大手ロリ絵師のやらかし、そして――新サイバー犯罪条約の批准を前に、表現の自由の「決定的自滅」にどう向き合うべきか
2025年6月末、すべての創作者・表現者にとって最悪の出来事が起きました。
人気Vtuber「湊あくあ」のキャラデザなどを担当していた、実力派イラストレーター・がおう氏。
彼のプライベートに関する重大な事実が、暴露系配信者・コレコレ氏の配信を通じて明らかになりました。
暴露の核心は――
「未成年の少女と性的関係を持ち、さらにその体験をモチーフにした創作同人誌を発表していた」という、本人による事実認定の発言。
情報の出所や経緯についてはさまざまな憶測が飛び交っていますが、本人が配信中に「それは事実です」と明言したことが、すべての状況を決定的なものにしました。
(※キュレーション要素が強く掲載には迷いがありますが、わかりやすく経緯を整理している記事として参考までに以下を記します)
注:この記事は、「がおう」氏の個人的スキャンダルを糾弾することを目的としたものではありません。
問題は、この事件が「表現の自由」を掲げて活動する全表現者にとって、取り返しのつかない破壊的な影響をもたらしたという点にあります。まず、それはマジで否定のしようのない事実として、慎重に受け止める必要があります。
なぜなら、
◯未成年という、法的・社会倫理的に守られるべき存在に対する加害
◯その経験を自身の創作に「実録」として織り込んだ事実
◯そして、それを反省の弁として語ったという意味
といったいくつもの経緯が、惜しげもなく踏み込まれていったという現実が確定しているためです。
これらの事実が一本の筋として成立した瞬間、「表現の自由を守る」という言論の正当性自体が社会的信頼を喪失した、と明言して差し支えなくなりました。
この事件によって、特に現在批准の動きが進む「新サイバー犯罪条約」への批判的言論・抵抗の立場が、音を立てて崩壊したとすら言えます。
何らかの創作に携わる者であるため、政治の話で強気に語ることが危険なのは分かっています。それでも、それであっても私は、創作者の一人として、この事態を「他人事」として遠ざけることはできませんでした。
なぜならば、新サイバー犯罪条約の問題ですら注視するだけでも手一杯な中で、ギリギリに踏みとどめてくれた現場の議員や組織、応援してきた個人がいたから「留保規定」などの抜け道が作れたのに、その留保規定を国内法で使うか使わざるかの議論において、規制推進派にとって格好の餌となってしまったからです。
エロで食いつないで来ている私が、それを生業にもしてきた私が、それに何も言わないという手段をとることができなかった。なぜなら、生活に直結する話だから。
なのでこの記事は、以下の点を明確にし、「黙っていることが出来なかった理由」を掘り下げる形で書くものになります。
何がどれほど深刻で破壊的なのか
なぜこの問題を「表現の自由」と切り離すことはできないのか
私たち創作者がどのように「この現実と向き合わざるを得ない」のか
これらの問いは、私が必死に考えながら書いた覚書であると同時に、「"一切の表現は自由であるべき"と主張してきた側の守るべき最低限の示しが、たった1人の創作者側の失態によって、根本からぶっ壊れてしまった」という現実に向けて、言うべきことを言うために打ち立てたものです。
同じように危機感を抱いていて、その危機感に絶望している方ほど、ぜひ読んでいただきたい。そういう方に向けて、決して無駄にならない論理の立て直し方を目指したのが、この記事だからです。
そして、可能であればこの記事を共有していただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
1. 「がおう」氏の何が問題だったのか
冒頭でも述べたとおり、本記事はイラストレーター「がおう」氏個人の糾弾や人格批判を目的とするものではありません。
したがって、この節での言及も、必要最小限度に絞った説明として位置づけます。
では、何が問題だったのか。
成人男性であり、かつ妻子を持つ身でありながら、人気イラストレーターとしての立場と「実績を持った大人」という社会的仮面を用いて、未成年の少女と性的関係を持った。しかも、その関係性の一部を、自身の創作(同人誌)に実体験ベースで反映させ、「実録」として頒布していた。
この事実が、たとえ彼が属していたジャンル――ロリ寄りの表現領域――だけに限定して見たとしても、極めて悪質かつ、ジャンルの根幹倫理を破壊する行為であったという点は否定できません。
とりわけ、被害当事者である少女の心身に与えた影響を考えれば、それは最悪の加害であり、かつ最悪のかたちで創作に回収された暴力であると、明言せざるを得ません。
ここでは、その問題を詳しく整理していきます。
1-1. 関係を持っていた子らを搾取していたことは明白だから
経緯記事では、実際にがおう氏と関係を持っていた子が電話で出演し、「14歳、17歳の時点でそれぞれ関係を持っていた」ということが暴露されています。そこに記載の記録においては、がおう氏が実際に彼女にゲームを口実に迫ったり、最終的には自己都合(元カノが忘れられない等)で振ったりといった行動があったことが語られています。
実際に当人がそれを語ったことは確かであり、がおう氏も実録同人誌を事実と認めたことから、この暴露も必然的に事実であることは確かだと断言できます。
もしこれがすべてひっくるめて単なる「冗談でした!」で終わればよかった……と思った方もいるかもしれませんが、もはやここまで整合性の取れた情報があれよあれよと出てきてしまった以上、もはやそれは無理でしょう。事実は事実として諦めて受け入れるほかありません。
そして、項目タイトルにて「搾取していたことが明白」とわざわざ私が記述した根拠は、「冗談」では終わらせられない、反証不能な事実が目の前に転がっているから断言できることでもあります。それは、「実録同人誌を出したことを、がおう氏が正式に認めている」その一点につきます。
1-1-A. 実録同人誌を出したということは、それ自体が搾取の証明である
実際に社会倫理と法律が成立しない領域なのは明白だ……と言いつつも、その中で仮に語られる幻想として「大人と子どもでも対等に付き合える」という論は度々、児童ポルノ禁止法のタブー批判のひとつとしても論理的には説明可能でしたし、これ自体は感情という言葉になる前の論理では、肌感として「在る」と言える部分はあるでしょう。
しかし、がおう氏の例では、まずこの論理は成立できない状態になってしまっています。
それはなぜか。
まず、仮にその「対等に~」という意志が誠実に存在していたとしても、社会がそれを許さないのならば「付き合わない」という選択が最も誠実になるはずです。
しかし、がおう氏はそれを無視してでも「付き合う」という選択を、破滅的な重罪と分かっていて踏み越えたわけです。
それは、明らかに茨の道です。この記事の私がこの項目を記述するだけでも破滅の恐怖が相当であるのに、彼はそれを引き受けて付き合う道を選んだのですから。
――しかし、実際はそんな覚悟など想定すらしていなかった、と見るのが、現実でした。
なぜなら、それを想定していたなら、実録同人誌を書くなんていうことはまずできませんし、そもそも「ロリ」を描くことに強烈な罪悪感を抱いていなければおかしいからです。
自分が描いてきた作品と同年代の子と関係を持っているわけですし、例えるなら「実のお母さんの写真を見ながらお母さんのエロ絵を描く」くらいの居心地の悪さを数千倍に凝縮したヤバさを抱えるものになりかねない、それだけのことをしているのです。
それほど、そもそもに実在の誰かをモデルにするということはエロ如何問わず重いことですし、だから「ナマモノ」ジャンルはあれほど秘匿的な因習で塗り硬め、表に出ないように必死になって隠しているわけです。
「現実の誰かを性的な眼差しで語る」という暴力を自覚していなければならない立場ゆえにです。
しかし、「実録同人誌」を、その「実録」部分をこんにちまで秘匿しながら頒布していた――つまり、その「眼差し」の暴力を自覚していながら、そこに宿る重責までは無視してきた結果、当事者からの暴露に対する「反省」「誠実」という名の保身で、その「実録」部分を事実と認めてしまった。
それにより、「元カノが忘れられない」といった理由で性的にも心理的にも搾取された当事者が、それをネタに「売り物」にされたことが確定してしまった。
そう、これは重大なセカンドレイプにほかならない、そんな構造なわけです。
ゆえに、がおう氏が実際に未成年者を搾取していたことは論理的に説明がつきますし、反証不能な事実として証明されてしまうのです。
そして、彼の引き起こした問題は、当事者の心だけでなく、彼が属しているジャンルどころか、創作者全体の心をも破壊するほどの衝撃をあたえました。
56万人(25年7月現在)のフォロワーを抱え、ロリジャンルの中心に近い場所にいた、いわゆる「神絵師」とさえも呼ばれうる立場の彼が起こしたことは、世界そのものに喧嘩を売るほどの出来事なのです。
1-2. ロリジャンルが長年持っていた「掟」を根底から破壊したから
まず、がおう氏は大手Vtuberのキャラデザなどを担当していた、という実績がある人物ですが、それと並行して同人活動などで、中学生~高校生ほどの年齢設定の性的表現を描いてきた人気ロリ絵師という顔も抱えていました。
すなわち、いわゆる幼女とまでは言わなくとも、ある程度「ロリ絵師※」という認識を持たれる位置にいたことは確かでしょう。本人の少なくはない日常の発言記録からも、自他ともに認めるジャンルポジションを自覚していた、といっても良いはずです。
(※私も本件を知ってから作品を見ましたが、厳密には狭義の「ロリ」とは言い難い年齢層を描いていた、という感じではあります。しかし、ここではわかりやすさを優先するため、あえて広義の意味での「ロリ」という語を用いています。あらかじめご了承ください)
その立場でありながら、裏ではその作品で出てきた年齢の子と性的なあれやこれやを行っていた。しかもあろうことか、それを実体験の要素として同人誌のネタにしていたのです。
それが何を意味しているのか。
「Yesロリータ、Noタッチ」という有名な界隈の掟を、もはやこの事件以降言葉にすることすら出来ない呪いの言葉へと、一瞬で陥れることをしていた、というわけだからです。
1-2-A. 「Yesロリータ、Noタッチ」とは
この言葉は、1999年の児童ポルノ禁止法制定や2014年の単純所持罪改正などを経た、「ロリコン」への偏見や迫害に対して、自嘲気味・皮肉気味に自衛するために生み出された言葉でした。その意味は
「Yesロリータ」→ロリコン趣味そのものは否定しない
「Noタッチ」→しかし現実には絶対に手を出すな
という、当時のロリ創作や表現を探求していた先人たちが築いてきた血の掟としてのニュアンスを、極めて強く含んでいました。当然、ロリを描いていた人ならば、そのジャンルに属していたことがあるならば必ず1度は目にする標語であることは間違いないはずです。私も実に(あまり描くことはないにしても)そのジャンルを好むことがある身として、この掟の存在は知っていました。
いずれにしても、「現実の子どもには手を出さないから、創作物としての子どもは自由に描かせてくれ」という切実な願いと、表現の自由に真正面から向き合い、それを描くための責任を考えてきた先人の意志が反映された言葉、でした。
ですが、彼は、がおう氏はその掟を、一番破ってはならない形で破り、それを「反省」や「自責」というパッケージで語ってしまった。
つまり、先人らの命がけで守ってきた掟とその意志を、無思慮に、無責任に、そして釣り合わない半端で安直な誠実さによって踏みにじった、というわけです。
単に謝罪すれば良いという話ではありません。
言葉だけの謝罪では、まず絶対に取り返しも責任の自覚もできないレベルの大失態です。
――すみません。強い言葉で批判をしてしまいました。ですが、本当にそうとしか言いようがないほどのことを、彼はやらかしてしまった。
その事実を説明するには、この形式しか選べない。それほどのことでもあるのです。
ともあれ、がおう氏が本当に謝罪をしたりする意志があるというのならば、ジャンル全体で二度とこの掟を口にできなくなったかもしれない事実を受け入れ、自覚し、それでもなお逃げずにどうすれば掟の意志を回復できるかを模索する立場にならなければいけません。
そして、今この瞬間に彼がそれができているかは、もはや火を見るより明らかでしょう。
1-2-B. その「実録」の同人誌はどう扱われるの?
経緯を書いた記事でもある通り、がおう氏はコレコレ氏の配信に自ら出演し、「未成年の少女と性的関係を持ち、さらにその体験をモチーフにした創作同人誌を発表していた」という疑惑を「事実です」と言い切ってしまっています。
これはすなわち、彼自身がその手で描いた作品が、実際の子どもを搾取して得た情報をもとに制作されたものであることを自白した何よりの証拠ということになります。つまり、先のとおり「Yesロリータ、Noタッチ」の掟――「ここで描かれているものは事実でも現実でもない、人権の成立しない架空の子どもだ」というあり方と覚悟を、ただの「言い訳」や「隠蔽」の意味へと陥れてしまったことを意味しています。
当然、その実録同人誌は実際の子どもの性的搾取を土台に描かれたことが明白なわけですから、狭義に見ても「児童ポルノ禁止法」における「児童ポルノ」に該当するデータである、という論理が成立します。これは、令和2年の3DCGで再現された児童ヌード写真の摘発事例で、実際に司法が「児童ポルノである」と判定した判例が存在することからも、必然的にこれほどの明白性があれば、同様の経過を辿ってもおかしくない、ということになります。
つまり、「実際の子どもを性的に見た、触れた、経験した」という情報で汚染されたことが誰が見ても明白な表現物は、論理的には児童ポルノに該当する可能性が極めて高いものになるのです。
今までは、それが実際にどうであったかはわからなかったし、誰もが「そうではない」という建前のもとで創作を行ってきた。
しかし、このがおう氏のやらかしが存在している、たったそれ「だけ」で、その建前が本当に「建前」になってしまったのです。
つまり、彼の実録同人誌が成立するのならば、彼の他の作品どころか、他のロリ系絵師や作家が描いたリアリティのある物も、すべて「実録」なのではないか――そんな疑念を、社会が抱いてもおかしくなくなってしまう未来が、よもや確定してしまいました。
大事なことなので2度言いますね。これは確定してしまっています。
その疑念は、どう否定しようと「否定しなければならない」という言葉の作り方が成立する以上、もはや回避不能なジャンル全体の汚点になります。
なお、これはキャラクターが人外だろうとケモノだろうと数千歳だろうとなんだろうと、どんな言い訳も無効化される疑念でもあります。
これからのロリ(そしてショタも含めた)ジャンルを中心とした創作者は、もはや「現実の子どもを搾取して描いたものである」という見られ方をされるという前提のもとで、それでも描かなければならなかった、という欲求のあり様を前提に論理を立てる必要に迫られています。
それは、逃げられないゲキムズ案件にほかなりません。
なぜなら、一歩語り方を間違えれば、本当にその疑念が連鎖して破滅するからです。
しかし、もはや当事者は誰も目を背けては通れなくなってしまった。
これは、創作を嗜むすべての人間に通じる、地獄の要請にもなります。
2. それが新サイバー犯罪条約の議論にどう影響するのか
がおう氏の件が最も致命的に作用するのが「新サイバー犯罪条約」を巡る議論です。特に留保規定に関する国内法での使用判断が取り沙汰されている今、この件は最も避けなければならなかった汚点にほかなりません。
なぜならば、条約を提案した中国やロシアといった覇権主義国家の思惑が、「国内の情報統制の目障りになる自由な世界のほうを破壊して、自分たちの権力の自由だけを確保したい」であり、その本音を隠す建前として「児童保護」を名目にしてきた、ということがまず明白だからです。
そんな思惑は、国内でも親中派や親露派的な言説を繰り返していたり、ラディカルなフェミニストだったり、保守的な家族像を理想としていたりといった「覇権国家にとって都合の良い派閥」を、SNSのアルゴリズムなどに干渉しながら発言力を確保させてきた……と考えてもおかしくない状況が、ここ数十年ずっと続いてきたかもしれないからです。
考えてみてください。
「中立に運営しています」という顔をしてきたXやTikTok、InstagramなどのSNSが、本当に中立だということを誰が証明できますか?
海を超えて干渉してくる情報工作が「ない」と言い切れる根拠は、どこにありますか?
そして何より、「この推論が根拠がない」と思ったあなたは、その根拠のなさをどこまで誠実に考え直せますか?
はい、これらの問いはすべて、形式的には「悪魔の証明」という詭弁です。無いものを証明せよと問われても応えられませんし、それを問われた時の違和感や不快感、あるいは煮えきらないモヤモヤを、筆者の私に抱いたとしたなら、それこそが何よりの答えです。
そして、何度も問い直されても、この項目で示した私の推論に証拠などはありません。言葉にされることのない、データにも統計にも現れることのない「有り得てもおかしくない構造」の推論に過ぎないからです。
しかし、それを「証拠がないから無根拠だ」と切り捨ててしまえば、あっという間にそういった危険な国家の思惑のコマとして利用されるかもしれない。
だから「陰謀論だ」と言われても構わない覚悟で、私はその構造が「まず在る」ということを言わなければならないと思った。そう思わせてしまった感情をひっくるめて、まずは私が言葉にすべきことを言葉にしています。
そして、そのような証明不可能な「可能性」だけが輪郭として感じられる中で、がおう氏のような「最悪の実例」が、表現者の側から表れたという事実。それだけで、中国にしろロシアにしろ、新サイバー犯罪条約をゴリ押しする勢力にとっては、願っても見なかった「最強の武器」を与えたのではないか、という疑念が否定不可能な正当性をもった感覚的根拠を与えてしまうこととなりました。
冷静に見ても、こんなにも圧倒的な正当化材料が、ロリショタ中心の同人ジャンルという「一番社会から蔑視されてきた派閥」から転がりでてきた。ただそれだけで、まさに国を挙げて取り組んできた対策に背中から撃つような利敵行為でしかないのです。
がおう氏の行ったことの重大性は、もはや個人でどうにかできる領域ではないことを如実に表しています。
3. 「表現の自由を守る」という言葉がどう壊れたのか
この項目では、第1章、第2章の分析と確認を経て、「表現の自由」という言葉と文脈がどのように破綻してしまったかを見ていきます。
3-1. 「表現の自由」という語は、これまでのようにはもう使えません
この記事の想定読者は、少なくとも「表現の自由」が破綻・毀損・破壊されてしまったのではないか、という懸念のもとで読んでいる方が多いものかと思います。まだ現状に希望を抱いている、あるいは「がおう氏の件は個別に処理すべきで、表現の自由とは無関係」と切り捨ててしまいたい、という方も少なくはないでしょう。
しかし、残念ですが、私はそれを安易に肯定するという無責任は取れません。
ので、ここではもう、はっきりと申し上げます。
「表現の自由」という言葉は、死にました。
忖度なく言葉にするのなら、もはやこう言い表すのが正解です。
ただ誤解しないでいただきたいのは、「表現の自由」という言葉の理念や根源までは死んでいない、ということにあります。つまり、今までの「表現の有害性は証明されていないのだから、法律に違反しない限り制限されるべきではない」という、説得力を伴ったロジックが、悪い意味で「建前」化してしまい死んだ、という意味合いでの命題になります。
表現の自由、つまり、思想や思考を言葉や文章、絵、映像、音楽等の形式で表すという「行為そのもの」は、原理的には可能であり、許容されるべき概念であることは引き続き、憲法などでも保証され続けるでしょう。
ですが、問題はがおう氏のやらかしによって、この理念を「ただ語る」ことが極めて難しくなってしまいました。もはや、今この瞬間から「表現の自由」を安易に語ることは、それ自体が詭弁になってしまったからです。
以下、「がおう氏が未成年者を搾取していたなら、性表現は搾取であり危険である。よって表現は規制すべき」というごく一般的な論理を前に、「表現の自由」の文脈で語られたこれまで主張がどう破綻し詭弁化してしまったのか、そしてその主張の詭弁という形から脱却し、回復するための手段・条件を列記していきます。
3-1-A. 「がおう氏の件は既存の法(児ポ法)で裁けるから表現の自由の話ではない」
この論理は、がおう氏による未成年搾取の事件を「個別具体例」として切り離し、彼自身の問題として処理してしまうことで表現の自由を守ろうとするものです。
ですが、この論理には重大な問題があります。それは、「フォロワー数十万人のロリ絵師が、描いている絵と同等の年齢の子どもと関係を持っていた」という事実を完全に無視していることです。
まず前提として、がおう氏を含めた創作活動を行う人間は、表現という語りの形式を使いこなして「架空の世界を作る」ことに長けています。それは物語という形で誰かの感情をくすぐり、泣いたり笑ったり、あるいは性的に興奮させたりといった反応を狙って行うことを生業にすらしている立場にあります。それほど語ることの力があり、それが安易な暴力にも転がり落ちてしまう危険性があることを、最も自覚していなければならない立場なはずです。
そんな立場なはずのがおう氏は自らの語りと現実の行為を一致させてしまったわけです。さらにはそれを同人誌のネタにもってきた上、付き合っていた子ども本人に対しては、身勝手な理由で別れを告げて捨てたのですから、それが悪質でなければなんと言えばよいでしょう。
……そして、この暴力は法律という「一定の基準で誰かを断罪するための制度」ではまず発見も処理もできるものではありません。なにせ、言葉になる前の感情レベルで傷つき、搾取され、消費されたという事実があるわけですから。言葉を前提とした説明でなんとかできる話ではないのです。
そして、この文脈をもって「表現を規制すべき」と語る人は、この搾取された側の感情に対する暴力に敏感であるがゆえに出た論理だと読むべきです。そんな相手に「児童ポルノ禁止法で裁けるから」と反論するのは、そもそもに論点が全く違うのです。
【詭弁を回避するための条件】
まず、批判者の表現規制を求めたいという感情を「在るもの」と受け入れてください。そのうえで、文面通りまずその批判を受け取り、そのうえで「なぜ表現規制が必要だと思わなくてはならなかったのか」を問うことだけを論点にしてください。
このとき、決してレスバになってはいけません。もしレスバに発展しそうなほどに瞬発的に怒りを抱いたとしても、まず前提として反論側が「圧倒的に不利」であることを自覚する必要があります。そのうえで、「なぜ相手の規制論に反論できないのか」を、感情レベルで真正面から向き合いながら、先の問いを論点に相手と会話してください。
法制度や客観論のソースでは対応不可能な領域であることを理解しなければ、反論は不利なまま封じられてしまいます。
【反論例】
「どうしてがおう氏の件が表現規制しなければならない理由だと思ったのですか?」
「この件はロリショタジャンルを含めた創作業界全体の責任として考えないといけません」
「規制されても仕方ないほどに疑われてるのは分かっています。それでも私はその疑いの中でも真正面からそのジャンルを楽しみたいんです」
3-1-B. 「がおう氏が仕事をキャンセルされ完全に干されて廃業されただけ、自浄作用があったと言える」
これも論理的には正しいですが、もはやそんな論理を通り越した問題だけを置き土産にしてしまった点を見落としてはいけません。
確かに、彼はこの件を経て「廃業する」とも明言している前提があり、もはや二度と表現の場に出ることは叶わないことは確実でしょう。しかし、だからといって、私がここに至るまでに書き記したあらゆる破壊的な影響は、彼がキャンセルされようがされまいが永久に残り続けます。
そして、残された無辜だったはずの創作者たちが、一心にその影響を重責として引き受ける必要が出てきます。
本来ここまで再考し、改めて抱えることを覚悟する必要などなかったはずなのに、です。
よって、もはや彼がどうすべきか、あるいはどう対応すべきかという論点などはとうの前に過ぎ去っていることを、まず自覚する必要があります。
【詭弁を回避するための条件】
まず、がおう氏を責めるだけの視点から外して、その影響全体を見渡すようにしてください。その根拠は既に私が説明したとおりです。そのうえで、もはやがおう氏だけをどうにかするという考えではなく、「これを受けて自分がどうすべきか」を問う論点から、反論をしてください。
【反論例】
「がおう氏がどうだろうと、少なくとも私は彼を許しません。そのうえで、私は彼のような暴力を自分の作品制作でも無視したりしません」
「彼がどうこうなんていう論点より、彼のような加害者を出してしまったジャンル全体で、その原理にどう対処すべきかを考えます」
3-1-C. 「がおう氏が未成年者を搾取したからといって、すべてのオタクが危険視されるわけではないので、批判は偏見。無意味」
これは明確に誤りになってしまいました。少なくとも、がおう氏が実録同人誌を認めてさえおらず、あやふやなままに終わっていたならば、ギリギリその論理も通用したかもしれません。
ですが、創作物と現実の行為が完全に関連していて、手で描いたそれが児童ポルノとなってしまった。その前提がある時点で、「オタクが楽しんでいるものはすべて何らかの搾取を経て生まれたものではないか?」という疑念の、頂点に君臨する反証材料となってしまっているのです。
この現状の前では、「オタクだから危険視すべきではない」という、今まで勝ち取り続けてきた市民権すらも破壊されうる可能性があり、もっと言うのであれば、このような反論命題が語られた時点で、「すべてのオタクが危険視される可能性がある」ことを認めたも同然となってしまいます。
ゆえに、そのような批判の種となる疑念を、感情として抱かせた時点で客観的な論理では一切反論が不可能です。
【詭弁を回避するための条件】
まず、前提として「ありとあらゆるすべての語りは暴力である」ということを念頭に置いてください。
絵を描くことも、語ることも、見ることも、聞くことも、思うことも、感じることすらも、すべて「定義していないもの」へ意味づけること、定義づけることになる「語り」の形式です。そうである以上、その自覚もなく振る舞えば、その暴力は「加害」へと転じていきます。
そのうえで、その暴力が加害として、たった一人の無思慮な絵師のせいで無責任に振るわれ、「ロリショタジャンル」を中心に、創作活動の健全さを根底から破壊されているのです。
その前提の前では、もはや「自分は無関係」という顔でいることなどできません。なぜなら、読者であるあなたもまた、そういった語りでこそ誰かとつながってきたからです。
だから、「語ることは暴力である」という前提を頭に入れたまま、「それでも、暴力を加害にしないために、私は今、これについて関連性をもって言及しないといけなかった」という視座を持つ必要があります。
【反論例】
「すべてのオタクが危険視されてしまうかもしれないですが、それでもその危険視される側として、今のこのどうにもならない業界全体の失敗に率先して向き合おうと思います」
3-1-D. 「そうは言っても、データ・統計・研究結果では、表現によって犯罪が起きるとは因果関係が証明されていないのだから、本件は例外でしょ」
いいえ。がおう氏の件はただの例外ではなく、「数字では見えていなかったものが、数字じゃない領域で見えてしまった」……と受け止めるべきです。
これは、もはや生半可なロジックや膨大な研究データなどでは説明などできない、「感情こそが、その人にとっての絶対的論理である」という命題を念頭に置かなければ、感じることすらもできない問題です。
そして、「暗数」として語られる児童搾取の構造に、唯一その「暗数」の意味を正確に説明できる理屈でもあるからです。
まず、これは確認しておかねばならないのですが……大前提としてがおう氏の引き起こしたこの事件、そもそもに「統計的数字上の"事件"として、今この時点で記録されるような状況になっていますか?」
そう、そもそも被害者として暴露した彼女が、そもそも被害届も何も出していない。つまり、当局や司法がそもそも感知していない事態である、ということになります。
ここで重要なのは、「これから数字になる」では意味がない、ということ。
がおう氏のあれこれがコレコレ配信にリークされて発覚するよりも前に、「犯罪そのものが起きていたこと」を記録することは、発覚していない以上原理的に不可能なのは、よく考えずとも理解できるでしょう。
だからこれほどややこしいことになったし、「制度の取りこぼしの結果」という見方すらもできる、完全な死角の中での出来事なのです。
よって、「がおう氏がああなのだから、他のロリショタ絵師がどうなのかを疑われるのも仕方がない」というレッテル貼りや偏見が、もはやレッテルでも偏見でもない状態にあるのです。
なんせ、「因果関係」の根拠となる最悪例が、やらかした当人から証明されたのですから。
【詭弁を回避するための条件】
まず、「データで見る・反論する」という形式を捨てるところから始めてください。
もはや、既存の「表現の自由」の啓蒙論理は、一切が意味をなさない状況に突入しました。
データでは見えない、その社会構造や法律構造、あるいは個人の空気や価値観の傾向……つまり、「あなた自身の観測範囲でなんとなく感じる違和感」を、まず第一の根拠に据えてください。そうしなければ、ここから先の論理展開は不可能です。
そのうえで、「なぜ私はその観測から、そのように感じてしまったのか」を、とにかく問い続けながら反論を組み立ててください。それを構造化し、記述し、繋がりや飛躍なく、誠実に論理化することができれば、自ずとそれは客観的にも「納得の得やすい論理」になっていきます。
そして最も重要な点なのですが、仮にそれが論理として考えが固まっても、「固まったこと」を疑い続け、そしてそれが疑われたときも恥ずかしがらず、怖がらず、焦らずに、正直かつ冷静に「私はこう思った、だからこう結論付けた」と語ってください。
この過程で相手から心無い言葉を掛けられても、それを表面的には受け取らず、常に「なぜ規制を求めるこの人は、こんな批判を投げなければならなかったのだろう?」と、さっきまで自分に問うた温度感と同じくらいの形で、相手を尊重して問うてください。
そこまでこちら側が誠実に対応して、それでもなお相手が無理やり詭弁を押し通そうとするのであれば、そこで初めて相手の論理が破綻した、「表現の自由への攻撃のための規制推進だった」ことがようやく説明可能になります。
これらの視点で反論するのは、並大抵のことではありません。
なぜならば、一旦、今までの反論スタイルを全て捨て去らなければ成し遂げられないからです。
だとしても、本気でこの状況を憂いているのならば、
危機感を抱いているのならば、
命の危機を感じているのならば、
逃げずに向き合ってください。
それ以外に、この地獄を切り抜ける手段はありません。
【反論例】
「どうしてそうまでして、私は統計データで見ようと考えてしまったんだろう」
「どうして、"因果関係はない"という反論を相手に投げざるを得なかったんだろう」
「どうして、相手は感情論で規制を求めなくてはいけなかったんだろう」
「その規制を求める声を上げるこの相手が、なぜ"必死すぎ"と感じたのだろう」
4. もはや、今まで通りの「表現の自由」論は詰んでいる
はい。
ここまで読み進めた方ならば、私のこの記事全体を通して言及した絶望的状況と地獄の果てが、どれほどであるかがよく分かったかもしれません。
そして、そこまで現状を否定的に語らざるを得なかった結果として、それに対する唯一の対応策としてお出ししたこの「対案」が、いかに尋常ではないレベルで難しく、それでいて「難しい」という単語で終わらせれば本当の意味で「表現の自由」が死ぬ可能性があるかを、徹底的に表していると言えるでしょう。
その難しさの根源はなにか。
それは「疑念」は論理では絶対に太刀打ちできないからです。
「あなたが我々を疑う根拠は、データや統計、研究にあるんですか?」
そんな形で反論を受け取ったとしても、「疑った」という感情の結果は消えることはありません。
むしろ否定のためにデータを持ち出されたことに、怒りすらも覚えさせることだってあるでしょう。
そもそも「疑わしきは罰せず」という、司法運用の大前提となる言葉・命題すらも、「まずは疑ってしまった」という事実がなければ、「否定」という形式は成立しないのですから。
それほど「疑い」というのは、強烈な反論できなさを持った感情のバズーカであり、一度根拠を持って疑われた個人も組織も業界も、「感情」のレベルで論理を組み立てなければまず議論にすらなりません。
もし、今のまま客観的なデータや統計学といった外部のなにかに頼って反論を続けるのであれば、がおう氏の例を持ち出した相手に絶対に対抗などできませんし、それを続けていけばいくほど、自らの首を締め続けることは確実です。
ゆえに、今までは通用してきた「表現の自由」論は、何がどう足掻いても「詰んでいる」のです。
5. では、その「詰み」に対して、自分たちはどうすべきか
その詰みに対して、私たち創作者は「詰み」という言葉で終わらせてしまうべきではない、と私は思います。だからこそこの記事を書かねばならないと思いました。
そして、ここで示した「対策法」は、並の人間にできるような実践ではないことも重々承知していますし、「感情を論理とする」という定式を、頭で理解できても実際にやろうとすれば、必ず「そんなはずはない」という思考停止に陥らなければならなくなってしまいます。
だから、私は「なぜ感情を論理として扱えば、このような視点になるのか」を理論化し、過去記事としてまとめています。
私はこれを「感情論理哲学」と呼んでおり、すべての人間は原理的に語り合うことができる存在であることの根拠として、これを示しています。
この記事のすべての分析と推論、実践、そして覚悟と責任は、この哲学を前提にしなければ、私も耐えられませんでした。
逆に言えば今、この創作界隈全体が崩壊しかねない現状に対抗するのならば、私と同じく、この考え方をベースに理論武装をすべきです。
私は、それから逃げないために、一人の創作者として徹底的に向き合っていくつもりです。
6. おわりに
以上をもって、がおう氏の問題がどれほど恐ろしいか、それが国家関係すらも揺るがす外交問題一直線の話であることを、全力で記述しました。
今月に参院選を控えている今、新サイバー犯罪条約の対策で尽力しておられる山田太郎議員の立場すらも揺るがしかねないこの状況で、本当に唯一「個人個人がなんとかできる理論」……それが、ここまで書き記したことのすべてです。
改めて、この記事をお読みいただきありがとうございます。
もし可能でしたら、できる限り多くの創作者にこの記事が読まれることを願います。
そして、実際に加害を伴って傷つけられてしまった当事者に対しては、必要最小限の言及のみで記述するように努めました。私は可能な限り事件「そのもの」は慎重に扱いながらも、言及自体が再加害になる危険性を承知で、あえてこの記事に利用せざるを得なかったことをお詫びいたします。
XやDiscordなどで拡散していただければ嬉しいですし、筆者である私、ナヲシダの好悪感情をひっくるめて、疑問や疑問にならない嘆きだけでも、来た意見はすべて誠実に受け取るつもりでいます。
また、本件を含め私が何を言っているのかを匿名でも問えるよう、マシュマロを開設しました。
お気軽に疑問点などを投げていただければと思います。
よろしくお願いいたします。



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