ハリー・ポッター -Harry Must Die-   作:リョース

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6.蜘蛛の王

 

 

 ハリーは自分の脚を動かすことに必死だった。

 くも、クモ、蜘蛛。まさにスパイダーパラダイスだ。

 指の先程度の蜘蛛ならば、ダーズリーの家でたくさん見た。階段下の物置が自室だったのだから慣れているのだ。だが自分の腰まである大きさの蜘蛛は本気で勘弁してほしい。虫に悲鳴をあげるヤワな女になったつもりはないが、それでも生理的に気持ち悪い。

 時折短い悲鳴をあげるロンを横目に見ながら、少なくともこれよりはましかなと思ってハリーは歩を進めた。湿った土を踏み固める音と、巨大な蜘蛛が後をつけ回してくる掠れた音。

 いやな気分になりながらも辿り着いたのは、不自然なまでに抉れた巨大なクレーターだった。本来ならば窪地と表現した方が正しかったのだろうが、これだけ異様な有様を見せられてはそんな名前は相応しくない。

 齢数千年はあるだろう木々をなぎ倒し、月の光で鈍く輝く白い糸で――ハリーの胴より太いそれは糸とは呼べないかもしれない――巨大な蜘蛛の巣があちこちに張られている。

 ガサガサと身を隠すようにしているものの巨大すぎて隠れていない蜘蛛たちを眺めながら、ハリーたちはクレーターの中央に陣取った。

 明らかに二人を狙って距離を測っていた若い蜘蛛がハリーにちょっかいをかけようとしてきた姿を見て、ロンは声にならない悲鳴を漏らす。ハリーが十二歳の少女がしてはいけないような顔で睨みつけると、若い蜘蛛が怯えたように後ずさった。

 ロンが女神か何かを見るような目でこちらを見てきたので少し鬱陶しかったが、今はそれどころではなかった。なにせ先ほどから腰下をうろつく蜘蛛どもよりもっと恐ろしいものが目の前に現れたからだ。見れば、ハリーを一飲みに出来そうなくらいの大きさだ。びっしりと毛の生えた足をゆらりと動かし、頭をこちらに向けたときに見えた白濁した八つの目から、彼または彼女が盲いていることがわかる。

 気絶しそうなロンの手をしっかり握って、ハリーは勇気を出した。

 魔法薬の授業で虫を材料にしたものを普通に飲んでいるのだ。一年生の最初の半年はマグル出身の生徒がウゲーという顔をする光景をよく見たものだが、一年も経てば人間は慣れる。ゆえにある程度は平気だと思っていたが、よもやここまで鳥肌が立つような光景を見ることになろうとは。

 

「……君が、アラゴグかい」

「如何にも」

 

 ハリーの問いかけに、巨大蜘蛛はなんと英語で受け答えを始めた。

 魔法生物がヒトの言葉を操ることはよくあることだが、まさか蜘蛛という声帯の構造すらよくわからないどころか有無すら定かではない生物が喋れるとは驚きである。

 だがそれ以上にハリーが驚いていることがあった。

 ハリーはこの巨大蜘蛛に見覚えがあるのだ。

 昨年の闇の魔術に対する防衛術にて、クィレルが授業で紹介した恐ろしい生物のうちのひとつ。

 《アクロマンチュラ》。

 魔法省が指定する危険度において最大値を誇り、もちろん英国内での育成、孵化、卵の所持は厳罰とされている。理由としてはあまりにも危険すぎる上に、調教によって手懐けることがほぼ不可能だからである。

 中世フランスにおいて闇の魔法使いが孵化に成功したという記録はあるものの、その一週間後には蜘蛛の餌となってしまったために育成に成功した記録は一切残っていない。ハグリッドは魔法史において初の快挙を成し遂げていたというわけだ。

 ふざけるなよハグリッド。こんな歩く危険物に相対させて何をさせたいんだ。

 

「ああ、如何にも。儂がアラゴグだ。そういう小僧らは何だ?」

「ハグリッドの友達だ。彼の危機によって助力を求めに来たんだ」

「おお、ハグリッドの。しかし彼はここに人を寄越したことはない。証拠はあるのか」

 

 証拠と言われても。

 

「君の名を知っている。それは理由にならないのか」

「ならぬ。ハグリッドから聞き出す手段はいくらでもある」

「んな物騒な。ぼくらじゃ彼をどうにかすることなんて無理だろうに」

「言われてみればさもありなん。小僧らの細腕では如何様にもできまいて」

 

 ハグリッドを脅して名前を聞き出すなど、例えハリーが十人いても難しいだろう。

 ただ褒めて煽てて美味しいものでもご馳走したら口を滑らせそうな気はするが、それは言わぬが華だ。わざわざ余計なことを言って立場を悪くすることはない。

 

「とにかく。いまハグリッドが危機にある。アズカバンに連れて行かれそうなんだ」

「アズカバンとは何か。魔法使いの知識は儂にはない」

「……ハリー」

「ロン、黙ってて」

 

 魔法使いに関する知識がないのか。

 すると魔法使いが創りだした魔導生命体であるという線は、ないとみていいかもしれない。

 サラザール・スリザリンが秘密の部屋に怪物を残したというのならば、千年以上は生きていると見て間違いないだろう。それだけの長い時を生きられる生物は、いくら魔法生物と言えど限られている。

 

「アズカバンとは端的に言って牢獄だ。この現代において秘密の部屋を開けた者がいて、彼がその犯人として罪に問われている」

「莫迦な。あれはハグリッドではない。濡れ衣である。彼に罪はないのだ。五〇年前に殺された女子生徒はトイレで見つかったとハグリッドから聞いた。儂は、育ててもらっていた物置部屋から外に出たことはなかった。ただの一度も……」

「ハリーぃぃ……」

「うるさいぞロン。――すると君が秘密の部屋の怪物というわけではないの? 五〇年前は君を退治ようとした青年がいたはずだけれど」

「否。断じて否。儂らはあれの話をしない。あれは儂らの天敵だ。恐ろしや」

 

 天敵。

 アクロマンチュラの天敵。

 これだけで怪物の正体にかなり近づくことが出来たのではないか。

 

「……それが何かを知っている、という事でいいのかい」

「無論だ。知らぬはずがない。繰り返そう、あれは儂らの天敵だ。あれが学校を這いずる気配を感じる度に、ハグリッドにここから出してくれと懇願したことはよく覚えている」

「なるほど」

 

 アラゴグが時折ハサミを打ち鳴らしている様が食卓で食器を鳴らす子供のように見える。いや、見えるどころかまさにその通りなのだろう。視線は感じないが、気配が雄弁に物語っている。あれはハリーらを食物程度にしか見ていない。

 得るべきものはすでに手にした。ならばここを離れるのが得策だ。

 

「わかった。ありがとうアラゴグ。この情報を以ってして必ずハグリッドを助けよう」

「うん? それはつまり帰るということかね」

「ああ、そうだ。ハグリッドのためには長居する選択はない」

「それは出来ぬ相談だ、ハグリッドの友人。久方ぶりの新鮮な肉である。むざむざ我らが食卓に飛び込んで来おった夕食を、逃す手はなかろうて」

 

 うーん、やっぱりこうなったかぁ。

 ハリーは引き攣った笑みと共に杖を抜き放ち、アラゴグへ向ける。

 先ほどからハリーを抱きしめて震えていたロンを振りほどけば、彼が怯えていた理由がはっきりとわかった。あまりわかりたくなかったが、そうも言ってはいられまい。

 囲まれていたのだ。大なり小なり、アラゴグの子孫かまたはその類。アクロマンチュラなのかはたまた別種のものなのか、兎にも角にも巨大な蜘蛛がうじゃうじゃと。

 これにはさすがにハリーも全身の肌が粟立った。

 嫌悪感だけではない。死の危険すら感じる。現にアラゴグはいただきます宣言をしているのだ。

 逃げなければ死ぬ。

 

「彼は妻モサグのみならず、よく馳走をも持ってきてくれたものだ。彼に感謝していただこう。さらば、ハグリッドの友人よ」

「……そうかい。ならお仲間が殺されても文句はないね」

「出来るものなら」

 

 ハリーの啖呵とアラゴグの宣言が終わるや否や、上空から糸を使ってぶら下がってきた蜘蛛が、その巨大な顎でハリーの首を食い千切らんと飛び掛かってきた。

 それに対してハリーは慌てることなく杖を振って見よう見まねで呪文を唱える。

 激しい感情をこめて、魔力をブーストさせての一撃。

 

「『アラーニア・エグズメイ』!」

 

 ハリーの杖先から飛び出した純白の魔力反応光は、蜘蛛の眉間に直撃するとその命を奪い去った。

 恐ろしい効き目だ。

 不思議と絶対に失敗しないと確信していたが、この呪文は蜘蛛に対して絶対の効果がある。

 一撃で仲間が葬り去られたのを見て、蜘蛛たちは一瞬たじろぐ。

 その小さな隙を見逃すようでは、ハリーは今まで生きてはいない。

 即座に杖を振って、極限まで魔力を込めて口を開いた。魔力式が体内エーテルを通して、全身に行き渡る奇妙な感覚を味わった。冷たい飲み物が喉を通る感覚に似ているかもしれない。ハリーは高揚感のまま、呪文を叫ぶ。

 

「『アニムス』、我に力を!」

 

 途端、ハリーの全身が淡い青の光に包まれた。

 全身に力が漲る、不思議な感覚だ。感覚が鋭敏になって、空気の流れが肌で分かる。

 背後から肢を振り上げた蜘蛛の胴体を蹴り飛ばすと、爆破されたかのようにばしゃりと四散する。その破片や体液が地に落ちる前に動き、手ごろな大きさの蜘蛛をサッカーボールのように蹴り飛ばした。数十匹をなぎ倒してボールが吹き飛んだ先には、不恰好ながらも逃げ道が出来上がっている。

 杖を抜こうとしているロンを無理矢理に背負うと、ハリーは脱兎のごとく駆け出した。

 普段なら自分より二〇センチ近く背の高いロンを背負うなど無理な話だが、魔力によって身体強化がなされている今ならば話は別だ。青白い軌跡を残して風のように疾駆し、襲いかかってくる蜘蛛たちからあっという間に遠ざかる。

 身体強化呪文。これは異常なまでに習得難易度の高い呪文で、使える状態になるまでに一年以上かかった。それでも相当に速い習得だと自負している。だがそれでも完璧に使えるようになったわけではない。魔力を常に消費する呪文ではあるが、熟練者ならば自動で回復する量が消費量を上回るため、半永久的に使えるようになるとされている。しかしながら慣れぬ魔法であるため魔力運用が下手糞なのか、今のハリーでは燃費が悪いらしい。保ってあと数分だろう。

 風を追いこしての疾走中、蜘蛛の肢が地に擦れるカサカサという音を捉えた。まさか、もう追いついてきたのか。いくら地形を考えて多脚の方が疾駆に際して有利とはいえ、あまりにも速すぎる。

 

「ハリー! 奴ら木に糸を撃ち込んでこっちに来るよ!」

 

 ロンの絶叫を聞いてようやく分かった。

 蜘蛛の糸は魔法的な意味合いから見れば、魔法薬を整える役割などを持つ。だがマグルとして科学的な側面から見ると、同じ太さで考えた場合でも鋼鉄の約五倍以上であることが知られている。その強靭な糸を以ってして、木々に撃ち込み、それを戻す力で身体を引っ張って加速しているのだ。

 畜生のくせに良く考えるものだ。

 

「わっ、うわっ! 後ろだ!」

 

 背中の上から響く絶叫に反応して、ハリーはスライディングのように身体を滑らせた。

 ロンの赤毛をいくつか引き裂きながら、蜘蛛の巨体がすれすれを跳んでゆく。まさかまさかとは思っていたが本当に追いついているとは恐れ入る。ハリーはウィーズリー家のフォード・アングリアが恋しかった。

 ロンドンの高速道路を走ったところで違和感のない速度で疾走するハリーは、ここにきて跳んでくる蜘蛛の顎を避けながら走り続けるという苦行を強いられることになった。

 二本脚を持つ人間である以上、舗装されていない走りづらい地形はそれだけで多脚を誇る蜘蛛たちに有利な上に、地の利は完全に向こうにある。

 ほぼ長距離を跳ぶようにして走るハリーの横を並走する、巨大な蜘蛛が現れた。まず間違いなくアクロマンチュラである。アラゴグは落ちついた性格だったので目にする機会はなかったが大分興奮しているようでハサミをがちゃがちゃと打ち鳴らしている。

 そのハサミがハリーに振るわれるも、ハリーはハサミの付け根を蹴り飛ばす事で難を逃れる。そしてその蹴り飛ばした勢いでアクロマンチュラの肢がもげるものの、それを犠牲にしてハリーは距離を稼いだ。

 着地する前にハリーの足元に滑り込んできた奴を下敷きに、ハリーは跳びかかってくる蜘蛛を次々と足場にして跳躍する。木々をの高さを越えるほどにまで跳び続け、幾匹目かのアクロマンチュラを蹴って跳んだ瞬間、ハリーは全身から力が抜け出て霧散するのを感じた。

 身体強化呪文の時間切れである。

 

「くっ! ロン、ぼくにしっかり抱きついて! 『グンミフーニス』!」

 

 ロンに警告すると同時に、杖から光の縄を出して木の枝に撃ち込んだ。

 まるでバローズのターザンのように木の枝を伝ってロープアクションで逃げ続ける。

 だがハリーの腕は十二歳女子のそれであり、自分の体重とロンの体重を支え切れるほどの腕力はない。縄魔法の効果によっていくらか補助はあるものの、身体能力強化によって出したスピードからの遠心力に耐え切れるほどではない。

 杖を手放すまいと必死になっていたところ、ロンがハリーに向かって叫びをあげた。

 

「飛び降りて!」

「ええっ!?」

「いいから、飛び降りるんだ。僕を信じて!」

 

 血迷ったかとも思ったが、彼はこんな場面で嘘をついたり冗談を飛ばす男ではない。

 ハリーは親友の言葉を信じて縄魔法に供給していた魔力を打ち切り、重力に任せたまま落下する。

 時速一〇〇キロ以上は出していただろう、着弾するように地面に叩きつけられたら中身をぶちまけて死んでしまうだろうなという思いは杞憂に終わった。巧みに衝撃を逃がすようにして受け止めてくれたものがいたからだ。

 

「大丈夫ですか。ハリー・ポッター」

 

 蹄の音。

 状況がうまく呑み込めないハリーは、ひとまず周囲の光景から情報を得る事にした。

 まず、自分たちは死んでいないらしい。

 次に、自分たちを受け止めてくれたのはこの上半身裸の男のようだ。

 最後に、自動車のような速度で走っていたハリーにすら追いついていた蜘蛛どもをあっさりと引き離す猛スピードを誇る半裸男の脚を見てみれば、馬の下半身がついていた。

 ケンタウルスだ。

 まさか。彼らは気位が高く人を背中に乗せるようなことはしないはずなのに。

 

「フィレンツェ! ……でいいんだよね」

「そうですロナルド・ウィーズリー。ヒトにはわからないでしょうに、よく見分けがつきましたね」

「そりゃあ、まあ。僕らを乗せるケンタウルスに心当たりは君しかいない」

「そうでしょう。星が示す黒白の御子を死なせるわけにはいきません」

 

 どうやらこの二人は知り合いらしい。

 なんでも昨年度に森で受けた罰則のとき、ハグリッドと怪人(正体はクィレルだったが)との戦闘音を聞きつけてやってきたケンタウルスを宥めてくれたのが、彼なのだとか。その時ハリーは気絶していたので知らなかったのだ。

 命からがら森から逃げ延びた二人は、森の入り口でフィレンツェに礼を言う。特に何よりも大嫌いな蜘蛛の魔の手から助けてくれたロンは感涙せんばかりの勢いだった。

 フィレンツェは愛しい我が子に対するように二人の頭を優しく撫でると、言う。

 

「今夜も、火星が明るい」

「火星が? ケンタウルスは星読みが得意だって聞いたけど、それのこと?」

「ええ。黒白の御子よ、気を付けなさい。火星が明るいのですから」

「ごめんよフィレンツェ。ぼくは天文学に明るくないんだ。その意味を教えてくれるかな」

「つまり、火星が明るいということです」

「駄目だこいつ話が通じねえ」

 

 もう一度心からの礼をフィレンツェに言うと、二人は城に戻った。

 透明マントを持ってきていて本当に良かった。姿を消して城に入り込む際に、すぐそばの廊下をマクゴナガルが酷く慌てた様子で走り去っていったからだ。こんな夜更けまで外にいて、かつ禁じられた森にいたのだ。見つかっていればどれほど減点されていたか。

 城の中は落ち着かない空気に塗れており、何やら誰もが慌ただしい。

 二人のいない間に何が起きたのかと不思議に思っていると、ハッフルパフのアーニー・マクミランが見えた。彼も何やら走り回っていたようで息を切らしており、ハリーを見ると悲痛な声を上げた。

 彼もハリーを秘密の部屋の継承者だと信じていたクチであり、それによって悲鳴を漏らしたのだろうかとハリーは憂鬱な気分になったが、それは間違いであった。

 走り寄ってきたアーニーが、ハリーの目の前で地に額を擦りつける勢いで頭を下げたのだ。

 

「ごめんなさいハリー! 僕は、僕はなんて過ちを!」

「ど、どうしたのアーニー。頭を上げてくれ」

「本当にごめんなさい、君を疑っていたのは間違いだったんです。君が彼女を襲うはずがないって分かっていたのですが……、ごめんよ、ごめんよう」

 

 涙ながらに謝り続けるアーニーの肩を叩きながら、ロンが問いかける。

 

「彼女を襲うって、まさかまた怪物の被害者が出たのかい」

「し、知らないのですか! 君たち今までどこにいたんですか!?」

 

 ロンの問いかけにひどく驚いたアーニーに連れられて、ハリーらは医務室へ急いだ。

 マダム・ポンフリーが《泡頭呪文》をハリーたち三人にかけると、彼女らの頭のまわりに分厚く巨大なシャボン玉が現れた。マダム曰く、風邪は感染者の唾や気化した汗などが口に入ることで感染するものなのでこうした措置が必要なのだとか。

 奇妙な姿になった二人が医務室に入れば、そこは今や、戦場のような有様であった。

 風邪をこじらせたのか、あちこちで咳が響いて熱にうなされる者が大勢寝込んでいる。

 いつもは八つほどあるベッドも、三倍以上増えており、心なしか部屋そのものまで広くなっているような気がする。恐らくこれもホグワーツそのものにかかった魔法だろう。

 その中でいくつかカーテンの閉められたベッドがあった。

 ハリーはそのうちの一つに、見覚えがあった。コリンのベッドだ。つまり秘密の部屋の怪物に石のように固められてしまった者達が安静にしているベッドなのだろう。

 アーニーはそのうちの一つに歩み寄って、カーテンに手をかけるとハリーとロンの方を向いた。その顔は悲痛に満ちており、そして申し訳ないとも思っている顔であった。

 

「……開けてくれ」

 

 言葉を選ぼうとしていたアーニーを気遣って、ハリーはそう言い放つ。

 目を伏せたアーニーは黙ったまま、白いカーテンを開けて中身を見せてくれた。

 それを目にした途端、ロンが腹の底からの絶叫をあげる。

 

「ハーマイオニーッッ!」

 

 ハリーは絶句していた。

 猫化してしまって一ヵ月は安静だったはずの彼女が、なぜ。

 ハーマイオニーは目を見開いて、右手を突き出した形でそのまま固まっていた。

 どこから見ても完全に硬化しており、ハリーが彼女の手を触ってもまるで人肌の鉄を触っているような感触だった。ここ最近、毎晩のように抱きしめてくれた彼女の柔らかさなど欠片もない。

 涙を我慢するロンの横で、ハリーはほろほろと涙を流していた。

 死んだわけではない。スプラウト先生が調合しているマンドレイク薬が完成したならば、すぐにでも彼女は元に戻るだろう。だが、涙が止まらない。何故こんなにも悲しいのだろう。

 アーニーがおろおろする横で、ロンに差し出された少し薄汚れたハンカチで涙を拭う。

 

「ハーマイオニー、何か持ってるね……」

「何でしょう。紙切れのようですね」

 

 アーニーとロンの会話が、耳に入ってこない。

 何故、彼女が襲われなければならなかったのか。

 マグル生まれだからか? スリザリンの純血主義はそういった者に牙を剥くのか。

 だが、その説は否定する。

 ハーマイオニーの隣のベッドに寝かされているのは、監督生のマーカス・フリントだ。

 彼はスリザリン生であり、立派に純血の一族である。純血主義者でもあった。

 どこかのベッドで寝かされているはずのパーシー・ウィーズリーも純血だ。マグル生まれに手を差し伸べる、魔法界では珍しいタイプであるため純血主義とは真っ向から対立する家系ではあるが、それでも現代の英国魔法界では絶滅しかけている純血の一家であることに違いはない。

 何なんだ。

 スリザリンの継承者が生徒を襲っている、その基準がわからない。

 

「ロン、ローン! ここにいたんだ、探したよ!」

 

 驚きに飛び上がった。

 そういえば先の状態で夜だったのだから、今では間違いなく深夜だ。外出禁止時間どころか、寮の外に出ていい時間すら過ぎている。先生に見つかればただでは済まないだろう。

 だが聞き覚えのあるこの声は、ネビルのものだった。

 

「ネビル? どうしたのさ」

「たっ、大変なんだよロン! 今すぐ来てよ!」

 

 アーニーに別れを告げ、三人は大急ぎでグリフィンドール寮まで飛んで行、こうとしたところマダム・ポンフリーに捕まった。マダムによって念入りに全身を消毒されたあと、ハリーも一緒にロンたちの部屋に飛び込んだところ、そこには酷い光景が待っていた。

 ずたずたにされた枕に、引き裂かれた毛布。勉強机は大して使われた形跡がないため綺麗なものだったが、それも見る影もなく大破していた。引き出しは無造作に引き抜かれ、ほとんどの中身が床に散乱している。

 教科書類も残らずぐちゃぐちゃになっており、インク壺が倒されて真っ黒に染め上げられているではないか。羽ペンに至っては予備も含めて真っ二つに折れてしまっている。

 

「な、なにこれ!?」

「僕たちが夕食を終えて戻ってきたときにはこうなってたんだ……。悪戯にしてはひどすぎるよ。ロン、何か取られちゃったものとかないかい?」

「取られるようなものはないと思うんだけど……貧乏だし」

 

 ロンたちががさごそと荷物を調べているときに、ハリーは一点を見つめていた。

 インクがこぼれて真っ黒く染まった床。

 その一点だけは、インクがまったく付着していなかった。

 まるでスポンジで吸い取ったかのように四角く切り取られたそれは、ひとつの事実を指している。

 

「ロン」

「なんだいハリー、何か気付いた?」

「日記がないぞ。リドルの日記だ」

 

 慌てたロンが確認したところ、確かにリドルの日記だけがなかった。

 インクを吸い込む性質があることは確認済みだ。あそこに日記が置かれていたのだろう。

 あれは危険なものであるということはハグリッドとの会話ではっきりした。

 そんなものを狙ってこのようなことをする者とは、何者なのか。

 答えなどひとつしかない。

 

「継承者、か」

「じゃあ継承者ってグリフィンドール生なの!?」

 

 ネビルがショックを受けた顔で項垂れるのを、ハリーは頭を撫でて慰めた。

 彼が落ち込むのも、ひとえに彼の優しさゆえだ。

 同じグリフィンドールの仲間たちを疑わなければならないという気持ちは、優しすぎるネビルには耐えられないものなのだろう。ロンもネビルの肩を叩いて優しい言葉をかけていたが、次の瞬間響いた大声に誰もが飛び上がった。

 

『生徒は全員、ただちに寮へ戻りなさい。先生方は至急、職員室前まで集まってください。繰り返します――』

 

 マクゴナガルの声だ。

 何かあったのだろう。ひょっとしたらまた誰かが襲われたのかもしれない。

 しかしそれならば、継承者がリドルの日記を奪った可能性があることを伝えないとまずい。

 ハリーとロンは顔を見合わせると、寮から飛び出した。

 扉の先でぶつかりそうになったのは、フレッドとジョージだ。

 

「ウワッ!」

「危ないぞロン!」

「そうだぞロン!」

「ごめんよ二人とも! ロン、急いで!」

 

 二人に謝って駆け抜けようとするも、がっちりと掴まれてしまって身動きが取れない。

 ロンが暴れるも、何をしようとも抜けられる感じではなかった。

 

「待って、待って二人とも。ぼくたち急いでるんだ、間に合わなくなっちゃう」

「職員室に行かなくっちゃいけないんだよ! 離せフレッド、ジョージ!」

「おやおや。そいつは奇遇だね。職員室なら僕らも呼ばれてるぜ。ロンもな」

「そうそう。とんでもない偶然。職員室まで連れて来いって言われてるんだ」

 

 二人に組みつかれながら歩いたところ、どうやら二人はロンを職員室まで連れてくるように言われていたらしい。

 三〇センチ以上は身長差のある二人に両腕を捕まっていると、まるでFBIに捕獲された宇宙人のような気分を味わえる。だがそんな気分は今味わうべきものではない。

 るんたるんたと奇妙なステップを踏まされながら辿り着いた職員室前の廊下は、まるでお通夜のような雰囲気であった。異様な空気にさすがのフレッド・ジョージも黙り込み、大人しくマクゴナガルの前まで四人で進み出た。

 四人に気付いたマクゴナガルは、一瞬ハリーに目を向けるも「まあ無関係ではないですし」と呟いて話を始める。

 

「ウィーズリー兄弟。そしてポッター。心して聞いてください」

 

 そう始めたマクゴナガルの顔は、悲壮に満ちたものだった。

 否応なしに悪いニュースであることが伝わってくる。しかもこの面子。

 ハーマイオニーのことかとも思ったが、それだとフレッドとジョージまでわざわざ呼ばれた意味がわからない。いったい、なんの――

 

「秘密の部屋に、生徒が連れ去られました。……ジニー・ウィーズリーです」

 

 ロンの脚の力が抜け、膝をついてしまう。

 倒れないようハリーが慌てて支えるものの、彼女自身も内心ひどく驚いていた。

 乾いた笑い声を漏らしたジョージが、「エイプリルフールはもう過ぎただろう」と呟く。

 双子であるが逆の反応を示したフレッドが、マクゴナガルに食って掛かった。

 

「そういう冗談は面白くないですよマクゴナガル先生。やめてください」

「……事実です。これをごらんなさい」

 

 マクゴナガルが廊下の角を曲がり、壁を示した。

 そこにあったものを見て、四人は絶句した。

 血文字だ。

 秘密の部屋が開けられた時のように、血文字が塗りたくられていたのだ。

 乱暴な書体で、かつ細い文字で書かれているのは恐ろしい文句であった。

 

――継承者の敵よ、絶望せよ。じきにホグワーツは闇に統一される。

  糧となりしジニー・ウィーズリーの屍は、永遠に秘密の部屋で横たわるであろう――

 

 信じないぞと怒りだしたフレッドと、悲観して目元が潤み始めたジョージ。

 愛する妹が失われるかもしれないと絶望した表情のロンと、俯いて苦痛に耐えるハリー。

 家族が失われるかもしれないというのは、ここまでひどい感覚だったのだろうか。

 ハリーは自分の両親が死んだときの記憶はないが、妹のようにかわいがっていたジニーがこんな目に逢ってしまったというだけでこの感覚なのだ。本当に血のつながった家族である彼らの想いは、ハリーには想像もできない。

 希望を失った親友を慰める言葉をかけることもできず、ハリーはただロンの手を握ることしかできなかった。

 

「そ、そうだ。マクゴナガル先せ――」

 

 この空気に耐えきれなかったハリーが、リドルの日記のことを報告しようと声を出した、

 その時。

 

「んお待たせいたしましたァ――んッ」

 

 陽気な声が廊下に響いた。

 白けた顔や怒りに燃えた顔が向けられるも、彼にとってスポットライトと然して変わらないのだろう。ハンサムな甘いマスクを自慢げに輝かせながら、煌びやかなローブを揺らしてモデル歩きでこちらへ来る。

 ギルデロイ・ロックハートだ。

 

「髪のセットに手間取ってしまいましてねえ。んふふ。……んで、何のお話で?」

「………………」

「………………」

「おんやぁ~? どうなされましたみなさん。元気がないですねえ。そうだっ! ホラ、私の笑顔を見れば元気ハツラツ! 輝くスマイルの前では泣き妖怪バンシーも裸足で逃げ出していきますからね! はっはっは!」

「…………………………」

「…………………………」

「おやおや、本当にお元気がありませんね。あ、ひょっとして秘密の部屋の怪物のことが不安なんですかぁ? だーいじょうぶでっすよーぅ、アレは老いによって死にかけだと職員会議で判明したじゃーなーいでーっすかーぁ。魔法戦士団も呼んだことですし、来週にもなればもう恐れることは無くなってみんなハッピーになりますよぉう! ほーらほら、笑顔えがおっ! 輝く笑顔はハンサムの証っ、ギールデルォォォイ・ロッ――」

「ああ、ああ。ギルデロイ。英雄、ギルデロイ」

 

 ロックハートの鬱陶しさが最高潮に満ちた時、ねっとりした猫撫で声がかけられた。

 スネイプだ。

 散々嫌っていたロックハートに自ら声をかけるとは、とハリーが驚く中、猫撫で声はロックハートの心をくすぐり始めた。ハリーはこれに覚えがあった。彼お得意の、上げて落とす殺法である。

 

「ミスターはずいぶんと怪物退治に精通していらっしゃるようで」

「ええ! もちろんですよっ! ウーン、スネイプ先生……いやっ! スネイプ()()も、やぁーっと私の魅力に気づくことが出来ましたか。先生喜ばしい限りですよぉ、うんうん! サイン欲しいですかぁ?」

「……。おお、それは有り難いですな。しかし我輩らが今欲しているのは別の物であって」

「サインいらないんですかぁ? んもう、もったいないですねえ。損しますよ、スネイプ」

「…………。あー、うむ。我々としては、今回は君の出番だと思いましてね。ぜひとも協力を仰ぎたいのだ」

「ああーっ、そうですかー! 皆々様では力不足ゆえ、この私ッ! んルォックハァァァ――ンッ、ト! に、頼りたいというわけですかぁそーぉうでっすかぁーん。いやー、力がないことを素直に認めるとは私にはできない偉業です。自慢してもいいですよっ! ところでホントにサインいらないんですか?」

「………………。秘密の部屋に生徒が連れ去られた。貴殿の出番ですぞ、ギルデロイ」

「ンッンー、セブルスが私のファンになったということは一曲披露する必要がありますよね。えーっと、ホグワツ海峡冬景色。心を込めて、歌いま……、……なんだって?」

「怪物が出たからさっさと倒してこいと言っているのですぞギルデロイさぁ早く行きたまえ君の英雄譚をみな楽しみにしているのだ君は常々言っておりましたな怪物など私にかかればフォフォイのフォーイと言っておりましたなええ言っておりましたとも忘れたとは言わせませんぞロックハートでは行きたまえさっさと行きたまえ今すぐに吾輩の視界から消えて何処へなりとも消えうせるといい」

「え。あー。それは。えっと、ですね……ハッハー! そう、君はきっと緊張してい」

「行け」

「ハイ」

 

 いつもの輝くスマイルも、曇って見える。

 彼の頭の中はいつもお花畑でピクシー妖精がきゃっきゃうふふしていただろうが、ここまで面と向かって悪辣に言われてしまったら、都合よく脳内変換もできなかったのだろう。

 勘違いとはいえ今まで仲の良いお友達だと思っていたスネイプの裏切りに、かなりショックを受けてしまったようだ。とぼとぼ去り行くロックハートの背中は、なんだか哀愁が漂っていた。

 そんな彼の背中を眺めるスネイプの口元がゆがんでいるのは、やはり彼の感性も歪んでいると言わざるを得ない。

 

「ウィーズリー兄弟にポッター。寮へお戻りなさい。ジニー・ウィーズリーのことは、魔法戦士団を呼びました。明日から明後日には到着するよう急がせます。どうか、彼女の無事を祈ってあげてください」

 

 スプラウト先生の優しい言葉と、マクゴナガル先生の心底心配した顔で四人は寮に戻ることにする。

 すっかり意気消沈してしまったジョージを慰めるため、片割れのフレッドとともに部屋へと戻っていく。その背中に、ハリーは声をかけることができなかった。

 しょぼくれてしまったハリーの肩に、誰かが手を置く。

 少し驚いて振り返れば、そこには真面目な顔をしたロンがいた。

 

「ハリー」

 

 ロンが小さく呟く。

 彼の心はまだ折れていない。

 その意思は瞳に表れており、彼のブルーは勇気にあふれている。

 何故だろう、親友の背中がすこしだけ大きく見えた。

 

「行こう。僕たちが行かないで、誰が行くんだ」

 

 ハリーは親友の顔を見た。

 怒りに震えているだとか、自棄になっているだとか、そういう顔をしていない。

 勝算があって言っている確信のこもった表情をしていた。

 それは不思議でならない。

 怪物の正体もわからない、どうやって生徒を石化していたのかすらわからない。更には秘密の部屋の場所すらわかっていないというのに、何故こんなことが言えるのだろう。

 

「ロン。ぼくだってジニーのため助けに行きたいけど、でも情報がなさすぎる」

「それは、移動しながら説明するよ」

 

 談話室に置きっぱなしだったフレッドの鞄から何やらごそごそと漁りながら、ロンは言う。

 とりあえず彼に従ってローブを羽織り、出かける準備を済ませたハリーは彼の行動を観察した。

 どうやら双子が作った悪戯用品を持ち出すようだ。

 

「行こうハリー」

「何を取ったんだい」

「《気配消失薬》。フレッドとジョージの奴が、悪戯のために相手を後ろから驚かすためだけに開発した……というか既存の物を改造した魔法薬だよ。必要になると思ってね」

「……あの二人は本物の天才(バカ)だな」

 

 呆れながらも、二人は廊下を走る。

 絵画の中から時折怒られるものの、相手にしている暇はない。

 ロンが向かっている先は、闇の魔術に対する防衛術の教室。

 なるほど。

 目当てはロックハートか。

 

「先生!」

 

 ロンが初めて彼を先生呼ばわりするのを耳にしながら、二人はほとんど蹴破るようにして扉を開けて中に転がり込んだ。

 果たしてその中には、あらゆる荷物をトランクに詰めている最中のロックハートがいた。

 ……これから怪物退治に行こうとする恰好ではない。

 まさかとは思うが、この男は。

 

「……何してるんだ」

「ん? ああ、ハリーに……誰だったかな。まあいいや。私これから出かけるんですよ」

「僕の妹はどうなる!? あんた逃げるのか!」

「ハハハ! 逃げるだなんて、とんでもない! あまり私を馬鹿にしないでほしいですね!」

 

 派手な意匠の服を次々とトランクに詰め込んでいくロックハートの姿からは、全く説得力がない。

 逃げる準備を万端にしておいて逃げるわけがないなどと、よく言えたものだ。

 

「あんたあんなに多くの事件を解決してきた魔法戦士なんだろう!? 何弱気になってんだよ!」

「君たちは子供だ。あまりにも純粋だから、あんな作り話を信じるんだよ」

「な……」

 

 ばたん。と最後のトランクを乱暴に閉じて、ロックハートは振り返る。

 その顔に笑顔はなく、ハンサムなそれも幾分か老け込んでいるように見えた。

 

「あれをすべて私の実体験だと思ったのかい。私は小説家だよ、冒険家じゃない。いくつかはフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません。ってやつさ」

「そんな、まさか。あんな華々しい活躍が、全部ウソだったのか……?」

「いや、いや。そんなこたぁーない。作品にはリアリティが必要でね、あれらは実際にその事件を手がけた魔法戦士たちの話をつぶさに聞いて、そしてハンサムで世間ウケする私を主人公として書いたのだよ。物語として面白くなるよう、かなりの誇張を入れてね」

 

 恐ろしい独白だった。

 ロックハートの手がけてきた実体験録は、つまり他人の活躍だったのだ。

 他者の手柄を奪って己の物としたその心境はいかほどか。

 それは彼の顔を見ればわかる。

 

「だいたいおかしいでしょう。魔法生物は危険でいっぱいなんですよ。トロールやおいでおいで妖精ですら、危険に満ち溢れている。吸血鬼なんてもってのほかだ、人間が敵うわけがない」

「……、…………」

「だから私は逃げる。ある程度の魔法生物ならば嘘吐きの私程度でもなんとかなるでしょう。しかし、今回ばかりは敵うはずがありません。だから逃げます。命は惜しいのです」

「……あん、た。いや、おい。あんた、教師だろう。子供を見捨てるのかよ」

「あ、思い出した。君の名前はウェーザビーくんですね。ウェーザビーくん、教師が何か別の生き物と勘違いしてませんか? 同じ人間で、君たちが成長したその延長線上にいるただのヒトなんです。それに私が雇われた時の契約に、『命がけで怪物と戦う』なんて職務内容はありませんでした。つまり、私がやる必要はない」

 

 愕然とした。

 ロンのみならず、ハリーにとってもこれは衝撃的だった。

 マクゴナガルを初めとしたホグワーツの教師陣は、なによりも生徒のことを一番に考える人ばかりだ。それは大人として子供を導くことへの責任感もあったことだろう、教師という他者にものを教える仕事への誇りもあったことだろう。

 それゆえ、彼女らを基点として考えた場合は考え方が固定されてしまうのだ。

 大人は、責任ある者。

 教師は、子を導く者。

 ロックハート曰く、大人とは成長しただけの子供であり、違いはないのだと。

 理解できる主張ではある。だが納得はできない。

 

「ですから、私は行きません。教職も本日限りで辞めます。世間の目と自分の命、天秤にかけたらどちらに傾くかは明白でしょう? 家族が浚われた君たちには悪いと思います。ですが私には力不足なんですよ。犠牲者一覧に死体がひとつ追加されるだけです」

「だから、逃げると」

「そうです。情けないでしょう? ですがこれが本物の大人なんですよ。ここにいる教師はみな頭がおかしい。ただの仕事なのに、命までかけている。そんな人生、楽しくなんてないでしょうに」

 

 喋りながらもロックハートに油断はなかった。

 不意に動き出した彼にロンの警戒心が最大限に高まったが、遅かった。

 ロックハートは腰から引き抜いた杖をロンの眉間に突きつけて、嫌そうに言う。

 

「申し訳ありませんが、ここまで聞いたからには記憶を失ってもらいます。なに、私は《忘却術》だけは得意中の得意でね。一切の後遺症を残さず、私に関する記憶のみを忘れてもらいます。すまないね、ウェーザビーくん。あとハリーも君と同じよう、に……。あれ? ハリーはどこに行っぎゃおあばがぼげほにゃ!?」

 

 突然奇妙な悲鳴をあげて倒れたロックハートから、ロンは目を逸らした。

 両手で股間を抑えてぶくぶくと口から泡を吹いている光景は、同じ男として見ていられない。

 右脚を振り上げた格好のハリーが、満足しきった実に魅力的な笑顔をしているが、ロンからしたら悪魔にしか見えない。ロックハートにとっては言わずもがな。

 びくんびくんと悶えるロックハートに対して、ハリーは冷たく言い放つ。

 

「さ、行きましょうか先生。次のお仕事はぼくらの肉の盾ですよ」

「あばうごえば。うぎぎぎぎょうぎょう」

「ああ、ご心配なく。報酬はあなたの命です。さっさと立ってください、次は踏み潰しますよ」

 

 こめかみに青筋を立てたハリーの横に並びたくないロンは、彼女の斜め後ろを楚々と着いてくる。ロックハートに至ってはひょこひょこ歩きの上に、ハリーによって背中に杖を向けられているのだ。

 ロンの指示に従って歩き、たどり着いたのは三階の女子トイレだ。

 確かここは、ハーマイオニーとロンがポリジュース薬を作っていたトイレだ。

 そこでハリーは閃いた。

 アラゴグの言っていた情報と、年代。そしてあの時ちらりと見たゴースト。

 記憶のパズルがつながっていき、一つの図面を作り上げる。

 

「ああ、なるほど。ここが――」

「うん。そうだよ、ここが秘密の部屋への入り口だ」

 

 五〇年前に、秘密の部屋は開かれている。

 その際に、一人の女子生徒が殺されてしまった。

 運悪く別の怪物を育てていたハグリッドが犯人として処分された。

 その怪物であるアラゴグ曰く、女子生徒が殺された場所はトイレとのこと。

 そして、その亡くなった女の子が、今も変わらずそこにいるとしたら。

 女の子が、ゴーストとなってまでこの世に留まっているとしたら。

 嘆きのマートルが、事件のすべてを知っているとしたら。

 

「やあ、マートル」

「あぁら。ロンじゃないの。まーたヘンな薬作りにきたのん?」

「今日は違うよ。ちょっと聞きたいことがあって」

 

 マートルの媚びるような声色に、ハリーは察した。

 あ・これ恋する乙女の声だ、と。

 マジかよ、とハリーは幾度目になるかわからない溜め息を漏らす。

 ロンは意外とモテると思ったが、まさかゴーストにまで惚れられているとは。

 それでいて本人は自分を三枚目と思っているから、自分はモテないとまで思っている。

 ダドリーの見ていたアニメ曰く、ドンカンケイというらしい。

 

「あぁらん。なんでも答えてあげるわ」

「じゃあ、思い出すのも嫌だろうけどさ。君が死んだときのことを聞きたいんだ」

 

 少女のゴースト、マートルは少し嫌そうな顔をしたが、それでも嬉々として話し始めた。

 五〇年前のあのとき、同級生の女の子にニキビについてからかわれてトイレで声もなく泣いていたとき、男の子の声が聞こえてきた。ここは女子トイレなのにいったい何をやっているのかと思うと、悲しさが吹き飛んで怒りが湧いてきたマートルは、文句を言うために個室のドアを開けて、

 前触れもなく死んだそうだ。

 自分が死んだときの気持ちをつぶさに説明していくうちに哀しくなったのか、大粒の涙を流しながらどこかへと飛んでいき、個室トイレからばっしゃーんと派手な音が響いた。……まさかとは思うが便器の中に逃げ込んだのだろうか。いや、まさかね。

 

「ところでマートル、君に紹介したいんだけど」

「そこの女の子のことなら言わなくていいわ」

 

 今後も会う可能性を考えて、ロンがマートルにハリーのことを紹介しようとするも、取りつく島もなかった。というか便器の中から声が聞こえてくる。ああ、本当にその中に入っちゃったのね。

 

「え、何でだい」

「その女は将来、巨乳になる気配がするわ。きぇーっ、あたしの敵よぉ!」

「知ったことか!」

 

 マートルが立ち去った後、ハリーはロックハートを縛り上げてからロンと手分けしてトイレ内の怪しいところを調べてみた。

 個室ひとつひとつ、便器ひとつひとつ、そして鏡など。

 ハーマイオニーに教えてもらったらしい、化けの皮を剥がす呪文をロンが連発して異常がないかを調べるも、そのすべてが不発に終わった。

 汗をかいたロンが蛇口から水を出して顔を洗っている。春も終わりごろ、今年度も終わりごろだというのに、今年もまたとんでもないことに巻き込まれてしまった。

 ふとロンが驚きの声を上げたので、ハリーは振り返る。

 水浸しの顔を拭くのも忘れて、興奮した様子で彼が示すものを見てみれば、蛇口には蛇のレリーフが彫られていた。おそらく、ビンゴだ。他に怪しいところはないが、蛇の目にスリザリンのシンボルカラーであるエメラルドが埋め込まれているとなれば、まず間違いないだろう。

 さてどうやって秘密の部屋への入り口を開けるかが問題だ。

 継承者しか開けない、というからには何か特別なことしなければいけないのだろうか。

 《開錠呪文》は当然効かない。ひょっとして闇の魔術でも使わないといけないのか?

 

「あ、そうだ。ハリー、蛇語でなんか言ってみてよ」

「え?」

「スリザリンの継承者っていうくらいだから、蛇っぽい何かをしたら開くかもしれないだろ」

 

 大雑把なその意見を採用したことに関して、何らかの思惑があったわけではない。

 ハリー自身、他の方法を思いつかなかったからだ。

 

「んー、ごほん」

「蛇語? 彼女は蛇語使いなのかい?」

「ちょっと黙ってなよロックハート」

【集中できないんだけど】

 

 思わず蛇語で言ってしまったが、何も起こらなかった。

 ……仕方ないのでもう一度だ。ロックハートの脛に蹴りを入れてから、ハリーは言う。

 

【開け】

 

 しゅーしゅーと空気の漏れるような音が唇を滑る。

 がごん、と重々しい音を立てて円筒状にデザインされた蛇口たちが割れて、石を擦る音と共に展開していく様は驚きの一言に尽きた。無機物が勝手に動くホグワーツに居て何をいまさら、とは思うが、なんの魔力も感じない目の前の仕掛けに驚くなという方が無理だ。

 花が咲くように変形したトイレの一角には、いまやぽっかりと大口を開けた穴があった。

 黒い。そして、底が見えない。

 ある程度の深さがあると見た方がいいだろう。

 

「うーん、何メートルあるんだろう」

「こればかりはちょっと分からないね。ハリー、こういうのを計る魔法って知ってるかい?」

「知ってるには知ってるけど……ちょっと使えないな。こんなことなら習得しておくんだった」

 

 だが。

 こんな時こそ役に立つ、便利な道具があるではないか。

 

「おいロックハート。飛び込め」

「ほあ!?」

 

 嗜虐的な笑みを浮かべるハリーに、ロンは心底恐怖した。

 この女。成人男性をイジメて楽しんでいやがる。

 

「何を言っているんですかハリー。そんな汚くて危なそうなとこ、行くわけが」

「飛び込むことによって生死を賭けるか、今ここでズタズタになって死ぬか。どっちがいい?」

「ギルデロイいっきまーす! ひゃっほーい!」

 

 勢いよく大穴へ飛び込んだロックハートが、自棄になった裏声で叫び続ける。

 その声は遠く小さくなっていき、しまいには消えた。

 もしや死んだか? とハリーが穴を覗き込むと、蚊の鳴くような声で彼の声が聞こえる。

 

「最高の心地だよここは」

 

 どうやら劣悪な環境らしい。

 覚悟を決めたハリーとロンは、二人で一緒に飛び降りた。

 

「うわーっ!?」

「滑り台だァァァ」

 

 数十秒ほどスリリングな気持ちを味わってから、ハリーとロンは床に放り出された。

 あれだけのスピードで長い時間降りたということは、ここはかなりの深さに違いない。

 何から小動物の骨が絨毯になっている不気味な小部屋だ。

 ひっくり返ったロックハートを横目で見て、ハリーは下敷きにしたロンから降りる。

 どうやら怪物が食べたエサを捨てているのだろうか。

 骨のサイズを見るに、恐らくはネズミ。

 今もそこらへんをネズミが走り回っており、ハリーたちの来訪に驚愕している。

 ここが、秘密の部屋に至る道か。

 

「ほら、立てよロックハート」

「うう……乱暴だなあ……」

 

 ロンに尻を蹴り飛ばされ、ロックハートが嫌々ながらも立ち上がる。

 従っているのは杖を突きつけられているからだ。

 何故こんなにも嫌がるのか。

 確かに怪物がなにかもわからない状態では、歴戦の魔法戦士でも怖いだろう。

 だがこの男は嘘吐きで、実際には数多の魔法生物たちと戦っていないときた。

 それでもこの怖がりようは異常だ。

 まるで、正体を知っているような……。

 

「……、……おい。おい、ロックハート」

「ううん。なんですかハリー」

 

 ちょっと、待て。

 さっきこの男は、何と言っていた?

 スネイプとの軽快な会話の中、何と言った。

 『アレは老いによって死にかけだと職員会議で判明した』と。

 そう言っていたのではなかったか。

 

「おまえ。怪物の正体を知っているんじゃないのか」

 

 ハリーの声に、ロンは驚く。

 しかしロックハートもロックハートで、かなり驚いていたようだ。

 いつもの演技が入った優雅な声色ではなく、少々怒鳴りかけている声でハリーに問う。

 

「なに、なんだい。まさか君たちは、怪物の正体も知らず挑もうとしていたと?」

「どの道殺すんだ。相手がなんだろうと立ち向かうことに違いはないからね」

 

 ハリーの言葉に、ロックハートは目を剥いて怒鳴り始めた。

 そこに普段の優雅さやハンサムさは欠片もない。ただの、駄々っ子のようだった。

 

「狂っている! し、信じられない! 君たちは子供だ子供だと思っていましたが、まさかここまでひどいだなんて思ってもみませんでしたよ! 『相手がなんだろうと立ち向かうことに違いはないからね』? そんな、そんな馬鹿な道理があるか! 何もわかっちゃいない! 魔法生物というモノはね、そんな甘い覚悟で殺せるようなもんじゃないんだ!」

 

 ものすごい剣幕に、ハリーは少し驚いた。

 まるで掴みかかろうとするほどに激昂するロックハートの背中にロンが杖先を押し付けるものの、どうやら全く気にしていないようだ。

 唾を飛ばす勢いでハリーの肩を掴み、叫び続ける。

 

「いいか! よく聞け! 君たちは知らないだろうから、私が説明してあげるよ! ああ、そうとも。知らないだろうさ、たかだか一二歳の魔法使いや魔女は知らない方がいい! そうに決まっている!」

「だから何なんだ。はっきり言え」

 

 ハリーの冷静な態度がロックハートを刺激したのか。

 彼はハリーの小柄な体を突き飛ばすと、頭を掻き毟りはじめた。

 攻撃とみなしたロンがロックハートに《足縛り呪文》をかけると、体勢を崩してロックハートが骨の絨毯の上に倒れ込む。

 それで少し彼の興奮が収まったのか、荒い息を吐いてハリーを睨みつける。

 怯えと、恐怖。そして怒りのごちゃ混ぜになった視線がハリーの胸を貫いた。

 

「いいだろう。……いや、いいでしょう。教えてあげますよ、怪物の正体を」

 

 骨に手をついて起き上がりながら、わなわなと震えた声を絞り出す。

 その異様さにハリーは気圧されるまいと必死だったが、続く言葉には声も出ないほど驚く羽目になる。

 

「まず、まず怪物は複数います」

「……ッ!?」

「ええ。そうですよハリー。生徒を石化に追いやった怪物、そして城中に病をもたらした怪物。()()()()()その二体が」

 

 冗談ではない。

 怪物などというものが一体だけでも手に余ることは確実なのに、それが二体。

 もしくはそれ以上。いったい、どうなっているんだ。

 

「まだ絶望するには早いですよ。先ほどあげた二体のうち、前者はまだ問題ありません。過去にも討伐記録のある魔法生物ですから。しかし、しかし。ええ。……ああ、ああああっ! もう! どうして知らないんだ! これだから戦うのは嫌なんだ! いつもいつも僕から大事なものを奪い去っていく! ちくしょう! 神はいつまで眠りこけてるんだ!」

 

 説明の最中に恐怖に駆られたらしい。

 震えだし、大声を出すことで紛らわすロックハートは見ていて哀れだった。

 そこまで怯えられると不安になってくるが、ハリーは毅然とした態度で問うた。

 

「それで、何なんだ。そいつは」

 

 口の端から泡がついているのも気にせず、ロックハートは絶叫した。

 その名を聞くことで、ハリーは後悔することになる。

 現代の魔法使いたちが、相対することを想像したことすらない怪物の名を。

 

「ええ、言ってあげますよ! 絶望しなさい! 秘密の部屋の怪物の正体は――ヌンドゥだ!」

 

 

 




【変更点】
・空飛ぶ車で学校に来ていないので、逃走は自力で。
・今後多用する《身体強化呪文》。使えば戦闘でかなり有利です。
・一日に事件が起こり過ぎて忙しく、ハリーが情報を拾い切れていない。
・サディスティックポッター。性癖は人それぞれだよ。
・秘密の部屋の怪物、ヌンドゥ。少年よ、これが絶望だ。

というわけで、ホグワーツで流行っている病気の原因はヌンドゥでした。
こんなの勝てるわけがないだろ。誰だってそー思う、俺だってそー思う。一応、老いによって超弱体化しているので無理ゲーではないです。多分ヌンドゥってハリポタ世界では最強生物なんじゃないかなと思います。
そして継承者の思惑よりずいぶんと予定が遅れた結果、最後の一日が物凄いハードスケジュールに。多分これもロックハートって奴の仕業なんだ。
《身体強化呪文》についてはワイヤーアクションを再現出来るレベルとお考えください。
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