『星獣戦隊ギンガマン』第六章『星獣の危機』
◾️第六章『星獣の危機』
(脚本:小林靖子 演出:長石多可男)
導入
「武器とは別の力か…」
自在剣・機刃を手にしてそう呟くシーンから始まる今回は前後編としてお送りされる、いわば「大転生編」とでも題すべき序盤の総決算回である。
90年代戦隊シリーズの1つの特徴として「1号ロボの登場の遅さ」が挙げられ、半数以上の作品では1号ロボ登場が遅い。
具体的には以下の通りだ。
ファイブロボ(『地球戦隊ファイブマン』)……第2話
ジェットイカロス(『鳥人戦隊ジェットマン』)……第6話
大獣神(『恐竜戦隊ジュウレンジャー』)……第6話
大連王(『五星戦隊ダイレンジャー』)……第8話
無敵将軍(『忍者戦隊カクレンジャー』)……第1話(実際に使えるのは第4話)
オーレンジャーロボ(超力戦隊オーレンジャー)……第7話
RVロボ(『激走戦隊カーレンジャー』)……第5話
ギャラクシーメガ(『電磁戦隊メガレンジャー』)……第2話
ギンガイオー(『星獣戦隊ギンガマン』)……第七章
ビクトリーロボ(『救急戦隊ゴーゴーファイブ』)……第1話
こんな風になっており、ギンガイオーはこの中で大連王・オーレンジャーロボと並ぶ登場の遅さであり、下地を整えるまでに時間がかかっている。
今見直すと玩具販促の観点から行くとあまりスポンサーに優しくないともいえるのだが、本作に関しては企画段階で1号ロボ登場の予定がなかったそうだ。
これは歴代でも異例であり、例えば「ジュウ」「ダイ」「カク」「オー」で登場が遅いのはバラ売りを楽しんで貰うためとか、制作が難航したからとかが挙げられる。
しかし、本作の1号ロボであるギンガイオーに関しては元々バンダイ側の意向で登場の予定がなかった1号ロボを無理矢理誕生させることになったために、デザインの時点で難航した。
しかも最初からメカメカしい金属ボディで登場するのではなく、着ぐるみの星獣を一度メカメカしい状態にして合体させるという無理無茶無謀を果たさなければならない。
その為か、鷹羽氏をはじめとする多くの人がこのことに関して「髙寺成紀がわがままを通したから」という根も葉もない噂を垂れ流していたようだ。
有名な説として、メインプロデューサーだった高寺成紀氏が、スポンサーサイドからの至上命題である“合体ロボ玩具が出せる巨大ロボ”の登場を拒否し、星獣のみで(ギンガイオーすら出さずに)1年通そうとしてしていたため、2号ロボ的存在のデザインが間に合わなかったことが原因だというのがある。
しかし、これに関しては明確に『髙寺成紀の怪獣ラジオ』で小林靖子がゲストとして登場した後編の回の「ギンガマン」について述べるところではっきり否定している。
「この星獣に関して、生星獣のまま進化もしなければ合体もしないという案が初期には出ていました。これは5つのメカが変形して合体する巨大ロボを商品としては売り出さないというスポンサーの強い意向があったからでした。村上克司さんが「戦隊といえば、馬鹿の一つ覚えみたいに毎年合体ロボさえ売っていればいいと思うなよ」という考えから社内に喝入れをすべく、敢えて極端な号令をかけたのが事の真相だったようです」
そう、髙寺成紀ら東映側の意向ではなく、むしろスポンサー側の意向として「今年は1号ロボを売り出さない」だったことが述べられており、いくら当時の髙寺成紀の権限が強かったといえど、スポンサーの要求を突っぱねられるほどではなかったということだ。
ではなぜこんな根も葉もない無根拠にも程がある説が垂れ流されてしまうのかだが、髙寺成紀が白倉伸一郎同様に「東映的な様式美」、すなわち「子供向けとしてのお約束」という70〜80年代の東映特撮の常識を嫌っていたことで有名だからである。
その証拠に「カー」「メガ」「クウガ」「響鬼」のいずれもそういう「反王道」としての特徴・個性が強く出ていたことから思い込みでそう評しているだけであり、真実は髙寺成紀がいうこの話で間違いはないだろう。
少なくともポジショントーク全開で言ってることの8割がお世辞みたいなことを平然とやる世渡り上手の白倉と違い、髙寺はこの辺り良くも悪くも忖度なく本音で勝負する人だから。
いずれにせよ、本作はそういった経緯から1号ロボ登場が遅れたわけだが、そこを逆手に取って第一章から敢えて急がず、質量共に必要十分なドラマと設定をしっかり展開してきた。
小林靖子氏の丁寧で質の高い脚本とそれを的確に映像化へと落とし込める田崎竜太・辻野正人・長石多可男の連携、そして各キャストの好演など様々な要因を無駄なく活かしている。
前置きが長くなったが、今回の前後編はただの前後編ではなく、これまで積み重ねてきた要素をしっかりとここで小さなゴールとして到達させるための布石だろう。
小さなアイデアが詰まった前半のキャンプシーン
今回の見所は後半に詰まっているわけだが、さりとて前半のAパートに見所がないのかというと逆であり、私としてはむしろ前半のキャンプシーンこそ重要な細部として挙げておきたい。
第一章からちょくちょく登場していながら、物語に直接絡むことがなかった青山勇太少年の人となりが前半ではギンガマンや星獣との交流との中で自然に描かれている。
カヌーボートで楽しく漕ぎ、そして星獣と交流の中で自在剣・機刃の謎についてを絡めつつ、同時に星獣とギンガマン・青山勇太少年の関わりをこの1シーンで密接に持たせているのだ。
映像のテイストからどことなくNHK教育テレビの「天才てれびくん」を彷彿させるが、とにかくこのシーンは脚本・演出共に非常に味わい深いシーンに仕上がっている。
また、これまでは単に「戦うパートナー」という一面的な役割しか持っていなかった星獣がダンスする中で愛嬌を醸し出しているところも忘れられない。
ギンガマンの5人同様に星獣も優しい性格が根底にあることが窺え、ギンガレオンに関しては夜に青山勇太少年に友好の印として自分の星の石を与えている。
この「星の石」はデザイン的に『五星戦隊ダイレンジャー』の天宝来来の珠のオマージュともいえるが、同時に第二章でサラッと触れられていた「星の命」との対比でもあるのだ。
見過ごされがちであるが、ギンガマンもバルバンも強大な力を手にして戦っているわけであって、だからバルバンは天変地異レベルが当たり前に起こせるし、ギンガマンもそれを迎え撃つ強さに説得力がある。
何が言いたいかというと、S(傑作)〜A(名作)として評価されている作品は全てにおいて強固な一貫性が必要であり、その一貫性はあくまで序盤で基礎土台をどれだけ構築できるかで決まるということだ。
本作はこの辺りが歴代でも正に『電撃戦隊チェンジマン』『鳥人戦隊ジェットマン』と並んで非常に優れている為に滅多なことでは揺るがない大枠の強さをしっかり形成している。
逆に言うと、序盤の基礎土台構築を怠った作品は例外なく中盤以降で躓くようにできていて、基礎土台に失敗するとそれを取り戻すには簡単に2クールほどかかってしまう。
それこそ前作『電磁戦隊メガレンジャー』は正にそれで失敗したわけであり、序盤の基礎土台構築に失敗したが為に小林靖子が参戦してもイマイチ締まりのない展開が続いた。
本作はその反省点を無駄にはせずに企画段階から徹底的に詰めて、こういう小さなシーンの1つ1つにも細かい気遣い・気配り・気働きという3つの「気」を忘れずに込めている。
そして敢えて新しいことをせずに、形式的自己拘束を受け入れた上でその形式主義を徹底させたことによって、逆に恐るべき自然さへと到達する後期の小津映画にも近い作風がここでできているのだ。
青山勇太少年はこれまでどこかこまっしゃくれていた生意気な子としてしか描かれていなかったが、今回等身大の少年としての素がしっかり描かれている。
そんな勇太少年に対して優しいお兄さんとして接しているリョウマが自然に好青年としてのキャラ付けを強固にしているのもまた印象的であろう。
第三章のゴウキとリョウマの絡みもそうだったが、ギンガマンは単に「戦闘のプロ」というハードさだけではなく、日常のソフトな描写も対比として素晴らしい。
こういう小さなシーンを丁寧に掘り起こしていることが「優しい戦隊」というイメージの醸成につながるし、それがBパートのシリアスな展開にも生きてくるのだ。
魔人タグレドーの毒は現代社会の膿
Aパートでギンガマン側と並んでもう1つ注目しておきたいのが魔人タグレドーの毒についてであり、実はこれもまたこの前後編のみならず終盤にも繋がる伏線となっている。
タグレドーは食らったものを全て毒に変換するという不思議な能力を持っているわけだが、その猛毒で傷を癒すことからダイタニクスもまた猛毒で復活可能なのではとサンバッシュは考察した。
そのチンピラっぽい描写から視聴者には軽んじられがちだが、サンバッシュは直情径行なだけで「バカ」でも「考えなし」でもなく、土壇場でのひらめきや戦術は割と光るものを持っている。
この辺りが似たような位置付けにある4クール目のバットバスとは違うところであり、バットバスはパワーに全てを振り切っているが自分では一切何も考えられない脳筋だ。
それに対して、サンバッシュは必ずしも樽爺ことブクラテスに任せることをせずに、自分でも作戦立案をしたり柔軟に作戦変更したりするなど、それなりに切れ者の一面もある。
そんな中で示された今回のたぐれドーだが、劇中で食べていたのは郵便ポストやガードレールなどのインフラ系の人工物ばかりであり、なぜだか普通の野菜や肉といった食物は狙わない。
理由として考えられるのは当然人類が化学物質を混ぜながら作ったものの方が猛毒を生成するのに最も効率がいいということではないかと推察される。
これはギンガマンが敢えて世俗と距離を置いて大自然と共生してきたのとは対照的であり、第一章から一貫しているが、バルバンは現代社会をターゲットにすることが多い。
それはおそらく文明の力が発達しすぎた現代社会がバルバンにとっては星を荒らす為に必要なものが揃っているところだからであり、第三章の熱を奪う作戦に第四章の電気を奪う作戦もそうだ。
そしてまた、第四章ではヒカルが高校生に向かって雷のアースで追い払うシーンがあるが、そこはかとなく本作には性悪説が根底にあって、作り手は人間社会の醜さに嫌悪しているかのようなところが垣間見る。
まあこれは前作「メガ」の終盤で「大衆から迫害されるヒーロー」をとことんまでやったからというのも大きいのだが、これが同時にギンガマンがギンガの森に結界を張っている理由にもなるだろう。
初代ギンガマンが戦った3000年前と比較してどうかはわからないが、時代が下るにつれて人間は科学の力のみを発達させ、自然の大切さを蔑ろにして力のみを追い求めるようになった。
ギンガマン5人と出会うまでの勇太が気怠そうにゲームして「今は科学の時代。こんな森に伝説が隠されているのは御伽噺」と言っていたのは、そういう残酷さの表れなのかもしれない。
ギンガの森にもそうした産業革命に代表される文明の波に飲まれて大自然の力であるアースや戦闘能力が失われることを危惧して、世俗と隔離したという風にも考えられる。
つまり現代社会に生きる人たちもこのまま科学の力ばかりを私欲で膨れ上がらせて適切な力の使い方を弁えなければ、誰しもがバルバンのようになりかねないということだ。
だからこそ第四章ではヒカルを通して「アースとは何か?」をしっかりと物語に落とし込む必要があったわけだし、ギンガマンがスレたところの全くない純度の高い理想の存在たることに説得力もある。
そしてこのタグレドーの毒は終盤の展開にも大きく関わってくるわけだが、大気汚染をこのように生み出してしまったことは地球に住む人々の自業自得ではなかろうか。
本作は歴代の中でも「理想」を貫き通した作品だが、その「理想」を果たすための「考え方=脳のOS」とそれを具現化するための目的・目標・戦略・戦術をここまで強固に描いてきた。
魔神タグレドーの猛毒は現代社会の膿のメタファーなのだ。
石化した星獣は『ウルトラマンA』のオマージュか?
さて、今回はサムネイルにもあるしコメントでも書かれていることだが、石化した星獣は『ウルトラマンA』のオマージュであるとファンの間ではよく言われている。
この回(第七章『復活の時』)は石像にされてしまった5星獣――『ウルトラマンA(エース)』(72年)第26話『全滅! ウルトラ5兄弟』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20061030/p1)で地獄星人ヒッポリト星人にブロンズ像にされてしまったウルトラ5兄弟を思い出しました――が復活し、初めて人型の巨大ロボ・ギンガイオー(銀鎧王)に合体する場面がありました。
実際、DVDのブックレットの解説でも「石化した星獣は「ウルトラマンA」のヒッポリト星人の回でブロンズ像にされたウルトラ5兄弟のオマージュ」という記載があるし、そこに異論はない。
しかし、私は単に髙寺成紀が生粋の円谷教徒で怪獣同盟というサークルに入っていたというだけでこのような絵作りはしないだろうから、この絵作りにはもちろん別の意味がある。
1つは星獣というかけがえのない存在を失ってしまった勇太少年並びにギンガマン側の悲壮感を強調する演出としてであり、これはAパートでの交流があったからこその落差だ。
2つ目に、これは第二章でも述べたことだが、小林靖子脚本のルールとして「喪失と獲得」があり、ヒーロー側が強大な力を手にする前段階として大きな苦しみが伴うという特徴がある。
現に第一章ではヒュウガの死と引き換えにリョウマが覚醒し、第二章ではギンガの森の封印と引き換えに星獣が再来、そして今回が自在剣・機刃の大きな力と引き換えに星獣の死が一度描かれるのだ。
本作の秀逸なところはまさにここであり、「大いなる力には責任が伴う」ではないが、何らかの代償を払わなければ器に合った大きな力は得られないことを小林靖子はよくわかっている。
世の中はなんでもトレードオフの原理で出来ており、星獣たちも大事の前の小事としてここで命を賭けなければ大きな力は得られないことを分かった上で、自ら命を手放したのではないだろうか。
そして3つ目、これは次回で結実するのであくまでもサラッと述べておくだけだが、本作が「変身」に相当する単語として「転生」を用いていることだ。
近年やたらと安売りされている異世界転生ものなどでも用いられている「転生」という言葉がだが、元々は「別のものに生まれ変わる」ことが「転生」の本来の意義である。
この考えはもちろん仏教の「輪廻転生」から来ているが、ウルトラ5兄弟のオマージュと単純に括れないのはウルトラ5兄弟は復活してから別の何かに生まれ変わる訳ではないからだ。
その点、本作の星獣たちは一度ここで自らの命を賭して大気圏の毒を無効化することによって、ギンガマン5人が自分達を生まれ変わらせてくれるだろうと思っていたに違いない。
そうでなければ、星獣たちは単に自らの命を安請け合いで差し出してしまった感情基準で動くバカということになりかねないし、それは「デンジマン」最終回の無策で飛び出す5人と変わらないだろう。
機刃に秘められた謎に関して多くを語らぬまま残したのも、星獣たちが信頼の上で「お前らだったら自分達で乗り越えてくれ」ということをどこかで思っていたのかもしれない。
いずれにせよ、星獣が石化するシーンは単なる自己犠牲ではなく、次回で大きく飛躍するために必要な布石であり、順風満帆には行かせないところが本作の良さである。
「夜まさに明けなんとして益々暗し」、カタルシスの前には大きなストレスがかかるものだ。
制約と誓約がきちんと効いたバトルシーン
そして今回の締めとして描かれるバトルシーンだが、ここでもまた「制約と誓約」がしっかりと効いたものになっている。
ギンガレッドがここで既に星獣剣と機刃カッターの二刀流を披露しており、他のメンバーも徐々に自分の色を出し始めた。
毒を全て出し切ってしまったタグレドーだが腕っぷしは結構強く、ギンガレッドが投げ飛ばすまでは5人を圧倒している。
最終的には炎のたてがみ→機刃の逆鱗によって撃退しているのだが、ここでタグレドーはいつもと違ってバルバエキスを飲まない。
なぜ飲まないのかというと、これまでのナレーションでバルバエキスを飲む意味が繰り返し説明されてきたからだ。
「バルバンの魔人はバルバエキスを飲むことで巨大化する。だがそれは自らの命をも縮める、正に最期の手段なのだ!」
言うなればバルバエキスはレッドブルやオロナミンC、リポビタンD、リゲインのような一時的にバフをかける滋養強壮ドリンクのようなものではないだろうか。
『ドラゴンボール』でいう界王拳と大猿化を組み合わせたものであり、要するに「力とエネルギーの前借り」であり、一時的にブーストをかけているに過ぎない。
これは人間が自らの力を100あるうちの30しか引き出せないのとは対照的に、100ある力を100どころか1000くらいにして一気に上げているだけだ。
そんなことをすれば力を使い果たした後には死ぬ他はなく、だから今回のタグレドーはバルバエキスを飲まずに敢えて撤退を選ぶ。
本作はそういう意味でヒーローものとしての「理想」を描くためにファンタジーや奇跡を肯定するスタンスだが、そのために必要な下地はきちんと前段階で整えている。
ビジネスでも受験でもそうだが、結局はどれだけのものを「持っているか」、そしてその持っているものをいかに有効活用するかが理想の実現を可能とするのだ。
同年に始まった『ONE PIECE』でもこんなシーンがある。
そう、バルバンを打ち倒し星を守るというギンガマンの理想はそれを口にできるだけの実力・考え方=脳のOSが根底にあるからこそだと忘れてはならない。
だから本作に対して「他の小林靖子脚本に比べるとイージーモード」なんてことを軽々しく口にする知性の欠片もない連中はこのことをまるで理解していないと言えるだろう。
第一章から積み上げてきた土台をきちんと1つに集約させつつ、次回のカタルシスへと繋ぐための前段階としての仕込みも完璧である。
総合評価はS(傑作)100点満点中105点で手を打とう。



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