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水町綜「クリムゾン・ソックス・フォー・ユー!」

◆作品紹介

計算機械によって最適化された資本主義社会のもと、人々はリアリティ・ショーと化した戦争にすべてを囚われている。金と情報、感情と性、そして生と死まで。兵士であるナシラたちはそれに反旗を翻す——真っ赤にたなびくその旗を。考えてみれば、サンタクロースほど資本主義的なイメージも存在しない。それは満面の笑みと尽きせぬあたたかさで私たちを包み込み、あらゆる欲望に応えてくれる。それはある意味、物質社会における幸福の達成である。しかし私たちはいずれ受け入れなければならない。サンタクロースが自分たちと変わらぬ一介の大人であることを、そして自らもまたサンタクロースたりうることを。(編・青山新)


 強く跳ね上がった土砂がナシラの頬を鋭く叩いた。
 触れるだけで滅するような死の断片が弾ける。叫ぶように風がふるえた。弾丸と炎熱がすべてを舐め取り、その直下で無惨に爆ぜてゆく友軍の怒号、血飛沫、真黒く燃える空、戦術高エネルギーレーザーで焼き焦げるオゾンのにおい、殺し、死んでゆくすべてのものが切なく流転する。
〈ヴァルトルーム社〉が開発した最新鋭の〈特攻服デュエル・ドレス〉によって補佐・強化された四肢はナシラの身体を限界まで突き動かし、胸の下で心臓が叫ぶ。息が暴れる。か細い生の充足と、終わりなき殺戮を継続させるために全身の筋骨と臓器が躍動している。
 殺到する敵影目掛けて、ナシラは無我夢中で撃ち続けた。走る。戦術AIが算出したルートに沿って、爆風で演出された破壊の花道をくぐり抜けた。そのまま先の爆撃によって抉られた即席の塹壕目掛けて、間一髪で滑り込む。
「くわばら、くわばら。これじゃあ、命がいくつあっても足りないや」
 すかさず同ルートを通って無二の相棒であるカリトが追従してくる。ふたりですっぽりと塹壕に収まり、戦火から身を隠す。
 彼方で火柱がぼっと沸き立った。そのありさまをナシラたちは身を隠し、眇めるように注視する。友軍を食み、緑に変色した炎熱を背負って蜘蛛を思わせる醜悪なる無数の金属の塊が、人類という種を地上から刈り取らんとする過剰なる鋼鉄の悪魔――〈肥剪種オーバーシアー〉、その子機たちが悠々と大地を這い回り、破滅と恐怖をばら撒いていた。
「くそっ、これじゃキリがないぞ……!」
 肩口に浮かぶ戦況ドローン――市政に戦場のリアルを共有する中継機に向かって、ナシラは毒づく。どこもかしこも敵まみれだった。彼らの属する〈ファスラッド〉――電光石火ファースト機械破壊ラッダイトを至上目標とする特務防衛機関だ――その中でも随一の精鋭揃いである独立情報戦闘班〈クリムゾン・ネイルズ〉はこれまで数多の死線を潜り抜けてきたが……それでも、ここまでの脅威に晒されるのは初めてだった。
「必ずチャンスはあるさ。それまでは、なんとかどうにか耐え忍ぼう」
「チャンスってなんだ? バラバラのグロ死じゃなくて、なるたけ綺麗に死ねるチャンスってことか?」
「せめてクリスマスの七面鳥みたいに『こんがりジュージー』になれるといいね」
 カリトお得意の「戦場ジョーク」に苦笑して、ナシラの心はふっと軽くなる。まったくもっておれの親友ときたら、大したやつだ……。泥と汗で汚れた顔面を拭い、今一度状況を分析する。部隊から孤立したふたりは包囲されていて、おまけに朝から戦い詰めで疲労困憊。手持ちの装備も心もとなく、まさに絶望的な状況。
「とにかく、今のうちにひと息つこう」
 親友に提案にナシラは素直に頷く。一流の戦士たるもの、休息もおろそかにしてはいけない。幸い、彼らが身を潜める側溝は死角になっているようだった。今のところ、戦術AIも差し迫った脅威を検知していない。
「ほら、来月発売予定の、〈ノクタンス・フーズ〉の新型戦闘食さ」
「すまない。恩に着る」差し出された固形栄養ブロックをナシラは摘まみ上げるも、
「おいおい、礼を言うなら、生産者の皆さんに、だろ?」と、カリトはドローンに向かってウインクしてみせた。
「その通りだな。生産者の皆さん、いつも美味しい食事をありがとう。あなたたちのお陰で、おれたちは今日もこうして戦うことができている。本当に、感謝しているよ」
 はにかむようにして、ドローンに笑顔を向けた。眩しさ百パーセントの、どこに出しても恥ずかしくない完璧な表情。この戦いは前線にいる彼らだけでなく、市井の人々の支えがあってこそ成り立っていることを熱くアピールする。
 ナシラはブロックを口の中に放り込み、ゆっくり味わうように咀嚼して「なるほど、たしかに美味いな」
「だろ? 僕たちみたいな軍人が食べることを考慮して、栄養だけでなく健康面にも配慮されているんだ」
「食感もプチプチしていて楽しい感じだ。今おれが食べているのはフルーツ味だが、マンゴー味にチーズ、キーマカレー、ニッポン風のオチャヅケ味もあって、フレーバーも豊富だ。これならいくらでも食べられそうだな」
『おいしそう!』『あたしも今度、ママに買ってきてもらおうかな?』『発売が待ちきれないよ!』『もっとカリトくんとくっついて!』
〈オーディウム〉に集う市井の声に耳を傾け、ナシラはカリトとツーショットを差し向ける。途端に黄色い声がネットワークに吹き上がり――声援は活力になる。無論、補給のこともあるだろうが、ナシラはそれ以上の熱量が自身の内側にじわりと灯るのを感じる。
 補給の終わりを見計らったかのように、戦術AIがアラートを吐き出した。すかさずナシラたちは塹壕から半身を乗り出し、彼方へと視線をめぐらせる。
 無数の多脚構造を取り回すおぞましい機械の悪魔が――〈肥剪種〉の大規模殺戮兵器が大地を揺らす。その全身にはギーガーよろしく、人間の頭蓋を模したと思しき恐怖を煽る醜悪なレリーフが埋め込まれていた。表面は無数のチューブで覆われ、まるで剥き出しの臓物がそのまま脚を生やして蠢いているようだった。全長は十メートルに匹敵しているだろうか。まるで小型のビルがそのまま動いているような威圧感がある。
「こいつは……」
 ナシラとカリトは頷き合う。数々の視線をくぐり抜けた彼らをして、これほどの脅威は初めてで……まともにやりあっても、まず勝算は皆無で「……僕が、囮になる」
 だからだろうか。カリトが信じられない言葉を口にしたのは。
「おい、馬鹿なことをいうな……!」相棒の無軌道発言に、思わずナシラは激昂するが、
「ナシラ、僕たちは親友……だよな?」
 いつになく真剣な眼差しを受け、押し黙ってしまう。わかっていた。二人が五体満足で生還するのはまず不可能で、ふさわしい「生け贄」が必要だった。それはあまりにも自明な真実で……なによりも、そうした分析を淡々と済ませてしまう自身の見切りの早さに嫌気がさしてしまう。
 しばしドローンは彼ら二人のやり取り――言葉の奥にあるもの、苦渋が諦観と決意へと転換してゆく表情を克明に撮影して「それじゃ、あとは任せたよ。同じ地獄で、また逢おう」
 カリトはぽんとナシラの肩を叩いて、いそいそと塹壕から抜け出す。活路を拓くために、決死の袂へと。
 その背に向けて、ナシラは何かしらの言葉を掛けようとしたが「――ほんとうに、あとは任せたから。頼むよ? 相棒――」
 肩越しにカリトは振り向いて、そのときの彼の表情は、どこか昏い、複雑な「憂い」のようなものが滲んでいて……どうしてだろうか。この戦いに彼らが参画して以来、そのようなカリトの表情は――まるで整っていない、くしゃりとした顔つきは、ただの一度もみたことがないな。と、そんなふうにナシラは思った。
 そこから先は、ただの虐殺だった。単身で〈肥剪種〉の大規模殺戮兵器の眼前へと躍り出たカリトは、精一杯やった。ただ囮になるのではない。すこしでも親友の、ナシラの生存確立を上げるため、手持ちの武装を十全に用い、欺瞞と戦力の低下に務めた。〈特攻服〉に搭載された自慢の武装群――〈キティコム〉が誇るリボンガンによる精密掃射に〈ゼノミクス〉のマイクロ・ダイナミック・ガスレーザー、〈ヨーヨー・ディン〉自慢のナノカーボン・戦輪チャクラム、〈アグレガ・テクノロジーズ〉の自律式対戦車擲弾……搭載された武装の一つひとつを誇示するように、巨大な脅威目掛けて叩き込んでいく。孤軍奮闘する彼の死闘はまさに「鬼神」と呼ぶべき凄まじい領域へと差し迫っていたが――ああ、なんということだろう。さしものカリトでも、単身でそれを制圧するにはあまりに荷が勝ち過ぎた。
 あまりにも巨大な「それ」がぶるりと身震いした刹那、破滅が降り注ぐ。極光が、爆ぜる。カリトは全身を庇護する装甲を破砕され、猛雨のように降り注ぐ殺人レーザーに撃ち貫かれ――目の前で、親友がぼろ屑のように蹂躙されていく。
「カリト!」
 ナシラは叫び、続けざまにスーツの内側から悲劇性を劇的に煽るエチュードが再生された。繊細な音色が彼の心に寄り添うように染み渡る。彼らの死闘を固唾を飲んで見守る〈オーディウム〉は突然の悲劇によって荒れに荒れ、平行して再生されている楽曲がサジェストされ、世界各国で爆発的な勢いでストリーム再生され、そして各種関連ワードが同時多発的にトレンド入りを果たす。
 そこから先は、よく覚えていない。
「お前だけは……絶対に許さないッ!」
 ナシラの怒りと哀しみ、我が身を穿つ筆舌し難い激情に呼応するかのように、此度の戦場で初導入された〈エクソキャリバー・コーポレーション〉の新兵器――〈超龍王覇道砲ドラゴニック・マスター・バスター・カノン〉がスペックに記載されていなかった未知の機能を引き出し、放たれる七色の破壊光によって一撃で敵を屠り、押し寄せる敵の群れを一掃し、総じて奇跡に匹敵する戦果を上げたらしいが……ナシラには、もはや関係なかった。
 数分後、分断されていた〈クリムゾン・ネイルズ〉の戦友たちが駆けつけたとき、そこには破壊の限りを尽くされた機械の死骸と、そして動かなくなった親友の身体を胸に抱き、天に向かって慟哭するナシラの姿があった。
 それはまるで一枚の神聖な絵画イコンのようで……事実、廃墟で死した親友をかき抱くナシラの姿は過酷な戦場の「リアル」を投射した象徴的なスケッチとして〈オーディウム〉で大いに持て囃され、ポスターやブロマイド、あるいはファンコミュニティ手製の動画素材や二次創作の題材として瞬く間に、広く遍く膾炙したのだった。

 カリトが逝ってから、数日が過ぎた。
 目に見えてナシラは消耗していた。無論、仲間が死ぬのはこれが初めてではない。ミナス、ジュナ、トラグ、イーノ、リセム……誰もが大切な仲間だった。それでも、だ。幼いころからまさに血を分けた兄弟のように育ってきたカリトの死は、まさに半身を失うかのような不快哀しみと痛みがあった。
「ああ、なんということだ……。お前たちは私の家族も同然で……くそっ、こんなにも哀しいことって、ちょっと他にはないぞ……!」
 班長であるカリーヴァはさめざめと咽び泣き、そのぶ厚い胸板でナシラを強く抱擁した。班長を筆頭に〈クリムゾン・ネイルズ〉の面々はカリトの死を悼み、喪失の痛みに寄り添ってくれたが……それでも、ナシラの心中は十分に癒えることはなかった。
『かわいそう』『泣かないで』『これで美味いものでも食べてくれや(murmurさんから投げ銭チッピングされました!)』
〈オーディウム〉には連日、カリトの死を嘆く言葉やファンアート、追悼動画が矢継ぎ早に投下され続けており、それらで自らを慰撫し続けていたときだった。〈ファスラッド〉が展開するカルフォルニア戦線を統括する、マシアル戦略管理官マネージャーから呼び出されたのは。
「君がナシラ君か。なるほど。実物はなんというか、オーラがあるな。遠路はるばるご苦労。我々は君を心から歓迎する」
 ナシラはカルフォルニアから三百マイルほど離れたファイナル・ハリウッド基地ベースに招聘された。呼び出した張本人であるマシアル管理官はいかにも文官上がりという感じで、蓄光ビニール製の背広にタオル地のネクタイを合わせていた。管理官室に入室するなり、壁面に埋め込まれていた戦略ディスプレイに広告動画が表示された。当然の「慣習」として、ディスプレイに表示される広告を三十秒間注視する。このお馴染みのやりとりは前線のブリーフティング前にも敢行されるもので、ナシラもマシアルも、黙って表示される最新の自動運転車の広告を観た。
「よろしい。そこに掛けたまえ」促され、座り心地のいい来客用のソファに腰掛ける。
「この度はお悔やみ申し上げる。先の戦いで戦死したカリト君は私にとっても大切な部下だが、しかしきみにとってはそれ以上の心痛があるだろう。まさに、半身が失われるような……」
 意外な言葉だった。一介の戦闘要員に過ぎないナシラにとって、マシアルはまさに雲の上のような存在で、同時に、いつだって危険な戦地に彼らを送り続ける「冷酷な司令官」そのものだった。事実、先日も〈肥剪種〉の破壊部隊が待ち受ける山あり谷ありトラップ満載の秘密基地に血気盛んな特殊部隊が送り込まれ、けんもほろろに全滅したばかりだった。その模様はナシラも視聴しており、屈強な隊員たちが次々とローションで塗れた急斜面を登り切れず、配置された危険なアスレチック機構に絡め取られながら奈落へと落とされていく光景をぞっとしながら見送っていたのだった。
「お茶を準備しよう。コーヒーでいいかな?」
 マシアルは自ずから室内の片隅に設置されたキッチンでコーヒーを煎れ、ナシラに差し出す。馥郁とした香りが鼻孔を刺激する。
「あっ、ありがとう、ございます……」 
 気後れしつつ、差し出されたカップに口をつける前に印字された「商品説明」を探そうとした。それをドローンに向かって読み上げるのが社会の一員としての、当然の「責務」だからだ。
「ああ、その手の『様式』はここでは気にしなくていい。楽にしていたまえ。ここではドローンも、〈オーディウム〉に対するアピールも必要ない。存分に寛いでくれたまえ」
「そう、ですか……」
 ナシラはおずおずと頷き、思えば入隊以来、それらは片時も離れず彼を包括し続けたもので、まるで衣服を身に着けずに表を歩くような心細さを感じた。なんとなく落ち着かない気持ちを覚えた。勧められるままにカップに口をつけると、複雑な刺激に舌と鼻が痺れた。目を白黒させるナシラに、マシアルは笑みを含み「すまない。笑うつもりはなかったのだが、あまりに新鮮な反応でね」と、そのまま滲み出る笑い声を噛み殺そうと背筋を丸めた。
「きみは配属されて何年になるかな?」自分で煎れたコーヒーを優雅に啜りながら、マシアルは切り出して、
「今年で三年目、ですけど……」
 ナシラもカリトもいわゆる戦災孤児で、ふたりとも身寄りがなく、施設の出身だった。彼らのような学もなく、寄る辺もないものは前線に送られるのが常だ。彼らが産まれるよりもずっと前から人類を脅かしている脅威――〈肥剪種〉たちとの飽くなき闘争へ。
「ふむ、そろそろ『頃合い』か」マシアルは思いを巡らせるようにあらぬ方向へ視線を向けて「さて、どこから切り出そうか。我々を取り巻く状況は、正直かなり複雑でね……」といかにも鹿つめらしく、勿体ぶるような素振りをみせたが……結局、すべて話すことにしたらしい。
「結論から言おう。まず我々の敵対者である〈肥剪種〉だが、その正体は――いわゆる広告Botだ」落ち着いた、さらりとした語調でマシアルは言って、
「……は?」
 素っ頓狂に声が裏返る。意味が、わからなかった。
「だって、奴らはおれたち人類に反旗を翻した、人類抹殺を目論む、狂った殺人AIだって……!」
「その認識は間違ってはいないが……さて、どこから話そうか。いや、サンタを信じている子どもにこの世でもっとも残酷な真実を告げるようで気が引けるのだが――しかし、君はもうクリスマスの夜にいそいそと靴下を準備する子どもではない。私は君を、一人の『大人』として信用しているんだ。〈肥剪種〉との戦争が以前の時代の様相を、知っているかね?」
 ナシラは頷く。座学で習ったことがあった。連中が人類の天敵として牙を剥く遥か以前は、人が人同士で奪い合い、殺し合うような不毛な時代があったと聞く。
「知っての通り、人類史は血で血を洗うような稚拙な悲劇の連続で成り立っている。いくつもの大きな略奪、虐殺、それに戦争……尽きることなき人類の悪行。それがどうして起こるか、わかるかね?」
「それは……倒すべき、敵、がいるからで……」
「その敵と味方は、彼我間に生じるその差異は、何に起因すると思う?」
「それは、立場とか、考え方とかの、違いで……」
 マシアルはふるふると首を振り「『不均衡』だ。わずかに他より足りて、あるいは欠けている。その程度の差異が絶望的な格差を生み出し……『満ち足りない』という底なしの渇望を……『欲望』を生じさせる。そう、欲望。それこそが、人類という種が持つ逃れられない本性だ。しかし考えてみたまえ? 果たしてこれらは明瞭だろうか? 本能的な渇望、飢餓感によって出力される手段は、明確な目的意識や成果に則って導出されたものだろうか? 言わずもがな、答えはノーだ。少しでも考える頭があれば、誰だってこのような悲劇的な手段は採択したがらない。なら、何故これらの惨劇は愚直に繰り返されてきた……? 答えは簡単だ。我々は我々自身の欲望に対して、あまりに無知だからだ」
 マシアルは述懐し続ける。淡々と、しかし徐々に熱っぽく。謡うように、吟じるように。
「虐殺も戦争も、その他諸々の筆舌し難い蛮行も、奪いたいのか、他者より富み栄えたいのか、辱めたいのか、それとも素朴に相手が憎かったからなのか……そこにあった根源的な欲望を明晰化し、あるいは線引きして分析することは困難だ。もっとスマートにやりたいと、誰もが心の底から、そう願っていたはずだ。そこで導入されたのが、〈オーバーシアー〉――我々の、果てることなき愚かな本性に導線を引く守護天使、人類を救う監視者オーバーシアーでもある」
「天、使……?」ナシラが怪訝そうにその言葉を呟くと、マシアルは口元に拳を当ててくすりと微笑んで、
「先にも話した通り、〈オーバーシアー〉とは本来、取るに足らない一介の広告サーヴィスだったのだ。個々人に常駐し、絶えずライフスタイルを監視することで自分自身も認知していなかった『真の欲望』を掘り下げ、それに準じた広告をサジェストし、結びつけることを主目的とするただの追跡型の民間サーヴィス……それが彼らの真の正体にして、『根源』だ」
「そんなものが、どうして……?」
「気づいてしまったのだよ。人類は、自身の欲望に対してあまりにも無頓着だったんだ。〈オーバーシアー〉はそれを可視化してみせた。しょせん嗜好も思考も、意識の表層に浮かぶ断片に過ぎない。潜在意識に対する解析とトラッキング……ビッグデータと強固なアルゴリズムで導き出された『本当の欲望』がサジェストされた広告を介して示されたとき、人々は自分の正体を、自分が『何者』であるかを知ったんだ。完璧に整理された個々人の欲望は仮初の不均衡を均し、腑分けされ整理された世界ではかつての幼稚な争いは遠のいて――〈オーバーシアー〉は我々を効率的に導いている。我々は彼らを受け入れることでより賢く、穏やかでスマートな存在となった」
 ナシラの脳裏に、文明に寄生する機械の悪魔の姿が鮮烈に浮かぶ。
「〈オーバーシアー〉は人類の欲望を吸い上げ、『戦争』という一大広告キャンペーンを創り上げた。我々は〈肥剪種〉という共通の目的を手に入れ、健やかな協力体制を築いたのだ。資材、兵器開発、輸出入の活性化、人的資源育成、消費活動、各種メディア群を包括・タイアップしたプロパガンダの充足……。前線で戦う君たち〈ファスラッド〉の存在も重要だ。スポンサー群は新製品を君たちに提供し、君たちの姿に触発された人々は購買意欲を燃やし、『買って応援』することで、戦意を高揚させる。わかるかね? 戦争そのものが、巨大な広告収益を生む完成された生態系エコシステムとなったのだ」
「そんなはずはない……」ナシラはかすれた声を絞り出し、声のか細さから、自分の動揺に驚く。「だって人間には、自分の意思がある……。自分自身で、ちゃんと物事を決められる……。確かに間違いもあるかもだけど、そんなわけのわからないマシーンに、人生を丸ごと左右されるなんて……!」
「気持ちはわかるが、君は人間の自由意思を買い被りすぎている。そんなもの、ただの幻想だ。人は自分の人生の手綱を握りたいとそこまで思っているわけではない。意識なんて脳の電気信号や外部刺激から生まれる曖昧な現象、混合物カクテルに過ぎない。猿が運転するスポーツカーの助手席に乗りたいかね? そんな不確かなものに無軌道に身を任せるより、より優位でより生産性の高い選択肢や決定を自動的にサジェストしてくれる彼らに教導される方がずっと正しく、ずっと心安らかで――」
――間違いなく、人類は今、歴史至上もっとも幸福なのだよ。
 一連の要諦を、マシアルはそう結んで――違う。そんなわけがない。そんなものが、幸福であるはずが……。ナシラの脳裏に克明なイメージが浮かぶ。搾取されていたのだ。文明に寄生する、機械の悪魔に……! 開示されたあまりにもグロテクスな世界観を前に怒りと、新たなる憎悪が引き出される。それは闇雲に対峙してきた「敵」に確かな輪郭を付与して――不快な鉄クズ野郎どもめ、おれたちの世界から、螺子の一本も残さず、叩き出して撃滅してやる……! そう決意するも、
「不服そうだな。いかにもそういう目をしている」この反応はあらかじめ予見されていたものらしい。
「視野狭窄だな。きみは、この世の中で、自分一人で生きていると思っているのかね?」
 マシアルは声のトーンを落とす。聞き分けの悪い子どもに言い含めるように。
「蛇口をひねれば水が出る。通販サイトの購入タブをクリックすれば、明日には商品が届く……我々はそんな利便性の中に生きている。今さら火を起こし、獣を狩る生活に戻れるだろうか? ……無理だろう? そんなこと、私にだって出来そうにない。相互扶助だ。ミチバチが蜜と引き換えにその身を介して花粉を運ぶように、それは自然界にはごくありふれた構造で、我々は互いに生かし合い、分かち合っている。〈オーバーシアー〉もその一部で……コーヒーのお代わりは必要かな?」
「結構、です。おれにはその、味が難しくて……」ナシラはその申し出を断り、マシアルは苦笑する。
「ふむ。コピ・ルアクを参考にした市販されていない自慢の特別ブレンドなんだが……どうやら君には複雑過ぎたようだ」
 煎れ直したコーヒーを見せつけるように味わいながら、キッチンに体重を預けながら仕切り直す。
「君には大いに期待しているのだ。君たちは類まれない価値を産み出す。その素質がある。元より、君の親友も織り込み済みで……託したのだよ。この世界を、まるごと君に……」
「カリトが……?」
 噛み締めるようにマシアルは頷いて「〈カリト&ナシラ〉の名物コンビはそのキュートなルックスと溌剌とした健全さから大いに大衆から支持された。これは〈ファスラッド〉発足以来、数えるくらいしかなかった異例のヒットぶりで……我々も相当稼がせてもらったが、しかしこれ以上はこのモデルを展開していくことは『限界』だと、上層部はそう判断した」
「限界、というのは……?」震える声で、ナシラは問うて、
「一言でいえば、『マンネリ』だ。大衆というのは常に過激な刺激を欲しがる人種でね、君たちはあまりに優等生過ぎたんだ。健全で優秀な情報体は常に安定した価値を提供してくれるが……しかし同時にこの手の媒体に必要不可欠な緊張感が削がれていくのが一番の問題でね。コンテンツビジネスの難しいところさ。そこで、だ。すっかり弛緩し弾力を失い始めた展開と市場に対するカンフル剤として、此度の展開が――『カリトの死』という特段の悲劇が設けられたのだが……いささか、きみにとっては劇薬に過ぎたようだ」
「それじゃあ、カリトが死んだのは……」
「まぁ、そういうことだ。改めて、お悔やみ申し上げるよ」
 刹那、怒りが思考を追い越した。脊髄反射で放たれた暴威が暴れ出し、目の前の管理官を害するために全身が助走を開始する。固めた拳で、目の前のきざな男の顔面を破壊するために。
「――しかしそれを望んだのもまた、他ならないカリト君自身だ」
 すんでのところで、ぴたりと踵が止まる。その静止を見届けたマシアルは、どこか満足気に薄く微笑んで「そうだ。上層部――暫定的に〈統括役スクリプター〉と我々は呼んでいるが、彼らが下した決断をカリト君は十全に飲み込んだのだ。君たちの戦場を襲う未曽有の危機マンネリズムを前に、この世界を救うため、自らの命を進んで捧げてくれたのだよ? ……まぁ、相応に手痛い保証金が生じたようだが、こればかりは仕方があるまい。ところで君もカリト君も施設の出身ということで目ぼしい親族はいない筈だが、あれはどこに支払われたのだろうか? ……まぁいい。なんにせよ、君の相棒は、まさにこの世界の救世主だ。誇りに思うといい」
「カリト、が……?」
 なにも知らなかった。相棒が、無二の親友が抱えていた決意を、決断を……。なに一つ知らないまま、今日までのうのうと生きてきたのだ……。失意のあまり背中を丸め、項垂れるナシラの肩に、マシアルはぽんと気安く手を置いて「彼が愛したこの世界を守るのが、この先の君の使命だ。君は今日、昨日よりもほんのすこしだけ大人になったのだ。その信頼に、どうか報いて欲しい。さて、これから大忙しだぞ。ここから先は、怒涛の新展開で目白押しだ。まず、君を施設に捨てた実の父親が満を持して登場する。彼は〈肥剪種〉に洗脳され、最強最悪のサイボーグ戦士として君たちの前に立ちはだかる予定だ。平行して、君の新たな相棒となる美少女戦士も実装予定だ。大方韓国の人気プログレッシブ・アイドルグループの誰かが内定しそうだが、人選に関していささか難航していてね。というのも、大手スポンサーがお気に入りのポルノ女優をねじ込もうとしていてね……まったく、頭より五倍も乳のデカい女の何がいいのやら……。とにかく、これに関しては決まり次第報告するとしよう。と、その前に……思えばここまで働き詰めだった。数日間、休暇を取るといい。新たなる戦いキャンペーンに向けて、大いにリフレッシュしたまえ。話は以上だ」
 ――今後も、期待しているよ。そう言って、マシアルは茶目っ気たっぷりにウインクしてみせた。ナシラは低頭して部屋を出た。
 そこからどうやってカルフォルニアの基地まで帰ったのか、よく覚えていない。
 いくつもの白けた情動が鎌首を擡げてはみるみる霧散してゆく。怒ればいいのか、悲しめばいいのか……。適切な感情が自分でもよくわからなかった。なんにせよ、カリトは死んだのだ。こんな馬鹿げた仕組みに巻き取られて……。いや、しかし、これが、この機構が世界を回しているというのなら、カリトの死も有意義なものとして尊重されるべきで……とにかく、虚しさを感じた。
 気がつくと、馴染み深いカルフォルニアの兵舎施設に着いていた。
「よォ、おかえり」
 出迎えたのは背の高い、金髪碧眼の美女だった。ナシラと同じく〈クリムゾン・ネイルズ〉に所属しているイオニスだ。彼女はビール瓶片手に共有スペースの壁に背を預け、そのすらりとした立ち姿は見惚れるほどで、黙っていればモデルもかくやという様態だったが、その相貌が凶悪に歪んだ。
「いや、いつまで真面目にこの『クソバカごっこ遊びプリテンド』に躍起になってるのかと心配してたけど、その調子だとちょっぴり大人になったみたいだな? おめでとさん」
 揶揄からかうような口振りから、ハリウッドでナシラが何を告げられたのかを把握しているかは自明で……それどころか、ともすればここで〈肥剪種〉相手に愚直に戦い続けてきたのはナシラ一人だったのではないか? という空寒い真実さえ透けてみえてしまう。
「どけよ、イオニス。今はお前と遊んでいる気分じゃないんだ」
 ナシラは彼女を無視しようとした。なにせイオニスは底抜けの性格破綻者だ。人の不幸や失敗を喜ぶ性分があって、その二面性は複雑な個性のひとつとして受け止めていたのだが――しかし今となっては、彼女のその見目麗しい容姿自体が、ある種の揺るぎない事実をナシラに突きつけるのだった。
「いや、しかし、何度みてもウケるな。大抵の連中はここにぶちこまれるなり洗い浚いブッ込まれて、あとに残るのは〈台本スクリプト〉に右へ左へ流されるだけのヒサンな人生なんだが……お前、まじで『箱入り』だったんだな。何年も何も知らんで、マジの殺し合いだと思ってたんだろ? いや、そんなヤツがいるなんて、アホ丸出しじゃん」
 イオニスは背中を丸めて、堪え切れないように下卑た笑みを零す。「いやさ、朝から晩まで変態マスかき野郎どものオカズにされるような最低最悪のクソ人生だけどよぉ、何も知らんキラキラボーイがキラキラ戦場の幻想をぶっ壊される瞬間は……これ以上に面白い瞬間って他にないな。こん時だけは、マジで今の仕事してて良かったと思うわ。あー、おもろ」
「そんなに、おれの馬鹿さ加減が面白いのかよ……?」
 敵意を込めて、イオニスを見上げた。彼女の身長はナシラよりも頭ひとつぶん高い。イオニスは動じなかった。そのまま彼女は高所から高圧的な視線を落として「ああ、お前の人生、マジでクソだな。バカ共から煽てられるまま得意になってさ、本当に救いがない。自分のこと、本物の『ヒーロー』か何かだと思ってたんだろ? そういう意味じゃ、あのカリトとかいうガキは私らなんかよりも遥かに聡明だった。あいつはいち早く、このクソ舞台からアガったわけだからな……?」
「この……!」
 さすがに今の言葉は聞き流せなかった。やに下がるイオニスとマシアルの姿が重なる。ナシラのこれまでの人生を丸ごと否定されたように感じた。所詮、一切はお膳立てされた茶番に過ぎなかったのだと……。
「ちょっとしたウラ技があってな、あらかじめ、ドローンは切ってある。お喋りなクソ客は誰も見ちゃいない。私の美しいこの顔面を叩き潰すなら、今が絶好のチャンスだぞ? ほら?」
 言われなくてもそうするつもりだった。激情に任せるまま、イオニスに体当たりする。予想に反して、彼女はナシラの身体を真っ向から受け止めた。イオニスは呆気なく押し倒される。マウントを取ったナシラはそのまま拳を固めて、精一杯の怒りを彼女の顔面に叩き込もうとしたが「そのままグーパンして貰っても構わんが……お前にひとつ、提案がある」
 低い声色で、イオニスは言った。それは先ほどまでの軽薄さとは懸け離れた真に迫った声色で、振り下ろした拳が彼女の鼻柱を叩き潰す寸前に、ぴたりとナシラは手を止めた。
いい子バッドボーイだ、救いようのない……」どこか満足気に、イオニスは呟いて「元よりクソみたいなお前の人生――顔も知らないどっかの誰かのオモチャ扱いにされるくらいなら……私に預けて、もっとぐちゃぐちゃのハチャメチャに、台無しにしてみないか? エ……?」
 悪辣に微笑む。真上にあるナシラの顔の中にあるもの――憎悪と怒り、自分を取り巻く巨大なものに対する激情……恩讐。そのようなものを見取ったかのように。
 気がつくと、ナシラたちの周りには小規模な人だかりが出来ていた。どうやら初めから監視されていたらしい。その中には〈クリムゾン・ネイルズ〉の面々――班長のカリーヴァや同僚のエザムも含まれていて、手の下で、美しい口角が凶悪に持ち上がる。

 カルフォニアの大地に平和を脅かす鋼鉄の悪魔たちが――〈肥剪種〉が姿を現す。醜悪な巨大なプロペラ戦艦から投下された無数の子機たちが遺跡化したかつてのディズニー・カリフォルニア・アドベンチャーに降り立ち、蹂躙を開始する。それは人類に文明に対する明確な敵意の表明で、〈クリムゾン・ネイルズ〉の出動だ! 貴重な文化遺産を保持するため、各メーカーが誇る最新鋭の装備で全身を美麗にコーディネイトしたナシラたちが現地へ急行する。
 経年劣化し、すっかり錆びついた観覧車や園内をぐるりと周回するように配置されたコースターに取り付く巨大な蜘蛛型の侵略者を睨む。班長のカリーヴァはそれがいかに罪深い行為であるか、またこの文化遺跡が人類にとってどれほど貴重なものであるかを、ちょっとした豆知識トリビアを交えながら、厚い胸板を張り、時にその発達し、ほどよく引き締まった巨大な臀部を強調しながら、朗々と響く声で戦局ドローンに向かって説明し続けていたが、
「センパぁイ、こないだの話なんですけどぉ、考えてくれましたぁ?」
 今期から部隊に配属された新入りであるデロイが豊かな巻き毛を指先で弄びながら、枝垂れ掛かるようにナシラに体重を預ける。特注のビキニ戦闘服から豊満な谷間が覗く光景を、ナシラは驚くほどの無感動さで見送る。
 前々回の出撃で、ナシラに抱く仄かな恋心を打ち明けた彼女は以来、積極的にナシラにアタックし続けていた。古代深夜ラジオのハガキ職人の末裔である人類側の伝統職人と〈オーバーシアーズ〉の共同作業体――〈統括役スクリプター〉肝入りの台本プロットは上々の成果をあげている。〈オーディウム〉に集う大衆の大多数は彼とデロイの恋の行方に一喜一憂しており……いったい、なにが面白いのやら。ナシラにはとんとわからなかった。
「あたし的にはセンパイとめっちゃハピハピな結婚を前提としてるっていうかぁ、子どもは最低四人はほしいし、白い暖炉のある家でおっきなワンちゃんとか飼いたいし、プールには、サメも……」
 もじもじと赤面しながらデロイが身を捩る。呼応して、彼女の胸元で長い乳房が振り子のように揺れる。
「おい! 神聖な戦場で無駄口を叩くのはやめろ!」
「え~っ? 班長、そんなこと言って、班長のお尻はそうは言ってませんよぉ~? ほらっ!」
「やめないか! 不当に尻を揉むのは……! やめ……んんっ……!」
 じゃれ合うカリーヴァたちを尻目に、ナシラはちらりとイオニスを一瞥する。彼女は部隊員たちの輪から少し離れた場所で噛み煙草をくちゃついている。目が遭うと、彼女はすっと目を細めて『ブルってんじゃねぇぞ……?』
 暗号無線――彼らがふだん使っている量子暗号通信の足元にも及ばないトランシーバーによるひび割れた声が、耳孔にねじ込んだ旧式のインカムに響く。
 表向きの指揮官はカリーヴァだが、その実、手綱を引くのはイオニスで――いいか? これは私たちの〈叛逆〉だ。私たちを取り巻くこのクソ世界に手痛い一撃を喰らわせるための、一世一代の『悪あがき』だ。
 ナシラは彼女の言葉を、注がれてきたこの数ヶ月を反芻する。イオニスにいっちょ噛みした栄光なき叛逆者――現体制とオーバーシアーとの癒着構造に納得しかねる、数十人の「跳ねっかえり」ども。いったい何処で知り合ったのやら。集まった彼ら彼女らの中には高級技官や官僚も含まれており、ある程度なら融通の効く戦略を練ることが可能だった。ナシラたちは侃々諤々に話し合い、徹底的に策を練った。世界に傷跡を残す、力いっぱい、ぶん殴るソックするために――。
「よし! 行くぞ! 我々の正義の怒りを、奴らに見せつけてやれ!」
 カリーヴァの号令に従い、〈クリムゾン・ネイルズ〉は戦場に飛び出す。きらきらとした陽光が彼らの纏う最新鋭のロボット・スーツに乱反射して、朽ちた遊園地に取り付く恐ろしい機械人形の群れに真っ向から突貫する。そこから先は飽き足りたいつもの戦場、いつもの死闘、がらくた共と織り成す、毛繕いのような……。かつては壮絶に思えた弾丸の雨を掻い潜りながら、ナシラは自嘲気味に微笑む。こんなものに命を懸けていたのか。いや、懸けていると思い込んでいたのか。戦術AI――敵対者と共有している環境データ層の導きによって、ナシラは一見して激戦区のように思えるが、しかしその実安全な領域へスムーズに移動し、そのままスポンサーから与えられた武装を駆使してじつに効果的な、見栄えする戦果を出す。
〈オーディウム〉は歓喜する。彼らが陥るピンチに、鮮やかな逆転劇に、手に汗握り、興奮する。カウチの上で、ピザやポップコーン片手に。ひたすらに与えられた餌を貪り、肥え太り続ける豚の群れをナシラは幻視して、一転、好戦ムードからお決まりの未知の超兵器が投入される。億千万の蛇と百足、それと無数の人体片を絡み合わせ、綯い交ぜにしたような機能性を度外視した恐怖の象徴が大地を押し割りながら姿を現す。それは無数の僚機を吐き出しながら、天に向かって咆哮して――ここだ。ナシラは覚悟を決める。
 予見されたピークタイム。全世界の視線がナシラたちの動向を、固唾を飲んで注視していて――『死ぬ気でやれよ? まさかとは思うが……今さら日和るような、ダサい真似はするなよ? おい……』
 イオニスが耳の中で囁く。『まさか』とナシラは否定して、
「……この戦いから生きて帰ったら、結婚しましょうよぉ? やっぱり、家族は多いほうが楽しいじゃないですかぁ? 子どもたち以外にもワンちゃんとか猫ちゃんとか、小鳥とかクワガタとかもいっぱい飼ってぇ、あたし、正直人間って滅びたほうが良いって思ってるんでぇ――最終的に国家を転覆して、人間を滅ぼし、かわいい動物たちのためにこの地球ほしを守りたい」
 恐るべき強敵を前に、デロイは一方的に思いの丈を吐露し続けていた。ナシラは〈オーディウム〉上の反応を覗き見る。
『やば、こんなときなのに結婚の約束するとか、マジでつらすぎる……』『デロイちゃん、ほんとうにかわいいよ……』『ナシラくん、デロイちゃんの気持ちにはやく応えてあげて!』
 絶体絶命の窮状を前に、あくまでも大衆はナシラたちの恋模様に夢中で――これがおれたちを取り巻く世界。カリトが命を浪費して作った、現在進行形の世界のかたち。あらゆるものを貪り、消費するだけの……。そう思うと、どうしようもないほど身体が芯から震えてきた。
『さぁブチかましてやれよ、未来のスーパースター……』
 頭の内側で、噛み潰すようにイオニスは言って――カリト、地獄で見ていてくれ。ここから先はおれの、おれたちの、一世一代の叛逆だ。
「――代號コード、〈怒りの一撃クリムゾン・ソックス〉――」
 あらかじめ埋め込まれていた〈秘匿コード〉を吐く。直後、ナシラの全身を覆っていた鈍重な〈特攻服〉が、空気の抜けた風船のように一気に弾け飛ぶ。その真下から露出したのは鍛え抜かれた一糸まとわぬ裸体と――そして局部に申し訳程度に宛がわれた深紅のソックスだった。
「う、えっ? おっ、おおォ……?」
 何も知らないデロイは野太い声をあげて狼狽し、他の者もあとに続いた。カリーヴァにエザムを始めとする、イオニスの策に参画する造反者たちの武装が立て続けにパージされてゆく。
「――合点承知カワバンガ!」
 戦場に解き放たれた裸の男たちはわけのわからない言葉を喚きながら身をくねらせ、煽情的なポーズをとり、次の瞬間、銃火吹き荒れる最前線へ駆け出してゆく。股間のソックスを揺らしながら。あらかじめ安全圏――自身らを取り巻く台本プロットは織り込み済みだ。殺人的な攻撃の中を裸族たちは奔放に駆け巡り、めちゃめちゃに、やる。
「えっ!? なにコレ? 夢?」
 目を白黒させるデロイを尻目に、ナシラたちは邁進する。積年の慣習から、衆目を意識するのは朝飯前だった。なにせ、彼らが取り組んできた特別プログラムには「栄え」を意識した身のこなしやポージングが織り込まれていて「――ここだ!」
 ドローンに向かって、適切かつ最高のタイミングで次々とポーズを決めていく。殺到する攻撃を無駄にセクシーなポーズや大開脚ジャンプで回避し、非常に馬鹿げたあり得ない姿勢で撃ち返しながら、要所要所で腰をリズミカルに左右に振るう。呼応して彼らの腰の先で、深紅のソックスが自由奔放に暴れ回る。積年の彼のイメージが――フレッシュで実直な好青年像が、みるみる瓦解してゆく。
『どうしちゃったの?』『やめて! やめて! こんなの、みたくないよ!』『ナシラくゅのイメージが、壊れちゃうよぉ~!』『怖い』『なにこれ、幻覚?』『頭、おかしなる』『こんな思いをするのなら花や草に生まれたかった』『はやく殺してクレメンス』
〈オーディウム〉は半狂乱に陥る。情報の段瀑カスケードが大いに荒れ狂い、右往左往している。阿鼻叫喚だった。いくつもの誹謗中傷や殺人予告が公開アドレスへと送付され、彼を貶めていた。その心ない声の数々は今この瞬間においては、ナシラの内面では歓喜の歓声へと置換されて――ざまぁみろ。半狂乱になる。爽快だった。とてもとても、爽快だった。 
「エザム! 遠慮するな! 来い!」
 班長であるカリーヴァが四つん這いの姿勢になり、天に向かって臀部を突き上げながら雄々しく咆哮する。
「はっ、はい!」痩せっぽっちのエザムは身の丈ほどもある重機関砲を、そっとあてがうようにしてカリーヴァの臀部に乗せて、
「――撃てファイヤ
 カリーヴァの巨大な臀部を用いて、依託射撃を敢行する。エザムが弾き絞る銃爪トリッガーの真下で、発砲に呼応してカリーヴァの引き締まった尻肉がふるふると震える。
「そこか! 逃がさん!」カリーヴァは察知した敵影に向けて巧みに自らの尻の位置を、上下を切り替えてみせ、重機関砲の射線は吸い込まれるように敵へ注がれていった。まさに百発百中。カリーヴァのたわわに実った尻の先で、敵が爆ぜてゆく。
 その模様を、イオニスは爆笑しながら、コントロールを掌握した戦局ドローンによって克明に撮影し、ネットワークに解き放つ。その模様は悪意ある聴衆によって続々とスクリーンショットされ、官能的な姿勢で尻を突き出し、自らを銃座と置換して押し寄せる敵を打破するカリーヴァの雄姿が凄まじい勢いで拡散される。それらは瞬く間にトレンドを席巻して、帯域を汚染する。
 当然のように〈オーディウム〉上では「どうしてあのようなふざけた戦法で敵を倒せるのか?」という疑問が吹き上がり、即座に陰謀論者を巻き込んで炎上騒ぎが勃発し、〈ファスラッド〉の危機管理部門は「あれらは実験的に導入された、最新鋭の戦術で――」と苦しい弁明を強いられることになる。
『おい! 何をしているんだ! イカれたのか!? おい! 今すぐ服を着ろ! パンツを穿け! お前たちのその汚い尻を、公衆の面前にまろび出すんじゃない!』
 マシアル管理官から怒りの緊急無線が入る。ハリウッドから前線へと直接指示が下ること自体が、未だかつてない未曽有の異常事態だったが、
「うるせぇ! 一億と二千回死ねっ! 自分で自分のケツ穴に飛び込んで死ね! 今すぐ! 死ね!」イオニスは脊髄反射で回線を遮断し、ナシラたちは行為を続行する。
 戦地の片隅では、なおも補給ボックスの中に裸の男たちが次々と飛び込んでは尻だけを突き出すかたちで自撮りを敢行し、また貴重で高価な装備や補給食を性器や排泄物に見立てたりするなど、散々にふざけ倒し、まさに地獄絵図だった。
 行為だけを切り取ると完全に異常者のそれだったが、なにも彼らは戦場の重圧に耐え兼ね、発狂したわけではなかった。これらの悪質極まりない不謹慎行為には明確な計算と、それと確かな「勝算」が存在していて――「やったぜ、馬鹿野郎……!」
〈統括役〉に代わって台本プロットを執筆したイオニスが、諸手を叩いて狂喜乱舞する。
「おい! ゴミカス野郎ども! 今すぐ自分のチンポで遊ぶのをやめて、こいつを見ろ!」
 イオニスが各員にデータを共有する。即座に一同はそれを注視して――彼らの悪逆非道ぶりは各所に悪感情を抱かせ、凄まじい勢いで各社に苦情が殺到したらしい。〈ファスラッド〉を擁する軍産企業や包括メディア、食品会社の数々――〈キティコム〉、〈ゼノミクス〉、〈アグレガ・テクノロジーズ〉〈ノクタンス・フーズ〉、〈ヨーヨー・ディン〉、〈ビャクセン〉、〈オーディン・パス〉、……、大半の主要スポンサー群が蜘蛛の子を散らすように〈ファスラッド〉との提携を解除し、撤退し、我先に此度の騒動とは無関係という声明を画像形式で発表する。重ねて、提携していた企業群の株価は一様に大きく暴落し、資産価値を目減りさせており――やった! リズミカルに揺れるカリーヴァの尻を、一同は歓喜に咽びながら次々と殴打してゆく。
〈クリムゾン・ソックス〉の効果は覿面だった。ナシラたちはソックスの先を握り締める。これはまさに加速する資本主義に対する手痛い死の一撃で、この馬鹿げた一大広告キャンペーンを、そこから注がれる戦争キャンペーンの仕組みをかき乱し、毀損し、そして頓挫させるという悲願が鮮やかに成就したのだ。
「アー! よっしゃ! まだまだやるぞ! 最後の一社までスポンサーを追い出して〈ファスラッド〉を……散々私たちをコキ使ってきたこのゴミクソ構造体システムを、ブッ潰すぞ!」
 イオニスは拳を振り上げながら鬨の声を上げて、裸の男たちは駆け出す。戦場は丸ごと彼らの遊び場になった。「プロットアーマー」の庇護のもと、一同はまるで燃え尽きる寸前の花火のように、走馬灯のように死線飛び交う危険な戦場を駆け抜ける。必殺のレーザー兵器を股間に挟み、突き出した臀部越しに射撃して敵の巨大兵器の表面にひどく下品で稚拙な「アート」を刻みながら、ナシラは想う。生まれてこの方、まともな学校に通うことはなかった。彼らに与えられたのは、簡素な教養プログラムだけで……前時代のヴィデオプログラム――カウンセリング用の「日常系アニメ作品」などでお馴染みの「バケーション」とは、きっとこのようなものなのだろう。そのような、どこかやわらかな質感に浸りながら、純で素朴な衝動に身を任せる。
 日が暮れるまで、彼らはとにかく、無我夢中でやり続けた。
 楽しかった。とてもとても、とても楽しかった。 
「――さて、そろそろ頃合いだ。いっちょう、ここらでお開きといこうじゃないか」
 とっぷり日が暮れていた。朱色に染まった夕景の残滓が、彼方に見える観覧車の骨格を黒く塗り潰している。地平には死した機械の残骸が無造作に転がっていた。
「帰ろうか」
 さらりとイオニスは言ってのけて、彼らはやった。全力でやり尽くした。これだけ暴れたのだ。悔いはなかった。元より覚悟のうえで……参加した誰もがどこか晴れがましく、爽やかな気持ちでいっぱいだった。まるで高原のピクニックへ向かうような気分。実際に軍法会議に掛けられ銃殺刑――ないしは近しい処罰を受けることになっても、きっと最期の瞬間まで笑ったまま逝けるだろう。
「さて、最後にひとつ、どれくらい取引市場や世の中がめちゃめちゃになったのか確認してやろうかな? っと……きひひ、きっと明日の朝は、駅のホームに飛び込む奴だらけでどこもかしこもラザニアみたいになるだろうなァ……」
 裸の戦士たちから見守られ、イオニスは底意地の悪い笑みを浮かべながらネットワークにアクセスして――「……、……、……あァ?」
 その端正に整ったルージュの端から、素っ頓狂な声が漏れ出た。
「なんだよ、なんなんだよ……? これ……?」
 イオニスの反応に、各位は〈オーディウム〉で動向を確認して、股間を心許ないソックスで隠しただけの兵士たちが、それらを映し取ったピンナップや動画群が矢継ぎ早にストリーミングされ、帯域の大半を食い潰している。そこまでは良い。予期された反応だ。しかし、そこに添付されたハッシュタグ……民意と結びつけられた情報の数々は、まるで想定と懸け離れていた。
 脇の下から、ぽたと冷たい汗が流れる。内臓が裏側からきゅっと冷えていくような感覚、悪寒と息切れ、さむけ……そのような症状が、ナシラたちを襲う。なんだ? なにが起きている……? 脳髄は明るい材料を探そうと躍起になる。嘘だ。こんなことが、起こるはずがない……。正常性バイアスが暴れて、チェリーピッキングとエコーチェンバー、自分にだけ都合のいい事実を抽出しようとする。
 しかし、無駄だった。次から次へと集積される最新鋭のトレンド群はただ冷淡に彼らの実情を指し示すだけで――【狂人、あるいは時代の反逆者か!? 〈レッド・ソックス〉、大躍進――!】【硬直した旧体制に抗う勇気ある反逆者たちにF1層は大歓喜!】【最高視聴率を更新! 投げ銭も過去最高額に】【〈スター・ラックInc.〉、〈アブノーマル・トリック〉、〈イァンミンボゥ公司〉、〈(株)ウェカピポ〉、〈カオティック・ハリケーン〉、〈アノン・トーキョー〉を始めとして、新規大物スポンサーが続々と全面的かつ大々的に〈ファスラッド〉への支援を表明!】【〈レッド・ソックス〉が! 今ハイパーにナウい!】
 情報の猛雨はナシラたちから体温を奪い、空は徐々にその色素を失ってゆく。
 ぞっとするほど、冷たい夜がくる。

「私らの負けだよ。完敗だ。ほとほとにな」
 空になった酒瓶を指で転がしながら、イオニスはくしゃりと表情を歪めた。
 かつてないほどナシラたちは富み栄え、褒めそやされ、時代の寵児となっていた。にもかかわらず、眼前の彼女は目に見えて萎れて、憔悴しきっている。
「飲むぞ――」そう言って、有無を言わさぬ勢いで部屋に押しかけて来たイオニスはひたすらに飲み続け、その間、ナシラは勝手に酔い潰れ、正体を失っていく彼女の姿を冷ややかに見送り続けた。戦場でみせた、あの必要以上に生命力に満ち溢れた悪辣な姿はここには露ほども存在していない。すべてがぐずぐずだった。
 ほんとうに、どうしてこうなってしまったのだろうか……? 以前よりもずっと広く、居心地がよくなった私室の天井を見上げながら、ナシラの意識は思考の渦に沈む。
〈クリムゾン・ソックス〉の面々をマシアルは掌を返すように直々に労い、大いにもてなした。ナシラたちの「叛逆」によって誘発された新たな収益モデル――〈叛逆モデル〉とも称される広告ネットワークは、硬直気味だった〈戦争市場〉に前例のない独創的なユニークな刺激を与えた。結果的に、活性化された需要と供給によって消費行動が促進され、市場経済では良性のインフレーションが生じ始めているのだという。
 以来、熱に浮かされるように〈クリムゾン・ソックス〉による数々の「悪ふざけ」、アナーキーな不謹慎行為は大衆に熱狂し、希求され、出撃するたびに莫大な収益を発生させて……ナシラたちは「救世主」になったのだ。〈オーバーシアー〉が包括する現体制をより堅牢に維持して、加速させるための……。
 重たく息を吐く。結局、「向き」が変わっただけだ。一見してわかりやすく健全か、あるいは過激かだけの程度の差で……すべてが、徒労に感じられた。部屋の片隅には世界中から送り届けられたファンレターやプレゼント、それと全隊員に賞与として配られた、尻で銃器を保持するカリーヴァをあしらった等身大ブロンズ像などが堆積し、山となっている。その一つひとつが、紐解けば〈クリムゾン・ソックス〉の、この一大消費構造を打破するために行った行為から起因するもので、どうしようもない無力感に囚われていた。
 ナシラだけでない。目の前で酔い潰れるイオニスだって同根の疾患を抱えているのだろう。「時代のセックス・シンボル」と面白半分に担ぎ上げられたカリーヴァは「屈強成人男性に対する性的搾取をやめろ!」と主張する人権団体(正直、これに関してはナシラもそう思った)と彼を持て囃す無邪気なファンボーイたちとの板挟みに合い、延々と議論の俎上に挙げられ続けた結果すっかり参ってしまい、以来部屋に閉じこもってずっとアニメ療法セラピーを受け続けていた。それも刺激の少ない、いわゆるゼロ・イラ産の日常系スライスなものを……。エザムの場合はもっとひどい。彼は振って湧いてきたインセンティブに耽溺して、今ではすっかり〈インフルエンサー〉気取りで朝から晩まで自身の人生を切り売りする配信業に耽溺し、取り巻き連中――しかも何故だか彼に女装や化粧を進めるドープな連中だ――からちやほやされ続け、歪な承認欲求を肥大化させ続けている。非常に良くない兆候だ。そのうち、取り返しのつかない領域に差し掛かって自滅するであろうことは誰の目にも明らかだった。
〈クリムゾン・ソックス〉に参画した面子の大多数が多かれ少なかれ、同種の敗北感――そこから連なる無力さに押し潰され、あるいは逃避行為に邁進していた。けっきょく自分たちには、世界を変えることなんてできなかったのだ。
「……喜べよ、今となっちゃ、私ら大金持ちだ。最強の人生の勝者だ。欲しいものは、望めばなんだって買える。これ以上に幸せなことってないんじゃないか? エ……?」
 体重を預けるテーブルから指先で酒瓶をごとりと落下させ、呂律の回っていない語調でイオニスは言った。
「なんか、景気よくパーッと使おうぜ。なにが欲しい? 車か? ボートか? それともとびきりエロい女か? 男か? 遠慮するな。私らの稼ぎなら、それこそ人間だって丸ごと買える……」
 そのまま、おもむろに無数の広告群を表示してみせる。おびただしい数量のカタログが、欲望の受け口が可視化され、部屋いっぱいに乱舞する。購買意欲を促進する七色の極光が質素な室内を毒々しく彩る。
「どうする? 親から売られた可哀想なガキをわんさか買って、少年野球チームでも作るか? きっとウケるぜ? なにせ大衆ってのはそういうのが……他人の悲劇や青春に値段を付けて、買い叩いて、それを消費するのが大好きだからなァ……。そいつらを見世物にして、それで儲けたカネを使って、またガキを大勢買ってきて……売られた可哀想なガキたちの、一大野球リーグでも作ろうか……? いい考えだろ? なぁ? 『いい考え』だって言えよ、おい……」
「冗談でもやめろよ、そういうの……」
 本心ではないことはわかっていた。それでも、進んでおぞましさに身を浸す必要はないはずだ。そう思い、ナシラは彼女の言動を……あからさまな自暴自棄になっているそれを諫めたが、
「――かわい子ぶってんじゃねぇよ」がばりとイオニスは机から全身を引き剥がすなり、先ほどまでの脱力ぶりが嘘のように身を翻す。まるで戦車のように、机や彼我間にある障害物を強引に蹴散らす。そのまま凄まじい膂力でナシラの顔面を掴んだ彼女は、叩きつけるように彼の全身を引き倒した。咄嗟のことに満足に反応できず、背面から痺れにも似た痛みが体内に拡散された。肺の奥から、ひゅうと息が絞り出される。
「私らは、同じ地獄に住んでいる……。ありとあらゆるものにタグが付けられ、自由に売り買いされる地獄だ。誰も、ここからは逃げられない……。だからお前も、さっさと同じ場所まで堕ちてこいよ……? なぁ……?」
 爛々と輝く虹彩の下で、熱に浮かされたようにイオニスの口は蠢き続けて、淀んだ言葉を吐く。その美しく整ったかんばせは引き攣り、昏く歪んでいる。
「見せてみろよ。お前の『本性』ってヤツを、さァ――?」
 艶やかなゴールド×ブラック色に塗られたイオニスの爪先が、ぷつりとナシラの頬の皮膚を突き破る。その真下から、血が流れ出る。生臭い鉄のにおいが鼻を叩く。そのまま彼女は、ナシラの行動性向を断りもなくアルゴリズムに放り込んで……、
「やめろ……!」ナシラは制止するも、
「やめねぇよ――」イオニスはやめなかった。
 刹那、彼の欲望が、内面が、潜在的な欲求と紐付けられて開示される。それはナシラの物欲や渇望をそのまま顕在化させた欲望のカタログで――分厚いパティを十枚も乗せた肉汁したたるハンバーガー、背中を押すと腕を振り回すダイキャスト製の伝統的美少年ビショーネンヒーローのフィギュア、「スパイダーマン」モデルのエアマックス、XBOX、インドのアイドル・グループの享楽的大規模ショーを数十時間録画した三次元アーカイヴ、悪路を物ともせず走破する最新式の電導モーターサイクル……煌びやかで見目麗しく、いかにも購買意欲を煽る広告群がナシラの嗜好に沿って集積され、開陳され、それらはあたかも餌を見つけたピラニアのように勢いよく群がり、逃すまいと彼を徹底包囲する。
 なによりも屈辱的だったのは、ナシラがどれだけ抗おうとしても、表示された広告のすべてに自然と視線が引き寄せられてしまうことで――〈オーバーシアー〉は個々人の内的世界の奥深くに埋め込まれた、人間的な根源的な欲求を具体的に詳らかにする。逆算的に、その人となりをどうしようもなく可視化して、その輪郭を強調する。目に映るそれらはひどく俗っぽく、即物的で、ぎらぎらと醜悪なのに……それでも、どうしようもなく目移りしてしまう自分自身が心底嫌になる。
「お? お……? なんだァ……? こりゃ……?」
 とりわけイオニスが食いついたの、は年齢制限有料コンテンツへの入会手引きで――【飽き足りない高潔ノーブルなあなたへ、今宵、洗練されたアブノーマルを――】。そう銘打たれた広告には、ラメの輝くハイヒールを履いたスレンダーな女性が延々とスシやケーキを踏み潰し続ける難易度の高い成人向けショート動画が添付されていた。
「……へぇ、中々いい趣味してるじゃないか。いかにもネンネな顔してるクセして、見直したぜ……」
 せせら笑うようなイオニスの声が降り注ぎ、恥辱に耐え兼ねるようにナシラは唇を噛み締める。それらは紛れもなく、ナシラの内側から抽出された欲望を可視化したもので――もっと便利な生活をしたい。もっと美味しいものを食べたい。楽しい娯楽に耽溺したい。素晴らしく魅力的で性的な恋人が欲しい……。どれだけ取り繕っても、無駄だった。
 追跡され、マイニングされた剥き出しの赤裸々さが実態を伴って表出する。〈オーバーシアー〉はそれをじっくり値踏みし、検分する。行動性向から嗜好を読み取り、集積した膨大なるビックデータと照らし合わせ、そこから「正解」を導出する。あたかも超一流の料理人のように、本人さえ知らない本質をさらりと見抜いてみせる。
 そんなアルゴリズムとアーキテクチャが、ドグマが、ヘゲモニーが、絶対的な教義、不可侵の聖典として、人々を突き動かしている。自由意思という幻想をかなぐり捨て、自ら進んで、自動的な人生設計に身を預けて――それらを絞り出しているのは何だ? 引き出しているのは、尽きぬことない底抜けの欲望の根源とは、一体なんなんだ?
 マシアルの言葉を思い出す。かつて彼の人は人類と〈オーバーシアー〉との関係を「共生」と呼んだが……その思想だって、表層的なものに過ぎなかった。むしろ、構図としては逆だ。人類のほうが〈オーバーシアー〉に取り憑いて、搾取しているのだ。自身の内面を住まわせ、欲望を監視させ、それを引き出している。それがどこから産み出されたのか……? ……そんなことは、わかりきっている。他ならない、自分たちからだ。人間だ。人間自身が生み出したのだ。欲望が欲望を呼び込むこの仕組みを、おぞましい構造を……。
 ああ、そうか。そうだったのか。ナシラは悟る。〈オーバーシアー〉は敵なんかじゃない。誰よりも身近な――人類種の理解者なのだ。
「こういうのが好きならよぉ、私にも思い当たるフシがある。確か、ピンヒールの女が機関車の模型を踏み潰すコンテンツがあってよォ……」
 ナシラを押し倒したまま、まさぐるようにイオニスは押し寄せる広告群をサーフして、
「もう、やめてくれ……お願いだから……」
 いよいよナシラは啜り泣く。恥ずかしさに、絶望に、救いのない現実に、浅ましさに、頭がおかしくなりそうだった。イオニスの言った通りだ。みんな、ここにいる。この地獄に、進んで身を委ねている。差し出されたものを享受するだけで満ち足りる、生ぬるくも心地いい地獄に、みんな堕ちている。
「いい加減に諦めるべきなんだよ。お前も、私も……。ピーチクパーチク泣きわめく雛鳥みたいに、何も考えず、ただ口を開けっぱにして喚き続けてさ……。そうすりゃ、後は万々歳。最適化されたアルゴリズムが、腹いっぱい美味い餌を与えてくれる。そういう生き方が、一番幸せなんだ……そうだろ?」
 噛み含めるように言って、しばしイオニスはサジェストされてくる広告群を検分し続けたが――「あァ……?」
 突として素っ頓狂な声をあげ、追ってナシラも彼女の異変に気づく。
「おいおい、おいおいおい……何なんだよ、これは……?」
 一体、彼女は何に対してこれほど驚いているのか? ナシラはイオニスに視線をあわせ、その眼差しが指し示す先……彼女と同種の現象を目の当たりにして「なんだよ、これ……?」
 ひどく、ひどく困惑した。

「――いくぞ、ボーイスカウトども。しっかりチンポ引き締めていけよ」
 イオニスが発するお決まりの掛け声に、局部を深紅のソックスで覆い隠したナシラとカリーヴァ、そして信者から祀り上げられるままにいつしか頽廃的女装趣味に耽溺してしまったエザム、そして地獄の悪魔めいたメイクと鋲付きのレザー衣装で全身武装したデロイたちが力強く頷く。
ご照覧あれゴウランガ――」
〈クリムゾン・ソックス〉たちの戦いは終わらない。今日も今日とて、人類を脅かす機械の悪魔――〈肥剪種〉との飽くなき闘争に我が身を捧げる。上空から敵の母艦が分厚い雲を推し割り、悠然とその姿を晒す。算出された民意――新式のアルゴリズムに沿って、以前の醜悪さを目減りさせ汚職を働いた政治家や話題のコメディアンなどをモティーフとしたファニーな敵影が続々と投下され、人類社会を脅かすために徒党を組んで練り歩く。さぁ、開戦だ。
「ゴー! カム着火! 点火ファイヤー!」
見敵必殺ヤー!」
 寒空の下、裸の戦士たちが戦場に飛び出してゆく。追従するスピーカー・ドローンの吐く軽快なメロディにあわせて、ナシラたちは淡々と猥雑の限りを尽くす。火線をくぐり抜けながら、隙をみてはまろび出た臀部と股間のソックスをリズミカルに振り続ける。飽き足りず、カリーヴァの尻が銃座として有効活用される。ただそれだけで、〈オーディウム〉は歓喜の色に染まる。
 以前と比べてナシラたちの戦場はより馬鹿馬鹿らしく、危険と緊張感を欠いたものになった。そのような方向性にスポンサー群からの要請が、〈統括役〉の演出が変異していた。すべてが陳腐なコメディへと置換された戦場ではもはや人命も喪われることもなく――それでも前線への接続数は跳ね上がり続け、数珠繋ぎで派生する広告群を通して莫大な収益が発生する。すでに何十回も繰り返してきた行為でも繰り返すことである種のトロープ、あるいは様式美と化すのだろうか? あるいは、これこそが図らずとも到達してしまった、完成されたある種の覇権戦略サプリーム・ストラテジーなのかも知れない。
「ウオー! 人間の時代はもう終わり! 全員、死ねっ!」
 隙をみて、デロイは独自に調査した闇金持ちの私邸目掛けて手製の火炎瓶を投擲し続けて、ナシラたちは接続された戦局ドローンの先にこれらの光景を送り届ける。その行為自体は以前とまるで変わらないものだったが――しかしその性質は、一変していた。
 ドローンが投下する四つ打ちリズムにダンサンブルに同期し、即席のDabダンスをキメながらナシラは思い出す。あの日、彼らが目した光景はにわかには信じがたいもので――、

【恵まれない子どもたちに、使わなくなったおもちゃを寄付しませんか?】

 そのような広告がアルゴリズムによって吸い上げられ、大々的に喧伝されていた。フリー素材を貼り付けただけの、粗末極まりない広告が……。それ自体は取るに足らない、ネットワークの片隅で水泡のように震える極小の告知に過ぎなかったが、しかし併記されたインプレッション数のそのカウンターは勢いよく回り続け、信じられないことに計測されるトレンドの頂点に君臨していたのだ。それはまるで道理を欠いた、白昼夢めいた光景で……、
「なんだこりゃ、バグか……?」
 イオニスは目を眇めて、ナシラもそう思った。それらはまるで取るに足らない、大資本の足元にも及ばないような個人的なキャンペーンだった。しかしそんなものが耳目を集め、大いにバズっていて……それだけではない。同種の広告群が数珠繋ぎで、最先端のホット・トピックとしていくつも浮上してきていた。
【〈古本屋のジェームズ〉がこのたび閉店セールを行います。紅茶とお菓子を準備していますので、皆で思い出を語りましょう】【ひとつの小さな命を救うために、あなたの力を貸してください。隣に住む七歳のエヴァちゃんは、治療を受けるための支援を必要としています。追記:目標額まであと少し! エヴァちゃん! がんばって!】【困った時はお互いさま。必要な手が、ここにはたくさんありますよ〈食料支援〉〈修理ボランティア〉〈移動支援〉】【逃げたペットを探してます。三歳から一緒に暮らしている、大切なコモドドラゴンです。見つけた方はご一報ください。ささやかですが、謝礼を準備しています】【「どうか無事に帰ってきて。家族が、あなたを家で待っています」戦争で散り散りになった家族を探しています。見かけた方はどうかご連絡を。〈ハーバード地区再会プロジェクト〉より】
 慈善事業、あるいは個人商店の手によるごく小規模な広告や告知が縦横無尽にトレンドを席巻していて……そんなことが、あるわけがない。単純な表記ミスか、一時的なシステムのバグだろう。ネットワークに混入した、まるで無為な塵芥がちょっとした電子の悪戯を働いているのだ……。そう思い、イオニスは回線を何度もリフレッシュしたが、それらの広告は微塵も揺るぐことなく、頑として居座り続けた。
「くそっ、何だこりゃ……? 今の私は、模型を踏み潰すエロい女を見たいんだよ……! こんな一円の特にもならないような、毒にも薬にもならないようなヤツじゃなくてさァ……!」
 その時、ナシラの脳裏にある考えが電撃的に去来して「アルゴリズムが、変異したんだ……!」
 覆いかぶさるイオニスの身体を勢いよく跳ねのけて、確信する。この現象は彼らが散々繰り広げてきた悪行の、その先に結実したものだ。より露悪的に、より過激に、よりアナーキーな方向へ……。そうしてより過激に、先鋭化する人々の欲望は遂に真のナンセンスへと到達したのだ。つまり、「慈善事業」へと――。
 病院も学校も、福祉も、公共施設も、本質的に利益を生み出せない。投資された資源をペイできない。教育や医療、インフラクチャー、あるいは弱者救済のためのフェイルセーフ……そのような「還元」を期待することのない出資活動が、もっとも「頽廃的」でもっとも「無軌道」な行為として醸造され、体系化され、新規性のある欲望の最先端――「トレンド」となったのだ。
「だけど、こんな勢いよくトレンドが構築されるか? これだけの爆発的なムーブメントが勃発するには、なにかしらの要因ファクターが必要なはずだ。なにか、決定的な……」
 イオニスの言う通りだ。こんな草の根運動がここまで消費市場の「主流」となるとは思えなかった。しばしナシラたちは次々と大衆の耳目を引く慈善事業のムーブメントを泳ぎ続け、捏ね繰り回して……そして辿り着く。根源に。この運動の「火付け役」となった、原初の革新者イノベーターに。
「カリトだ……!」
 ある孤児院に爆発的な金額の寄付が投じられたのが、すべての原因だった。取りも直さず、それはナシラとカリトが生まれ育った施設で――カリトだ。彼がその命を捧げて勝ち取った「保証金」を、莫大な金額をそっくりそのまま寄付していた。それから一体、何が起きたのか……? 有り体にいえばどこまでも馬鹿らしく、冗談みたいな現象だ。カリトの行動はこの時世において、あまりに過激ピーキーに過ぎる無軌道行為として捉えられ、あとに続く流行に目敏い初期採用層アーリーアダプターたちも負けじと、今もっと刺激的かつアナーキーで、クールな消費活動――寄付や募金活動を行わんと、続々と追従者がこの「市場」に新規参入し始めたのだ。まず回収が見込めない、不毛な投資市場に……。
「こんな、こんなことがあるなんて……!」
 表示されるささやかな広告群の一部には、実際の「成果」が紐付けられていた。【ありがとうございます! 皆さんのおかげで、施設の子たちのお誕生日を祝うことができました!】そのようなささやかなメッセージとともに、打ち出された個人広告には小さなケーキを囲む子どもたちの写真が添付されていて、
lol』『喜んでて、マジでウケる』『まぁ、ガチャで溶かすよりかは幾ばくかマシだな』『ケーキ食うガキかわいすぎだろ』『オレがボスからゲロ怒られながら稼いできたカネで子どもたちが喜ぶの、頭おかしなる』『こんな思いをするのなら、花や草に生まれなくてよかった』『よっしゃ、もっとカネ捨てたろ』『捨てろ捨てろ』『全財産捨てろ!』
 露悪的な言葉で脚色しながら、大衆は面白半分で、四方八方に寄付金を投じてゆく。流速は勢いを増し、大多数マジョリティに接続され、うねりを上げて瀑布ムーブメントと化し、社会を突き動かす。〈オーバーシアー〉でも制御できない、不可解な方向へ――。
 ナシラの頬を、大粒の水滴が流れ落ちた。先ほどとは比べものにならない、熱い水が……。カリトはすでに救っていたのだ。自分なりのやり方で。小規模な、しかし誰かにとっての掛け替えのない世界を遍く、広くいでみせたのだ。
 そしてその核心には、間違いなく〈レッド・ソックス〉が――ナシラたちの行った、あの一世一代の悪ふざけがあって……無駄ではなかったのだ。ここまで費やしてきた、そのすべてが。
「阿呆だな。こんな途轍もない阿呆ども、見たことがない」一連の現象を、ポップアップする極最小の民間広告群に、それらにチキンレースよろしく多額の寄付金を投じてゆく人々の姿を眺めながら、イオニスは大きくため息をついて「まぁでも、同じ阿呆なら、一緒に不運ハードラックダンスっちまわないと、なにかと『損』、だよなァ……?」嗤う。凶悪に、口角を持ち上げて。
 イオニスの言葉に、ナシラは頷いて――絶やしてなるものか。この趨勢トレンドを……! 決意を固めて、かくして彼らはこの「流行」に迎合することにした。
〈カリト&クリムゾン・ソックス基金〉――ありったけの私財を投じて、臀部で銃火器を保持するカリーヴァの雄姿を象徴シンボルとしたNPO法人を設立した。基本理念は単純明快で、彼らの戦闘行為によって生じる広告収益の三十パーセントが孤児院に投じられる手筈となっていた。団体の設立、およびあまりに法外に過ぎる寄付金額のパーセンテージに当然マシアルは良い顔をしなかった。しかし慈善事業はセレブの「嗜み」でもある。大っぴらに撥ねつけることもできず、渋々この一文の特にもならないシステムの構築を了承してくれた。
 以来、ナシラたちが裸で戦場を駆け巡る度に、世界のどこかで苦悶と貧困に喘ぐ子どもたちに、病に苦しむ無辜の人々に、災害で家や家族を失った人たちに、社会から切り離され、途方に暮れる孤独な人々に――そんなありとあらゆる不幸や困難を背負ったどこかの誰かに。暖かな食事に薬品、屋根のある住む家などの、しかるべき支援を与えることになっていて……それが今の彼らの仕事で、戦場になった。
 当然、ナシラにも羞恥心というものはある。できればこんな馬鹿らしい、「恥」以外の何物でもない行為には出来る限り携わりたくなかったが、しかし世界中から〈クリムゾン・ソックス〉宛てに送り届けられてくるメッセージ――年端もいかぬ子どもたちの手による『なしら、すき』『いつもいっぱいわらってます。ありがとう』『カリーヴぁさんへ、たくさんうんちおしてください』などの拙い手書きのメッセージ、あるいは腹を掲げて笑い転げる少年少女たちのショート動画などを目にするうちに「まぁいいか」という前向きな諦観が胸に宿って……そしてナシラは、思う。哀願するように。こいねがうように、想う。
 誰かを救いたい、助けてあげたい。その苦しみを、痛みを、惧れを、すこしでもやわらげてあげたい。そのような善意――あるいは原始的な欲望の一側面もまた、人々の内面から滲み出たものだと、だからこそ、この荒唐無稽な原動機エンジンが今もまだ駆動しているのだと、そう信じたかった。貪るような渇望だけが人間のすべてはない――それだけではない、と。
 祈るような手つきで、ナシラはソックスの下で自身のポジションを直す。
 そのうち、またアルゴリズムが変わるだろう。次の流行へ、次の価値体系へ、世界はいともたやすく流されて――抗うなら、そこだ。一過性の、吹けば飛ぶようなトレンドでは終わらせない。継続させ、持続させたい。スタンダードな価値として、「定着」させたい。縷々るると、途切れないように。そのためにできることが、きっとあるはずだった。人間には、まだ……。
「おいおい、妙に冷えると思ったら……童貞ども、空をみろ」
 イオニスの指示に沿って、〈クリムゾン・ソックス〉たちは空を仰ぎ見る。遥か彼方で、灰色に凝り固まった空が千々に砕け、その断片がふわりと落下してきて――雪が降ってきた。
「メリー・クリスマスだ。バカ野郎。ガキども、精々いい夢みろよ」
 イオニスはドローンに向かって、中指を立てた。まったくもって、悪い冗談みたいな世界だ。こんなにもひどい世界で生きている。それでもまだ、生きている。
 ナシラは笑いながら、突き出されたカリーヴァの尻を勢いよく銃把で叩く。
 冷たく白い空の真下で、深紅の靴下がぶるりと震えた。


◆著者プロフィール

水町綜(みずまち・そう)
福岡出身。美味しんぼエッセイスト。ここ数年はクリスマスには毎年『ダイ・ハード』を観ています。


*次回作の公開は2025年7月16日(水)18:00を予定しています。

*本稿の無料公開期間は、2025年7月16日(水)18:00までです。それ以降は有料となります。

*〈anon future magazine〉を購読いただくと、過去の有料記事を含めた〈anon press〉が発信するすべての作品をご覧いただけます。

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