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193.第6章「平成の東映」

第6節 東映海外出張所の歴史

 東映グループ中長期VISIONでは、東映の使命を『愛される「ものがたり」を全世界に』と謳っています。
 2025年4月1日東映国際事業部門を独立させ、新たに国際営業部国際企画戦略部を設けました。

 今節では、1ドル360円時代から始まった東映海外出張所の歴史を紹介します。

⓪ 東映国際展開の始まり

 1953年6月営業課長今田智憲が進言した欧米映画市場視察を終えた東映社長大川博は、帰国挨拶で「海外輸出の促進のために渉外課を作り欧米に駐在員を置くこと」を述べました。
 8月営業部外国課を新設、営業課長今田智憲(後に東映動画社長)に外国課長を兼務させます。
  ここから東映国際展開スタートしました。 

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1953年9月発行 東映『社報』第17号

① 海外駐在開始、外国部誕生、海外出張所設立

 1956年9月ロサンゼルスに駐在所を開設するため課員の竹林英二が渡米、連絡員として東映初海外駐在が始まります。

 1958年5月1日、外国課は外国部に昇格し部長には専務の小滝顕忠が就任。外国課渉外係輸出係を置き、それまで渋谷東映支配人だった新島博課長の下に渉外係長代理として4月にロスより帰国した東映2期生竹林英二、4期生浅子信一、6期生福中脩と新入社員7期生生稲裕、輸入係には3期生高橋義之と4期生笠原茂が配属されました。
 ロス駐在経験を持つ竹林を筆頭に、東京外国語大卒など英語に堪能な若手社員が揃った外国部は、海外諸国に向けて積極的に営業活動を始めていきます。
 まずは、この年6月に開催された第8回ベルリン国際映画祭において、昨年公開の今井正監督『純愛物語』が銀熊賞(監督賞)受賞しました。

 1960年2月外国部長に就任した今田の命を受け、ニューヨークに念願の駐在所を開設します。
 8月NETに出向していた7期生の吉田治雄が外国部に籍を移し、ニューヨーク駐在員として赴任。『西遊記』『少年猿飛佐助』『白蛇伝』などのアニメ映画をMGMに販売し、世界配給まで拡大しました。

 翌1961年9月ローマ駐在所開設。以前イタリア政府映画実験センターの招きを受けローマにあるチネチッタへ派遣された京都撮影所美術助手山田正久を外国部に移籍して駐在員とします。

 11月には生稲裕吉田のいるニューヨークに追加駐在員として派遣。日系人の多い南米ブラジルへの営業も積極的に行い、映画だけでなくテレビドラマ販売もどんどん実績が拡大して行きました。

 1962年8月吉田ローマに異動。1963年4月には新たにフランス・パリ駐在所開設吉田ローマと兼務の所長となります。

 1963年6月には今井正監督『武士道残酷物語』が第13回ベルリン国際映画祭にて念願の金熊賞を受賞しました。

 外国部部員たちの営業努力により、東映映画ベルリン映画祭を始めとする国際映画祭で数々の獲得します。

② 東映動画制作テレビアニメの海外販売

 1963年11月東映動画テレビアニメ第1作狼少年ケン』が、NETテレビ(現テレビ朝日)で始まりました。
 第1作のテレビアニメを世界で売ることは、東映グループにとって、アニメーション事業将来展開を左右する賭けでもあり、そして外国部への至上命題でした。

 1963年10月ニューヨーク出張所に赴任した福中脩は、当時全米トップのテレビ制作会社であったMCA(ユニバーサル映画の親会社)と数度にわたる交渉を行い、そして最終的にはMCAニューヨーク本社で会長のルー・ワッサーマンとも直談判し販売することができ、続いて『風のフジ丸』も売れます。

 NETがロサンゼルスに独自に駐在員を置くまでは、東映ニューヨーク駐在員NET駐在員も兼ねていて、NETで放映するアメリカテレビドラマ買い付けておりNETからの援護も受けました。

③ 海外駐在員の拡充

 1964年2月、海外で活躍できる社員を養成する目的で社内で海外駐在員試験を行い、外国部杉山義彦柳瀬延弘中尾滋の3氏、東映商事国際広告課倉品省三が合格、転属します。
 さらに定期採用には外国語貿易職が設けられ、遠藤雅義本間幸雄山内浩の3名が外国部に、東映貿易にも数人入社配属されました。

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1964年3月発行 社内報『とうえい』第74号

 5月にパリ&ローマの吉田治雄が帰国、ローマでは日本貿易振興機構ジェトロ)の出先機関日本映画センター富永謙一を派遣します。その後パリ出張所に田之倉稔、ローマ出張所に杉山義彦が着任しました。
 8月には香港出張所開設中尾滋が配属され、作品の販売とともに『大陸流れ者』(1966年6月19日公開、山下耕作監督、鶴田浩二主演)など、香港ロケ作品の撮影現場のケアなども行います。

 この時点で東映海外出張所は、ニューヨークローマパリ香港4か所に拡大しました。

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1964年8月発行 社内報『とうえい』第79号
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1964年8月発行 社内報『とうえい』第79号

 1966年3月にはニューヨーク出張所福中脩が日本に戻り交代で柳瀬延弘が着任。11月にはローマ出張所を廃止します。

 その後も駐在員を交代させながら海外出張所を維持し、アニメ特撮テレビ作品の他、岡田茂が進めたエロス映画などの販売を積極的に展開して行きました。

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1968年7月発行 社内報『とうえい』第125号

 1968年7月発行の社内報は、海外で活躍する東映駐在員の一日を特集しています。

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1968年7月発行 社内報『とうえい』第125号
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1968年7月発行 社内報『とうえい』第125号
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1968年7月発行 社内報『とうえい』第125号

④ ヨーロッパでの販売拡大

 大川博が死去し岡田茂が社長に就任した1971年遠藤雅義パリ出張所に派遣されました。

 遠藤は、丸紅フランスの映像買い付け担当部署に営業し『魔法使いサリー(仏題“Minifée”)』『ひみつのアッコちゃん』などの女の子向けテレビアニメ作品を販売します。
 その後、1978年UFOロボ グレンダイザー』(仏題:“Goldorak”)が玩具、音楽も含めて爆発的な大人気作となり、『キャンディ・キャンディ(“Candy”)』も大ヒットしました。

 これらのアニメは丸紅フランスからさらにヨーロッパ各国やフランス語圏のアフリカ諸国などに売られ、英語かフランス語に吹き替えられてオンエアされます。
 特にUHFの小さな放送局が存在するイタリアではアニメの浸透度はかなり高く『宇宙刑事ギャバン』『宇宙刑事シャリバン』『宇宙刑事シャイダー』などの特撮作品も人気を得ました。

 映画販売に関しては、エログロ路線の作品、中でも賀川雪絵がヒロインとして出演した『㊙セックス恐怖症』(1970年日本公開)はドイツイタリアヒットします。
 千葉真一出演の一連の空手アクション作品もコンスタントに売れました。

 1975年、『新幹線大爆破』(佐藤純彌監督・高倉健主演)をフランスの最大手配給会社ゴーモンのプロデューサークロード・ブーリオが気に入り、公開に向けて動き出します。
 その際「上映時間を短くすること」との条件が付けられ、153分のこの作品をゴーモンサイドで100分に編集し直すことが要求されたため、杉山佐藤監督に編集済みのポジプリントを観てもらって事後承諾を得ました。その上で英語の字幕スーパーを付けてパリで試写を行い販売が決まります。
 苦労したこの作品はフランス大ヒットしました。後に「凱旋上映」と称して日本で公開され、ソフト化されています。

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『THE BULLET TRAIN』
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『THE BULLET TRAIN』

 また、『Gメン’75』などのロケ隊がフランスを訪れることがあり、遠藤はロケコーディネーターという立場で、近藤照男プロデューサーや深作欣二監督、佐藤純彌監督を迎える仕事も行いました。

⑤ 国際部に名称変更、ポルノ作品の買い付け拡大

 1972年5月、本社に洋画部が設置され、ポルノ作品を中心に洋画作品を仕入れることになり、6月、海外業者との交渉窓口となる外国部は国際部に名称が代わりました。
 当時の出張所の仕事
・  東映映画の海外販売
   輸出額中に占める割合 劇場映画=55%、テレビ映画=35%、教育・ニュース映画=10%
・  洋画配給用作品の買付
・  国際映画祭、日本映画見本市への参加と売り込み
・  海外ロケーションと外人タレントの招聘の手配
・  合作や受注製作の推進
・  多様化するレジャー産業の中で欧米からのインフォメーション蒐集

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1972年4月発行 社内報『とうえい』第165号

 パリ出張所の遠藤は、委託していたフランスの映像輸出入業者から情報を得ては、ポルノ映画作品の多いフランス、ローマやミュンヘン、スウェーデンなどヨーロッパ中をポルノ映画を探しに飛び回りました。

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1972年4月発行 社内報『とうえい』第165号

 フランス人ポルノ女優サンドラ・ジュリアンと出演交渉のため自宅のあるリヨンの田舎まで出向き、直接話をして鈴木則文監督『現代ポルノ伝 先天性淫婦』(1971年)、『徳川セックス禁止令 色情大名』(1972年)への出演を決めます。
 スウェーデン人ポルノ女優クリスティーナ・リンドバーグとは、遠藤とたまたま本社から出張していた杉山がパリからミュンヘンへ移動中、偶然航空機内で彼女を見かけ出演交渉をしました。
 リンドバーグは来日し、1973年に相次いで公開された『不良姉御伝 猪の鹿お蝶』(鈴木則文監督)、『ポルノの女王 にっぽんSEX旅行』(中島貞夫監督)の2本に出演します。 

⑥ 一般洋画の買い付け

 パリ出張所は、ポルノに限らず一般的な映画も探しました。
 一般映画の買い付けは、シャルル・アズナブールの『危険な訪問者』から始まり、日本でも大人気だったアラン・ドロン主演作を東宝東和と争い、買い付けのために映画の撮影現場まで赴くなどの努力を重ね、ジョゼ・ジョバンニ監督『ル・ジタン』、『ブーメランのように』を獲得しました。
 米仏伊の合作映画フランチェスコ・ロージー監督のマフィア映画『コーザ・ノストラ』は、日本でヒットします。

 遠藤はパリ出張所に1981年まで勤務し、ニューヨーク出張所から異動してきた樋口保と交代で約10年振りに本社に戻りました。

 一般洋画の輸入を拡大する東映洋画配給部は、大作の配給にも乗り出し、ジャン・ジャック・アノー監督作品の『人類創世』は200万ドルもの高額で買い付けました。
 しかし、1982年5月に公開したこの映画は成績不振に終わり、東映洋画配給部はメジャー作品の獲得の壁が高い洋画大作の配給ではなく、これまで培ってきた角川映画アニメ映画の配給に専念することを決めます。

 1981年12月東映フランス映画社のようなアート系の洋画などを配給する東映ユニバースフィルム株式会社を設立しました。

 樋口は、フランソワ・トリュフォー監督『隣の女』を観た東映ユニバースフィルムから強く依頼され、それまでトリュフォー作品を扱っていた東宝東和との契約がまとまらない状況の中で名乗りを挙げ交渉、日本での配給権獲得します。
 この映画はシネマスクエアとうきゅう1982年12月に公開されヒットしました。
 その後も、アラン・ドロン主演、第1回監督作品『危険なささやき』やスペイン映画『カルメン』(カルロス・サウラ監督)を購入し評判を呼びます。

 1983年5月第36回カンヌ国際映画祭にて今村昌平監督『楢山節考』がコンペ出品作に選ばれました。
 カンヌには世界中の映画関係者が集まるので、出品作品の製作会社は、映画関係者を呼んでパーティーを開きます。
 本命と言われていた『戦場のメリー・クリスマス』は、郊外の城を借り切り、火の付いた松明を並べて大規模なパーティーを催し、出演者のデヴィッド・ボウイ坂本龍一大島渚監督などもカンヌに訪れていました。
 『楢山節考』は、東映関係者すら賞を取るとは思ってもみなかったので、カンヌに来ていたのは坂本スミ子さんと日下部五朗プロデューサーと国際部の面々のみで、大きなパーティなどは開けず、雨の心配をしながら中国料理店前のブドウ棚の下でささやかな立食パーティーを行いました。
 『楢山節考』が3千人収容のフェスティバルホールで上映されたところ、上映後拍手が鳴り止まず、坂本スミ子が舞台に上がりますが、坂本は小柄だった為、評論家の南俊子が駆けずり回って分厚い電話帳を3冊調達し、それを重ねた上に乗ってスタンディングオベーションに応えました。
 最高賞パルム・ドールを授賞した『楢山節考』は、高価格で購入されます。

⑦ 香港映画の輸入、大ヒット

 1973年ワーナーブラザース製作配給のブルース・リー主演『燃えよドラゴン』(ロバート・クローズ監督)が日本でも大ヒットしました。
 1973年に急死したブルース・リーの主演映画は『燃えよドラゴン』を含め4作しか存在せず、そのうち『ドラゴン危機一発』『ドラゴン怒りの鉄拳』は既に東宝東和が配給権を取得しており、残る『ドラゴンへの道』の配給権をめぐって日本の洋画配給会社間で争奪戦になります。
 東映洋画部からの依頼で香港出張所の柳瀬延弘は、権利を持つゴールデン・ハーベスト社社長レイモンド・チョウのもとに日参して獲得大ヒットしました。

 この間、「カンフー映画ブーム」に対抗して東映が製作した千葉真一主演「空手映画シリーズ」は日本国内でブームとなり、ニューヨーク出張所の樋口保が、ハリウッドの新興映画会社ニューラインシネマに販売すると西海岸の下町を中心にヒットサニー千葉の人気が高まります。
 アメリカでもカンフーブームに続いて空手ブームが興り、1980年代ショー・コスギなどの忍者ブームにつながりました。

 ブルース・リーに続き香港ではジャッキー・チェン主演映画が大ヒットします。
 柳瀬は付き合いのある権利元のシーズナル・フィルム社呉思遠から『酔拳』や『蛇拳』を購入。『酔拳』は『トラック野郎 熱風5000キロ』と同時公開され大ヒットしました。
 ここから日本でのジャッキーチェンブーム始まります。

⑧ 20世紀FOXとテレビ放映権契約

 国際部は、『ドラゴンへの道』の日本での映画配給権と同時にテレビ放映権も契約していました。
 それが各局間で争奪戦となり、日本テレビに販売したところ、31.2%超という信じられないほどの高視聴率を叩き出します。
 当時は民放局のゴールデンタイムには洋画の枠が毎日あったために洋画の需要が多く、各テレビ局が高額でもヒット映画の放映権を手に入れようとしていました。
 アニメーションの海外販売を東映動画が手掛けることになり、輸出だけでは先行きが不安であった東映国際部は、この『ドラゴンへの道』の販売がきっかけとなって、テレビ局へ洋画の放映権を販売する仕事を入れます。
 国際部は、香港映画や洋画のインデペンデント作品を少しずつ買い付ける中で、メジャーの1つである20世紀FOXから日本でのテレビ放映権購入にこぎつけました。
 最初の取引が日本初放映となる『スター・ウォーズ』他約30本の作品で、この買付は高いリスクがありましたがなんとか軌道に乗り、その後20世紀FOXルーカスフィルム社等メジャー各社との密な関係を築いて行きます。
 一方国内では「スター・ウォーズシリーズ」(計6本)や20世紀FOXのバラエティに富む大ヒット作を扱うことによって、全ての民放キー局との取引を大きく拡大することができました。

 しかしテレビ局による競争の激化の中で、次第に洋画のテレビ放映権の買付額は高騰し、洋画会社が権利をセリにかけるような状況にまでなってきます。
 そこで買付各社は、「アウトプット契約」と呼ばれる独占契約を結んで対処するようになり、東映20世紀FOXとの間で契約を結びました。

⑨「パワーレンジャー」の世界的大ヒット

 「輸出に適格な作品を選択する」のは国際部永遠の課題です。
 劇映画については、『新幹線大爆破』『宇宙からのメッセージ』『楢山節考』に代表される、文芸もの、大パニック、SFものに加え、70年代の一連のカラテ・アクション物などで、大きく輸出収入を伸ばしました。
 しかし、東映ではこれらの輸出適合作品が邦画他社に比べて少なく、国際部は、東映最大の輸出武器TVシリーズにあると考えます。
 特にテレビアニメ輸出が東映アニメーションに完全移行した後、何とか子供向SF特撮ヒーロー作品で勝負しようと、長年アメリカ、フランス等のバイヤーと共同研究を続けて来ました。

 その成果が世界のテレビ業界で歴史的ヒット作となった「パワーレンジャーシリーズ」。アメリカのサバン・エンターテインメント社との間での共同研究から試行錯誤の繰返しは、7、8年にも及びます。
 基本的な共通認識は、東映のオリジナル特撮部分とアクション、フッテージを生かし、アメリカン(インターナショナル)バージョンに作り変える、そして全世界のテレビで放映することによって、稼ぐ手段は、マーチャンダイジングにあると言うことでした。

 当時アメリカ担当だった本間幸雄が、サバン社のオーナーのハイム・サバンと協議し、先ず「ゴレンジャー」をはじめに「バイオマン」「ダイナマン」等でアメリカン・バージョンを制作しましたが、反応は今ひとつでした。

 しかし、ついに1993年ジュウレンジャー」のリメイク版が“Mighty Morphin Power Rangers”のタイトルでアメリカの4大ネットワークの1つでメディア王ルパート・マードックの所有するFOXテレビの土曜日午前中の枠で放送されるや、突然全米大ヒットを飛ばしました。
 これ以降もサバン社とは長期契約を結ぶことになり、ほぼ全世界市場で放送され、現在に至っています。
 因みに全米放映開始直後の1994年、アメリカ最大の経済誌『フォーチュンズ』は、同年全米ヒット商品第2位に「パワーレンジャー」を選び、同年全米での関連商品売上10億ドルを越えました。

⑩ 海外出張所の縮小と撤退

 1982年3月香港出張所1986年3月にはニューヨーク出張所閉鎖します。
 この時点で東映海外出張所パリのみとなりました。 
 1997年4月国際営業部に名称変更し出張所をパリからロサンゼルスに移設します。
 2009年6月ロサンゼルス出張所廃止しました。
 これによって50年を越える東映海外出張所終了します。

トップ写真:『新幹線大爆破』凱旋上映ポスター©東映


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