『星獣戦隊ギンガマン』第三章『大地の知恵』
◾️第三章『大地の知恵』
(脚本:小林靖子 演出:辻野正人)
導入
前回の作戦失敗により、腹の虫が治らないサンバッシュは他の幹部たちとくだらない覇権争いを繰り返し、シェリンダとゼイハブがこれを一喝。仲間割れによりギンガマンに負け戦を演じることのないよう行動隊長をサンバッシュに固定する。一方のギンガマンは森から離れようとしたところで青山親子と再会、父・晴彦の友人の紹介でシルバースター乗馬倶楽部という仮住まいの住処を用意される。一方でゴウキはまだ森に対する未練があり……。
第一章で兄ヒュウガの死とリョウマのギンガ転生、続く第二章では森の封印と共に五星獣が三千年ぶりに地球に再来し、いきなり大枠を動かしにかかったが、この三章と四章では大枠での変化はあまりない。
その分、各キャラクターの掘り下げと基礎土台の補足に重きを置いており、まずギンガマンとバルバンの双方の指針が今回で固まり、ひとまずのフォーマットは今回で完全に整ったという形である。
前2作、特に前作『電磁戦隊メガレンジャー』は序盤の基礎土台がとても荒削りだったことの反省からか、本作は尺が日曜朝に映った利点を活かして、まずは堅実に基礎固めを行っているのだ。
しかもそれでいて「進行が遅い」「尺が長い」とは全く感じさせず、各キャラクターのドラマやバトルのエッセンスをきちんと詰めた上で見せているため、画面の情報量・質共にクオリティーが高い。
ドラマの見所としてはやはりBパートの冒頭にあったリョウマとゴウキの語り合いのシーンであり、『百獣戦隊ガオレンジャーVSスーパー戦隊』でも引用されていたゴウキのキャラクター性を示すいいシーンでもある。
しかし、個人的にはゴウキのキャラクターは割とありがちな「気は優しくて力持ち」のタイプなので、どちらかといえばそれをフォローするリョウマの好青年ぶりの方を示すことが眼目であるといえるかもしれない。
こういう戦いとは直接に関係のない登場人物同士の情感が溢れるやり取りは辻野監督ならではの味があり、田崎監督や長石監督のどちらとも違う絶妙な演出の色気の一端を堪能することができるのではないだろうか。
辻野演出の真骨頂はハヤテメイン回なのだが、特に第九章『風の笛』と第四十六章『怒りの風』の辻野演出は「ギンガマン」に限らず歴代戦隊の中でも屈指の映像美を誇っている。
田崎監督は早稲田出身ということもあるのか、全てのカット割・ライティング・演出にきちんと「理屈」「根拠」「計算」があるのだが、辻野監督にはそういうものがなくシームレスに撮っているのだ。
前作『電磁戦隊メガレンジャー』の16話でも例えばラストに咲いた花を意味深に映すカットがあるが、あの花は田崎監督や長石監督だったら映さないであろう。
そう、演出的には別に映さなくてもいいものを敢えて映すことによって細部を面白く組み上げていき、全体を通して非常に抒情的に感じられる名シーンに仕上がっているのだ。
長石監督はもちろんベテランならではのイズムがあるわけだが、それとはまた違う繊細なハーモニーを奏でる辻野演出とそれを理解した上での佐橋サウンドの使い方も素晴らしい。
また、ただ味わい深いだけではなく大雪が降っていることを逆手に取ったバルバンの作戦と創意工夫に満ちた戦闘シーンも面白く、がっちり王道だった前回までと比べても「幅」が出ている。
本作の妙味は正にここにあって、王道ど真ん中を行こうとする戦隊でありながらも、いかにも熱血一直線ではなく小刻みに遊び幅を広げながら少しずつ着実にゴールに向かう。
ただヒーローが活躍すればそれでいいわけではなく、戦隊だからこできる脚本・演出は何か?を真剣に考え、その上で小さなアイデアの1つ1つに膨大な工夫が凝らされている。
今回は決して「ギンガマン」全編を通して語られるほどではないが、基礎基本の構築をしっかりした上で演出の上でも「幅」「遊び」がとても楽しい仕上がりになっているだろう。
それぞれの目的・目標・戦略・戦術が定まった冒頭
冒頭のシーンを見ていくと、バルバン側とギンガマン側のそれぞれの目的・目標・戦略・戦術が定まったのが冒頭のシーンであり、しかもわざとらしくなくごく自然なキャラのリアクションとして成立している。
これは小林靖子脚本の妙でもあるのだろうが、インタビューで「役者に当て書きのようなことはしないが、その役者が口に出して違和感がないかは強く意識している」ということを語っていた。
私はあまり「当て書き」ということは意識しないのですが、役者さんが演じやすいセリフを心掛けています。
それはイコール、感情が乗せやすいということです。「自分のキャラがなぜこのセリフを言っているのかわからない」と役者さんが悩んでしまうのではまずい。
出来上がった映像を見て、「この役者さんはこういう表情をするんだな」と思ったら、その魅力を強調したりすることもあります。
彼女が書く会話劇はいわゆる「説明セリフ」になっておらず、特にリョウマが星獣を相手に自分たちの目的・目標を口にする次のセリフなんかはとても自然だ。
「俺たちは必ずこの星を守る!そして平和になった地上に、ギンガの森を戻すよ」
第一章・第二章の時点でギンガマン側の目的が「星を守る」、そしてそれを実現するための目標が「バルバンを倒す」だが、今回はここからもう少し掘り下げて卑近な「ギンガの森の復活」を掲げている。
これは言うなれば「目的を果たした先の未来」なのだが、こういう「大きな目標にたどり着くための卑近なゴール設定」をしっかりと具体にまで引き下ろしているところが大変素晴らしい。
リョウマ達も戦いがなければ普段は長閑に暮らしている民族であり、「大義のために自由を捨てる」のではなく「自由を手に入れるために大義を果たす」という持って行き方が鮮やかである。
これぞ正に「権利を主張する前に義務を果たす」であり、「ギンガの森を戻す権利」を主張するためには「宇宙海賊バルバンを倒して星を守る」という義務を果たす必要があるということだ。
そして順番は逆だが、バルバン側もまた前回までの失敗を受けて仲間割れを起こしている幹部連中をシェリンダ一喝している。
「貴様等!三千年前に封印された原因がその足の引っ張り合いだったことを忘れたのか!」
そう、悪の組織がなぜ滅びるのかという根幹を過去からしっかり反省し、その上でゼイハブが最初の行動隊長としてサンバッシュを任命し、他の者には決して口も手も出さないようにという指令。
ここが素晴らしいのは1クール1軍団という本作の構成を自然なものにするだけではなく、きちんと「ダイタニクス復活」という目標の為に必要な戦略・戦術をきちんと組み立てており一貫性があることだ。
ギンガマン側同様にバルバンもきっちり目的・目標・戦略・戦術を組み立てておくことで年間の物語はもちろん彼らのキャラクター性に破綻が生じないようにするというリスクヘッジが完璧である。
こういうのはあまり細かくやりすぎるといかにも頭でっかちなオタクの理屈みたいになってしまうのだが、本作はその辺りくどくなりすぎないように最初の段階で大筋を決めているわけだ。
そうしておけば物語の幅を広げるときでも本筋を見失わずに済み、メリハリをつけてゴールまでの長期的なマイルストーンを組むことが可能になる。
この「いかにしてゴールまでのロードマップを無駄なく形成していくのか?」というのは本作に限らず、あらゆる子供向け特撮作品、分けてもスーパー戦隊シリーズが苦労している部分だ。
わかっていても中々手が届かない部分になるし、勢いだけが凄くても根幹の土台がズレていたり間違っていたりすると、それだけで作品は簡単に指針を失って崩れてしまう。
本作はそこを決して見誤っておらず、第七章までの大枠の基礎土台をしっかり構築していて、それが本作を「安定した作品」とファンに評価せしめる大きな理由でもあるのだ。
異世界転生系にありがちな異文化ギャップネタは排除
ちょうど昨日「戦隊レッド異世界転生」をアニメで見たばかりということもあるし、お隣で同時に宇都宮×香村版「ギンガマン」と言って差し支えない『動物戦隊ジュウオウジャー』も配信されている異文化ギャップネタについて。
本作に関しては「戦士の常識!いつ森の外に出てもいいようにね」と最初にギンガマン側が現代社会の情報収集に余念を欠かさない集団である設定にしたことで潔く排除している。
まあこれに関しても賢明な選択だといえるだろう、それこそ本編終了後に描かれた『星獣戦隊ギンガマンVSメガレンジャー』ではリョウマたちの民族衣装をくすくす笑う大学生という薄寒いネタをやっていたが……(荒川脚本ってこの辺無神経だからな)。
そもそも私が異世界転生ものをあまり好まないのは異世界にやってきただけでその世界の人たちから驚かれたり警戒されたりするネタがあまり好きではないし、本作がメインで描こうとしているのはそこではない。
まあ同じことを言えば、それこそ女児向けの『ふたりはプリキュア』『ふたりはプリキュアSplash☆STAR』でも主人公たちの初変身で「私たち何言ってんの!?」みたいなツッコミを入れるシーンがある。
要するに変身プログラムの影響で自動的に前口上をやらされているおかしさに突っ込みを入れるのだが、いわゆる「様式美」にツッコミを入れたり腐したりするのは品のないやつのすることだ。
本作はその辺徹底してナレーションで「ギンガマン!それは勇気ある者のみに許された栄誉ある銀河戦士の称号である!」と説明し「銀河を貫く伝説の刃」というフレーズで成立させている。
そういう意味では本作は「ファンタジー」ではあるのだが、根幹で志向しているのは「SFバトル」であり、親友の黒羽翔も意見していたが、設定はファンタジックだが描き方がSFなのだ。
どちらかと言えばリョウマたちが驚いていたのは後述する知恵の樹・モークであり、これは長老オーギがいざという時の為に伏せておいたものだからということで驚くのも無理はない。
一方でハヤテがきちんと仮住まいを手配してくれた晴彦父に「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げるところが好印象で、単に厳しいだけではなく礼儀・礼節がきちんとしている。
このハヤテの律儀さは時に厳しさにもなっているのだが、序盤は似たような性格をしているヒュウガがいないのとリョウマがまだリーダーとしての器を完成していないので実質のリーダー格だ。
こういう細かい描写まで隅々まで気遣いが行き渡っており、微塵も視聴者に違和感を抱かせずに流れていくし、視聴者は青山勇太少年に自分を重ねてリョウマ達を見上げることができる。
5人はあくまで「星を守るため」の仮住まいを持たせてもらっているにすぎず、本分はあくまで「戦士」なのだから必要以上に大衆との関わりを持たない。
青山親子以外にもリョウマ達と深く関わるゲストは出てくるが、あくまでもリョウマ達のキャラクター性というか個性を際立たせるために存在する。
だからその為にはいちいち一般人がリョウマ達の存在に驚くなんてネタをやっていては成立しないのであり、これも1つの賢明な判断ではなかろうか。
リョウマとゴウキの貴重な一対一のシーン
今回のハイライトはリョウマとゴウキが12年に1度しか咲かない星の花について思いを馳せるシーンだが、このシーンは『百獣戦隊ガオレンジャーVSスーパー戦隊』でも引用されていた。
当の照英自身ブックレットなどで「あのシーンは今見直しても恥ずかしい」ということを語っていて、確かに演技が達者というイメージはないが、なぜだか味わい深いシーンに仕上がっている。
このシーンは二重に貴重で、まず1つはゴウキが花の戦士・サヤよりもなぜだか花を愛していて女子力が高めであること、そしてそんな彼の繊細さを気遣うリョウマなのだ。
これが「しなやかな強さ」「強きしなやかさ」というべき本作の妙味で、単に「強い」だけではなく「優しさ」もまた兼ね備えているところが素晴らしい。
上原正三や曽田博久がメインライターを担当していた時代の戦隊だったらこんなシーンはまず入れないだろうし、入れるにしても女性キャラに担当させるだろう。
ところが本作は男性キャラ、しかもチームを引っ張っていくはずの人気カラーである赤と青の戦士にこういうシーンをやらせているのが意外性があって面白い。
ゴウキのキャラクターは当時の照英自身であるとも公言している通り、「気は優しくて力持ち」なのだが、単にそれだけではなくギンガの森の風物詩で具体化することで深みが生まれている。
そんなゴウキの心情を否定するのではなく花から察知して自然に後ろからフォローを入れるリョウマもゴウキとは違う優しさを持っていて、これが本作が「優しい」と言われる所以だ。
リョウマのキャラクター性もまた素晴らしく、第一話の印象から「普段は穏やかだが戦いになるとプロとしての強さ・厳しさを持っている」という一面的な印象が目立った。
今回はそこからもう少しプライベートの部分を掘り下げて「達観した静かな優しさ」にするとこで、単なる根が優しい好青年で終わっていないのも素晴らしい。
そもそも「優」という漢字自体が「人を憂う=他者を思いやる・寄り添う」ことを意味するもので、それは余裕があって強くないとできないことである。
他者に優しくできるとはそれだけでもとんでもないことであり、兄も失い故郷も失っているにも関わらず、それを引き摺らないところもまた素晴らしい。
これが従来のカリスマ型リーダーとしての昭和時代のレッドとも、また00年代以降馬鹿の一つ覚えみたく量産されていた直情径行の「バカレッド」とも違うリョウマの人物像だ。
ちょうど『動物戦隊ジュウオウジャー』のジュウオウイーグル/風切大和と比較してみるといい、大和はリョウマと違って「好青年」ではあるが「甲斐性」も「器の大きさ」もない。
異世界からやってきた4人のジュウマンに対して狼狽えながら必死にやろうと常に焦っていて余裕がないのが見えてしまい、だから見ていて不快になるのだろうなと。
その点リョウマは決して焦らない、葛藤することはあっても常に余裕を持って構えており、その圧倒的な力でバルバンの魔人を悉く薙ぎ倒していくのだ。
まあこれが「たまたま異世界転生してきただけのジュウマン4人と動物学者」と「三千年間臨戦態勢で戦いに備えて徹底的に鍛え続けてきた戦士達」の違いでもあるのだろう。
髙寺成紀は最初リョウマを風切大和のような獣医に設定しようとしたらしいが、結果的にはその設定にしなかったことが功を奏したというべきか。
遊び心満載の戦闘シーン
さて、このお話といえばもう1つ見直してみて面白いのは遊び心満載の戦闘シーンであり、第一章・二章同様に大雪が降り積もっている中で戦うことが多い。
その中でも等身大戦ではまずギンガグリーンが遊具に足を引っ掛けながら戦うシーン、そして後半の雪の茂みからレッドとブルーが飛び出て前と後ろから星獣剣を刺すシーンの演出は見ものだ。
魔人リグローが人々から熱を奪っているために緊迫した流れではあるし魔人もまたとんでもなく強いのだが、その上で子供向けにコミカルに見せるという配慮も忘れない。
そして巨大戦においても第二章から更に大自然の空間・ミニチュアのセットを組んで星獣たちが思い思いに暴れて戦っているところも非常によく撮れている。
少なくとも『百獣戦隊ガオレンジャー』のパワーアニマルとは違い、CGなんて安っぽいものに頼ってはいないし着ぐるみだから質感がよく出ているのではないだろうか。
この仕上がりに当時の鈴木専務は不満だったらしいのだが、少なくとも見ている限りで大きな違和感はなかった、まあ強いて言えばギンガリラが水攻撃ではないのが納得いかないが。
他の4体の星獣がそれぞれ炎・風・雷・花をベースにした衝撃波を出しているのだが、水だけはそれがなかったのはもう少しどうにかならなかったのかとも思う。
逆にいうと、それ以外はパノラマを活かした空間把握能力の非常に高い巨大戦に仕上がっていて、スーパー戦隊の巨大戦はこういう画をもっと入れるべきだった。
トドメの刺し方もいわゆるゴレンジャーストームなどではなく、個別の必殺技で倒しているところもまた本作の割と特徴的なところだ。
スーパー戦隊の戦い方といえば個人武器→連携技→合体攻撃というパターンが黄金律なのだが、本作は簡単にそういう「戦隊的なるもの」の図式に落とし込んでいない。
本作は確かに「王道的」ではあるが「戦隊の王道ストレート」というよりは、むしろこういう細部でしっかりと差別化を図っている。
本来ならこんなことをやったらアウトなのだが、「ギンガマン」に関しては戦いに備えて鍛え続けてきた(ことが受け手にもわかるように提示されている)ために違和感がない。
何が言いたいかというと、スーパー戦隊の場合は「1人ずつだと敵わない相手をチームワークで倒す」という鉄則があるが、本作はそこを序盤は意図的に外している。
要するに「連携」「チームワーク」自体はできているわけだが、個人で倒せる敵は個人で倒すという『五星戦隊ダイレンジャー』が実験要素として盛り込んだ一対一の格闘技の要素も描いているのだ。
こういう描写の蓄積が強固な画面上での説得力を生み出しているわけで、前2作がイマイチ強いか弱いかがわかりにくかったのはこういう戦闘シーンの「見せ方」がイマイチ説得力がなかったからである。
「戦いのプロ」であることから常に最適な戦術をきっちり組み上げて最適解を叩き出せる余裕がありつつ、それをごく自然なこととして見せているのが本作の何よりの魅力だ。
知恵の樹・モークの稀有なビジュアルと攻めた設定
「私は知恵の樹のモーク」
このセリフと共に本作の司令官として現れるモークだが、今見直すとごく当たり前のこととして受け入れがちだが、実は歴代の司令官でも「樹」は50作にもなる中で本作しか出ていない。
しかもデザインといい性能といい、普通に考えれば悪役側として出てくることが多いのではないだろうか、少なくとも樹が味方側で出てきた作品は他に「ドラえもんのび太と雲の王国」のキー坊くらいだ。
長老オーギが自らの叡智を全て擬似人格として能力と共に詰め込んだという設定になっているのだが、これもまた「AIプログラム」のファンタジー版としての擬人化と言えるのではなかろうか。
某感想では「ファンタジー戦隊版マザーコンピューター」とも言われているが実に言い得て妙であり、思えば本作は炎の戦士・ギンガレッドだけではなく司令官もまた「代理」であると言える。
言うなれば「ガンダム」でいうところのハロやその元ネタの「2001年」のHALと同じであり、言うなれば勇者シリーズでも散々使われた超AIという設定をファンタジーに置き換えるとこうなるのだろう。
やろうと思えば杉村升が担当した戦隊のように大獣神や無敵将軍のような「神」に匹敵する存在を出すこともできたが、本作はそれをあえてやらない洗濯を取った。
なぜならば、ああいう完全な上位の存在が出てくると存在自体がデウスエクス・マキナみたいになってしまい、リョウマ達戦士の活躍が描けなくなるからだ。
だから、星獣の存在はあえて人格化せずに「生物」として描くことで、主役はあくまでもリョウマ達であるということを忘れていないし、モークもそういう設定である。
秘めた能力は次回以降で発揮されていくことになるが、今回はその一端としてギンガブレスに呼びかけ、また星の花のイメージを見せるなどもしている。
やっていることは「ダイレンジャー」の道士と同じなのだが、あちらよりも遥かに胡散臭さが薄いのは始まりの時点でリョウマ達の方が強いのと、動けない樹の設定にしているからだ。
この「動かない」「動けない」というのはスーパー戦隊における司令官の存在自体がそもそもあまり動くことのない存在ということを逆手に取った手法だろう。
あまりに司令官が強すぎてもいけないし、かといって全く存在感がないと「いるだけの空気キャラ」ということになってしまいかねない。
本作はこのように考えてみると、「戦隊には何ができて何ができないのか?」「画面に何を映して何を映せないのか?」という「形式的自己拘束」に逆らわずむしろ受け入れている。
その上で「形式的」であることを徹底することで逆にある種の「自然さ」に到達することを可能としており、これはどこか後期の小津映画、とりわけ『東京物語』に近い衝撃が感じられるだろう。
上記の個人技やキャラクター描写もそうだが、本作は徹底的に「戦隊であろうとする」ことを突き詰めたことで逆に「戦隊らしくなさ」が画面の上で露呈することになる。
その一端は既にこの第三章までで提示されており、それが意図的に「戦隊的なるもの」を脱構築した『鳥人戦隊ジェットマン』とは別ベクトルの衝撃を生み出すに至っているのだ。
最初に見た時は第一章・第二章ほどの魅力をあまり感じなかったエピソードだったが、こうして見方を変えて解像度を上げていくと、むしろ本作の奇妙な作風・個性が際立つ構造になっている。
そのことを思い知らせてくれると共にリョウマ・ゴウキのキャラクターを早い段階で掘り下げているため、総合評価はA(名作)100点満点中95点。



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