
学生団体SEALDs(シールズ)のメンバーで玉川大4年の矢部真太さんは小笠原諸島の父島で育った。沖縄返還の4年前に本土復帰、美しい島には太平洋戦争の爪痕が残る。矢部さんは似ているようでまったく境遇が異なる沖縄を人ごとには思えない。14日、沖縄県名護市辺野古の新基地建設に反対するデモで初めてマイクを握った。
安保法制が可決されて間もなく2カ月がたとうとしています。この夏、日本各地の路上でこの国に生きる多くの人々が声を上げました。「民主主義って何だ」。常に自分自身のことのように問い続けていたのではないでしょうか。
いまテレビや新聞、ネットでも辺野古の新基地建設をめぐるニュースを多く目にします。辺野古で起きていることが本当にこの国で起きていることなのかと疑いを隠せず、日々苦しく、悔しく感じています。
iPhone(アイフォーン)の小さい画面を通して、辺野古で起きている現状が私自身に、民主主義とは、憲法とは何か、とこの国の在り方そのものを突き付けているのです。
政府はどんどんと沖縄への対立の溝をつくっています。2014年の名護市長選や沖縄県知事選、衆院選挙で明らかになった「新基地建設反対」の民意を無視し「辺野古が唯一の選択肢」と言い続けています。
先週には東京の機動隊を大量に投入し、暴力を用いて強制的に市民を排除し工事を強行していこうという姿勢を見せています。
県民の声に「耳を傾ける」と述べながらも「ゲート前での運動は騒音だ」と一切そこにいる人々の声を聞こうとしていません。
辺野古を含める近隣3区に振興費を、名護市を通さず直接支援をする行為は日本国憲法がうたう地方自治をないがしろにする行為であるといえます。
このように数えきれないほどの現政権の横暴さがいま、戦後70年の「成熟した国」で起きているのです。
このような現実に対して何ができるのか。安保法制への反対の路上運動のように、自分自身のこととして捉え、行動していくことができるのでしょうか。
いま、私たちに問われているのです。
煩悶
今年の2月に辺野古のゲート前に足を運んだときのことを話します。そのときも「いてもたってもいられない」という衝動に駆られていました。
1月15日の深夜に、辺野古のゲート前の街宣でマイクを握っている友人から「辺野古で起きていることを見てほしい」とツイキャスのURLが送られてきました。アイフォーンの小さい画面を食い入るように見て、イヤホンから聞こえるゲート前での人々の声を聞いたあの夜のことを覚えています。