中学生の映画なのに中学生が見られない。藤原竜也、過激すぎる出世作「バトル・ロワイアル」を回顧する
「秋也がんばれ秋也がんばれ」
「バトル・ロワイアル」(2000年)の舞台挨拶のあと、フォトセッションで、深作健太監督に東映のスタッフが深作欣二監督の写真を手渡した。
客席から拍手が沸き起こった。
深作欣二さん、健太さん、そして藤原竜也さん、3人のフォトセッションになった。
東映の直営館・丸の内TOEIが2025年7月27日をもって閉館になる。開業は1960年9月20日で以後、65年間、銀座で愛されてきた。ロードサイドに建っていることも2階席があることも、いまや貴重。そんな劇場が長い歴史を閉じるにあたり、「さよならTOEI」プロジェクトと銘打って、80日間にわたって様々なイベントを実施している。
7月15日は、2000年に公開されたとき社会現象になった「バトル・ロワイアル」の上映と舞台挨拶が行われた。
高見広春さんの小説を原作にした「バトル・ロワイアル」は深作欣二さんが監督で、息子の健太さんがプロデューサーをつとめ、脚本を書いた。パート2を撮る前に欣二監督が亡くなったので健太さんがあとを引き継いだ。
中学生がデスゲームを繰り広げる過激な内容で、公開直前、国会議員が国会でこの映画を問題視。結果、R-15になり、中学生が主役にもかかわらず中学生が見られない事態が起きた。
「それで改めて翌年に特別編を作って、中学生が見られるような編集にしました」と健太さんは振り返った。
そんなこともあって逆に世間に広まって、観客が詰めかけ社会現象に。
「いい宣伝になったなと思いました。東映の仕込みかと思いました(笑)。東映はアナーキーな映画をずっと作ってきた会社なので、逆境も全部、メリットに変えていくんですね。なので、このときも、宣伝の皆さん、営業の皆さん、一丸となって、リスクある作品を頑張って盛り上げていってくださったことを今でもひじょうに熱く覚えています」
藤原さんは、まだ十代だったので、状況がよく掴めていなかったようだ。「大人たちは騒いでいて、何か問題があったんだな」というような感じだったらしい。
司会は笠井信輔さん。事前に下調べをしたうえでの質問で、無駄のない、中身のあるトークだった。時々、ユーモアも交えながら、いまでは考えられない熱気に満ちた撮影現場の話がされた。
改めて振り返ってこの作品が藤原さんにとってどんな意味を持っていますか? と笠井さんが質問すると藤原さんはこう答えた。
「ありきたりで申し訳ないですが、宝物ですよね。それはずっと思います。深作監督は楽しさや大変さも含め映画の魅力を教えてくれました。若い時に深作組に参加させてもらったことが、これからもきっと財産として残っていくんじゃないかなと思います。やはりあそこまでの才能のある方とは本当にもっともっと一緒にしたかったという思いは残っています」
健太さんにとっては父親・欣二監督との共同作業は大きなことだった。
「一人息子だったのと、遅くできた子で、親父が42歳の時だったかに生まれたもので、すごく可愛がられた記憶しかないんです。それが映画の現場に入ってから初めて親子喧嘩をして、止まらなくなりまして。毎日喧嘩していました。予算やスケジュールで揉めて。
父は、普通、2、3時間で終わる撮影に1日かけるんですよ。朝から朝までやってました。例えば、冒頭で秋也のお父さんが亡くなるシーンは4カットの予定が、全然撮影が終わらない。狭い部屋のなかで何やってるのかと思えば、トイレットペーパーに『秋也がんばれ秋也がんばれ』って書いてて。それは台本に無かったことで、突然そういうこと思いつくんですよね。それがある人間の凄まじさにつながっていく。そういう即興性が深作演出です」
このシーンは公開当時、観客に強烈なインパクトをもたらした。
この話に笠井アナは「あれは『健太頑張れ』って書いてるんだよってスタッフの人は思っていたそうです」と付け加えた。
もうすぐ閉館。この劇場にどんな思いを持っているのか。
「子どもの頃からずっと、親父が劇場の上(東映の会社がある)で打ち合わせしているのをここで待っていました。大好きな劇場です」という健太さん。笠井さんが、25年前、映画が公開されるとき、ここに欣二監督と共に偵察に来たそうですねと振ると。
「夜、心配して、見にきたら、お客さんが徹夜で並んでいて、それを見ている親父の横顔が忘れられないです」と健太さんは語った。
「さみしいですけれど、僕らとしては思い出を残しつつ、また新たな気持ちで新しい作品で皆さんを喜ばせていけたらと思います」と藤原さん。
藤原さんといえば舞台人というイメージが強いが、「バトル・ロワイアル」のような鮮烈な映画にもまた出てほしい。
深作健太さんも最近はもっぱら舞台を主戦場にしている。ドイツ演劇を追求していて、その活動も興味深い。
実は筆者は「バトル・ロワイアル」のパンフレットのライターをやっていた。映画のパンフレットに携わったのはこれが2作目の駆け出しであった。撮影現場にも取材に行って深作欣二監督の凄みに触れることができるという貴重な経験をした。
筆者もまた、ある意味育ててもらった丸の内TOEIに感謝とお別れをしたくてこの原稿を書いた。