『星獣戦隊ギンガマン』第十二章『悪夢の再会』
◾️第十二章『悪夢の再会』
(脚本:小林靖子 演出:長石多可男)
導入
「サンバッシュ、てめえでてめえのラストチャンス潰してりゃ世話ねえぜ!」
いよいよ後がない状況で追い詰められたサンバッシュの最期が今回描かれているわけだが、今回はサンバッシュの最期とそれに伴う今後への布石・伏線が多々散りばめられている。
話の流れとしては前回同様に戦隊にありがちな話の要素を用いつつも、単なるありがち話で終わらせずに予想外の裏切り方で面白く工夫していくというやり方で、小林脚本と長石演出の妙が冴え渡る。
これは最終章まで一貫している流れだが、本作は大筋の流れを小林靖子が設計し、その上で田崎監督が先鋒、辻野監督が中堅、長石監督が大将を務めることでいいリズムが生まれているのだ。
本作が話の構成の上では「1クール1軍団」という思い切った形式を取りつつ、それに合わせてメロディラインを生み出すことによる独特のグルーヴ感が視聴者の感性を揺さぶる。
俯瞰するとバルバン側の非情さと好対照を成すギンガマンの前向きかつ爽やかな使命感が浮き彫りになるわけだが、この根幹ができた上で表層に露呈する画面の運動が何と言っても素晴らしい。
例に挙げるとするならばヒュウガの偽物を演じた小川輝晃の快演、その中で自身の弱点を突かれつつも決して感情に流されず強さへ昇華するギンガレッド/リョウマのタフネスなどが強調される。
そしてその中で新たに浮き彫りになるのが第一章でも示されていたギンガマンの戦闘民族としての強さと殺意の高さ、空回りするサンバッシュとグリンジーの権謀術数といったところだ。
戦いの最中でリョウマが聞いたヒュウガの幻聴やサンバッシュの最期を背後から見届けつつ次の作戦に向けて用意するブドー魔人衆といったところもまた見逃せない。
また、前作『電磁戦隊メガレンジャー』の終盤でも散見された戦隊レッドVSボス幹部、残り4人VS巨大怪人という巨大戦と等身大戦の同時進行の展開も有効活用している。
これもまた「王道的」でありながら「例外的」でもある本作の細部の面白さであり、普通の等身大戦→巨大戦の流れとは違った展開は終盤のダイタニクス戦・地球魔獣戦でも反復される形式だ。
序盤でこれだけキャラクターを極限の状態に追い詰めボルテージを高めつつ、それが最終的にギンガレッドVSサンバッシュの一騎打ちへと収束していく流れの美しさもお見事。
後年の『未来戦隊タイムレンジャー』以降になると、小林靖子は更なる応用に走るためにややこしい感じになるが、本作はギリギリ手前で子供向けとしてのシンプルさに収まっている。
本作の褒めどころとしてはやはりブドー魔人衆が出てきて黒騎士が登場する第十七章以降の一連の展開とその集大成である第二十五章と第二十六章、そして激戦に次ぐ激戦が描かれる第三十七章〜最終章が目立つ。
そのためにサンバッシュ編はどうしても「初期の踏み台」扱いにされやすいわけだが、逆に言えば2クール目以降の展開はこのサンバッシュ編の立ち上げが完璧だったからこそ引き立つ展開になっているのだ。
映像作品としても物語としても非常に密度が高い今回だが、改めて第七章までの立ち上げを受けてきちんとこれまでに蓄積してきた要素をぶつける1つの節目となっている総決算の回であろう。
バルバンのルールは北野映画にやや近い
本作を見直して改めての発見なのだが、バルバン側の冷徹な非情さは子供向けで描かれているといえど、その恐ろしさはどこから来るものだろうかとふと気になった。
「もの書きの繰り言」のGMS氏も本作の感想にてこのような所感を述べている。
第10話の作戦なんて成功寸前だったのですから、シェリンダはサンバッシュに座布団1枚分の慈悲ぐらいあってもいいと思うのですが、 むしろ殺す気満々です。
バルバンは今風にいう「反社」なわけだが、本作の1つ珍しいところはかつての東映全盛期の任侠映画、例えるなら鈴木清順の「東京流れ者」「殺しの烙印」とはやや違う流れだ。
昔のヤクザ映画にはいわゆる「義理と筋」「人情」があったわけだが、本作においては「義理と筋」はあるのかもしれないが「人情」とやらが一切ない。
サンバッシュに対し何の慈悲もなく「ダイタニクス復活するという目的を達成できなかったオメエは容赦無く打首」という「組の論理」に基づくシビアな処刑のみが待ち受ける。
そう、ゼイハブ・シェリンダ・ブクラテスというトップ3が容赦無く無慈悲であるこの世界観は90年代以後に台頭してきた映画作家・北野武の世界観に近いといえるだろう。
北野武が手がけた作品群、それこそ最近だと『Broken Rage』がそうだが、彼の映画にはヤクザ映画独特の「仁義」と呼べるものがなく、徹底してその世界観は乾き切っている。
これは荒川という東京の下町で育った彼ならではの幼少期からの原体験に基づくものだが、いわゆる「綺麗事」としてのヤクザを描かないのが彼なりの矜持としてあるのだ。
小林靖子が描く「悪」もそれに接近しているところがあり、特に本作のゼイハブと「シンケンジャー」のドウコクは自分の一番身近な愛人以外には徹底してドライを貫く。
そしてその中でもバルバンは「魔獣ダイタニクスを復活させる」という目的を最優先としていて、それ以外の情だの何だのは徹底して切り捨てた合理主義であろう。
まあ似たような流れで言えば上原正三・曽田博久が描く悪役も相当に悪辣なものではあったが、上原と曽田が描く悪はまだどこか美学というか理念・情が少なからずあった。
特に「チェンジマン」「ライブマン」はそうだが、魂を悪魔に売り渡した挙句に同士討ちに走る流れは学生運動の原体験たる「総括」に基づくが、小林靖子はその流れを汲んでいない。
確かに小林靖子も組織における「内ゲバ」や「呉越同舟」は描いているが、小林靖子は上原正三・曽田博久とは違い「戦い」に当たる原体験のようなものはほとんどないのだ。
しかし、だからこそ自身に対しても過去の作品群に対しても一貫して冷徹な目線を持つが故に、過度に感情移入させない形で幹部の最期を描くことができるのである。
何が言いたいかというと、井上敏樹までの戦隊シリーズの作家であれば「理念」「情」として表現するところを小林靖子は徹底して突き放しているのだ。
その意味において、彼女が初期に描いたバルバンのルールは同じようにドライでシビアな価値観を持つ北野映画にやや近いところがあると言えるだろう。
ロケ地の問題でもあるが、サンバッシュの死場所として海岸を用意しているのも北野映画における「海」に近い「死」の概念とどこか通ずるものがある。
サンバッシュ最大の敗因は「隠し事」と「事後報告」
さて、今回はサンバッシュの最期ということもあって彼の長短が最大に描かれているのだが、彼の最大の敗因は「隠し事」と「事後報告」にある。
これは社会人として絶対にやってはならない御法度であり、社会人の基礎基本である「確認」「相談」「連絡」「報告」が須くできていなかった。
しかも決して唐突に描かれているのではなく、第五章のバクターがサンバッシュに対して全く同じことをしていたことが伏線となっての見事なつながりである。
サンバッシュがなぜ負けたのかは正しく社会人の基礎基本ができていなかったからであり、どれだけ能力が高くても基礎基本ができていなければ上のステージには行けない。
最近特に私も口煩く言われることだが、とにかく少しでも困ったことや行き詰まっていることがあれば上司に「確認」「相談」「連絡」「報告」をすることが肝要だ。
順番としては事前相談→経過連絡→最終報告が正しい報連相の形であり、全ての作業の中に「確認」が含まれているのだが、サンバッシュはこの基本が全くできていない。
知恵袋である専務ポジションのブクラテスとの呼吸が全然合わなかったことがその証左であるが、サンバッシュの作戦には計画性がなく行き当たりばったりである。
しかも、ギンガの光という切り札を隠しておいた上で、博打にすら近いあるかないかもわからないものを鵜呑みにしてしまったことも敗因であろう。
すなわち、美味しい儲け話や投資信託といった世間に出回っているものをまともに確かめもせずに盲信し、八方塞がりになって感情基準で一縷の望みに賭ける。
サンバッシュのやり方には「根拠」がないから、その作戦がうまく行かなかった時のリスクヘッジやネガティブシミュレーションなどの責任の取り方もできない。
第八章の「成功したら俺様の手柄、失敗したら先生の責任ってことだ」がその全てを示しており、また今回も迷言が炸裂する。
「ここまでだギンガマン!てめえらのおかげでギンガの光も手に入った。これで魔獣ダイタニクスも復活して、俺の首も安泰ってもんだ」
もはや『五星戦隊ダイレンジャー』終盤のザイドス、最近で言えば『鬼滅の刃』のサイコロステーキ先輩と同レベルの自己保身なのだ。
どちらも死に際に「俺の出世はどうなるんだー!」「俺は安全に出世したいんだよ」と同レベルの小物っぷりが炸裂していると言えるだろう。
まあその中でヒュウガの偽物を用意してギンガマン側の精神的弱点を容赦無く突き、決してバルバンの従順な駒ではなく野心家として凄惨な最期を遂げたのがせめてもの救いか。
サンバッシュ魔人団の脅威度がのちのブドー魔人衆やバットバス魔人団に比べて弱く見えるのは決してスペックとしてではなく、基礎的な報連相や情報収集などの「戦略」にこそあった。
目的ははっきりしていたはずなのに、目標・戦略・戦術がまるでできておらず、また社会人の基礎基本である確認と報連相を怠った上での隠し事と事後報告で全てを台無しにする。
勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなしとはまさにこのことであり、サンバッシュの最期は負け犬のセオリーをそのまま体現した末路だろう。
ヒュウガの偽物登場による嘘から出た真
さて、今回のドラマの眼目はグリンジーという怪人が化けたヒュウガの偽物であり、第五章以来となる小川輝晃の悪役としての快演が光る。
最初はリョウマと再会した時の感慨深さからの洞窟へ入り込んだ時の裏切りぶりまで、決して普段の彼ならやらないであろう迫真の演技だった。
しかし、その中で今後の展開につながる意味深な発言もまた残していた、コメントでも指摘されていた以下の発言である。
「俺にはもう、アースはない」
この発言がまさか終盤に向けての伏線になろうとは誰も思うまい、まさに「嘘から出た真」なわけだが、ヒュウガがここで再登場したことにはさまざまな意味がある。
1つはこれまで触れられてこなかったギンガマン5人の、特に弟であるギンガレッド/リョウマの精神的弱点が浮き彫りになったことである。
これは次回以降第二十六章までつきまとうリョウマの課題であり、前倒しして語るとモークからも厳しく指摘される箇所でもあるのだ。
そして2つ目だが、ヒュウガがここまでのチンピラではないにしても、ある意味ギンガマンの敵側に回る展開の予兆である。
これは第十七章のラストから顔を出す黒騎士、そして4クール目の展開で露見する一連の展開で明らかとなるだろう。
そして3つ目、これは後述するが、図らずもサンバッシュとグリンジーがギンガマンの精神的弱点であるヒュウガを用いて騙したがために、戦闘民族としての血を活性化させてしまったことだ。
第一章でヒュウガを地の底に沈めてしまったゼイハブからしてそうだったが、バルバンはいきなりギンガマン5人の、特にギンガレッド/リョウマの弱点を突いた挙句に地雷を踏んでいる。
その結果「窮鼠猫を噛む」という自業自得な結果になっているわけであり、サンバッシュもグリンジーもゼイハブのあの失敗から何の教訓も得ていなかったことが露呈したわけだ。
バルバンの悪意は目的達成のためならどんな卑劣な手段も厭わないからこそ成り立つ恐ろしさだが、それがギンガマン側の触れてはならないタブーを犯していることにまるで気づかない。
だから途中経過では上手くいっているように見えても、根幹の部分でやってはならない御法度をことごとく無意識のうちにやってしまっているのである。
これがまさにギンガマン側との徹底的な違いであり、ギンガマンの5人は決して自分がされて嫌なことを仲間や人に押し付けたり強要したりはしない。
まあ中にはヒカルやサヤのようなヤンチャさが目立つ人もいるが、そんな彼らだって決して人としての道を踏み外すようなことはしていないのだから。
そりゃあそんな卑劣なやり方をして上手くいくわけがないのだが、逆にヒュウガの偽物を登場させたことが第一章で片鱗を見せていたギンガマンのヒーロー性を引き出すのに成功している
ギンガマンは「綺麗なサイヤ人」説
今回、ヒュウガの偽物が登場したことで第一章以来トラウマを抉られる形となったわけだが、図らずも一連の展開がギンガマン側のある側面を浮き彫りにしたと言える。
それはギンガマン≒戦闘民族サイヤ人説であり、そもそもリョウマのヒュウガを殺された挙句の覚醒という展開自体が『ドラゴンボール』のナメック星編・人造人間編終盤を彷彿させる展開だった。
大事な人を失った悲しみと敵に対する憎しみから強烈な殺意が芽生えた挙句に覚醒という展開は超サイヤ人に代表される少年漫画的な手法だが、今回はそのような「覚醒」はない。
しかし、「機刃の逆鱗」とのダブルミーニングをかけた展開がそうだが、ギンガマンの5人は「先祖よりは総合力で弱い」代わりに「戦えば戦うほど強くなる」のだ。
「てめえ、不死身か?!」
「言った筈だ。俺はお前を許さない!!」
普通の戦隊ならばヒュウガの偽物に騙され追い詰められるだけでも再起不能なはずのショックになるはずだが、それどころか窮地に追い詰められるほど強さが際立つのがギンガマンなのだ。
サンバッシュの銃を真っ向からあれだけ浴びれば普通は死んでもおかしくないのだが、兄を利用された怒りにより表面化したギンガマンの使命感と殺意の高さがこれ以上なく画面上で強調されている。
で、なぜこれを持って私がギンガマンを戦闘民族サイヤ人だと判断したのかと言えば、ナメック星編でベジータはザーボン相手にこのようなことを言っているからだ。
そう、サイヤ人は窮地に追い詰められて死の淵から立ち直るたびに急激に強さを増し、戦闘力をどんどん高めることができるという特徴がある。
そしてそれはギンガマンの5人も同じであり、第一章から一貫して瀕死の状態から復活することで更なる強さを得ていく戦隊であることが「映像」として示されているのだ。
まあこんなことを言うと、一部の鬼滅信者兼DBアンチ兼ギンガマン信者の例の一部が「ヒーローたるギンガマンと戦闘狂サイヤ人を一緒にするな!」と反論が来そうだが、敢えて言わせてもらう。
ギンガマンは「綺麗なサイヤ人」だ!
特にそれがよく現れているのがサンバッシュとダブルノックアウトになった後、破れかぶれでギンガレッド/リョウマを道連れにしようとするところでのこのアクション。
そう、バルバンに対する殺意をむき出しにしつつも、八方塞がりのサンバッシュの激情を意に介すことなくジャンプしての強大な二刀一閃、直後にバク宙で突撃を回避するという超高等テクニックを披露している。
この無駄のない一連の画面の運動がギンガレッドの、というかギンガマン5人の戦闘民族としての殺意の高さとそれを可能にする戦闘力を最高の感覚で表現しているのだ。
そう思うと、前回のギンガブルー/ゴウキも失恋したと勘違いしていたのもギャグではなく、失恋をきっかけとして戦闘民族としての殺意の高さが表面化したということだろうか。
いずれにせよ、一瞬の判断が明暗を分ける極限の状況において、敵の巧妙な罠にかかっても流されることなく強大な戦闘力と殺意を知性と使命感でコントロールして激闘を制する。
そんなギンガマン5人の戦闘民族としての強大さが改めて示されたといえるし、それを引き出すことに成功したのもバルバンがそれだけ強大な悪の組織だからこそなのだ。
1クール目最後の回として第一章から積み上げてきた要素を無駄なく集約させつつ、2クール目以降にもうまく弾みをつけ独特のグルーヴ感を最高の形で演出してみせた。
変則的な構成も取り込みつつ、ボルテージの高め方も最高であり、総合評価はS(傑作)100点満点中110点。



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