SNSは「悪意」で終わらせてはいけない:私が二度とブロックをしない理由

Twitter(X)、Discord、BlueSky、Threads……現代社会はSNSというものに、生活の多く縛られているものです。ことナヲシダ社についても、作品の投稿や宣伝にXを活用していますし、それを起点に作品展開をしなくては元も子もない構造の中で生きています。

しかし、それらのSNS――とりわけXについては、イーロン・マスクも認める「対戦型SNS」と言われるほどに、発言を切り取り切り取られ、言葉で殴り殴られ、「あいつが悪い」「社会が悪い」「政治家が悪い」「けど私は正義」といった暴力ばかりが渦巻く空間がそこかしこに存在しています。

これについては実際肌で感じるほどに確かでしょう。だからこそ、過激な物言いを繰り返し、特定の「党派」に身を置いて叫んでいる人間とは距離を置きながら平穏に暮らそうとしているユーザーも少なくはないと思います。

かつての私もそうでしたし、ゆえにそういったアカウントは明確に拒絶し、ブロックしてきた過去がありました。それはクリエイターとしての立場で政治的発言を行わず、争いに加担せず、ただ平穏に作品制作だけを続けるべきだ、という意識の表れでもありました。

しかし、私は今後、このSNS運用方針を改めようと思います。その第一弾として、既にこれまでブロックしてきたユーザーをすべて解除しています。

そして、以降はブロックという手段で他者を排除することを善とすることもなく、一切の関係の断絶をこちらから望むことはしない――そういったあり方を、今後取っていきたいと確信しています。

「ブロックしないなんて無理だろ」
「認知の曲がったヤバい垢なんて関わるだけ無駄」
「政治発言を創作者がするのはリスクしかないぞ」

そういった批判を受けることも覚悟の上で、私はそれでも、もはや他者を「ブロック」するというスタンスを捨ててでも語りの場を維持しなくてはならないと思ったのです。

この記事では、なぜ私がそうまでして「ブロックしない」というスタンスをしなくてはならなかったのか……という問いを起点に、現代SNSの「レスバ至上主義」そのものの本当の構造を、クリエイターとしての立場を持つ私の言葉と視座のもと、照らしていきたいと思います。

なぜ私はブロックを「しない」と確信したのか

ブロック機能は絶対に必要な「詭弁」である

まず勘違いしてはいけないのは、ブロックという行為、そしてそれをサポートしているSNSのシステム自体を否定する意図はありません。嫌なものを見たり、鬱陶しいスパムに絡まれたり、セキュリティ的にヤバいアカウントを見つけたりした時のブロックは、時に必要な措置として挙げられるでしょう。特にスパムやマルウェア伝播につながるような危険なアカウントをブロックする点は、この確信の後だろうと私も最低限行う措置でもあります。

その上で、私は「会話が可能な相手の "理解できなさ" を理由にブロックする」ことは、特に表現者の間ではやってはならないほどの「悪手」だ、と言わなければならないのです。それは、自分が相手を理解できなかったことや、相手に語りが伝わらなかったことを、相手の責任として押し付けて終わらせようとする一つの詭弁だからです。

表現者が表現を行うのは、(自分自身も含む)誰かに自身の描いた世界/キャラクター/関係性/印象を伝えたいからこそであり、その動機がない限り、なにかを描くことは極めてコストの悪い営為になってしまいかねない性質を持ちます。その動機は、いかに「マネタイズのため」という理由が備わっていようと、表現行為そのものを重心に置いている以上、そこには表現として語る意味を絶対的に宿さなければ成立しません。

その前提に立つのならば、まず作品を見てもらえる他者の存在なくして表現は成立しないことは原理的に確実な論理であり、その他者があってこそ前述の動機は動機たりえるのです。

では、そんな「動機の根源」をブロックしてしまう、というのはどういうことか。

それは、自身の描いたものが、自身の届いてほしくない相手に届いてしまうことへの恐れや、描いたものが一方的に批判されることの不快感への防衛心として即時的に働いてしまうがゆえの行動だと言えるでしょう。

これは極めて自然な感情の発露であり、決して悪いことだとは申しません。自身の真心を込めて積み上げてきた作品は、自身にとっての人生であり、語りの集積であり、生きた証そのものでもある。その発表には、多少の小っ恥ずかしさを感じながらも、覚悟を伴って語ろうとしたのですから、それに否定的な言葉をぶつけられてしまうことに恐怖するのは至極当然のことです。

しかし、ここで一歩考えてほしいのが、それは作品を見る人間にとっても同じことでもある、という点です。

詭弁を詭弁で終わらせないために

なぜ、それが視聴者にとっても同じなのか。それは、作品を見て感想や批評、あるいは批判を投げてくる人の言葉というのも、あなたの作品を見たからこそ発生した語りであり、肯定否定という表層を飛び越えて、あなたの作品が他者に何らかの影響を及ぼした痕跡であることは絶対的事実でもあるからです。

その事実を前に、あなたはその語りを受け取ったのですから、その事実に対する再応答は、よく考えなくてはならないというわけです。

この「よく考える」という行動について、もっと具体的に説明するのならば……

「本当にこの人の言葉を受けてブロックして構わないのだろうか?」という疑問を、今一度自分に問い直す視点を持つべきだ、ということになります。

自身の表現が招いた影響が、他者からの作品や作者への言葉として返ってきたのなら、その言葉の意図は自身の語りのどこを見て発生したのかを問うことは、一つの正当な対話の形式でもあるわけです。それがいかに口汚く暴力的な批判だったとしても、その暴言自体もまた当人がその言葉を選択「せざるをえなかった」理由が、あなたの作品をきっかけに発露した痕跡でもあります。

表現者には、表現を行う上でその覚悟をまず持たなければならない、というのが、先の問い直しの形式には含まれているのです。

それを一度考えたうえで、それでも「ブロック」という手段を取るのならば、決してそれは悪い選択だとは思いませんし、そのブロックもまた覚悟の表れであり、正当な行動だと思います。

その正当性を、正当だと語る力を持つこと――それこそが、表現者が持ち得なければならない最低限の倫理であると、私は思うのです。

なお、ここで勘違いしてもらいたくないのですが、何もその倫理というのは崇高な理由でなくてはならないというわけではありません。

  • 「相手が暴言を言ってきて不快だったから」

  • 「TLでの発言から炎上させてきそうな相手だったから」

  • 「この人に自分の作品を見てほしくないから」

本当にこの程度の「正当性」で良いので、それを言葉にできる勇気と覚悟を持つことが重要ということが真意になります。

もっとわかりやすい言葉で言うならば、「自分が嫌だと思ったからブロックした」という、自分の主体性に基づいて関係を拒絶したことを説明できるかどうかが大事なのです。

そこを、

  • 「相手が不快な "属性" を持っているから」

  • 「誰かが悪い人だと言っていたから」

  • 「社会的に危険な存在だと言われているから」

  • 「相手だけに問題があったから」

といった、判断理由の責任を外側に置くような語りでブロックするのならば、それは正当であるとは言えず、自分を守るために用いる「詭弁」に堕してしまう。

そうなれば、その「詭弁を使わなくてはならなかった理由」を他者から問い直されてしまうのも構造的には当たり前のことであり、それは自分の感情に素直な理由でブロックをした人と比べて、どこまでも茨の道になることは避けられないでしょう。

そのうえで「ブロックしない」という宣言の重み

では、なぜそうまでわかっていて、「私は一切ブロックしない」という覚悟を表明してしまったのか。そこに宿る言葉の意味は、私はどこまでも理解したうえで、この宣言をしています。

それは、どれだけ不快な言葉が飛んできても、それが名誉毀損や誹謗中傷でパッケージ化されていたとしても、その暴力を暴力のまま拒絶しない・してはならない立場であるという確信があるからこそ、言わなければならなかった宣言だからです。

私は成人向けカテゴリで、時に暴力に肯定的な視点を持った世界観の作品を描くこともありますし、その中には未成年キャラクターへの搾取構造や薬物使用、あるいは直接的危害といった、現実的には絶対的にタブーでなくてはならないという社会の確信が強い領域も描いています。無修正の性器という、「わいせつ性を持った表現」を無制限に公表していますし、それを司法の場に提出したことさえあります。

しかし、それらのすべての行動原理は「その表現で描かなくてはならなかった」という確信を、私が徹底して保持しているからこその表現であり、それを描いたことで生じるあらゆる不利益も想定したうえで、なおも乗り越えるべきタブー観であるとわかっているがゆえの行動でもあります。

それは、いかに社会一般の倫理が許せないと言ったとしても変えることはありませんし、変えてはならない信念だという確信があるのです。命を張ってエロを描いている人間の言葉を否定するのならば、それだけの覚悟がいるということを、私は問いによって突きつけている、そんな立場です。

だからこそ、私は、その批判は覚悟を伴った形式であると最初に受け入れなくてはならない。なぜならばその批判は、私の強烈な語りに何らかの影響を受けた人の言葉だからであり、それにはどれだけの暴力的言動があろうと、どこまでも敬意を示さなくてはならないものだからです。

そんなものを、ただ「不快だったから」で拒絶したとしたらどうなるでしょう?そんな暴力的な批判よりもよっぽど暴力的な表現を行っている私が、本当にそんな拒絶をして良いと正当に言えるでしょうか?

実際、私にはそれを説明することはできるでしょう。「批判が不快だと思った」というのも、事実として生じ得るでしょうから。

でも、その説明におけるコストは、「私自身の活動における覚悟を自己矛盾で破壊しかねないスレスレの説明を模索し続ける」という形で降り掛かってきます。その中に詭弁が混じらないようにするのは、極めて重い判断を求められてしまいます。

そのコストを支払うくらいならば、どんな暴言だろうと必ずその真意に向き合う痛みを引き受けたほうが、ずっとスッキリするのです。

それが、私が他者をブロックしないと宣言しなくてはならなかった根源的理由です。

そして、この項目の一連の理由をすべて説明することも、並大抵ではないことは理解しています。一歩でも矛盾すれば、それを突かれた時に何も言えなくなってしまう危険性がある。

それでも、あえて言わなくてはならなかったからこそ、私は私の内面をあけっぴろげにした……というのが、この項目の存在理由です。


そもそも、なぜSNSではレスバが起きるのか

「Xは対戦型SNSだから」という理由もまた詭弁である

SNS――特に本記事では元Twitter現Xを中心に語っていますが、Twitterを買収したイーロン・マスクは「暴言を言わせ合うことでインプレッションを加速させ収益を得る」という構造のもとで、表現や言論の自由をX上で体現させようとした、という話はどこかで聞いたことはあるかと思います――そして、それが「対戦型SNS」という形式によって定義されたという点も含めて。

しかし、私からするならば、「対戦型SNS」というパッケージに立ったSNSでの言葉の使い方を受け入れるのは、結局のところ自身の言葉の責任を回避したいという心が動かした「詭弁」でしかない、と言わざるを得ません。

なぜならば、SNSでの言葉もまた「語り」であり、語りであるならば言った人間がおり、言った人間がいるならばそこには責任を求める主体がいることが前提にあるからです。

その前提を否定・回避するための言葉こそが「対戦型SNS」という形式によって表れている、というのが私の見立てであり、それに立脚すれば、次の問いを、この言葉を使う人に向けて言わなくてはならない瞬間は、必ずどこかで生じ得ると考えています。

「なぜ、あなたはSNSを「対戦ゲーム」的だと例えないといけなかったの?」――と。

なぜなら、「対戦型SNS」が詭弁なら、その詭弁を使ってしまった感情は問わなければならないからです。

ならば、なぜレスバは起きるのか

「Xを "対戦型SNS" で終わらせてはならない」と言うのであれば、お前はレスバばかり起きてる今のXをどう見てるんだよ?

――という疑問が、この項目に至る段階でおそらく生まれた人も少なくはないかと思います。それは極めて真っ当な問いであり、私はそれにしっかりと向き合って答えなければなりません。

結論から言えば、今のXはあらゆる可能性に満ちた場であり、原理的にはすべてのユーザーと相互理解は可能な空間であると考えています。それは、いかなる政治的主張や党派に沈みきっている人だろうと、例外なくです。

はい。この私の主張に対して、「そんなの夢物語だろ」という否定的な認識を持たれる方は、必ずでます。これは絶対的に必然として、理想論だと言うべき構図なのは間違いありません。

ですが、ここで思い出してもらいたいのですが……前述の通り、私は自らの表現のあり方のため、ブロックという行為は今後能動的には二度とできません。これは絶対的なポリシーとして内面化した動機であり、本当によほどでない限りそれは倫理的に許容できないのです。

――という私の立場に立って初めて、この「例外なく相互理解は可能である」と言えてしまう。

そう、この「例外のなさ」は、万人に扱えるような断言ではないのです。少なくとも、能動的に自分の感情に素直となってブロックをしなくてはならなかった人にとって、全ユーザーとの相互理解を可能だと感じることは、ほぼ不可能ですから。

その視点で、改めて私はこの項目の問い「なぜレスバが起きるのか」に対しては、次の解をもって明確化しています。

他の人よりも優位な顔をしなければ、語りに説得力を持たせてくれない社会構造が相互理解を許さず、結果として暴力的な言葉を言ったもん勝ちになっている。その縮図がSNSである。

これが、「レスバがなぜ発生するのか」の原理的な説明になります。

そもそも、現代は一億総無責任社会である

「なぜレスバが発生するのか」の原理的な説明を行ったところで、最後に付け加えた言葉――

"その縮図がSNSである。"

本記事における実のところの核心は、これです。

そう、レスバというもの自体、SNSという作られた空間だけの話ではなく、それを使って生きる社会全体が「SNSを求めている」という点が、そもそもレスバを成立させている根源構造なのです。

SNSが悪いのではありません。
レスバをする感情が悪いわけでもありません。
そもそも、ここに「悪い」という評価をすべき対象はどこにもありません。

「レスバをすることが国是である」と言わんばかりの構造が、そもそも社会全体に根付いていることこそが、必然的にレスバを現象として発生させている。ただ、それだけのことに過ぎないのです。

だから、どれだけ仲の良い友人だろうと喧嘩をするし、いかに良い恋人に巡り合ったとしてもちょっとしたこじれで別れたりもする。それと同じことが、SNSという場では他者との距離の近さと、発言の刈り取りによって加速させられている。

これは、どこまで行っても当たり前に起きること、すなわち必然に過ぎないのです。

――しかし、その必然を必然として終わらせない努力が、人と関わるという行動を取ることが可能な「人間」である以上、たゆまず求められ続けることも、また必然ということも、私は付け加えなくてはなりません。

それが、私がブロックをしてはならない社会的な意味での理由でもあります。

これは、語ることの責任を引き受けずに語り、相手を否定することでしか自己を守れない「一億総無責任社会」における、最も純粋な責任のあり方の一つです。


終わりに

私が他者をブロックをしない理由は、私が社会に生きる人間だから。

この命題は本記事に常に通底している原理であり、SNSのブロックという一つの「拒絶の語り」に含まれる暴力性を徹底して受け入れているがゆえの応答だと確信しています。

人は語ることでしか生きていくことはできません。
生きるということは、語ることと同義です。
そして、語ることは例外なく絶対的暴力です。
すなわち生きるということは、等しく絶対的暴力ということでもある。

その暴力を暴力で終わらせないための潤滑油が「責任」であり、語ることに責任を引き受けることができるならば、その命は単なる暴力になることはまずありません。

これは厳しい言葉として成立させざるを得なかった本質論であり、それを語った私がまさしく暴力そのものであることの証左でもあります。

それでも、あえて暴力と言わなければならなかった。
その責任の果てに、本記事は成立しています。

読者の皆さんへ。
SNSでの語りの意味を、もしこの記事を読んだうえで改めて振り返るきっかけが出来たならば、私の責任は最大限に果たされたと言えるでしょう。

そうなる社会が、日々の生活に浸透することを願います。


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コメント

1
山本健二
山本健二

あーなんか俺の言いたいこと綺麗にまとめて昇華してる人がいるーー

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SNSは「悪意」で終わらせてはいけない:私が二度とブロックをしない理由|ナヲシダ
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