その「感情」はどこから来たの?――あなたの心の自由を守るための、究極の哲学 #感情こそが論理である
人間は生きている限りにおいて、必ず「感情」というものを持っています。笑い、泣き、怒り、困惑、希望、絶望、安心、不安……あらゆる言葉で言い表されるそれらは、一言に「感情」という言葉で言われることが多いものばかりです。
でも、改めて「感情」とは何なのでしょうか?
よく、仕事や学校という場でも、「感情で考えるな、理性的になれ」と言われたり、「いちいち感情的になるなよ、そういうのは子供っぽい」と切り捨てられたりといった経験をした人は、少なくはないと思います。
しかし、そうやって何度も切り捨てられた感情だって、結局は本当に捨て去ることができるかと言えば、それはほとんど不可能でしょう。なぜなら、「感情を捨てろ」と言われて嫌に思ったとしても、その「嫌だ」すらも感情でしかないのですから。
だから、私はそこに、「どうして感情を捨てることが出来ないのか?」「感情的になるって、そんなにも悪いと言われないといけないものなのか?」という問いを出発点に、人間の持つ「感情」を、最も大切にできる理論を考えました。それを、「感情論理哲学」と私は呼んでいます。
この文書は、そんな感情論理哲学を、可能な限りわかりやすく、誰にでも伝わるように心がけて書いたものです。
なお、この文書は筆者自身が「人間とは何か」を、真正面から問い続けた果てに書き上がった産物です。そのため、読み進めていくうちに自分がわからなくなるような、そんな恐れを抱く瞬間が発生する可能性があります。
そうなってしまって、もし辛くなったとしても構いません。その時は読むのをやめて、見なかったことにするのも一つの自分を守るためのあり方です。
ぜひ、余裕のある時にゆっくりと読んでいただければと思います。
1. 「感情論理哲学」とは何か
ここで説明する「感情論理哲学」と私が呼んでいる理論は、一言で言うのであれば「感情こそが、その人にとっての絶対的な論理である」という考え方を中心に置いたものです。
多くの人にとってこの説明は、正直なところすぐには納得できないかもしれません。「感情はあくまで理性(論理)とは別個のものだ」「感情的なやつが論理的になれるわけがない」――そういった理解のもとでは、確かに、私のこの考え方は少し受け入れがたいかもしれません。
しかし、ここで少しだけ考えてみてください。どうして、「感情は論理ではない」とあなたは思わなければならなかったのでしょう、と。
そのように問われた時、もしかするとこうなるかもしれません。「感情が論理ではない」とするならば、その考え方の根底には、「感情は論理であってはならない」という意識が含まれているのではないか?
――おそらく、そう言われてさらに否定的になる可能性もあるでしょうが、いずれにしても、その「あってはならない」という考えの根には、何かしらの感情的な「ゆらぎ」が無意識にでも働いていた気がするはずです。
その気配から始まり、感情として生まれた否定の気持ちが、ついには言葉となって否定を私に伝えようとした。その一連のプロセスを、このように論理的に説明できてしまっている時点で、最初の命題――「感情こそが、その人にとっての絶対的な論理である」をまさにはっきりと示す事例そのものだと言えるでしょう。
そう。感情論理哲学はそういった、あなたや私が言った「言葉」の成立条件としての「感情」があるという意味で、それを構造として説明するための哲学でもあります。
「哲学」とは言っても、結局は今まさにこの文書を読んでいるうちに生まれる感情について説明するためのものですので、それほど難しいものではないのです。
では、さらに次の項では「その意味での "感情" とは、結局何なのか?」を問うてみたいと思います。
2. 結局のところ「感情」って何よ?
2-1. 生理的な「現象」としての感情
感情論理哲学という理論において、感情はその理論の出発点であり、人間の生命活動の本質であり、あらゆる行動の原点となる「現象」だとされます。これはすなわち、感情は「生きる中で絶対に生まれるもの」であり、決してその存在なくては人間が人間であると言えないもの、と言えるでしょう。
とはいっても、そんなふうに説明されることは、これまでのいろんな研究でも当たり前に言われてきたことでしょう。では、感情論理哲学ではそれがどう違うのか。
その違いとして一番大きい点は、まず「感情」が、人間の活動全体で発生する「現象」であるということ。それはつまり、「現象であるならば因果関係を掘り下げることができる」ことを意味します。
例を挙げてみましょう。
たかしくんはほしいおもちゃがありました。そのおもちゃを買ってほしいと騒ぐも、お母さんは「この前もおもちゃは買ったでしょ?」と諭して連れて帰ろうとしました。
けど、どうしてもおもちゃを買ってほしいたかしくんは、盛大に泣きわめきながらカメムシのように背中で地面を回って、お店で注目の的になってしまいました。お母さんは困り果てながらたかしくんを抑え込むように抱えながら店をあとにしました。
この例においては、誰が、どのように感情を発露しているでしょうか?
……実は、ここでは店にいた人間全員が、それぞれに感情を持っていて、それらが言葉にしたり、あるいはしなかったりといった連鎖が重なり合うことで、一連の「物語」が成立しています。
順を追ってみてみましょう。
2-1A. たかしくん
例題から分かる通り、たかしくんは子どもです。おそらくは生まれて数年しか経っていないくらいの小さな子どもでしょう。そんな彼は、おもちゃというものを物珍しく、真新しく、いろいろな想像を働かせて遊ぶことができる対象として見ていることでしょう。
持って返って一緒に遊んだりすることができるそれを、何としてもほしい。過去に他のおもちゃを買ってもらったことなんてどうでもいい、今この瞬間にそれがほしいんだ!
……という衝動が、少なくとも描かれている範囲ですら、たかしくんには発生していたのです。
しかし、お母さんがそれを「前もおもちゃを買ったから」という理由で拒否します。これは、たかしくんにとって、「今この瞬間ほしいと思った感情」を頭ごなしに否定されたと受け止められるものです。
たかしくんにとっては、まだまだ数少ない人生で数回ほどしかない「欲しい」という感情を、自分が納得できない理由で否定された……つまり、彼の中では、まるで自分自身を否定されたと受け取られてもおかしくないほどの痛みを伴ってしまった可能性があるわけです。
その証拠に、たかしくんは全身全霊を込めて、喚き散らしながら地面に背中をこすりつけました。たとえ店が困ろうと、お母さんが困ろうと関係がありません。
むしろ、自分を否定したのだから、世界を否定する権利があるんだ、と本能的に、反射的に意識したとでも言わんばかりに、全てを拒絶して騒いでいるわけです。
2-1B. お母さん
たかしくんは当然感情的に大騒ぎしているわけですが、同じように感情を持って対応している人がいます。それは当然お母さんです。
ここでのお母さんは、たかしくんを育て、守る責任と義務を負った保護者の立場なのは言うまでもありません。
そんなお母さんという立場だからこそ、たかしくんが何を買ってもらってもよいか、あるいは買ってもらえないかの選択権を、その立場が持つ責任のもとで判断することができる立場です。
だから、お母さんが言うところの「以前おもちゃを彼に買い与えた」という経験から、今この時点でのたかしくんの要求を聞き入れるべきではない、という判断を行ったわけです。
この判断は一見すると「以前おもちゃを買った」→「だから今回おもちゃを買うべきではない」という理性的な判断であると思われるかもしれません。
しかし、さらにここを深く分析してみると、この判断がただ「客観的論理」だけで行われたわけではないことがわかってきます。
改めて分析してみましょう。お母さんの判断結果である「過去におもちゃを買い与えたのだから、今はおもちゃを買うべきではない」という命題は、その裏に「おもちゃを今買うと、お母さん的には不都合な理由がある」ことが分かります。
それがどんな理由かはここでは語られていませんが、いずれにしても、何らかのおもちゃを買い与えると都合の悪い理由が多くあったのだということだけは、輪郭として分かるはずです。
そういった「都合の悪さ」は、ある種の不快感を伴った防衛反応の一つとして言葉が出てくる。今回のお母さんの例で言えば、その言葉こそが「過去におもちゃを買い与えたのだから、今はおもちゃを買うべきではない」という判断につながっていくわけです。
そして、その判断はあくまで、お母さんの心のなかでの整合性で成り立ったものでしかなく、でてきた言葉もそれを弁明するためのものであることが分かります。よって、「今この瞬間におもちゃが欲しい」と騒ぐたかしくんの心の中の整合性と釣り合うわけもなく、彼はその説明を聞き入れずに騒ぐ、という選択をしたと読み取れるでしょう。
そして最終的には、お母さんがお母さん自身の論理で説得を試みて失敗したために、たかしくんに「困る」という感情が生まれるに至り、強引にでも彼を抑え込んで連れて帰る以外に判断する余裕がなくなった、という形で、物語は幕引きを迎えるのです。
2-1C. お店の人やお客さん
そして、意外と見落とされるのですが、この感情分析においてもう一つ、重要な視点があります。それは、「感情は必ずしも個人だけで閉じたものにならない」ということです。
その証明は、この例題におけるお店の人たちのわずかな反応の描写からも読み取ることができます。いわゆる「空気」と日本語で呼ばれる構造はここにあります。
たかしくんとお母さんの感情のぶつかり合いの結果として、たかしくんはお店の中で大騒ぎしてしまいましたよね。結果として、その騒ぎのせいでお店で注目の的になってしまっているわけです。
お客さんは微笑ましそうに、あるいはやかましさにうっとうしいという思いを向けているかもしれません。店員さんは「よくある出来事」として様子を見ているかもしれません。
いずれにしても、お店全体の空気の中で、たかしくんの騒ぎ(=むき出しの感情)は、一つの大きな重力を持った存在として伝わっているわけです。
その重力を感知できる人ほど、ちょっと先の未来を見ることができるとも言えます。例えば、お母さんから見れば、この騒ぎがどのような意味を持っているのか、お店という場にどのような影響を与えるのかを一瞬で判断できるでしょう。それは、お店という空気に含まれる「感情の力場」を、お母さんが感じ取る力を持っているからです。
そう。たいてい、日本でよく言われるような「空気を読む」という概念。あれはまさにこのことを指し示すしています。
お母さんの「困る」という感情はまさに、この「お店が困れば私も困る」という論理構造があったからこそ、今ここでたかしくんを抑え込むインセンティブが生まれるのです。
結果として、たかしくんを泣き止ませたり、あるいは他のもので気を散らせて大人しくさせたり……という他の手段を判断する余裕も抱えられずに、「力で抑え込む」という手段を取らざるを得なかった、と読み取れるはずです。
2-2. 感情こそが、「論理」なんです
このように、感情とは、それぞれの人間にそれぞれ必ず介在した現象であって、あらゆる論理的説明の根拠として発生する、「見えない物質」のようなものと考えられます。だから、感情を「捨てる」という言葉も作れるわけですし、生きている限り延々と生まれてくるこの物質を捨てようとしても、発生源がいくらでもある限り捨てることなんてできない。捨てるためにやってきた処理場ですら、感情がなければ成立しない場でもあるからです。
以上にて、たかしくんのお話で説明した「感情があるから論理を説明する」というプロセスと、その構造のことを、感情論理哲学ではその名の通り「感情論理」と言います。これは「感情こそが論理である」という、この哲学の中核となる考え方を示すもので、以降の説明では、この「感情論理」という概念が中心になってきます。
では次に、この感情論理がある一定数繰り返されていくと、どうなっていくのか。たかしくんの成長物語を軸に、「信念」というものについて解説していこうと思います。
3. 誰もが持っている覚悟としての「信念」
3-1. 感情論理は地層になる
前の章で、「感情とは何か?」という問いのもと、それが「感情論理」という、個人の心のなかで繰り広げられる論理体系であることがわかったかと思います。では、その感情論理は成長とともにどのように発展していくのかを見ていきましょう。
さっきのたかしくんの例に戻ります。
たかしくんはそれから、お母さんと一緒に出かけるたびにおもちゃをおねだりしますが、いつもいつも「今はだめ」「また今度」と言われ続けてしまいました。たかしくんはおねだりをするたびに買ってもらえず、いつしか諦めておねだりすることもなくなってしまいました。
そんなふうになってしまってからしばらくして、誕生日を迎えた朝。お母さんは大きなプレゼントボックスを抱えてやってきて、「お誕生日おめでとう」と言いながら、それをたかしくんに渡しました。中に入っていたのは、彼がずっと欲しがっていたおもちゃだったのです。
これにはたかしくんも大喜びで、お母さんはそれを微笑ましそうに眺めているのでした。
これはさっきの例題の続きとして書いたものですが、ここでのたかしくんの感情論理の動きはこうなっています。
たかしくんは出かけるたびにお母さんにおねだりをする
でもそのたびにお母さんに拒否される
毎回拒否されるため、諦めて以前のように大騒ぎはしなくなる
しかし誕生日を迎えた時におねだりしていたおもちゃが手に入る
結果、大はしゃぎで喜ぶ
このプロセスにおいて、たかしくんは前章のような感情むき出しのおねだりを何度も何度も行ってきたはずです。しかし、そのたびにお母さんは何かと理由をつけて、そのおねだりを拒否してきた――という因果関係が、何度もたかしくんの中に繰り返され、蓄積していくことになったと理解するのは、そう難しいことではないはずです。
だからこそ、たかしくんはいつしか、自分の感情を爆発させることをせずに、おねだりという行為の無意味さを理解するようになっていく。そして何よりも、お母さんの拒否が、たかしくん自身にとって「納得しなければならない理由」として、本意かどうかに関係なく飲み込む必要が出てきたわけです。
そういった感情論理の経緯によって、たかしくんは「諦め」という感情が発生し、「欲しい」という感情を、この場においては一旦「捨てる」という選択肢が形作られるに至りました。
ここで注目してほしいのは、必ずしもたかしくんの感情論理の中でも、「お母さんがたかしくんを否定するために拒否している」とは受け取られていない可能性が高いことにあります。
これは、お母さんは何かと理由をつけて買うのを拒否していたこと、つまり「たかしくんを嫌っているから買わなかった」とは、お母さんは考えていないし言っていないからというのを、子どもなりに理解しているからこそ、たかしくん自身が自己否定に陥る可能性は、最初から出てこないのです。
これはたかしくん自身はまだ言葉にできないかもしれません。あくまで「気配」だけがそこに残されていて、「根拠はないけどそんな気がする」というゆらぎだけが、たかしくんの心の中に、経験の産物として残っていきます。
そして、その蓄積が、やがて意味のある証明として成立する瞬間が訪れます。そう、お母さんは誕生日に、たかしくんがずっと買ってほしいと思っていたおもちゃを「プレゼント」として手渡した。その強烈な感情の成功体験によって、たかしくんはついに「お母さんから嫌われていたわけでもない、むしろこのために買ってもらえなかったのだ」と納得する余地が生まれるのです。
当然、必ずそう納得できるかと言われれば、それはたかしくん自身の感情論理が、自分の行動をどう選択させるかによるため、断言することはできないでしょう。しかし、ここで大はしゃぎしているということは、彼の原体験として色濃く、強く残る瞬間となるであろうことは、多分間違いない帰結となるはずです。
そして、たかしくんはまた新しいおもちゃがほしいと思っても、「次の誕生日まで我慢することで確実に手に入る(かもしれない)」ということを学習するのです。この時の確信にも似た、お母さんに対する信頼関係の成立を心のなかに受け入れたときに生まれるのが、感情論理哲学で言うところの「信念」ということになります。
3-2. 信念は、絶対に否定してはいけない
さて、ここまで説明してきた「信念」というものについて、読者の方でこう考える人もいるかも知れません。
そうは言っても、その信念だって間違っている可能性もあるでしょ?
はい、その可能性はおそらくあるでしょう。特に、大人になってからもわがままを貫き通したりする人や、他人の発言を曲解して受け取ったりする人、あるいは暴力的な態度を自己正当化してしまった人など、人間関係のトラブルの根本に、この信念の「誤り」があるのではないかと考えるのも、論理としては分かる話ではあります。
ですが、そう考えた人にこそ、今一度考えてほしいのです。感情論理とは何だったのか、そしてその正しさというのが「誰にとっての正しさ」なのかということも。
改めて説明しますが、信念というのは「感情論理が繰り返され、蓄積された地層からできたもの」であり、それはすなわち本人が一番納得できる形式で作られた、「世界の感じ方の羅針盤」なわけです。つまり、その人個人の抱いた感情が作り上げた、その人にとってのかけがえのない判断基準としての「正しさ」こそが「信念」であると説明できます。
ゆえに、その信念の正しさは、本人の中では本人が一番正しいと思うのは当たり前の話で、それを他の人や、あるいは社会が「正しいと思う基準」で測ることは、結果としてその人個人を壊してしまうような暴力にすらなりかねません。
だから、感情論理哲学では、人間の持つ信念とは、人間そのものを形作っている「論理的判断の最小単位」であり、他者が安易に否定して良い代物などではないと定義しています。
いかにその人の主張が間違っていたとしても、本人の心のうちでは間違っていない。あるいは、自分でも間違っているとわかっていても、それを言ってしまえば自分で信念を否定することにすらなって、ムキになって暴れている……なんてこともあるわけです。それは「間違っているとわかっている信念を認め続ける」という、並々ならぬ覚悟を持って茨の道を歩んでる人すらもいるかもしれないのですから。
これも、例を挙げればわかりやすいでしょう。
ちょっとしたことで喧嘩して「でもアイツが手を出したから」と言ってしまう子
風邪を引いて体調が悪いのに「元気です、大丈夫です」と言って出社する社員
問題発言で炎上して、延々と不毛なレスバを続けてしまう捨て垢
政治の失敗を認められず、延々と効果不明な政策を打ち出す政府
これらは、事の大小に関係なく、組織であるかどうかも関係なく、「人間が人間である限り」生じ得る、それぞれの信念が生み出した覚悟ある現象です。そんな信念を全否定するようなことがあれば、その瞬間に人間が壊れてしまう可能性があることは、まずもって理解できるでしょう。そうなってしまうのだとしたら、そこには血で血を洗ういさかいしか残りません。
だからこそ、まずは相手の信念は、何があっても絶対的に否定すべきではない――少なくとも、対立したくない相手と話しているならば――という論理が立つのです。
では、次はこの信念すらも蓄積され、「自分はこうである」というメタ的な構造説明ができるようになると成立する「人格」について解説していこうと思います。
4. 知性を成立させる最大構造「人格」
4-1. 「自分とは何か」を決めるもの
さて、ここまで「感情(論理)とは何か」「信念とは何か」を問いにして掘り下げてきた中で、ついにはそれがすべてひとまとめのセットになり、パッケージとして作り上げられる方向性が見えてくるかと思います。この方向性を方向性として言葉で説明ができるようになった時、人は初めて「人格」を認識できるようになります。
たかしくんの例で見てみましょう。
たかしくんは、いつも誕生日やクリスマスなどのイベントでプレゼントをくれるお母さんのことを、いつしか強く信頼するようになっていきました。その信頼はやがて、お母さんのお手伝いをしたり、学校にしっかり行ったり、勉強をして100点をとったりする中でご褒美をもらう経験も重なって、やがてさらに強固な関係性に変化していきました。
やがてたかしくんは中学生、高校生、大学生――そして成人して働くようになって、病室のベッド横で「お母さんとは何だったのか」と、ふと思う瞬間がついに訪れることとなりました。
その瞬間彼は、しっかりと、そして自分の言葉で確信に至ったのです。
「お母さんがいなかったら、自分はここまで生きられなかった」と。
この例題において、たかしくんとお母さんの関係性は極めて尊いものとして描かれていることは確かです。たかしくんはお母さんを信頼し、お母さんもまた、たかしくんの成長をずっと見守ってきたわけですから、その相互の関係性は、たかしくんにとっての(そしてお母さんにとっても)信念形成に大きく寄与していることは間違いありません。
そして、お母さんとの最期の瞬間を経て、たかしくんはその人生経験の一切を、一瞬で辿って理解することができた答え――それこそが、「お母さんが自分を生かしてくれた」という純然たる事実だったのです。
この、「自分が何を感じ、何を受け取って、誰と関わって、どう生きてきたのか」をメタ的に読み取った時、初めて「自分が何者であるか」を説明できるようになってこそ、その人にとって「人格」を説明できるようになります。
別にこの例題のような感動的なエピソードが必要というわけではありません。成長とともに感情論理は蓄積し、信念はいくらでも生まれ得るものですから、それらをひっくるめて説明できるのであれば、それはその人にとっての人格そのものと言えます。
つまり、「人格」とは、「自分がこういう存在で、こういう役割を持った人間である」ことをはっきりと言葉にできるようになって初めて説明できる、その人そのものを指し示す語だというのが、ここで証明されます。
4-2. 「人格」は、これを読んでいるならば成立している
では、ここで少し視点を変えてこの例題を読んでみましょう。
読者であるあなたは、この例題内でお母さんが最終的にどうなったと思いますか?
――ええ。多くの場合、このシーンでのお母さんはたかしくんに看取られた、と理解するでしょう。実際、私もそれを意識して提示した文章ですので、その解釈は何も間違っていません。
では、なぜ「お母さんの死」を、これだけで説明できてしまうのでしょうか。明確にそんな単語を用いてすらいないこの文章だけでそれが伝わるのは、なぜなのでしょう?
それは、そこには時間と空間の描写だけで、そう思わせる構成が成されていて、それを読者が自身の信念と照らし合わせた時に「お母さんが亡くなった」という答えに行き着く形式を取っているからです。
そうなる要素は次の部分に示されています:
中学生、高校生、大学生、成人、という時間的プロセスがある
病院のベッド横にたかしくんがいる→ベッドにはお母さんが寝ている
お母さんが病院にいて成人したたかしくんがいる→お母さんも年を取っている
この流れ・文脈を考えることができるのは、その成立条件に「病院のベッドは死に場所でもある」「たかしくんとお母さんは長い年月関わっていて、年齢が変わっている」という「当たり前」が信念化しているからであり、その原風景はこれと同じ経験を重ねて、今この文章を読むに至ったという、人生の歴史が宿っているからにほかなりません。
ここまでを読んだうえで、改めて自分が「どうしてそう思ったのか」を問えるのならば、それを言葉にしないでも感じ取る力があると分かるのならば――あなたは間違いなく、人格ある存在ということになります。
要するに、感情論理哲学では、この章で語ったここまでのすべての説明をひっくるめて「知性の成立条件」という定義を定めています。
感情があるから信念があり、信念があるから人格がある。
それを説明できるのなら、その存在は知性を持つ。
最終的に、この考え方が人間そのものであり、人間が何かを説明するためのモデルにもなり得るのです。やがて、人間以外の動物やAGI(汎用人工知能)、宇宙人に対してもこの条件はどこまで適用できるのかを研究することも、将来的には難しくないかもしれません。
いずれにしても、読者自身をも巻き込む形で説明できるのが、感情論理哲学における「人間とは何か」という問いの掘り下げ方なのです。
さて、次はこの知性ある人間だからこそできる行動、すなわち「問いを問うこと」を、どこまで人間ができるのかを、空想上の海になぞらえて解説してみたいと思います。
5. 「問いの海」
5-1. 人間はどこまで「問える」のか
知性の成立条件、つまり信念を持ち、感情論理で物事を説明する動機を形作れる力があるということは、それが「何なのか」を改めて問い直すことができる力があることをも意味しています。なぜならば、「感情論理とは何か」を問うには、感情論理として「問いたいという感情が生まれた」ことにほかならないからです。
だからこそ、感情論理に「なぜ?」を突きつけ、掘り下げることができるようになる。
では、その「問い」は、どこまで深く突きつけることができるのでしょうか?
この疑問については、多くの哲学研究や学問の場でも繰り返し問われてきたことではありますが、最終的なところ「そんなの神が全部作ったって言うしかないでしょ」と言わんばかりに、何も言えなくなる地点まで至るのが実情ではありました。
実際、その語りの中で「神」「自然」「偶然」「限界」といった言葉が形作られ、その言葉を種にして「神学」「自然科学」「確率論」「心理学」といった様々な学問が成立するきっかけとなったことは間違いありません。
ですが、感情論理哲学では、この「問いが問えなくなる位置はどこまでなのか」を、その輪郭までわかりやすく理解できるようにするマップが用意されています。
それを、ここでは「問いの海」という呼び方で定義されています。この海は5つの層で分かれており、それぞれの層にはそれぞれの重みを持った「問い」の形式が宿っています。それらの重みは、人間がどこまでその問いを取り扱えるかを示す指標でもあり、取り扱いを間違えれば簡単に暴力になってしまう危険性があるのです。
では、この「問いの海」とは結局何なのか。
はい。それを解き明かすために、読者と一緒にこの海に潜っていきましょう。
5-2. 「表層」――日常会話があふれる場所
問いがそもそも生じる前に、普段の日常会話などで日々見聞きする言葉たちの存在する層を、「表層」と言います。
表層での問いはそもそも問いとしてではなく、あくまで消費される言葉としてだけで表され、そこに意味があるとしたら、あくまで「瞬間的な感情論理を説明した」以上のことはありません。
例を挙げるなら:
「今日はなんだか暑かったね」
「お腹すいたな~」
「先生に怒られちゃった」
「あのクソ上司め、覚えてろよ」
こういった、SNSで流れてくるような、空っぽで言える瞬発的な言葉の数々が宿るのがこの「表層」での語りであり、仮に疑問形ではてなマークがついたような言葉があったとしても、それは何かを問うているという形ですらないのです。
ここで誤解しないでいただきたいのですが、表層の言葉は必ずしも「無価値」「無意味」というわけではないということです。以降に発生する問いの数々は、そもそもこの表層の語りがなければ成立しないものであり、その意味においては、ここでの言葉たちは「問いの種」として考えるべきだと言えるでしょう。要するに、
「うるさいな」としか言えなかった人
「今日しんどい」とつぶやくだけの人
「やば、ミスった」と言い残す人
といった、これらは問いにすらなっていないようなつぶやきも、「空気的に問いを問えない環境だから、無難な言葉だけに落とし込んだ」だけかもしれない。いわゆる「社会性フィルター」というネットミームで解釈されるような当たり障りのない言葉が、この表層にあるというわけですね。
では、そこから因果関係について掘り下げるために投げられる、最初の「問い」の生まれる場所について見ていきましょう。
5-2. 「中層」――問いが産声を上げる場所
表層での言葉が問いでないならば、問いはどこの層に宿るのか。その疑問の答えはこの層「中層」にあります。
中層では、表層で語られた数々の空っぽな言葉たちを、空っぽのままにしないための語り=問いが次々に発火しています。たとえば:
なぜ暑かったのか
なぜお腹がすいたのか
なぜ先生に怒られたのか
なぜ彼はクソ上司なのか
そういった、表層の言葉に対して何らかの疑問を抱く・抱けるのが、この層の特徴でもあります。そして、中層での問いの特徴として、「問いに対して答えが見つかれば、問いではなくなる」という、表層の言葉と近い性質を持っていることも挙げられます。
つまり:
なぜ暑かったのか → 日照りがバチクソ強かったから
なぜお腹がすいたのか → 朝から何も食べていないから
なぜ先生に怒られたのか → 宿題をやり忘れたから
なぜ彼はクソ上司なのか → パワハラクソ野郎だから
といったように、「なぜ?」に対して「こうだから」という解答で解決できる、という因果関係の説明が成立した時点で、その問いは「表層化」していくためです。この問いの消費構造が一番発生しやすいのも、この中層の特徴である、というわけです。
しかし、中層の問いとて、無制限に問うても良いものというわけではありません。というのも、表層の語りは、場合によっては「表層のまま置いておきたかった」という可能性もありますし、何よりも「問われたくない」という言外の前提を無視したまま問うことが暴力にもなりかねないからです。
だから、人間は問いを抱ける力を持っていたとしても、その問いを「問いのまま抱え込む」ことも、場合によっては必要になりますし、その表層の言葉がどういう場に置かれているかを読み取ることができれば、そもそも問いをぶつける意味すらも解消されていくことになります。
語りに問いをぶつけたくなる気持ちが生まれては消費され、消えていく層、中層。では、その中層で消費される問いを、消費で終わらせずにさらに掘り下げていくとどうなるのか。次の層では「問いに対して問いを投げる」という連鎖が生じることになっていきます。
5-3. 「深層」――問いに対して問う連鎖の場所
問いを投げると、答えが返ってくる。
――その一連のプロセスを、終了条件にしないまま、さらに問いを繰り返していくことで沈んでいくのが、この「深層」です。深層では、問いに対してさらに「問う」ことが延々と繰り返されていく構造が含まれた場所であり、その深みにハマりすぎると自分も相手も傷ついてしまう危険性が、これまでよりも遥かに跳ね上がってしまう場でもあります。
例で言うのなら:
なぜ「暑い」と思わなくてはならなかったのか
なぜお腹が空いたらそう言わなければならなかったのか
なぜ先生に怒られたと呟かなければならなかったのか
なぜパワハラクソ上司からの暴力に嫌だと感じなくてはならなかったのか
といった、感情論理自体や信念のあり方自体を暴くような問いへと一瞬で直結してしまうような問いが、ここではあまりにも溢れかえっているためです。
これらの問いは、軽々しく相手や自分にぶつけてしまえば、まず間違いなく喧嘩になったり変な自己否定に入ったりしてしまいます。それは当然、その問いが「言いたくなかったこと」を、本人が無理やり言葉にしてしまう義務を一方的に負わせてしまう力を含んでいるからこそであって、安易に振りかざせばナイフのように周囲を切り刻む武器にすらなってしまうからです。
だから、ここでの問いを取り扱うときは極めて慎重にならなくてはならないし、それに答えてもらえなかったからと言って、必ずしも悪意的であると判断することもまた危険なのです。
とはいっても、次のような例に対して、この「深層」の問いをぶつけることは、一定の正当性を持ってはいます。
「お金を貸して」と言って借りたくせに、全くそのことに触れない人
「あなたのためだから」と言って仕事を押し付けて自分は遊んでた人
「寝坊しました」と言いながら毎日遅刻してくる人
これらに共通しているのは、「自分の起こした行動に対して、自分から理由を言っていない」という点があり、もしこれらの行動で損害を被っていることが確かな場合においてのみ、その当事者が深層の問いを当人に投げつけることは、無責任な問いの使い方にはならないでしょう。
当然、その場合も「自分が損害を被ったから問う、というのは本当に正当なのか?」を意識しながらでなければ、簡単に「やり過ぎ」に転がっていってしまう危険性もあるため、いずれにしても緊張感をもって問いかけることが重要なのは間違いないでしょう。「被害を被ったこと」は、必ずしも問うことの正当性を担保しないのです。
そして、この深層の問いをさらに問いまくった時、それは「人間とは何か」「考えるとは何か」「問いとは何か」「語るとは何か」といった、極限の問いへと沈降していくことになります。この時に至る層が、次の「深淵」となります。
5-4. 「深淵」――問う言葉すら発せなくなる場所
深層の問いが、やがて世界構造や存在そのものを問い始めたときに訪れる無限化の限界点が、この「深淵」の問いです。深淵の問いは、「なぜ?」と思う感情論理を、感情論理という概念で終わらせたくない感情論理が生み出していく問いであり、それはつまり自己否定の極限でもあるわけです。
つまり深淵の問いは、あらゆるものに対して問いすぎた人が「自分が問うとは何なのか」という自己問答に陥る危険性が極大化した場所ということであり、そこに含まれる問いはつまり「自分が本当に問う資格があるのか?」という、誰に求めているかもわからない資格性を、虚空に向かって延々とつぶやき続けるしかなくなってしまう場所でもあります。
そうなってしまった瞬間、「資格がある」あるいは「資格がない」という判断を、自分に徹底的に突きつけなくてはならなくなる。そしてもし、そこで「資格がない」と確信したとしたなら、その人は永久に語ることができなくなる。この究極さは、ある意味において発狂したと言っても過言ではない空白に、人格が消えてしまう力でもあるのです。そうなってしまうと、次に待っている心の破綻は、このようになります:
あらゆる言葉が嘘っぱちに見えて、それを使う自分も信じられない
黙り込むことで、その嘘を解消できると思い込もうとする
それすらも資格がないと気づけば、自分が存在する資格も問い始めてしまう
結果、それが「ない」と感じた瞬間、命すらも捨てることが正当化されてしまう
そんな問いが属するこの深淵は、通常、頭で意識するだけでも極めて危険過ぎる場所であり、ここの問いは安易に持ち出すどころか、どれほど慎重に扱っても、人間には扱い切れるものではありません。というか、人間として生きていたいのなら、まずこんな問いを持つべきではありません。本当に壊れます。マジです。というか、筆者である私自身、これをやりすぎて壊れかけました。
そして、逆に言うのならば、この「深淵」で問いを止めることができる語りこそが、実は最も学問の根源でもあると言えます。なぜならば、深淵での問いに至ることで初めて、以下の言葉が成立するからです:
「世界は神が作ったから」
「それはもう、そうだったとしか言えないから」
「自然の摂理としてそうなっているから」
「本能がそうだから」
「人間が壊れてしまうから」
これらは、問いを問えなくなった行き止まりを示すための語りでもあり、同時に問いの出発点でもある、そんな主張でもあります。なぜならば、これらを前提とするからこそ宗教が生まれ、科学が生まれ、倫理が生まれ、責任が生まれるからです。現代社会を形作るあらゆる「前提」は、逆に言えば深淵で問いを止めたからこそ生まれたと言っても良いでしょう。
ゆえに、深淵での問いは圧倒的に危険でありながら、最も純粋な形式でもあるのです。
(なお、私はこの問いを限界まで考えすぎた結果、本当に死ぬ一歩手前の考えに陥りました。そこから抜け出せたのはただひとえに、「死ねば語れなくなることが一番嫌だ」という感情論理が働いたからです。こんなゲキヤバな状況で、同じ深度で相談に乗ってくれた友人には心より感謝しています。普通そんな友人いませんからね)
では、その「行き止まりのための言葉」を、行き止まりのままにせずに、さらに問うてしまった場合どうなるのか。そんな危険なことをした果てに待ち受ける、層にもならない層が、次に待ち受けています。
5-6. 「 」――あらゆるものが未成立な……
問いを問いすぎて深淵に至りながらも、その深淵の問いを延々と繰り返し、しかもそれが「自己否定」に至らないまま解体された果てに訪れるのが、「 」です。
誤字ではありません。ふざけてもいません。ここは「 」としか言いようがない、問いが完全に解体され、それどころか感情論理すら成立しなくなった地点であって、「 」という、よくわからない記号でとりあえず示しておくくらいしか記述できない「何か」です。
「 」が何なのかは、もはや説明できません。ですので、「 」に触れる問いを突きつけられすぎるとどうなるかだけ、ここでは記しておきます。具体的には:
感情の原料となる経験や、それを受け取る五感の信号伝達が発生していない直前状態
自分が観測する前の、「観測する前の状態」すら認識していない時間
「未来の自分」を想像する前の未来の自分
こういった、頭の中で意識したりした時点で壊れてしまうような「何か」こそが、「 」という、空白記号で書かれたものの仮説であり、説明自体が不可能な領域になります。
逆に言えば、「 」を壊すことで、初めて人間は世界を意味づけする力を得ることができるという意味で、「 」が何なのかを問うことは絶対的な価値を持っているとも言えるかもしれません。
――言っている意味がわからない? 頭がオカシイ?
はい、言っている意味がわからない、という感覚が一番正しいです。
なぜなら、私がこれを記述していること自体が意味不明だからです。
私は、実際「問いを問いたいという感情だけは、徹底して肯定する」という立場で、感情論理哲学を研究してきました。その「肯定」という感情論理だけで、そういった記述ができない何かの輪郭だけを記述することが、ある程度はできたと言っても良いでしょう。
その感情論理がなければまずこの領域に気づくことすらなかったでしょうし、何よりその感情論理すらも否定されてしまえば、一瞬で深淵の沈黙に陥り、死ぬからです。比喩でもなんでもなく、本当に死ぬ可能性がある限界突破の理屈の上に、「 」の輪郭だけが見えるのです。
だから、読者のあなたが、この問いの海について深く潜りすぎていると思ったなら、「ダメだ」という一瞬の判断を何より信じてください。問いすぎるようなことをしても、結局自分を壊すだけで、リターンが少なすぎます。
だから、この記述は理解不能なままであることにこそ、意味があるのです。
5-7. 問いの海を沈む意味
ここまで解説してきた問いの海について、その内容は極めて読者にとっても重く、理解を拒むものだったことは確かでしょう。一周回って、筆者そのものの人格を疑うレベルの嫌悪感を抱いた方もおられるかもしれません。
そして、そうなるのも当然です。なぜなら、問いの海というのは、そういった嫌悪感を「自分が耐えられる問いの範囲」という目印にすることができる図でもあるからです。あなたのその嫌悪や恐怖が、何よりもこの海を潜る時の計器となりうるのです。
私は、SNSでの発言や創作活動を繰り返す中で、「なぜ多くの人たちはこれほど言葉に生きていないのだろう」という問いを抱くことも少なくはありませんでした。
言葉に生きていないというのは、決して否定的な意味ではありません。「命を持って言葉に向き合うことに怯えてしまう気持ちを理解したい」という、純粋な共感から始まって、問いの海を含む感情論理哲学が、私の中で成立したからです。
その意味でも、自分がどこまで語りに誠実で、命をかけていて、相手に伝わる努力をしようとしているのかを測るための指標として、問いの海を活用してくれれば、私がこれを解説した意味は初めて成立するのかなと思います。
6. おわりに:「感情論理哲学」に関わることの意味
以上が、筆者である私が「感情論理哲学」という堅苦しい名前で言いたかったことの、ほぼ全てになります。この哲学は、原理的には「哲学」と名乗ること自体が許されないほど、あらゆるものを問いにしてぶっ壊してしまう危険性があるものであり、実際に私という一人の人間が死にかけた経験をしたことからも、読者が同じように死にかける可能性すらもある。
語ることは暴力である。
語ることは生きることである。
したがって、生きることは暴力である。
ゆえに、暴力を暴力のままにしないために、それでも語ったという事実を受け入れて語れるのなら、それは無責任な暴力ではなくなる。
私が普段から言っている考え方の根本は、この「死にかける可能性があること」をわかったうえで言っているのです。
語ることは、世界を形作ること。
世界を形作ることは、問いを生むこと。
その問いは、場合によっては人間を殺してしまう可能性があること。
だから、語るということはどこまでも「暴力なのだ」と、私がすべて知る立場だからこそ言わなければならなかったというわけです。
改めて、このような気の触れた記事を冷静に読み進めるという、あまりにも危険すぎる読解を進めていただいた読者の方には、なおのこと感謝以外の言葉が出てきません。それほどまでに、この理論を考え詰めることは危険であり、同時に人類すべてに適用可能な価値ある行動だとも確信しています。
「感情こそが論理である」という考え方が中心にあったからこそ、人間の感情を徹底的に尊重しようという意志が働きましたし、その意志があったがゆえに、私は深淵を覗きすぎてぶっ壊れることも無かったんだと思っています。
だから、読者のみなさんもどうか「感情は論理なのだから、一旦相手の気持ちがどこからやってきたのかを考えてみよう」という意識を向けてみてください。そうしてみれば、自ずと自分自身の感情も照らし返される瞬間がやってきますし、それが互いに重なった瞬間こそ、本当に相手と分かり合える「希望」になるでしょう。
それは、
あらゆる「後悔」という解決不能な感情を癒やす言葉にもなり、
あらゆる搾取構造に「感情レベルでの因果関係」を見つけることで自衛手段にもなり、
「問いを問えない限界」を見つけることで新しい発見を見つけることにもなります。
もし、そのわからなさをわからないままにすべきでないと考え、問いが生まれたとしたならば、筆者のもとに直接問うてみてください。一度は「 」の輪郭に指をなぞったことのある私だからこそ、「問えなさ」をどこまでも尊重したうえで語り合うことができるはずです。
そして何よりも、この「哲学」を名乗る個人の記述が、いつまでも未完成であり続けているがゆえに、他者からの問いを私自身が引き受けることで、さらに気づかなかったことに気づくことができる。そういった「問い合う関係」を作るうえでも、この理論は常に問われ続けなければならない体系だといえるでしょう。
ここまでお読みいただきありがとうございました。



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