『星獣戦隊ギンガマン』第十章『風の笛』
◾️第十章『風の笛』
(脚本:小林靖子 演出:辻野正人)
導入
今回は第四章以来の小林脚本×辻野演出の回なのだが、前作『電磁戦隊メガレンジャー』の第16話を彷彿させる、非常に濃密な1話であるといえるだろう。
前回、前々回の武上脚本の時とはまるでクオリティーが異なり、尚且つギンガグリーン/ハヤテという歴代屈指のイケメンを題材に撮っていることも功を奏したといえる。
ここから第十二章までは第1クールの締めに入ることもあってシビアな作風なのだが、その中でも今回はとても自由に遊んでいることがわかるエピソードだろう。
「音」を題材にして極力語る言葉を少なくし、尺を贅沢に使っての大自然での撮影、自然に肉付けされていくハヤテという青年の本質などもまた素晴らしい。
以前に書いた時は「美しい」と評し、「ギンガマン」全体を通してもこの回と第四十六章は「叙情的」であるとさえいえるというようなことを書いた。
あの時は単純に見直してその美しさの前に平伏すしかなかったのだが、この回を改めて見るとなぜそうだったかがわかる気がするのだ。
今回は「台詞回し」「展開」「物語」である以上に「撮り方」「見せ方」との部分が非常に凝っていて、とても「映画的」な作りであるように思う。
大自然のロケーションをふんだんに活かしながら立体的な広がりのある映像を撮っており、また必要以上にキャラクターが「寄らない」ところも素晴らしい。
前回同様、メインのキャラクターをリョウマとハヤテ、そして残り3人組で分けて展開しつつ、無駄なものをほぼ画面に映さないことで緊張感を高めている。
何より、最初と最後を静かにハヤテが笛を吹くカットで渋く締めることによって、いわゆる通常の「戦隊っぽさ」に収めないカットにしているのだ。
そう、今回はある意味で「ギンガマンとは何か?」が「物語」としてではなく「映像」として一番如実に知らされた回と言えるのではないだろうか。
歴代の中でも大自然を背景にして撮られており、非常にゆったりとした時間が流れていくのだが、こんなに贅沢なひと時を楽しめい回もあるまい。
「ギンガマン」が単なる「戦隊の王道」に収まらないのは何といってもこの「物語とは直接に関係のない細部」の豊かさにこそあるのではなかろうか。
何より、これまで典型的な「クールな2番手の参謀」というありがちな記号のキャラクターを凡庸に見せない距離感の見せ方が最高だ。
これは同時に『侍戦隊シンケンジャー』以降の「黒靖子」とファンから言われる後期の小林靖子メインライター作品群には見られない特徴でもある。
思えば、小林靖子の脚本の力だけが素晴らしいのなら本作よりすごい作品はいくらでもあるが、本作は決して小林脚本の色だけが素晴らしいわけではない。
そのことを如実に示してくれる素晴らしい回であり、逆にいえば今の戦隊シリーズが失ってしまった撮影技法の宝庫ともいえるだろう。
映像作品はあくまで「絵で語る」ものであることを思い知らせてくれる素晴らしい回ではないだろうか。
規範の「戦隊らしさ」に縛られない贅沢な感覚
まず今回はファーストカットからして凄まじい衝撃が走る、いきなりハヤテがシルバースター乗馬倶楽部の外で一人孤独に笛を吹くシーンから始まる。
寄っていくカメラワークも素晴らしいが、アップに耐える末吉宏司のイケメンぶりも素晴らしく、不良役が多かったとは思えない程に美しいカットだ。
当時の彼はおそらく木村拓哉と福山雅治を足して2で割った斜に構えた「イケメン」の元祖ともいえるのだが、他に何も邪魔されずにハヤテの魅力が引き出されている。
それまでの冷たいイメージから一転、どこか儚ささえ身に纏った彼の姿はこれまで散々見せてきた厳格で説教臭い感じとはまた違う色を出しているだろう。
『鳥人戦隊ジェットマン』からしてそうだったのだが、90年代戦隊の良いところはこういう風に役者の素体を「ヒーロー」としてはもちろん「人間」として映しているところだ。
これは私が小津映画、90年代で言えば北野映画を特に好んで見ているからというのはあるのだが、こういう映画のような贅沢なカット割はそれこそ今までの戦隊にあまりない特徴である。
『秘密戦隊ゴレンジャー』からそうだったが、スーパー戦隊は基本的に「5人で1つ」が当たり前だったから、どこかで「チームヒーロー」であることを求められている。
よく言えば「まとまりがいい」が、悪く言えば「画面上はうるさい」といえ、常に5人ではない一人の時間などがあってもいいのではないかと私は思う。
本作はそういう意味で『鳥人戦隊ジェットマン』が切り開いてくれた「一人ないし二人の物語には直接関係のないカット」をきちんと継承している。
特にフラッシュバックであると同時にフラッシュフォワードでもあるミハルのカットは物語には何の影響も与えない過剰な細部だろう。
しかし、ギンガの森と山の中で出てくるミハルのカットは単に美しいだけではなく、本作にゆったりとした時間の流れを与えてくれてもいるのだ。
もっとも、これはこの話だけがそうなのではなく、本作は全体的に物語とは直接に関係のないはずの細部が影響を与えることも多いことがわかる。
物語的にはミハルの存在を必ずしも映す必要はない、なぜならば沈んだギンガの森にいる婚約者をわざわざ移さなくてもハヤテという人物の魅力はリョウマとの掛け合いの中で成立している。
だが、リョウマとの関係性とは別にミハルを「風の戦士」の象徴として共に写したことで本作の世界観に「広がり」と「豊かさ」が出るし、同時にギンガの森にどんな人が住んでいるかを想起させるのだ。
第七章でもギンガイオーの赤いフラッシュフォワードが挿入されていたが、田崎監督のあれは「物語上必要なもの」であるのに対し、辻野監督のミハルは必ずしもそういうものを意味しない。
思えば『電磁戦隊メガレンジャー』の第16話でもそうだったのだが、辻野監督は直接的に物語に必要ないものを映すところがあり、それが今回は特に目立っているようだ。
第四十六章もそうだが、本作の辻野監督は特にハヤテメイン回だと本気を出すらしく、「戦隊らしさ」からは逸脱したような斬新な語り口が何といっても特徴的である。
そしてそれは後述する以下の要素に大きな彩りを与えているともいえ、何度見ても心揺さぶられる瞬間が何度もある、これが真の名作だろう。
「視覚」×「音響」という最高の組み合わせ
第一章からそうだったが、ここまで敢えて語らなかったために敢えて語るとするならば、「ギンガマン」の強さは何と言っても「視覚」と「音」の両方で色付けられている。
それは佐橋サウンドによる壮大で強烈なオーケストラ調の音楽だけではなく、何と言ってもアクションで見せる「効果音」にこそあるのだ。
転生後が特にそうだが、ギンガの森の戦士たちは名前こそ日本人のそれっぽくもあるし地球に三千年も住み続けているが、彼らの行動原理はまるで世俗の人たちとは違う。
彼らが手から繰り出す大自然の力も伝説の剣の力も星獣の動きもそうだが、全てにおいて歴代戦隊のいずれにもない独特の戦い方は「視覚的」かつ「音楽的」でもある。
だから左越しのホルスターから伝説の剣を抜けばそれはたちどころにバルバンの魔人をバッサバサと切り付け、その風はあらゆるものを吹き飛ばし、そしてその笛は癒しをもたらす。
エンディングでもハヤテは一人で笛を吹くカットがあるのだが、今回はこれをバルバンの魔人が繰り出す騒音と対比させることによってその美しさを際立たせている。
ギンガマン側の音楽が「聖」にして「癒」だとするならば、バルバンは対照的に「邪」にして「驚」でもあるという形でわかりやすく進んでいく。
こう考えると、なぜギンガイオーの必殺技がガルコンボーガンであるかも納得できる、ハヤテこそがギンガマン5人の中で戦術の要だからである。
しかも今回はハヤテだけではなくリョウマも一緒に山の中へと行っており、言うなれば組織の2TOPがバルバンの作戦を打ち砕く状況になるのだ。
だから、前回とは違いブルー・イエロー・ピンクの3人が苦戦するのは無理もない、音のせいだけではなく、組織の中で戦力の要である2人が抜けているのだから。
尚且つ、今回は冒頭でもラストでもそうだったが、ゴウキ・ヒカル・サヤは蚊帳の外にいてかすりもしない所にいるわけだが、これは仕方あるまい。
5人の中で達観した考えというか大人の冷静さを持っているのはこの2人であり、残りの3人はどこかガキっぽいというか、大人の色気があまり出る役者ではないからだ。
ギンガグリーンVSシェリンダ然り、今回は特に視覚と音が大きく作用し合うことで本作の魅力が違うところから出てくる。
だから全体的に色鮮やかでありながら、決して悲劇的・悲観的ではなく極めて前向きに戦っており、このバランス感覚が素晴らしいのだ。
使命感があって決して軽すぎず、かといって後期の「シンケンジャー」以降のように湿っぽすぎず、重厚さと軽妙さが絶妙にマッチしている。
だから見終わった後に全くしこりが残らないし、まるで2時間分の映画をたった20分の尺度に圧縮したかのような凄みを感じさせるのだ。
ギンガグリーン/ハヤテという人物の「私」
そして今回、ギンガグリーン/ハヤテという人物の「私」の側面が描かれたわけだが、ミハルという婚約者とリョウマとの関わりの中でキャラクターがしっかり深まっている。
これまでだとややもすれば冷たかったり説教くさかったりといったところが前面に出ていたし、今回も改めて「頑固」と言われていたが、同時に繊細さや儚さも感じさせるのだ。
まずミハルとの関係性ではお互いに笛を吹くところがそうだが、この2人は単純に「絵になる」とか「風の戦士だから」とかではなく、お互いに感性が近いのではないだろうか。
大自然を愛する気持ちは他の4人やヒュウガと同じだが、それだけではなく何気ない静かなひと時を共に分かち合う、そういう心地よさがお互いにあることが窺える。
婚約者というのも決して惚れた腫れたのような浮ついた恋愛ではなく、あくまでも大自然の中で共に育ってきたからこそ長い時間をかけて自然にお互いの愛が育まれたのだろう。
リョウマやヒュウガがどちらかと言えば矢面に立って戦う「勇者」であるならば、ハヤテは「吟遊詩人」とでもいうべきアーティストのような感性を持っている。
リアリストなように見えて根っこはとても純粋なロマンチストであり、頑固なだけではなく自分の中で誇りというかこだわりが強いタイプなのかもしれない。
それが周りかららると「頑固」に移るのだろうが、ミハルはそんなハヤテの一面の本質を見抜いた上で自然に一緒にいるようになったのではないだろうか。
そして何より、自分のことを気遣ってくれたリョウマに感謝しつつも「死ぬなよ」という言葉を送る優しさもあり、これがハヤテのハヤテたる所以だ。
リョウマとハヤテの関係はよくありがちな「1番手と2番手」の関係、すなわち「ジェットマン」の竜と凱、あるいは「デジモン」の太一とヤマトのようなライバルとは違う。
滅多に2人きりで話すことはないが、お互いにリスペクトをしつつも高め合える大人の関係性であり、根っこは同じくらいに星を守る思いが強い。
だから喧嘩しそうで意外としないし、こういう柔らかい側面があるからこそ本作は単に「悪党をぶち殺す」だけの作品にはしていないのではないだろうか。
これまでは参謀としての側面しか描かれてこなかったハヤテだが、小林脚本と辻野演出の組み合わせが最高に光り、しかもその中で自然とシェリンダとの因縁の構築にも成功している。
個性的な5人というだけではなく、周囲の人物との関わりの中で各々のキャラクターがしっかり際立っていくという基本に忠実に、そして同時に「応用」でもある組み合わせが素晴らしい。
記号的ではありながら、その中にどれだけの「人間性」というか「深み」を出せるかが今回の課題であったが、見事にその高いハードルをクリアしたと言える。
しかもこのクオリティーを最終章まで維持することができるわけだから、そりゃあ平均視聴率で前作『電磁戦隊メガレンジャー』を大きく上回る数字を記録するわけだ。
天の理と地の理を活かした戦略と戦術
そして今回の話で改めて思えたのはギンガマン5人は単なる特殊能力・剣術・体術といったスキルと実力だけで戦っているわけではないということだ。
天と地の理を活かした戦略と戦術を組み立てており、山のこだまという特性と大自然の風を組み合わせ、しかもハヤテの影武者としてリョウマが笛を吹いていたことである。
これがバルバンとの大きな違いであり、バルバンは力こそあるが天の理と地の理をあまりにも知らない、それに対してギンガマンは大自然に対する畏敬・感謝の念もあるのだ。
それが単なる「自然を愛する優しさ」という彼らのヒロイズムとしてだけではなく、きちんと戦う力としても活かされているところにあるのではなかろうか。
それこそ同じタイミングで同じように配信されている『動物戦隊ジュウオウジャー』とも比較してみるといい、香村純子版「ギンガマン」とさえ言えるこれと。
「ジュウオウジャー」も同じように獣の力を借りており、大自然を愛していながら、それは所詮「見栄え」「設定」の皮相的な領域から抜け出ることがない。
要するに大自然の戦士であることの理をきちんと理解した上で、力に対して謙虚になれず、むしろどこか見せつけるチンピラの力自慢みたいな戦い方さえしている。
12話まで見ても「ジュウオウジャー」は「動物の力」を活かした戦い方はしていたが、「星の力」をフルに活かした戦い方はできていない。
何が「この星を舐めるなよ!」だ、そうやっていう割には星に対してきちんと感謝し星の力を我が物として戦っている感じは全くないのである。
そこが大きな違いなのかもしれないが、同じような作品を作ったとしても大きな差が出るのはやはり「根幹」にある「考え方」の差ではないだろうか。
どれだけ強い力を持っていたとしても、大自然とのレバレッジを作って自らが持てる力を何百倍にも増やせている伝説の戦士とはそこが決定的に異なる。
大自然であるからこそできる戦い方、こだまという特性と風の戦士、そして笛を掛け合わせて何倍も軽やかかつ濃密な緊張感のある画面を生み出す想像力。
これは科学の力で徹底的に戦ってきた『電撃戦隊チェンジマン』や科学の力と鳥の力を組み合わせた『鳥人戦隊ジェットマン』のどちらとも違う物である。
大自然の規格外の力を取り込んで放つだけではなく、その力を星獣や大自然との信頼・信用を築くこと無限大にまで高めることで実力以上の結果を出す。
この部分がしっかりしているからこそ、ギンガマンはバルバンに負けないし、何があろうと徹底してブレない真の戦士と言えるわけだ。
私が本作をあらゆる作品の中で群を抜いて好きなのも、この根幹の考え方とそれをきちんと映像の感覚として表現できるところにある。
改めて、本作の魅力がハヤテというキャラクターの深掘りとともに浮き彫りになり、非常に抒情的ながら悲劇的ではないという前向きさの出し方、バランス感覚の素晴らしさ。
「戦隊らしくなさ」と同時に「戦隊らしさ」もきちんと出ている、総合評価はS(傑作)100点満点中105点。



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