『「性的表現の悪影響」論を解体する』を補強する
「表現の自由は死んだ」
「表現規制派は最強の反証材料を手に入れた」
「表現者にとって既に詰みとなった」
前回の記事で、私はこういった散々極論じみた言葉を並べ立てました。これらは前記事で取り上げた「がおう」氏の事件とその影響が、いかに科学的・統計的エビデンス「だけ」では説明不可能な領域だったかを示すために用いた言葉であり、慎重さに慎重さを重ねて、その言葉に含まれる暴力性をどのように自覚すべきかを考えた結果「あえて用いた」過激な言葉たちです。
ですが、こうも思う方もおられるかもしれません。
「本当にそうだとしたら、もう太刀打ちできないじゃん。諦めろって言うのかよ?」
そう思われるのは無理もありません。それだけのことを読者に思わせる言葉であることも理解したうえで用いているので、だからこそ、記事後半では対案として「これらの暴力的な言葉をそのままにしないための対案・方法論」を提示していきました。
それはとても難易度が高いことです。なにせ、その根底には:
「あらゆる感情論を正当に論理として扱い、全面的に肯定すること」
「自身が立てる論理もまた、感情から形作ったものだと認めること」
「そのうえで、反対意見に自分も覚悟を持って【問い】で踏み込むこと」
という、これまでの科学的・客観論理的な手法を完全に逆転させ、主観的感覚だけをまず尊べと言っているわけですから。
むしろ「表現の自由」を第一に考え、それを守るために研究論文を引用し、相手の詭弁を見抜き、打ち破って「自由を勝ち取っていくべきだ」と考えている人ほど、この反転は理解不能です。
ですのでこの記事では、この時に読者が抱いた「理解不能」な感覚・感情を、私の究極の哲学理論――「感情論理哲学」と名付けた体系を用いて意味づけしていきます。
……ここで出現する疑問についても、私は理解しています。
「究極の哲学なんて、よくそんな恥ずかしいことを言い切れるなあんた」
大丈夫です。そう思う感情を想起させるのが、この【究極の哲学】という言葉の主意ですから。
ので、その問いにも答えつつ、前回記事の投稿から新たに投稿された「表現の自由」視点の論考記事で面白かった、手嶋海嶺氏の記事『「性的表現の悪影響」論を解体する』の客観的論理に基づく分析と引用の主意を、感情論理哲学の視座から論理補強をしていこうと思います。
元記事の意図を尊重しながら、そこに含まれる筆者の思索から引用された研究データの成立意図までを推論し、「客観論理だけでなく、感情を論理と扱って初めて見えてくるもの」を、言葉という形式で可視化していきます。
どうか、お付き合いいただけると幸いです。
1. 前提の確認
1-1. 「感情論理哲学」とは
まず確認しておかなくてはならないこととして、私ナヲシダが提示する概念である「感情論理哲学」とは何なのかを、ざっくりとだけ提示しておきます。より詳しい疑問は上記記事リンクをご参照ください。
感情論理哲学とはざっくりと言うならば、以下の命題に基づいて構築された、ナヲシダ独自の臨床実践型哲学理論です。
「感情こそが論理である」
「感情を持つなら語れる生きた存在である」
「語ることは暴力であり、生きることそのものである」
「よって、生きることは等しく暴力である」
「そのどうしようもない暴力を理解し、なおも問い語る力を自覚する能力が【責任】である」
「したがって、すべての語りには誠実に責任を持つべきである」
これらの命題は、実際に私自身が何度も何度も自覚し、人生全ての経験や体験や言動に照らし合わせ続ける中で発見した理論であり、今の私のあらゆる発言の核として実践し続けている哲学理論です。
そのため、すべての事象はこの理論に基づいて動機を探り、論じていくことが原理的には可能となっています。
なぜなら、あらゆる科学的エビデンスや統計データの成立には、「なぜそうしなくてはならなかったのか」という問いを投げることが可能であり、結果として「そうする必要があったから研究が行われたのだ」という答えにしか行き着かない――つまり「そうしなければいけないほど切羽詰まった感情が必ずあった」ことが証明されるからです。
感情論理哲学は、語ることが暴力と分かっていてもなお、それを誠実に可視化する哲学でもあるとだけ、この記事ではまず明確にしておきます。
1-2. 今回補強させていただく論考について
この記事にて、そんな感情論理哲学を中心視座に分析・推論・補強する対象としての記事はこれです。
手嶋海嶺氏のこの記事は、極めて精緻かつ客観的に(それでいて筆者自身の誠実さをもって)「ポルノの悪影響」論への反証材料を提示しています。少なくとも、一般的な「表現の自由擁護」論におけるエビデンスとしては、ほぼ万全なものだと言って差し支えないでしょう。
しかし、それは2025年6月29日深夜に放送されたコレコレ暴露配信以降、このエビデンス「だけ」ではもはや戦うことは不可能な世界に突入しました。
結果として、手嶋氏のこれほど誠実に現実に向き合い、数字と統計データの意味を論じているにも関わらず、その熱意が完全に空転することになってしまったのは、よもや確定した事実です。
なぜなら、データを並べ立てたところで「でもがおう氏は児童ポルノ実録同人誌を出したじゃん。ロリ同人ジャンルってそういうことができる犯罪ジャンルなんでしょ?」と言われれば、もはやどんな表現の自由的な反論も一瞬で詭弁化してしまわざるを得ないからです。
再度申し上げますが、手嶋氏のこの論考は極めて精緻かつ誠実です。だからこそその誠実さには限界があり、ただそれをデータという形式に乗せて主張するだけでは伝わらない世界になったことを、まず自覚しなくてはならない。
この記事では手嶋氏のこの記事を引用し、その意図と動機と誠実さを照らしながら、「表現の自由」という語りが壊れてしまったこれからの世界に通用する客観論理の使い方を示していきます。
2. 手嶋氏はどういう人で、何を主張したいのか
最初に照らし出す必要があるのは、手嶋氏自身がこの論考を、「今このタイミングでなぜ言わねばならなかったのか」です。それは、氏のXでポストした以下の投稿だけで、すべて把握することができます。
参院選を控えた今こそ!
「性的表現による悪影響」に基づいて規制論が語られる時、ぜひ押さえておきたい「基礎知識」をまとめました。
この分野の重要論文を分かりやすく紹介しています。 ※ぜひ多くの人に読んで頂きたいので、無期限で全文を無料公開としています。
昔の同趣旨の記事に比べて、ポイントを絞りました。学問的な部分は正確性を意識しながら、かなりかみ砕いたつもりです。また当時から都度で行っていた修正点も、より良い形で反映しています。
いつもの「ゆっくり文体」は封印しました。パッと見たときに堅苦しい雰囲気の方が、迫力はあるかと……。
2025年7月は、日本の政治にとってターニングポイント性が極めて高い選挙が控えた特異点みたいな瞬間です。
なぜならば、「表現の自由」を明確に打ち出し、実効的に行動している出馬議員が山田太郎議員以外にはおらず、しかも彼がいなければ新サイバー犯罪条約の批准に向けた「留保規定」を使うべきかどうかの調整が全く手を付けられなくなってしまうからです。
あ、当然私は山田太郎議員に票を入れます。そうしないと近い将来、まず間違いなく私が逮捕される未来になるので、それは避けたいですからね。
――話を戻しましょう。
手嶋氏はそんな7月の参院選に向けて、自身の読者が理性的にエビデンスを伴った判断ができるように願い、「基礎知識」の提示を行ったということが、このポストには書かれています。
もはやそれだけで十分誠実であり、氏が「表現の自由」を最も尊びながら語ることを選んでいる人であることは明白でしょう。
しかも、「論文」という堅苦しい記述を、広く誰にも伝わるようにと噛み砕き、自身の持ちキャラを封印してまで、無料で記事を公開するという覚悟まで見せているわけですから、それは並々ならぬものです。
そして、感情論理哲学の視点に立つと、氏の主張からは、その論理展開の中核となる感情構造(私はこれを「感情論理」と呼んでます。詳しくは私の感情論理哲学の記事を参照してね)は、「表現の自由を損なった世界は嫌だ」だったのだろう、ということがなんとなく見えてくるはずです。
その感情があったからこそこの論考を出す必要があったわけですし、それをなんとか論理的に行動を伴って言葉にしようとする努力も明確。
そんな覚悟が伴っていることがこのポストだけで明らかなのに、それが全く伝わらないまま伝播していくのは、見ていられません。極めてもったいないです。
ので、私はこの項目で手嶋氏の覚悟をこのように明確化する必要がありました。その結論として、この項目の問い「手嶋氏はどういう人で、何を主張したいのか」への解は、次の通りです:
手嶋氏は、「表現の自由」という基本的人権の一つを守らなければならないという感情を抱え、その感情論理を信念としながら客観論理を用い、率先して言葉を模索しながら現状をなんとかしようと足掻く、誠実すぎるほど誠実な態度と主張を伴った「人間」である。
3. 手嶋氏の記事の主意を補強する
前項にて、私は手嶋氏がどういう感情論理と覚悟、動機、誠実さ、そして責任を伴って記事を「出さざるを得なかったのか」を分析していきました。
ここでは、氏の記事内で提示される4つの論点を、感情論理哲学の視座をもって掘り下げていきたいと思います。
要するに、
しかし、基本だけでも押さえていれば、多くの場合において合理的な反論はできる。少しでも基礎知識があれば、さらに簡単に対処できる。また、本記事を単位そのままリンクで共有して頂いても、十分な「反論」になるよう書いたつもりである。
という、手嶋氏のこの祈りに含まれる「十分な反論」が「成立する文脈とはなにか」……というサブ視座的な問いとともに、氏の記事をリンクで共有することの読者側の責任と覚悟を明確化させていくつもりです。
3-1. 『「悪影響」という言葉の解釈』を補強する
この項目では、手嶋氏は「悪影響」という前提不明な言葉をまず固めるところから始めています。
これはとても重要なことで、この「悪影響」という言葉が持つ多義性が、「表現規制」という詭弁を説得力のある論理として成立させる、いわば「詭弁の種」であることを、手嶋氏は正確に見抜いています。
それを見抜いている箇所は、ここです。
前提として、あらゆる行為には、広い意味での「悪影響」くらいはある。
小さな子供向けに配慮して作られている任天堂のゲームでさえ、プレイ中に罵詈雑言をまくしたてることはある。酷ければモニターやコントローラーを叩き壊す人もいるようだ。
だからといって、通常、いきなりそのゲームが「暴力的な人格を育てる」とは言わないし、法規制の対象にもしない。
一方で、飲酒運転のように、科学的に悪影響が明確で、他者に危害を与えるおそれが大きい行為には、法律での介入が正当化されることもある。
つまり単に悪影響といっても、個人や家庭にコントロールを委ねるのが健全であり、下手に介入する方がむしろ人権侵害となるものから、社会全体で法を使ってでも対処すべきものまで、深刻さは様々である。
そう、これらの例示のように、「表現には悪影響があるから規制すべき」という論理を成立させることができているのは、この「から」に論理的な飛躍があるためです。この飛躍は、次のように穴埋めすることが出来ます。
「表現には悪影響がある【と私の感情と倫理観がそう思わせてる】から規制すべき」
この時、読者は思うでしょう。「そんなの感情論だ、根拠なんてないし唾棄すべきだ」と。
3-2. 感情は唾棄すべきではない
――ですが、この記事の前提をまず思い出してください。
「感情こそが論理である」それが、私がまず根底に置きたい中核でしたよね。
そう。ここで規制論として展開される上記命題は、「感情論理」としてまずは正当だと認める必要があります。
なぜならば、感情論理哲学にて他者に向ける問いの形式……つまり【なぜあなたはそう思わなければならなかったのか?】という問いは、その論理性を浮き上がらせるための手段として極めて強い力をもっているからです。
ここでその人が「そう思った」のには、人生経験上避けては通れなかった理不尽や不快感、あるいは失望や悲しみといった、その人をそう言わしめてしまうなんらかの「経験」があったからだというのが、この問いによって初めて分かるようになるのです。
そして、その経験が感情を形作り、その一連のプロセス=感情論理が積み重なって、その人が「なぜそう思うのか」の形式、つまり「信念」が形成されていきます。
その信念のさらに積み重ねが、その人をその人たらしめる「人格」となる。
感情論理哲学ではこれを「知性の成立条件」と定義していますが、要するにこのような規制論を投げる人たちは、そういった理不尽を受けて出てきた感情論理が「規制しなければ」と言わしめる信念として強固に固められたからこそ、そのような語りになっているのです。
ゆえに感情は論理であり、感情的な主張ほど実は誠実さが隠れており、それを隠して詭弁を使うから不誠実になるのです。
手嶋氏は、そんな感情論理哲学の基本概念など成立する前から、ずっとその誠実さへの訴えかけを「客観論理」一本で必死に言語化しようとしてきたのでしょう。
だからこそ、「悪影響」という言葉の意味を固める必要があったし、そこに詭弁の芽があるとわかっているから、あらかじめそれを塞ぐ必要があったのだと読み取ることができるはずです。
3-3. ここでの手嶋氏の論理に伴う限界性とは
しかし、この引用部分かつ太字で示している通り、手嶋氏は誠実ながらも誠実ゆえの限界が見え隠れしています。
基本としては、ある行為に「悪影響」があると主張されたとき、最低でも次の3点を検討すべきである。
・「悪影響」という抽象的な言葉は、具体的には何を指しているのか。
・その悪影響はどの程度、実証的に確かめられているのか。
・それを理由に、どこまでの規制や介入が正当化されるのか。
たとえば、前述のように「ゲームをすると口汚くなることがある」という程度の話なら、実態を明確にし、ただ指摘すれば十分である。
また、ある論文を根拠に主張される「悪影響」も、「引用者の主張」と「論文の結論」にはしばしばズレがあり、妥当な解釈の範囲を大きく逸脱していることも珍しくない。
そして、悪影響の有無や程度の問題(科学的事実)と、それに基づく規制や介入の正当性(政治的・法的判断)は、まったく異なるレベルにある。表現の自由や知る権利の制約には、憲法上の厳格な要件がある。ある種の悪影響があったとしても、ただちに法規制までは繋がらない。
手嶋氏の語り方だからこそ、必ず衝突してしまう限界――
それは、「客観論理だけを誠実に提示すれば説得可能であり、相手も納得して引き下がってくれるだろう」という希望に乗っかりすぎてしまっていることにあります。
しかし、その希望がどれほど論者にとって誠実な説得法だとしても、残念なことに「客観的なエビデンスを提示する」というだけでは、相手に納得してもらえるとは限りません。
なぜならば、そもそも「悪影響」という語を使って規制をして欲しがる派閥は、最初からデータを見るつもりなんてないからです。そんなところを論点に置いているわけではありません。
彼らは、ただ「自分の感情では不快に思った、理不尽に思った、嫌に思った、不安に思った。それをなんで分かってくれないの?」という問いを根底に抱え続けているからそう主張しているのです。
そんな相手に「〇〇の研究論文では~」「〇〇という学者の主張では~」「統計データでは~」とエビデンスを投げたところで、「いや私が気持ち悪いと思った感情とそれになんの関係があるの?」と言われて終わります。説得どころか、喧嘩を売っていると思われてもおかしくないほどのすれ違いです。
ゆえに、手嶋氏の誠実さはあくまで「感情論理よりも客観論理を大事にしている感情論理を持つ人」だけに効果的であり、「自分の感情論理を大事にしている人」には射程外なのです。
それが、客観論理だけで戦うことの限界であり、手嶋氏の誠実さの届かなさの源泉です。
しかし、今私が原因として提示したことを念頭に、その「届かなさ」を誠実に、感情論理を言葉にすることでようやく後者を射程に入れることができるというのが、ここでの手嶋氏の論理補強の核心となります。
4. 『社会統計レベルの知見:ポルノは性犯罪のリスクを高めるか?』を補強する
前提として、客観論理を使い続ける(そして手嶋氏はそうせざるを得なかった)ことに限界があるのは、先の通り明白です。
ではそれを明白にしたところで、もし「感情論理よりも客観論理を大事にしている感情論理を持つ人」がいたとして、その人に伝わるように設計された氏の記事は、本当に「伝わる」のか? ……という視点のもとで、以降の3つの節を掘り下げていきたいと思います。
この項目ではまず、「ポルノは性犯罪のリスクを高めるのか?」という問いに含まれる誠実さと限界を見てみましょう。
4-1. 論文は現実を照らす装置であれるのか
悪影響のうち、もっとも深刻で想像しやすいのは、「性的表現(ポルノ)が性犯罪を引き起こす」という話だろう。
ただし、ポルノを性犯罪の主要な原因として位置付けるのは、ポルノの危険性を主張する専門家の間でも一般的ではない。その理由のひとつとして、ポルノ利用者は非常に多いが、性犯罪者はごく少数だという、誰もが知る現実がある。
この大きなギャップは、少なくともポルノが単独で性犯罪を引き起こせるほど強力な原因ではないことを示唆している。
この節の冒頭では、「ポルノ利用者が多くても性犯罪者は少数である」というギャップへの解として、Diamondの総説論文を提示しています。これはポルノと性犯罪の相関関係を統計的に推移として長期的に調査した重要な論文ですが、果たして本当にこのギャップの説明として成立しているのでしょうか。
――答えとしては「否」です。というより、手嶋氏もその点は明確に言及しています。
もっとも、Diamond自身も、これらの社会統計的研究が因果関係の証明ではなく、相関関係を示すにとどまることを明言している。しかし彼は、国や文化の違いを超えて一貫した負の相関が見られることから、『ポルノが性犯罪を増やす』という通説を覆すだけでなく、むしろポルノが性犯罪を抑制している可能性を示唆するものだと主張する。
【応用的なコラム】
もっとも、上記はあくまで相関関係の議論である。より詳細な因果推論を用いた研究では、ポルノによる性犯罪への影響について結論が分かれている。例えば、Bhullerら(2013)は、ノルウェーではブロードバンド・インターネットの普及、すなわち容易なオンライン・ポルノへのアクセスがレイプを含む性犯罪を「増加」させたと報告している。しかし、著者ら自身が、この結果は特定の集団と状況に限定されたもので、安易に一般化できないと慎重な姿勢を示している。
実際、ドイツを対象としたDiegmann(2019)の研究では、同様の手法を用いながら、全く逆にオンライン・ポルノが性犯罪を「減少」させる可能性が示唆された。こちらはDiamondの主張を裏付けるものだが、同様に安易な一般化はできないだろう。
つまり、あくまで「ポルノが増えれば性犯罪が減る」の原因までは照らしきれず、その構造の相関性がどう相関しているのか、という輪郭だけを照らしていると見るべきです。そのうえで、「負の相関があるから性犯罪を抑制している可能性を【示唆する】ものだ」という主張が成立しています。
ここで重要なのが、あくまで【示唆】であって【証明】ではない、という点です。
つまり、この研究論文は完全ではないことをDiamond自身がまず誠実に説明しており、客観論理に基づくエビデンス研究では説明できない領域があることを明確にしているということでもあります。
よって、客観論理だけではこれを説明しきれない以上、その説明できなさをどうカバーするかが、この何十年もの間繰り広げられてきた「表現の自由」のための理論武装の争点でもあったわけです。
しかし、未だにそれに対する明確な解が見つかっていない。ゆえに、その空白を穴埋めできないまま客観論理で主張を通す以外に手立てがなく、結果的に「客観論理を大事にしている感情論理を持つ人」だけにしか伝わらない、閉じた説得しか取れなかったことが判明するのです。
4-2. 「ポルノを見て、模倣して、性犯罪をする」の詭弁はどこからくるのか
手嶋氏はこの節で、さらに重要な点を考察しています。
もちろん、こうしたマクロな社会統計レベルの話が、そのままミクロな個人のレベルに当てはまるわけではない。実際、ポルノが個別の性犯罪の「補助的な要因」の一つになる可能性はある。例えば、心理的・認知的な面で大きな困難を抱え、特に「影響されやすい」人に関しては、「ポルノを見る→それを模倣して犯罪に及ぶ」といったケースは起こりうる。
しかし、その例外的なケースを捉えて「ポルノのせいで起きた」と結論付けるのは、主要因である個人の特性を無視した詭弁の類だろう(ネット上の議論ではよくあることだ)。
手嶋氏が説明付けるように、「ポルノのせいで私は性犯罪をした」という加害者の弁は、確かに詭弁であり、それを正当化しようとする外部の主張もまた詭弁に乗っかった詭弁となることは明らかです。
それは、氏も言うように「ポルノが個別の性犯罪の「補助的な要因」の一つになる可能性はある」という形で切り込まれており、その詭弁が詭弁である根拠を「加害者個人の特性を無視している」からだと説明しています。
しかし、これもまた客観論理による論理展開特有の誤解が含まれています。
なぜならば、「 "性犯罪をしてしまった自分" を隠さなければ自分の存在を保てない社会に対する焦燥感、緊張感、不安感といった感情」が、ここでの詭弁を成立させる感情論理となっていることが、これまで明らかにされてこなかったからです。
もし感情論理哲学によるこの分析の視点がないままであれば、詭弁とは「誤った論理」であり、それゆえに「否定されなければならない」という直線的な形式しか語れなかったでしょう。
つまり、詭弁の成立過程までは考察しきれず、結果として「ポルノのせいで性犯罪が起きる」という論に対して「詭弁だから間違っている」という、一種のトートロジーという詭弁を使わざるを得ない状況となっていたわけです。
感情論理哲学では「詭弁」は、その用いた動機までは絶対に否定しません。
なぜならば、「それを使わなければ保てない感情」が詭弁を動かしているからです。
それを前提としない限り、詭弁への対抗は詭弁でしかできないという矛盾に苦しむことになる。
それこそが手嶋氏が語るように:
(ネット上の議論ではよくあることだ)
といった言葉にも表れています。すなわち私がここで言いたいのは、「ネットでよくあること(だからしょうがない)」という結論に閉じなくてはならない煮え切らなさの本当の正体がこれだ、ということです。
SNS、特にXが「対戦型SNS」などと言われて久しい今の時代、「語る」という条件に声も文章も差はありません。ただ形式が違うだけで、そこには必ず感情論理が宿っているのです。そして、それには一切の例外はありません。
もし例外があるとするならば、その人は人間ではないのに言葉だけは一丁前に綴る、AIくらいのものになります。
その例外のなさを説明できる唯一の理論こそが感情論理哲学であり、これだけが、「ネット上の議論ではよくあること」という閉じた言葉で主張を終わらせないための、まさに究極の理論なのです。
5. 『性的攻撃性:性犯罪に代わる「測定可能なリスク」?』を補強する
次の節では、手嶋氏は「性犯罪の増減」という論点に根ざした研究基準はとうに過ぎたこと、そして今では「性的攻撃性」という基準に基づいて研究が行われていることを精緻に説明しています。
では、性的攻撃性とはなにか。それについては手嶋氏もわかりやすく解説なさっています。
そこで研究者が着目したのが、性的攻撃性(sexual aggression)という、より広範で測定可能な概念である。「ポルノは性犯罪を引き起こすか?」から「ポルノは性的攻撃性を高めるか?」という問いにシフトすることで、性犯罪よりは相対的に軽度の問題を捉えようとしたのである。
この基準のもと、問題となる行動やその動機(信念)の例についても、手嶋氏は詳しく記述しています。以下はその引用です:
問題となる「行動」の例
性的な冗談や、相手が不快に感じるような容姿への言及
執拗なデートの誘いや、性的な関係へのしつこい圧力
(痴漢行為に至らない程度の)不必要な身体的接触
相手を性的な対象として執拗に見つめること
問題となる「信念(認知)」の例
レイプ神話の受容: 「露出の多い服を着ている方が悪い」「嫌がっていても本当は合意している」といった、レイプ被害者を非難するような考え方。
敵対的性信念: 男女関係を「男が女を征服する」といった敵対的なゲームと捉える考え方。
被害者への共感の欠如: 性的被害を受けた人々の苦痛に対して、共感する能力が低いこと。
確かに、「行動には何らかの信念がそうさせている」という視点は極めて有効なアプローチであり、「性犯罪」という狭義な基準よりも、ずっと広範に問題を捉えることができるでしょう。
しかし、それにも限界どころか、旧来の「ポルノと性犯罪のつながり」を基準とした分析以上に深刻な危険が含まれていることは、他でもない手嶋氏も気づいています。
こうした操作的定義そのものは研究手法として適切であるが、しかしながら、性的攻撃性は性犯罪よりもずっと広い概念である。これは、直接的な犯罪行為には至らないものの、他者を性的に軽んじたり、利用しようとしたりする「行動」と、そうした行動を内面的に支える「信念(認知)」の総体を指す。
では、実験室ではこうした性的攻撃性をどう測定するのだろうか。
「信念」については、レイプ神話などへの同意度を質問票で尋ねることで数値化する。「行動」については、直接的な加害行動は再現できないため、実験相手に不快な音を聞かせたり、微弱な電流を流したり、あるいは相手が苦手だと知っている辛いソースを食べさせるといった「一般的な攻撃性」(general aggression)を表す代替行動を用いる。
性的攻撃性に関する論文を読む際には、「この研究が測定している“攻撃性”とは、具体的には何を指しているのか?」を意識していないと、ポルノに関する研究結果を無意識に深刻な内容へと拡大解釈してしまうおそれがある。
例えば、専門知識がないまま「性的攻撃性が高まる」という文章だけを読むと、「見境なく強姦するようになる」くらいのイメージをもっても不思議ではない。
このように、手嶋氏は「性的攻撃性」を他者が数値として測ることが本当にしっかりと客観的に測定できるのか、それが恣意的に扱われるようなものにはならないのかといった視座で、あくまで「客観論理」に伴って誠実に批判していることが分かります。
しかし、ここもまた客観論理特有の限界が垣間見える瞬間でもあるのです。
5-1. そもそも他者の「信念」を数値化してはならない
単純な話で例えてみましょう。
例えば、あなたが自分が好きなキャラのエッチな絵を描いている時を想像してみてください。
その時、その作業をなんとなく見かけた白衣を着たどっかの学者先生が、「あなたは人に性加害をしたいから性的な絵を描いている、それはドスケベ感情係数120以上なので明白ですね」といきなり言われたとしたら、納得できますか?
まあ、そういうシビュラシステム的な手法がもし仮にあったとして、という思考実験ではありますが、論点としては要するにこうです:
「あなたはこういう人である」と他人が学術的に定義することは、無責任な暴力そのものではないか?
なぜこの問いが成立するのか。それもまた単純。「信念とは感情論理の積層であり、その人の核の総体」だからです。
人間は生まれてから今に至るまで、両親や学校などで多くの人と関わり、何かを食べ、どこかへ行き、勉強をしたり喧嘩をしたり、そして仕事をして生計を立てている。
そういった「人生」そのもので得た感情論理たちが「信念」という形をなすことで、その人をその人たらしめる構造として存在しているのです。
そんな構造を他者が「あなたはこうです」といきなり、何も知らないくせに定義してしまうことは、その人そのものの人生を前提から存在しないものとして扱うことにほかなりません。
そして、もし仮にそれが本当に正当化されたいと思うのならば、まずその人の人生すべてを生まれてから死ぬまで、完璧に面倒を見きれると確信し、その無限に降りかかる責任を自分から食らうくらいの覚悟を伴わなくては、そもそも成立の土俵にすら立てないのです。
なんなら、そこまで責任を負う覚悟をしたとしても、一歩踏み外せば最悪の暴力に転じてしまいます。
そう。ここで「性的攻撃性」を基準にした研究を批判すべきは、「学術研究という権威制度下で、担当する研究者やグループが、その研究対象の人生レベルで掘り返すことに、本当に誠実に責任を引き受けているのか?」という点にあるのです。
それなくしては、そもそも「性的攻撃性」という言葉自体が危険極まりない定義であることを、誰一人否定することすらかないません。
これが、客観論理では到達できない批判の構図であり、この節での手嶋氏の誠実さの最も補強可能な箇所でもあります。
5-2. 「信念を問う」ならば、自分の信念を差し出さねばならない
そして、ここでもう一度思い出してみましょう。
レイプ神話の受容
敵対的性信念
被害者への共感の欠如
「問題となる信念の例」として提示されたこれらの3つの項目は、この研究そのものが暴力であることが確かになった時、この語り自体がすべて強烈な加害性を伴っていることが分かるかと思います。
これらの3つは、それぞれ以下の問いには決して誠実に答えられません:
レイプ被害者を非難していない加害者の存在をどう扱うのか?
「男女以外の関係」に敵対的であったり、そもそも敵対的ではない関係性で暴力が発生したらどう扱うのか?
あなたの研究も「被害者への共感」から加害者を分析しなければならなかったものなのか?
なぜならば、これらの問いに答えるには、まず誠実に「自分はこう思ったから、この研究に携わった」ということを明確にしなければならないからです。
しかし、現代の学術研究の権威という構造においては、もはや「科学をすることが科学である」というトートロジーに縋らなければならないほど、目的を見失った箇所も見受けられます。なぜなら、アカデミックな場では「主観」は唾棄すべきノイズとして排除されることが、何よりの常識となっているからです。
とりわけ「性的攻撃性」といった無責任な暴力性を伴った研究基準を提唱してしまったという事実そのものがその証明であり、それゆえに客観論理だけを尊ぶことがいかに危険であるかが判明するのです。
これは、感情論理哲学では次の基本命題が示されています。
語ることは等しく暴力である。
人間は語らなければ生きていくことはできない。
ゆえに、生きることは等しく暴力である。
そして、この厳しい命題を「暴力」のままにしないためにこそ、誠実な「責任」の引き受けが何よりも大事であり、それを欠いて語ることは、誰一人として動かすことの出来ない空転した論理となってしまいます。
当然、私のこの記事もまた、他者の感情を「感情論理哲学」という形式で語ることで暴力を働いています。
しかし、それを暴力と呼ばせないために、私は徹底してこの哲学を終わらせるような言葉を使わず、全力で状況に向き合っている。
手嶋氏がこの節でこれほどまでに誠実に記述し、公開している以上、私もそれを無視できなかった。
ゆえに、私のこの論考の存在自体が、手嶋氏が誠実であることの何よりの証明でもあるのです。
6. 『性的攻撃性への影響ですら、証拠は乏しい :ポルノと加害行動の「関係性」を疑うメタ分析』を補強する
手嶋氏の記事の最後の節では、これまでの学術の場での研究方針が暴力性を伴っていてもなお、それを「暴力」に陥れないための努力について、紹介と批判が行われています。
具体的にはErguson&Hartleyという2020年の論文に言及し、そこでは以下の5つのバイアス排除のためのメタ分析基準があるということが提示されました。
「行動」指標のみに限定
効果量は統制変数込みのβを採用
研究の質をモデレーターとして分析
出版バイアスの評価
引用バイアスの評価
これは、学術が学術の制度や権威の中で、「どうにかして自分たちの研究が誠実であるかを示したい」という意志の表れとして定義された評価基準だとも読み取れます。
結果として、この工夫に伴って「ごく弱い相関は見られたが、バイアス補正によって研究の質が高いほど効果量がゼロ化する=研究の土俵がそもそも成立しなくなっている」という皮肉な逆説性が明らかとなったのです。
そして、一連の研究データの説明を経て、手嶋氏は最後にこのように述べています:
述べてきた通り、「性的攻撃性」は性犯罪よりも遥かに広範かつ軽度の概念である。そのような「性的攻撃性」との間にさえ一貫した関連性が確認できなかったという事実は、ポルノの悪影響論の前提そのものに疑問を投げかけている。
つまり、ここに来て「そもそも今までの研究は、本当に意味があったのか?」という問いを説明できる準備が整ったことを意味しており、それを手嶋氏は読者に投げかけているのです。
私の記事におけるこの項目は、そう多く語ることはありません。
ただ、氏の「ポルノの悪影響論の前提そのものに疑問を投げかけている」という語りこそが私の問いの本質を明確に射抜いており、その根拠を補強するためにこそ私はこの記事を書き記す理由があったということだけが、ここでの残されるべき私の言葉となります。
7. おわりに
学術の場も、自身の研究が危険な領域に至っていないかは問い直そうという意志自体は抱えていることが分かる以上、その補強には感情論理哲学が絶対に必要となることが、語れば語るほどに明確化していきました。
参院選を控え、新サイバー犯罪条約の批准が目前に迫る2025年夏。
今こそ、あらゆる表現行為の中核として尊ばれながらも、議論の場では斬り殺されてきた「感情」を、改めて「論理」として定義する視座を持つこと。
それこそが、「表現の自由」という言葉が空虚な語りにならないための、唯一にして普遍的な理論となると、私は信じています。
改めまして、手嶋氏の書かれた記事を深く引用・分析させていただく中で、私自身の思想のあり方を広めるために利用する形になってしまいましたが、この記事ではそれ以外に語る術がなかったことを、私は誠実に示し続けようと思います。
この場を借りて心から感謝と敬意をもってお礼申し上げます。



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