「千姫」(せんひめ)は、江戸幕府初代将軍「徳川家康」の孫であり、江戸幕府第2代将軍「徳川秀忠」の長女で、若くして豊臣家に嫁ぎ、容姿端麗で聡明な人物として知られています。江戸幕府の代々将軍に厚く信頼され、江戸幕府第3代将軍「徳川家光」の三男「徳川綱重」(とくがわつなしげ)の養母でもあります。しかし、夫との死別を二度経験したり長男が夭折(ようせつ:若死に)したりと、その人生は波乱万丈。そんな悲劇に度々見舞われながらも、力強く生きた千姫の生涯を紹介していきます。
千姫
千姫は1597年(慶長2年)に、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の長女として誕生しました。母は「浅井長政」(あざいながまさ)と「お市」(織田信長の妹)の三女「お江」(おごう)。
山城国(やましろのくに:現在の京都府南部)にある「伏見城」(京都府京都市伏見区)で生まれた千姫は、1603年(慶長8年)に7歳という若さで、豊臣秀吉の嫡男「豊臣秀頼」と結婚し、「大坂城」(大阪府大阪市中央区)へ入城しました。
政略結婚ではあったものの、千姫と豊臣秀頼は、仲睦まじい夫婦だったとされます。しかし、そんな2人が離れ離れになってしまう出来事が勃発。それは徳川家康が豊臣家を攻めた、1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」でした。
難攻不落と言われる大坂城を包囲した徳川軍は、堀を埋めて砲撃します。このとき、千姫は落城寸前の大坂城内にいましたが、城が陥落する前夜に、徳川軍によって救出。夫・豊臣秀頼と姑「淀殿」の助命を嘆願しました。
当時、千姫は18歳。幼い時分に豊臣家に嫁いだ千姫にとって、徳川家よりも豊臣家のほうがなじみ深かったのかもしれません。しかし努力もむなしく、千姫の嘆願は受け入れられず、徳川軍は大坂城へ猛攻を継続します。最終的に、豊臣秀頼と淀殿は自害。これにより豊臣家が滅亡することとなりました。
本多忠刻
大坂城をあとにした千姫は一度、江戸へ向かいました。そして、1616年(元和2年)に、桑名藩(現在の三重県桑名市)藩主であった「本多忠刻」(ほんだただとき:本多忠勝の孫)と再婚。
このとき、千姫は祖父・徳川家康から、10万石の化粧料(持参金)を与えられます。当時、1万石あれば大名と呼ばれる時代。
千姫は大名をも優に超える化粧料を持たされ、徳川家にとって非常に大切な存在として扱われていました。その後、1617年(元和3年)に、本多家が播磨国姫路藩(現在の兵庫県姫路市)を与えられると、千姫も「姫路城」(兵庫県姫路市)に入城。
領内で千姫は「播磨姫君」と呼ばれ、今日でも姫路城内には千姫が住んでいたとされる「化粧櫓」が残されています。この櫓は千姫が姫路城への入城時に新築された物。本多家に嫁いだ際の化粧料で建てられ、規模としてもかなり大きな建造物となっています。
千姫は、1618年(元和4年)に長女「勝姫」(かつひめ)、1619年(元和5年)には長男「幸千代」(こうちよ)を出産し、姫路城で幸せな日々を送っていたとされます。しかし、それも長くは続きません。長男・幸千代が3歳で亡くなり、巷では「幸千代の死は前夫である豊臣秀頼の祟りだ」という噂がたちます。
それを耳にした千姫は、霊を鎮めるために「千姫天満宮」(兵庫県姫路市)を建立しました。千姫天満宮を建てた場所は、姫路城の北西にある男山。姫路城の西の丸からその男山を望むことができ、千姫は夫・豊臣秀頼の霊が成仏できるよう毎日のように拝んだとされています。
しかし、千姫には立て続けに不幸が訪れます。1624年(寛永元年)に夫・本多忠刻が病になり、その翌々年に31歳という若さで死去。さらに、姑の「熊姫」(ゆうひめ)、母の浅井江も相次いで亡くなってしまいます。
伝通院
1631年(寛永8年)には、本多忠刻の父「本多忠政」(ほんだただまさ)も死去。
これにより、本多家の次男「本多政朝」が本多家を継承し、姫路城には千姫の居場所がなくなってしまいます。そのため、千姫は長女・勝姫とともに姫路城を出て、「江戸城」(東京都千代田区)へ移ります。
このとき30歳。夫との死別を二度経験した千姫は、出家をして「天樹院」(てんじゅいん)を名乗ると、江戸城内の「竹橋御殿」(たけばしごでん)で娘と暮らします。
その後、千姫は江戸幕府第3代将軍・徳川家光の三男・徳川綱重を養子に取り、大奥として江戸幕府内で強い権力を持つようになったとされています。1666年(寛文6年)に70歳で亡くなり、「伝通院」(でんつういん:東京都文京区)、「弘経寺」(ぐぎょうじ:茨城県常総市)に墓所があります。
千姫の逸話として「千姫事件」が有名。大坂夏の陣で大坂城が落城する間際、千姫は無事大坂城外へ助け出されます。その救出を実際に行ったのが「坂崎直盛」(さかざきなおもり)でした。「関ヶ原の戦い」では東軍として活躍し、その武功が認められ、「津和野城」(つわのじょう:島根県鹿足郡)城主となった武将です。
坂崎直盛は、徳川家康より「救出が成功したあかつきには、千姫と再嫁させる」と言われ、千姫の救出に向かいます。そして、無事に千姫を助け出したものの、江戸幕府が前言を翻し、千姫は本多忠刻に嫁いでしまいました。
しかし、千姫が再婚してからも、坂崎直盛は未練を断ち切ることができず、大阪夏の陣の一件を根に持ち続けます。最終的に千姫を略奪する計画を立てますが、それが事前に江戸幕府に発覚してしまい失敗。1616年(元和2年)に自害して、この世を去りました。
坂崎直盛が千姫と結婚できなかった理由には、救出の際に負った坂崎直盛の大火傷が原因で千姫が結婚を拒否した、実際に救出をしたのが坂崎直盛ではなかったなど諸説あります。さらに、千姫が本多忠刻に一目ぼれをしたという説も伝わっており、なぜ千姫が坂崎直盛ではなく本多忠刻に嫁ぐことになったか、本当のところは現在も分かっていません。
千姫は1人の武将の人生を狂わせるほど、類まれな魅力を持つ女性で、聡明かつ温和な性格だったとされます。最初の夫・豊臣秀頼と仲が良く、再嫁した本多忠刻との関係も良好でした。
特に本多忠刻は精悍な顔つきで、誰もが振り返るほどの美男子。結核を患い31歳でこの世を去りますが、美男美女の夫婦として広く知られていました。現代においても、千姫の波乱に満ちた生涯をもとに映画、ドラマが数多く作られています。
過去には宝塚歌劇団によるミュージカル「千姫」の公演が行われ、千姫は悲劇に見舞われながらも強く生きる女性として描かれています。また、墓所がある茨城県常総市では、例年4月に「千姫まつり」を開催。華やかな着物をまとった一行が街を練り歩く「千姫さま常総ご回遊」が祭り一番の見どころです。
刀剣ワールド財団には、千姫が所有していた日本刀「太刀 銘 包永(金象嵌)本多平八郎忠為所持之」(たち めい かねなが[きんぞうがん]ほんだへいはちろうただためこれをしょじす)が所蔵されています。
本太刀の銘(めい)にある「本多平八郎忠為」とは、千姫の夫・本多忠刻の通称名と初名。本多忠刻が病死したことで、千姫は本太刀を本多忠刻の形見のひとつとして受け継いで、実家の徳川家へ戻りました。以降徳川将軍家の所蔵品となりましたが、江戸幕府第5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)が、信濃国上田藩(しなののくにうえだはん:現在の長野県上田市)藩主「松平忠周」(まつだいらただちか)へ下賜したことから、藤井松平家の家宝として伝来します。
本太刀の作者は、大和国(やまとのくに:現在の奈良県)で、鎌倉時代末期より栄えた刀工一派「手掻派」(てがいは)の「包永」(かねなが)。包永は手掻派の開祖とされる刀工で、鎌倉時代末期に、「東大寺」(奈良県奈良市)の輾磑門(てんがいもん)付近に工房を構え、鍛刀しました。
平均的な身幅の刀身は、腰反り(こしぞり:日本刀の持ち手となる茎[なかご]付近に反りの中心がある様子)で、日本刀を一直線に走る稜線「鎬」(しのぎ)と棟(むね)の間にある部分「地鉄」(じがね)には、「地沸」(じにえ:刃文を形作るキラキラとした粒子・沸[にえ]が地鉄に現れたもの)が強く付き、「板目肌」(いためはだ)という木の板目のような模様に、「柾目肌」(まさめはだ)と呼ばれる、木を縦に切ったような真っ直ぐな模様が交じって現れています。
刃文は真っ直ぐな「直刃」(すぐは)を基調に、「小互の目」(こぐのめ)が交じり、刃文の縁には三日月模様に見える「打除け」(うちのけ)、サッと掃いたような模様「掃掛け」(はきかけ)という働きが現れており、繊細で美しい1振とされます。
「刀 無銘 伝兼光(金象嵌)本多平八郎忠為所持之」(かたな むめい でんかねみつ[きんぞうがん]ほんだへいはちろうただためこれをしょじす)も、太刀 銘 包永(金象嵌)本多平八郎忠為所持之と同様に本多忠刻が所持していた日本刀です。
本刀は日本刀鑑定家の「本阿弥光忠」(ほんあみこうちゅう)により「兼光」(かねみつ)の作と観せられた作品。兼光は備前国長船(現在の岡山県瀬戸内市長船町)で活躍した刀工で、なかでも南北朝時代に活動した2代兼光(延文兼光とも)は、最上大業物(さいじょうおおわざもの)に列せられるほど切れ味の優れた日本刀を作刀しました。
本刀は銘がなくなるほど大きく磨り上げられた「大磨上無銘」(おおすりあげむめい)で、茎には金象嵌(きんぞうがん:彫った溝に金を埋め込む技法)で「本多平八郎忠為所持之」という所持銘(しょじめい)が入れられています。
所持銘とは、日本刀を所持した人物の名前を入れた銘のこと。元々は太刀、もしくは大太刀であったことから、身幅は広く、鋒/切先は大鋒/切先と呼ばれる、鋒/切先のなかで最も大きな形状をしています。小さな板目肌がよく詰まった鍛えに地沸が細かく付き、刃文は小さく波打った小互の目乱れに足(あし)などの働きが現れた、豪壮な刀姿の1振です。