分を評価しない社会への怒りからではなく、
もっぱら風邪による高熱のためである。

 

■ 「一私小説書きの弁」 エッセイ│ 2011/10/05

「一私小説書きの弁」(西村賢太新潮文庫

西村賢太はこの随筆集で倉田啓明なる異端作家を「ポジティブな性格破産者」
と評しているが、これは平成の私小説書きにも共通する魅力ではないか。
西村賢太がなぜ好きかと言ったら「ポジティブな性格破産者」だからである。
「ほぼ犯罪者の本性」を隠し持っているのもよろしい。
これはストリンドベリ奥崎謙三にも通じるところだろう。
常識はずれの奇行をして、まったく反省をしない厚顔な人間は笑え、いや美しいと思う。
ナチュラルに変な人を見ると胸のときめきをおさえられないところがある。
本書からたいへんな刺激を受け、こちらも「どうで死ぬ身」ゆえ、
「破滅への道行き」の終わりで華々しく「ラスト・ダンス」を決めてやろうと決意する。

先日両国で行われた藤澤清造の芝居に行った女から
生の西村賢太を目撃した話を聞いたが、
バリバリのビジネスマンのようなパリッとした衣服に身を包み、
横にはインテ~リジェントな編集者らしき男性をお供に従えていたという。
およそ著作からうかがえるイメージとは異なっていたらしい。むべなるかなである。
賢太兄貴にあこがれ「ポジティブな性格破産者」たらんと日夜精を出すこちらとて、
実像は変に明るいところがいささか気持悪いだけのありふれたオッサンなのだから。
しかし、バカヤロウとわたしは怒鳴った。
「このオカチメンコ、おまえの目は節穴だぜ。
はん、おまえさんのような苦労知らずのアマには賢太さんの正体はそらわからんだろうねえ」

 

■ 「廃疾かかえて」 最近の小説│ 2011/09/09

「廃疾かかえて」(西村賢太新潮文庫

→よく西村賢太私小説、とくに同棲相手との生活を描いた「秋恵もの」は
飽きるという声を聞くが、当方にかぎりまったくそんなことはない。
作を重ねるごとに磨きがかかっているとさえ思えるし、
小説家がこれから10年20年「秋恵もの」を書き続けたとしても、
わたしは新刊書籍を購入して読んでいきたいと思っている(文庫でならではあるが)。
おなじ作家の私小説を継続して読んでいると読者にも変化があることを知る。
あまり大きな声では言えないが、賢太兄貴にヤバイところで共感してしまうのだ。
そうだよね、たしかに秋恵みたいな女は殴りたくなるよね、わかるわかる!
おっと、いまのはなかったことにしてください。
女を殴る西村賢太は最低の野郎! がんばれ秋恵! それいけ秋恵!

「なによ、またぶつの。
おとなしそうな女の子にはセクハラして、家の中ではあたしにDVするんだね。
そうやって、ずっと弱い者いじめをしてきたんでしょ。
あんたは女子の敵だよ」(P55)

西村賢太が実際にモデルと同棲していた時期には、
まだ広告会社によって「女子ブーム」は作られていなかったと思われるから、
かなり創作が入ったセリフなのだろうが実にいい。
私小説を書く喜びというのは、味わいにあるのだろう。
どんな辛いことでも味わうというかぎりにおいて愉しみがあるのではないか。
人生の不幸にもまた絶妙の味わいがあることを人は私小説を書くことで知るのだろう。
おそらく、読者の喜びもそれに近いのだろうが、
なんといっても愉しいのは書き手ではないかと思う。
だから、幸福や勝利ばかり求めているものは、
人生の味をいくつも知らずに損をしているのである。
自業自得の悶えるような苦しみも、真正面から味わえばウニのような珍味なのかもしれない。
なにをうまいと思うかは人ぞれぞれで、
その個的な領域にこだわり尽くすことも生きる大きな喜びになるのである。

「貫多はそれ(引用者注:缶詰)を無視して、
冷蔵庫から福神漬けの残りと生卵を三個取り出した。
そして自分でスクランブルエッグを作ってその上にケチャップをかけ廻すと、
次に宝焼酎と氷の仕度を始める」(P121)

まずそう! と思わず顔をしかめてしまったが、
賢太兄貴の舌はなんでもうまく感じてしまうのであろう。まさしく私小説作家の舌である。
ところが、この舌は肥えている。

「野菜を煮たのとか魚を煮たのとか、そんな日常のチンケな料理より、
外でお金を出して誂える料理の方が断然うまいのは自明の理。
(中略) だからそこ(引用者注:老舗の鰻屋)では二本のビールを口にしながら、
三千八百円のお重と肝焼き、それに三杯酢の塩梅が絶妙なうざくに舌鼓を打って、
存分に思いを果たしてしまったのである。
すると、貫多はひどく幸福な、満ち足りた気分に有頂天となり、
それでこのまま滝野川の宿へ帰るだけと云うのも何か惜しくなってくると、
久方ぶりに六区へ落語の夜席を聞きにゆくことにした」(P144)

なんとわかりやすく幸福を定義した名文だろうか!
幸福になりたいといって宗教団体の巨大ビルに入っていくのは大馬鹿者なのである。
老舗の鰻屋へ行って昼からビールを2本のみながら3800円の鰻重を食え!
それから落語を聞きにいくのもよろしい。
このとき使った金が同棲相手の女が細々とパートで稼いだものだとなおよろしいのである。
諸君、これを幸福というのだよ、と芥川賞作家はニヤニヤする。
同性ながら彼はとってもかわいい。

 

■ 「小銭をかぞえる」 最近の小説│ 2011/06/21 

「小銭をかぞえる」(西村賢太/文春文庫)

→小説に登場する女性に恋をするのはいつ以来だろう。
ええ、恋をしましたとも。困ったことに、
芥川賞作家の西村賢太先生と同棲していたという「女」を好きになってしまったのである。
こんないい女はほかにいないのではないか。まず床上手らしい。

「あられもない絶叫をあげつつ、体を激しく震わせ、
何度も何度もしがみついてくる」(P17)

「ねえ、おかずに紋甲イカを買ってきたんだけど、
フライと天ぷらと、どっちがいい?」(P134)

フライや天ぷらはお惣菜で買うものとばかり思っていた。
あんな面倒臭いものを自分のために作ってくれる女がいたらどれほど幸福か。

「この女の長所と云うのか、いったん覚悟を決めると、
どこまでも私の味方になってくれようとする優しさもうれしかった」(P130)

天使のような女性ではないか! 
ああ、もったいない。賢太兄貴にはもったいなさ過ぎる。
こんなかわいい女に暴言を吐く作家は死ねばいいと思いました。
女のぬいぐるみの首を引っこ抜くシーンでは作家に殺意を抱く。
でも、わかっている。いい女は賢太先生のようなワイルドな男が好きなんだよね~。
たとえば、この女をうちに保護したりする。
賢太兄貴が迎えに来る。
すると、いくら止めたところで、女はダメ男のところへ戻っていってしまうのである。
ああ、やだやだ。生きてくの、ほんとやだな僕。お酒でものもう、けっ!

 

■ 「二度はゆけぬ町の地図」 最近の小説│ 2011/04/10

「二度はゆけぬ町の地図」(西村賢太/角川文庫)

→いま話題の西村賢太は人をバカにする表現がうまい。
うまいのは他人をバカにするときだけではなく、自分をバカにするのもうまい。
前者はみなやっていることだが、西村賢太ほどうまくできるものはいまい。
こと後者にかぎっては西村賢太の独壇場である。
哀しい現実だが、人間にとって他人をバカにするほど楽しいことはない。
どのクラスでもどの職場でも、いない人の悪口がいちばん盛り上がるのである。
どうして他人をバカにするのを人はこうも楽しく感じるのだろう。
そしてそして、どうしてみな相互にバカにしあいながらうまくやっていけるのか。
考え方は反対のほうが正しくて、
裏ではバカにしあっているから表ではうまくやっていけるのだろう。
人間の裏表ほどおもしろいものはない。

わたしがいちばん怖いのは、表でやたら善人ぶる人である。
裏ではなにをしているのだろうと空恐ろしくなる。
逆に西村賢太のように表で人間(他者と自己)をバカにしている人は怖くない。
自分とおなじ裏表のある人間なのだとホッとすることができる。
西村賢太ほどの善人はめったにいないのだろう。
これだけ表で悪人ぶりを徹しているのを見ると、
裏では菩薩様のような好人物ではないかとまで疑ってしまう。

暴行事件で警察官に逮捕されたとき、取調室で西村賢太は――。

「もともと私は坊っちゃん坊っちゃんした童顔のせいで、
昔から生真面目で正直そうに見誤まられることが多かった。
そのおかげで嘘をついても余りバレたためしがなかったことに
味をしめていたので、このときもそのてを使い、
得意の偽円満人(にせえんまんじん)ぶりをアピールする一方(後略)」(P79)

いやあ、嘘はバレているっしょ。
みんなだれもが西村賢太が本物の善人であることを見破っていたと思う。
だから、あえて嘘を嘘であると指摘しなかったような気がする。
本当に怖いのは表で善人ぶっている人間なのである。
裏でなにをしているのか――。
どうでもいい話だけれど語彙には結構自信があったが、
「黄白」に金銭という意味があることをこの短編小説集を読むまで知らなかった。

 

苦役列車」(西村賢太「文藝春秋」2011年3月号)

→「週刊ポスト」4月1日号に芥川賞作家の西村賢太先生の名前を見つけた。
地震特集号である。
「総力オピニオン いま私たちは何を考えどう行動すべきか」――。
まさか芥川賞作家の西村賢太先生がコメントを寄せているとは思わなかった。

地震が起きたのは間が悪く馴染みの淫売に今まさに放液せんというときで、根っから小心者の僕は淫売を乱暴に放り捨てると我先に寝台の下に潜り込んだ。結局その日は料金分の満足を糞袋から得られず苛立っているところに、淫売が似合わぬ真面目顔で地震がどうのと話しかけてくるので苛立ちがさらに募り怒声を浴びせてやった。この淫売はテレビも観ないのか、或いは極端に物覚えが悪いのか客が芥川賞作家だということも知らないのである。その後も店を出るまで、地震が怖い、地震が怖いとうるさいので、危うく手を出すところであった。東北の田舎者が何人死んだところで、どうで僕の商売には与り知らぬことだから、その晩はいつものように安酒場の梯子をして眠りについた。それから三日後、携帯電話が鳴る。見知らぬ番号なので、最近増えた悪戯電話に間違いないと決め付け、恫喝は最初が肝腎だと腹を決めてから電話に出ると、小学館の編集者だという。けっ、高学歴のエリートが中卒の僕に何の用事でございますかと腹の底で反射的に言い放つが、どだい大会社の社員に強く出ることもできない。聞けば地震のコメントをくれと言うのだが、ここで安請け合いしたら軽く見られると狡猾にも計算して、他には誰が投稿するのか尋ねると、編集者はさも自慢げにお笑い芸人だか映画監督だかわからぬ男の名前を口にする。高給取りの編集者はこちらを中卒の成り上がり者と軽く見ているのか、てんで断わられるとは思っていないようである。ひねくれた性分のため、鼻持ちならないインテリどもに混じって偽善臭い慰めを東北のカッペどもに施してやるのを迷っていると、編集者は他を当たるというようなことを言い出す。慌てて書きます、書かせてくださいと逆にお願いする羽目になった。

このようなことが書いてあると思ったら、実際は――。
タイトルは「『苦役列車』から立ち上がる方法」で引用はその後半部分。

(……) いま絶望のなかにいる被災者の方は、一方で、何か一時でも没入できることにすがりつくべきです。夢中になれるなら、小説でもいいし、けん玉でも、携帯ゲームでもいい。現実だけに対峙して、悩んでいては辛くなるばかりです。一瞬でも現実から積極的に逃避することによって、気持ちがリセットされます。一時の気の紛れが次への活力につながると思います。被災者の方の状況は、僕の体験など比較にならぬほど、悲しく苦しいものと思いますが、しかし自暴自棄になったら終わりです。投げ出さなければ、必ず別の展開があるのだと、僕は信じています。

我らが賢太兄貴は芥川賞を受賞して、あっさり西村先生になってしまったようである。
兄事しているからこそ、西村賢太を諌めたい。
どうか沈黙を覚えてください。
週刊誌からコメントを求められたからといって、嬉々として文化人づらをしてはいけない。
おのれのイメージを守ってください。
人間は自暴自棄になってもよろしい。人間はなにもかも投げ出したって構わない。
酒に溺れてもいい。女を殴ってもいい。借りた金を返さなくてもいい。
「必ず別の展開がある」などと成功者風を吹かせて説教を言ってくれるな!
だれもが賢太兄貴のように人生うまくいくとは限らないんだぞ。
正直、白状すると週刊ポスト西村賢太のコメントを読んでお里が知れたと思った。
地金がこうも速やかに、かつあからさまに曝け出されてしまうことに物悲しさすら感じた。
この程度の男だったのかと愕然とする。
西村賢太芥川賞を与えた選考委員連中を大声で罵倒してやりたくなった。
なお当然のことながら最初の引用は「苦役列車」をもとにしたわたしの不謹慎な創作である。
私小説作家は、死ぬまで信用できない。
逆に言えば、死んでからなら安心して信奉できるということだ。
西村賢太は私淑する藤澤清造が人生で決して味わうことのなかった成功の果実を、
いまやたらふく味わってしまったのである。おそらく、これからも、長く。
ならば、あの世の藤澤清造はもう西村賢太に没後弟子を自称されるのが迷惑かもしれない。
それどころか商売道具として利用されるのを死者はいやがるかもしれない。

 

■ 「暗渠の宿」 最近の小説│ 2010/05/09 

「暗渠の宿」(西村賢太新潮文庫

宮本輝が選考委員としてのさばっている限り、西村賢太芥川賞を取れないのだろうな。
「心根がいやしい。こういう人間は何をしても失敗に終わることだろう」
といったような清く正しい選評で叱られるのがおちかと思われる。
私小説作家・西村賢太の高いプライドに裏打ちされた無頼がうらやましい。
私小説で最低ダメ人間のアピールをしている西村賢太にさえ劣る自分が悲しくなる。
西村賢太を思わせる「私」は、生意気にも同棲相手の女性が気に入らないというのだから。

「なぜなら、もし女が申告した通りを真に受けるならば、
この女は先の同棲相手とこの私と、
これまでの人生の中でたった二人だけの男を知っていることになる。
(中略) が、すると私の方は、
何かつまらぬ貧乏籤(くじ)を割り振られた塩梅(あんばい)になってはいまいか。
いや、貧乏籤と云っては語弊があるが、少なくとも前の同棲相手は、
この女の一番いい時期に知り合い、その初めての男となり得ている。
そして互いに身心ともども新鮮なよろこびを与え合い、頒ち合い、そして共有し、
果ては夫婦さながらに五年もの間を仲睦まじく暮し続けていた。
これはもう、籍こそ入れてなくても、どうで婚姻関係にあったも同然である。
それを思うと、ふいと私は、不当にその男の後塵を拝しているような、
えも云われぬ口惜しさを覚えてくる。
それより何よりその男は、うまうまと私の女の処女を破ったのである。
そして私の女の、一番輝いている時期の心を独占し、
一番みずみずしい時期の肉体を隅々まで占有し、
交際期間から併せて都合七、八年もそれらを堪能して、
さんざんおいしい思いをし続けたのちに、これを弊履のごとく捨てたのである。
そしてその男にしてみれば充分貪り尽くしたと云えるこの女を、
私は、私に与えられた最後の砦として、
随喜の涙を流して抱きしめているのである。その図を考えたとき、
ただでさえインフォリオティーコンプレックスの狂人レベルな私にしてみれば、
およそ男としての根幹的な部分からわき上がってくる云いようのない屈辱感に、
血が頭に熱く逆流してくる」(P133)

おれならば、いちおう早稲田卒なのだが、付き合ってくれる女性様がいたら、
千人斬りだろうが元ピンサロ嬢だろうが幾度堕胎経験があろうが白痴女や狂女だろうが、そんなことはもう構わないくらいさみしいというのに、この中卒の作家ときたら!
いけない、これはよろしくない。西村賢太のさもしさに伝染してしまったようである。
しかし、ここは認めておかなければならない。
中卒で女に暴力を振う西村賢太でさえ女がいるのならば、早稲田卒の立場はどうなろう。
西村賢太は露悪的な告白をする。上野の古書モールで客と口喧嘩になったという。

「いったいに私は図体もでかく、見た目もいかつい方なので、
昔から恫喝が得意中の得意(但、私よりも弱そうな相手にのみ、行なうのだが)
だったが、一言、二言かましてやれば、てっきりたじろぐものと思ったこの男は、
案に相違し、表情も変えずにまるで引かないのである。
「臭えから立ちふさがんな、百姓、表に出るか?」
そう鼻っぱし強く言ってやったものの、内心私は、ひょっとしたらこの親父は、
どこかその筋方面のかたではないかしら、と逆に怯えを感じ始めていた」(P162)

これほど姑息で卑怯な男でも女にもてるのである。
そして、おれときたら、この下賎な男が見下すような女にも相手にされないのだから。
文学新人賞を取って女にももてる西村賢太が妬ましい。
嫉妬の炎に身を激しく焼かれる思いがする。
畜生、おまえだけいい思いをしやがって!
憎い。西村賢太が憎い。女が憎い。おれを相手にしない女が憎い。
おまえらみんな金輪際、許さないからな、と思った。

 

■ 「どうで死ぬ身の一踊り」 最近の小説│ 2007/11/27 

「どうで死ぬ身の一踊り」(西村賢太講談社

→いままで同時代作家で尊敬しているのは柳美里だけであった。
たしかに山田太一先生や宮本輝先生は柳美里以上に敬愛しているが、
どちらも同時代を生きた作家ではない。
山田太一氏は祖父、宮本輝氏は父の世代である。
さて、この西村賢太は、
わたしの尊敬する同時代作家、柳美里の10倍は文学的にすぐれている。
今年読んだ小説のなかでもっとも感銘を受けた。
それどころか21世紀になって出版された小説の最高峰ではないかとさえ思っている。
本作品が芥川賞候補になるも受賞しなかったのは、選考委員が嫉妬したからだと思う。
芥川賞選考委員の顔ぶれを思い浮かべたが、
今現在このような傑作を生みだす作家はひとりもいないのではないか。
西村賢太は、日本近代文学の正統たる私小説作家である。
父親は強姦で逮捕。本人は中卒。青臭い文学青年(中年?)。貧乏。もてない。
そのくせ、苦労して手に入れた女をフルボッコ(フルパワーでボッコボコに)するDV野郎。
にもかかわらず、女から別れを迫られたら土下座も辞さない男のなかの男。
内弁慶。酒をのんだら悪態三昧だが、ふだんはおとなしい。
西村賢太よ、兄貴、おまえは男だ!
西村賢太が認められなかったら日本の文学は終わりである。
しかし、ここが複雑なのだが、かならずしも西村賢太の出世を願っているわけではない。
というのも、私小説作家は売れるとダメになるからである。
あれほどの凄みを見せていた柳美里も、メジャーになるにしたがい作品の質は劣化した。

私小説作家は不幸でなければならない。

なるほど、作家にとっては実際に不幸であることよりも、
不幸を感知できる能力の優劣が作品を左右することは事実である。
けれども、名誉も富も地位もありながら、なお不幸を自認するのは難しい。
二律背反である。
西村賢太はもっともっと評価されなければならない大作家である。
しかし、西村賢太がいざ売れたら、かれの小説はつまらなくなるだろう。
無名であること。カネがないこと。キチガイであること。
いい小説を書くための条件である。
この点から考えると、いまの日本で西村賢太ほど恵まれた作家はそうはいないだろう。

 

■ 「小説にすがりつきたい夜もある」 エッセイ│ 2018/07/11 

「小説にすがりつきたい夜もある」(西村賢太/文春文庫)

→このまえ散歩をしていたら近所の公園で高校生の男女が抱き合ったり、
接吻を交わしたりなぞしており、それが夕暮れどきでおっさんはええなあ、ええなあと。
若い美男子も美少女もほんまにええもんやなあ。
性欲がまんたんのときにそういうことをするのってどれだけ極楽気分なのだろう。
西村賢太もわたしもそういう性春を味わえなかったくちだから性格がゆがむのである。
文学はどこまで性格異常が進行しているかが勝負であり、
西村賢太は現代の文豪たるにふさわしい風格を備えている。
おなじ低学歴の中上健次のように、
コンプレックスから大学教員に色目を使わないところもいい。
みんなが思っていることを言うと、中上健次の小説は読みにくいし、よくわからないし、
なによりおもしろくないじゃないですか。
いっぽう西村賢太は読みやすいし、わかりやすいし、なによりおもしろい。
なんでおもしろくもないものをテクスト読解して
利口ぶりたがるバカ学者やバカ学生がいるのかわからない。
おもしろけりゃなんだっていいんだよ。
わたしのなかでは西村賢太のほうが中上健次よりもはるかに上である。

性欲旺盛な若いころにもてなかったという怨念を昇華するのが男の文学だろう。
いま西村賢太は成功者で有名人でもてるだろうが、
そうなると女ってなに? と女性嫌悪におちいらないのだろうか。
世の中には女を買わないといけない中卒の西村賢太タイプと、
いくらでも若い女子大生とタダマンできる早稲田の渡部直己タイプにわかれる。
そんなに女っていいいものだろうかという、
やばい本音を汗っかきのデリヘル好きの西村賢太は白状している。

 

このまえハロワで就職したかったら、取る側のことを考えろと指導され、
それはまさしくわが思うところ、意気投合、御意然りと思い、
わたしが雇う側だったらぜったいに自分なんか採用しませんと真顔で答えたら、
あなたにだって長所はあるはずなんだからそれを探して、
と悲鳴のようなご指導をありがたくもいただいたが、池袋のハロワはおもしろい。
わたしも西村賢太とおなじで、自分が相手の女だったらと考えるほうである。
自分が女だったらぜったいわたしなんかと付き合わないし、
それ以前にいちおう自分をよく知っているつもりだから、
すべての女に対しておれなんかと付き合わないほうがいいという客観的結論に達する。
結婚している男は多かろうが、ふしぎなのは自分程度と女を見定める眼である。
ほんとうにその相手がいい女だと思ったらば、
自分よりも上の男と交際したほうがいいという客観的結論にどうして至らないのか。
あんがい結婚なんぞ20代の性欲の盛りに女にだまされてしてしまい、
子どもまでできてしまい、もう生活から逃げられなくなるという、
悪魔的かつ生物学的に正しい宇宙生命的な大がかりの罠(わな)やもしれぬ。
もてない独身貴族の西村賢太はいま非常な幸福感を味わっているのかもしれない。
西村賢太は若いころもてなかったぶん、いまいい思いをしているのかもしれない。
早稲田のセクハラ教授、66歳の渡部直己がバカだと思う根拠は、
27歳のぴちぴちのギャルが自分なんかに求愛されて嬉しいかどうかを考えられない、
「想像力の欠如」ゆえである。自分も相手も見えていない。人間が見えていない。
きっといま西村賢太渡部直己の凋落に連夜祝杯を上げていることだろう。乾杯。
そして色即是空

 

本当はセックスなんか嫌いな男女が相手のためを思って、
本音はいやいやしているのだが演戯で歓喜表現の奉仕をしていたら、
相手もセックス嫌いなのに、
相手のためを思って相手が嫌いなセックスをしきりに求めてくるという事態も
妄想ならぬ現実世界では少なくないのではないか。
しかし、メスにとってオスの男根が直角以上に勃起しているという現象は、
おのれの存在意義、役割意識、自己肯定感を深く満たすものであろう。
いかにもいまを生きる文豪らしく西村賢太はアダルトビデオを嫌っている。
通俗アダルトビデオが嫌いなのはなにより第一――。

 

なんで男全般、女をコントロール(支配)したがるのだろう。
わたしも西村賢太とおなじでアダルトビデオはつまらないと思うが、性的妄想は異なる。
こちらは宮台真司ブルセラ学者とおなじで、女性の気持に欲情する変態種である。

男のエロよりも女のエロのほうがはるかに深いと思っている。
おそらく西村賢太もこういうことは知っていると思うし、
その脱フェミニズム視点から新作を書いてほしいと期待している。

ああ、賢太先輩のように女におぼれたい。あくどい女にだまされたい。
賢太兄貴はY子という専門学校くずれの風俗嬢に惚れ込んだことがあるという。
店に通いつめ、請われるがままにブランド品を贈った。
あげくのはてにY子のカードローン80万円の肩代わりまでしてやった。
全身全霊全財産を西村賢太は、
渡部直己教授ならば相手にしないような専門学校くずれの女に捧げたのである。

 

120枚という小説の感覚を知りたくて、
ちかぢか「けがれなき酒のへど」を再読するかもしれない。
再読に耐える作家がほんものといえるのではないか。
わたしも尊敬する西村賢太のように女におぼれて大損してみたい。
世間のいわゆるマイナスは結句、文学の世界では何倍ものプラスとして返ってくる。
今年はじめミャンマーで千ドルだまし取られたが、わたしは喜々として報告した。
他人のマイナス(不幸)を読むほど
おもしろいことはないというストリンドベリ的な信念による。
男はやたら自慢話、プラスの自己アピールが好きだが、
わたしはそういうのはなるべく書きたくないという女々しい弱性男子である。
が、女に誘惑されだまされケツ毛まで持って行かれたいというおかしな文学妄想がある。
きっと西村賢太もそうだろう。金ならあるぞとおそらく小心者の男は笑っている。
いい本を読んだ。
いわゆる現代文学で気になるのはいまや西村賢太だけになってしまった。
よもやま評論家の小谷野敦精神科医春日武彦先生も広いくくりでは文学者だろうが、権力団体の早稲田文学がそういうことを認めていないのだから仕方がない。
おもしろいエッセイをぞんぶんに楽しむことができた。じつに喜ばしい「事件」であった。