『星獣戦隊ギンガマン』第二章『星獣の再来』
◾️第二章『星獣の再来』
(脚本:小林靖子 演出:田崎竜太)
導入
「ギンガマンか……どうにも奴らとは縁が切れねえらしいな」
ゼイハブの愚痴と作戦会議から始まる第二章だが、第一章に続きなかなかに重い立ち上がり方をしており、今回も前回に続きヒーロー側を早速追い詰めてからのスタートとなっている。
『未来戦隊タイムレンジャー』然り初期の小林靖子脚本の大きな特徴は「敵味方共に退路を絶った状態で物語が始まる」というのが特徴的だ。
「主人公曇らせおばさん」なんて一部のファン・信者の間では言われているが、それは同時に昭和戦隊が根底に持っていた「戦争」という特徴の重々しさの再現ともいえる。
ここまで追い詰められた状態でスタートするのはそれこそ『鳥人戦隊ジェットマン』以来だが、あちらが追い詰めることによって主人公たちの本性を露呈させて「感情」を炙り出した。
それに対して本作は「感情」を炙り出すのではなく、主人公たちの「覚悟」を浮き彫りにし、どんなに追い詰められた状況でも勇猛果敢にバルバンに立ち向かうギンガマンの格好良さを際立たせている。
後年、小林靖子は本作について「今は「ギンガマン」のような作品は描けない。ああいうストレートというか「真っ直ぐ」な感じの主人公たちは描けない。何かしようと思ってしまう」とも髙寺成紀の怪獣ラジオにて述懐していた。
確かに本作で描かれているリョウマたちは「タイムレンジャー」以降のヒーロー像にはない「真っ直ぐさ」が感じられる、というかまあ「タイム」以降が「捻くれすぎ」ともいえるのだが(極北は「シンケン」「オーズ」「ゴーバス」辺り)。
ともかく、一番若々しく理想に燃えていた頃の女史だったからこそというのもそうだが、爽やかながらも決して軽々しくはないギンガマンのヒーロー性とバルバンの強烈な悪の姿がしっかり対比されている。
前作のような「偶然に選ばれた素人」ではない「徹底的に訓練された戦いのプロ」だからこそ、「格好良い」は当たり前としてそのヒーロー像にどれだけの「芯」を通わせられるのか?が肝要だ。
それは正しく『超力戦隊オーレンジャー』が失敗に終わってしまった「ドラマツルギー」であり、『電撃戦隊チェンジマン』までの昭和戦隊が言葉にせずとも根底に持っていたその「ドラマツルギー」をいかに再生できるか?
劇中でもそれは長老が述べていることだが、今回は敵味方の双方の戦う目的がしっかりと述べられ、その上で後半には創意工夫の凝らされた巨大戦などの見所が満載である。
前回に続き、徹底した引き算思考が脚本・演出・演技の全てにおいて表現されており、過不足ない完璧なスタートダッシュを切ることに成功したと言えるだろう。
「喪失」と「獲得」
第一章『伝説の刃』もそうであったが、特に初期の小林靖子脚本が持っていたテーマとして「喪失」と「獲得」、まあ俗に言う「トレードオフ」の原理がしっかりと成立する展開・筋運びである。
どういうことかというと、第一章では最大戦力のS級カリスマ戦士・ヒュウガの死と引き換えにリョウマがギンガレッドになり、今回はギンガの森の封印による喪失と引き換えに星獣が地球へ再来した。
『烈車戦隊トッキュウジャー』でもそうだったが、小林靖子は常にヒーローになることを軽々しく考えず何かしらの「痛み」が伴い、それと引き換えにヒーローになることを条件として描いている。
「トッキュウジャー」も主人公が故郷を喪失した状態からそれを取り戻すべくスタートしているのだが、ただただ派手にチャンバラやドンパチをやるだけの心がない作品にはしたくないという精神性の表れだろう。
また、今回に関していえばなぜギンガの森を封印させるのかはもう1つの理由があって、それは宇宙海賊バルバンの魔獣ダイタニクスの封印が解けないという不利を背負っているからだ。
つまり敵側に対して味方側があまりにも有利なところからスタートしているので、そう感じさせないように第一章でヒュウガを、そして今回でギンガの森という根城を喪失させる。
ここまで追い詰めて星獣を再来させることで、ようやく敵味方双方のバランスが整った状態となるわけで、敵味方ともに「封印」によって対比されるという妙味があるのだ。
これは同時に『HUNTER×HUNTER』でいうところの「誓約と制約」に近く、何でもアリではなく敢えてルールを設けて制限することで知恵を絞って行動する面白さが生まれる。
よく、本作のことを「後期の作品に比べたら「ギンガマン」なんかイージーモードだ」などと訳のわからないことを述べるアホな輩が跡を経たないが、それは世間一般の常識・価値観による局所的な見方に過ぎない。
敵はいつでも星を食らって星の命を宝石に変えることができるという状況の中で最大戦力を失い根城も失い頼れるのは自分たちと星獣のみ、これのどこがイージーモードなのか?
俯瞰すれば、一瞬でも判断を間違えてしまえばプライベートどころか地球の運命さえ簡単に失われてしまうのだから、たった一回の判断ミスが命取りになるくらいにギリギリのところで戦っていることはわかるはずだ。
まあ94%の凡人には見えない上位6%のレイヤーに立つ者たちの戦いだからその凄さが正確に推し量れないのも無理はない、大学受験でいうならば東大理科三類を目指すレベルのシビアな戦いだから。
ましてやギンガマンは後期の「シンケンジャー」「ゴーバスターズ」みたいに戦うのが内心イヤイヤで「やらされている」感は全くなく自らの意思で戦うことを決意し共に訓練してきたヒーローだ。
だから当然精神的にも肉体的にも技術的にも相当に高いハードルで戦うことになるのは当たり前のことであって、その高い基準で見るとイージーモードであるかのように錯覚してしまうだけである。
一度でも高いレイヤー・ステージで戦ったことある人はわかると思うが、上に上がるほど「頑張る」「努力する」ことは愚か「結果を出す」ことすら当たり前になるものだ。
その上で大事なのは「考え方=脳のOS」であって、ギンガマンはそこがもうスタートの段階で公私共にブレずに完成しているからこそ安定して見えているだけである。
森の戦闘シーンの入り乱れる面白さ
さて、そんな今回の見所はもちろん後半の巨大戦なのだが、その前段階としてある前半のギンガの森での乱闘というか集団戦のシーンも短いながらに凝っていて非常に面白い。
エスニックな民族衣装を着た原住民たちがギンガマン5人を含めてヤートットやシェリンダを相手に戦うシーンは正に「戦隊メンバーだけが戦う訳じゃない」と示す良いシーンだ。
何が素晴らしいと言って、ギンガマンだけではなく全員が臨戦態勢でバルバンとの戦いに備えていたことがわかり、どこぞの恐竜戦隊のように伝説を長い時間の中で忘れたわけではないことが窺える。
特に弓を弾くところもそうだし、またサンバッシュとは別にダイタニクス復活のエネルギーを集めに裏方として動くシェリンダの2番手としての優秀さも描かれ、全く無駄も隙もない。
そして何よりも凄いのが、これに対して長老もきちんとリスクヘッジというかネガティブシミュレーションをした上で対策を講じていたことにある。
前作『電磁戦隊メガレンジャー』の評価で「元々はI.N.E.T.側のセキュリティ対策・リスクヘッジが甘いから健太たちはプライベートを失った」と辛口に評価した。
そんな教訓が生かされたためか、本作では東映特撮あるあるの「ザル警備」に対してしっかり森の力を悪用されないように封印という最善の手段を取っている。
また、長老らしく森を守ろうとしたギンガマンを一喝し、真の目的を説く。
「戦士たちよ……!重要なのは「森を守ること」ではない!地球を……すべての人々を救うこと!行け!星獣たちは必ず来る、バルバンを倒せ!」
また、最後にボックに首飾りを与えるなどあますところなくすべての対策がしっかり行われており、いつ森の外に出て戦っても良いようにできているのだ。
この念の入れようもまた素晴らしく、ただ無惨にやられるだけではなく、やられる中でも「森の力を悪用させないよう封印」「森の外に出ても良いように後詰めの手段を残す」と可能な対策を打っている。
作品自体がそうであるように、敵側のバルバンも味方側のギンガマンもとにかく用意周到に目的→目標→戦略→戦術を練っていることが一目瞭然だ。
これは同時に東映特撮にありがちな「なぜ序盤だけ派手に攻めてそのあとはちまちまとしたスケールの小さい作戦になるのか?」に対する回答にもなっている。
本作は1クール一軍団という『仮面の忍者赤影』の章立てにヒントを得た大胆な構成にしてあるのだが、これが上手いこと功を奏して年間の柱にブレがない。
最初の段階できちんと無駄なく詰めておくことによって、その後にどのような遊びを入れたとしても根幹が崩れないように基礎土台をしっかりしているのだ。
このAパートだけでも相当に濃密な情報質が詰まっているのだが、さらにBパートに入ると今度はギンガマン側の勇壮たる活躍が描かれる。
「走る」戦隊ギンガマン
OPでもそうだし本編でもそうなのだが、本作はとにかく「走る」戦隊であることが1つの特徴・個性になっていることに気づく人も多いだろう。
GMS氏も本作の感想のところで「ギンガマンはとにかく走るシーンがとても印象的」と書かれていたし、実際「ゴーゴーファイブVSギンガマン」のトークショーでその「走る」ことに対する述懐もある。
とにかく「ヨーイドンだからな!」で競争するくらいに男性陣は毎回とにかく競い合っていたらしく、このカットを見るだけでも特にリョウマ・ハヤテ・ゴウキの3人は凄いスピードだ。
転生後の「ギンガ走り」も特徴的だが、個人的には生身で民族衣装を着て走るシーンが面白く、正に「一人一人がナンバーワン」くらいの精神で取り組んでいる。
転生後のアクションシーンもあの難しいビルでの立ち回り(特にイエローの階段裏を用いたスパイダーアクションはさすが蜂須賀さん!)も凄い。
そして前回は剣術とアースばかりで見せなかったレッドのアニマルアクション(ライオン型の投げ技)もまた素晴らしく、あの線の細さでとんでもない体術使いである。
全盛期の高岩成二の身のこなしも素晴らしく、さらにそこからの炎のたてがみ→炎一閃と前回に続きたった一人でサンバッシュ魔人団が一人を倒してしまう強さ。
戦隊レッド最強候補に挙がるギンガレッドだが、決してわざとらしく力を誇示するのではなく実戦の中で当たり前の如く倒すところが粋な演出である。
よく「本当の天才は自らのことを「天才」とは言わない」というが、ギンガマンは正に選ばれし「戦いのプロ」でありながら、使命に真っ直ぐでありつつもそれを殊更に外側に誇示しない。
「戦いのプロ」というのもあくまでゴーレッド/巽纏をして言わしめているだけで、誇り高いし自尊心も強いが、決して見せつけている「ドヤ感」が全くないところが本作の非常に素晴らしいところだ。
これがおそらく上原正三・曽田博久がメインライターを担当していた頃の戦隊と違うのかもしれないが、昭和戦隊は確かにカッコいいが、一方でいかにも力を誇示している感じが苦手だった。
「ゴレンジャー」の名乗り然り「チェンジマン」の名乗り然り、「見せつけている」感があるのだが、小林靖子メインライターの本作は「かっこいい」が「見せつけている」感がない。
結果として、洗練されているように見えるこのスマートな一流感が素晴らしく、だからこそ本作の主人公は「カリスマ優等生」でも「直情径行な無鉄砲熱血漢」でもないリョウマな訳だ。
そんな彼が戦いになると目の色を変えて内に秘めたる闘争心を剥き出しにして戦うこの見た目の爽やかさと中身の男前さのギャップが素晴らしく、これは子供人気が高いのも頷ける。
真の達人とは正にこういうものであり、成長途中ではありながらもきちんと根底には一流の使命感の高さとそれを可能にするだけの研鑽された戦闘技術があることを絵で端的に示しているのだ。
表面に見えるところをしっかり頑張るのは当たり前、「見えないところ」にどれだけの細かい目配り・気配り・心配りが行き届いているかということがA(名作)以上に到達する分水嶺だろう。
『五星戦隊ダイレンジャー』『忍者戦隊カクレンジャー』から洗練された巨大戦の演出
そしてメインの見せ場である星獣の再来、すなわち巨大戦の演出だが、ここでの眼目は何と言っても「星獣はギンガマンのアースを増幅して使える」ことである。
このような発想が生まれた理由の1つは星獣が機械ではなく生の肉体を持った生命体だからだが、もう1つは『五星戦隊ダイレンジャー』『忍者戦隊カクレンジャー』のオマージュでもあるからだ。
「ジュウレンジャー」〜「カクレンジャー」で持ち込まれた新機軸の1つに「ロボットが独立生命体」という特徴があり、「ダイ」「カク」ではその中で各メカの頭部に乗るという演出があった。
特に「ダイレンジャー」の龍星王の頭部にリュウレンジャーが乗る演出は画期的でどこか「まんが日本昔ばなし」のOPを彷彿させるが、あれらはその後すぐにコックピットに入る。
したがって、あまり外に出る演出に意味がなかったのだが、本作は後にギンガイオーに大転生する前段階とはいえ、「なぜギンガマンが頭の上に乗って戦うのか?」に対して回答を用意した。
すなわちギンガマンが使っている地球のアースと星獣が持っているアース、それらを複合的に組み合わせることでギンガマンと星獣が「共に戦っている」一体感を見事に演出している。
これは同時代の『ポケットモンスター』や翌年の『デジモンアドベンチャー』らモンスター育成ゲームをアニメ化した作品ですらこの感じは演出できていない。
なぜならば「ポケモン」も「デジモン」も後ろから子供達が頑張れと声をかけて応援しているだけで、ギンガマンのように自ら転生でもして一緒に戦う感じがないのである。
まあだからこそ後に『デジモンセイバーズ』のように生身の人間がデジモンと殴り合いをする作品が生まれているわけだが、とにかくこの「星獣とギンガマンの絆」もメインではないがサブテーマとして示されていた。
そして炎のたてがみに続く剛火炎、発想としてはゴッドガンマのガンマファイヤーやリザードンの火炎放射の発展系だが、とにかく火炎放射1つで敵を葬る豪快な演出が素晴らしい。
後ろで青山親子が驚いて咄嗟に後ろに引くリアクションも含めて、この巨大戦の演出は本作ならではの独自性の高いものへとしっかり昇華されている。
また、言葉を交わさずとも戦いの中で共に絆が育まれていくというのも面白く、後の爆竜や炎神はあまりにもベラベラと煩すぎて神秘性もへったくれもなかった。
ごつい着ぐるみでありながらも、動きや演出によって立体性を持たせ、その上で先達がクリアしきれなかった巨大戦の疑問をしっかりと解消している。
本作は決して巨大戦をメインで見せる戦隊ではないが、それでもこういう基礎土台の部分をおろそかにしていない。
それはバルバエキスの「自らの命をも縮める、正に最期の手段なのだ」も含めて徹底しており、本作と次作「ゴーゴーファイブ」で巨大戦は1つの完成を見た。
「王道的」ではあるが「例外的」でもあるパイロット
さて、こうして見ると脚本・演出・世界観のあらゆる部分において確かに「王道的」ではあるのだが、同時に本作で使われた手法は他の作品では見られない「例外性」もある。
特に大きな要素としては「ラスボスがいきなり目の前に現れて味方側の最強キャラを圧倒する」「大切な人を亡くした怒りで覚醒」「敵味方共に制約のかかった状態で戦う」があるだろう。
一見「敵がいきなり攻めてきてチーム結成→2話以降で詳細を説明」という戦隊シリーズのフォーマットに準じているようでいて、年間の物語を動かすための仕掛けが膨大に凝らされている。
それこそが正に目的・目標・戦略・戦術の4つであり、ギンガマンもバルバンも双方に独自の思惑があり、現段階ではその中で目的と目標のみが定まっているのだ。
ギンガマンの目的は「星を守る」こと、そのための目標が「バルバンを倒すこと」であり、そのための戦略と戦術は過去の戦いから傾向として割り出されている。
一方でバルバンの目的は「星の命を宝石に変える」こと、そのための目標が「魔獣ダイタニクスを復活させる」ことであり、そのための戦略と戦術が軍団ごとに異なるものだ。
最強にして最悪なる宇宙海賊でありながら、ギンガマンに負ける理由を正にこの「戦略」と「戦術」の詰めの甘さというところにおいて出しているのが素晴らしい。
今回でいえば賢かったのは目的のために最短ルートを取ったシェリンダなのだが、そんなものはお見通しと言わんばかりの対策をギンガの森側でも取っていた。
そして後半のコルシザーは戦術はそこそこだが戦略に一貫性が全くないので、逆に言えば戦略と戦術の部分まで徹底したギンガマンの方に利があるのは当然だ。
小林靖子お得意の時代劇趣味というのに私のDNAが突き動かされているのもあるのだが、髙寺成紀の職人気質なこだわりと全てに理屈のある田崎監督の持ち味が絶妙にマッチしている。
正に天才同士の夢の共演だからこそできた最高の導入であり、しっかり連携を取った結果それぞれの短所が相殺されて長所のみが出来上がった映像作品のクオリティーになったのだろう。
そのため、世界観・キャラクター・物語・背景設定・カメラワークの全てにおいて見事な一貫性があり、感覚的過ぎず論理的過ぎずの程よい絶妙なバランスに仕上がっている。
スーパー戦隊シリーズの場合は往々にして1話は勢い重視で作られるからキャラクターの書き分けや背景設定、またヒーロー側と悪側の目的・目標の立て方が甘い作品も多い。
しかし、本作はそんな中でスーパー戦隊の既存のフォーマットを十分に活用しつつも、前2作でイマイチ詰めきれなかった細部に至るまで徹底的に因数分解して再定義を行っている。
逆にいうと、『電撃戦隊チェンジマン』『鳥人戦隊ジェットマン』を超えるS(傑作)を生み出すためにはここまで徹底的に詰めてようやくその高みに至るということだろうか。
少なくとも『百獣戦隊ガオレンジャー』以降の「なんちゃって王道」「上っ面熱血」なんぞとは根本的に異なる、本当の意味での正統派ヒーローがここに誕生したのである。
各登場人物への語り・考察などは第三章以降でじっくり語るとして、まずは最高の出だしなので総合評価はS(傑作)100点満点中105点。



コメント
2後ツッコミ潰すのって上手いですよね この作品って
銀河の森を襲撃すれば良くね?→そう来ると思って迎撃の準備もしていたし、最悪の事態(ダイタニクス復活をバルバンが成就)を想定して封印の覚悟もしてる(実際した)。
戦隊特有の巨大化を最初からすれば良くね?→今作の敵がそれをやると早死に直結するから出来ればしたくない
って感じで
>タケムラさん
まあツッコミどころ潰すくらいだったら一定のセンスと技量があれば難しくはないので、大事なのはそれをきちんと「面白さ」に昇華できているところです。
こういう整合性をきっちり取ることは誰でもできますが、それが「手段」ではなく「目的」になってもかえって理屈っぽくなって作品自体がガチガチになってしまいますから。
そういう意味では本作は決して理屈っぽくなりすぎず、感情論に走りすぎずでいいバランスだと思います。