中国人妊婦の腹を切りさき、胎児をえぐりだす…戦犯が語った「日本軍が中国で蛮行に走った3つの理由」
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■非戦闘員を面白半分に殺害していった ▼1945年3月、被告人(保阪注・佐佐真之助)は師団長として配下の部隊を指揮命令し、湖北省の襄陽、樊城、南漳などの地区で侵略作戦をおこなったさい、凶悪きわまりない手段でわが平和的住民潘玉山、趙順烈ら90余名を殺害した。そのうち、南漳県武安堰付近では、婦人、子供、老人ら12名を残酷にも絞殺した。 襄陽城付近の王家営村では、わが平和的住民18名を手のひらにはりがねをつき通して数珠つなぎにし、樊城の上福音堂のそばにおいて銃剣でその全部を突き殺した。襄陽市でもわが平和的住民30余名をはりがねでしばり、河のなかに突き落とした。 そのうち胡兆祥、董長義ら5名が難をまぬがれたが、周光早、胡天福、余老五ら20余名は全部、溺死している。しかもこの襄陽市では、部下が婦人を強姦するのを放任し、甚だしきにいたっては輪姦のあげく死にいたらしめた。 このような内容が次つぎに記載されている。“輝ける皇軍兵士”は日中戦争下でなぜこういう蛮行に走ったのだろうか。戦闘中に戦闘員を殺害するのなら、まだいいわけもたつだろうが、起訴状でみるかぎり、婦女子や老人、少年、幼児を面白半分としかいいようのない手段で殺害している。なぜこんなことになったのか。昭和陸軍はどうしてこれほど退廃してしまったのか。 ■裁判から35年、戦犯の1人が語ったこと 平成3年(1991年)6月上旬の昼下がり、東京・銀座は人で埋まっていた。梅雨だというのに、まるで真夏のような一日、私は四丁目の服部時計店の前で鵜野晋太郎に会った。 敗戦後、シベリアに抑留されて5年、さあ日本に帰れるかと思ったら、こんどはハバロフスクから列車で他の974人とともに中国に送られた。中国で戦犯として裁かれることになったのである。 列車が中国に向かっていると知ったとき、鵜野は自らの生をあきらめた。中国戦線で蛮行を働いたという負い目があったからだ。この撫順戦犯管理所に収容されているときに精神的緊張と拘禁生活で視神経をやられた。このため20センチほどまで近づかなければ相手を見分けることができないといっていた。
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