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●市川市という町は、荷風大先生もそうらしかったが、荷風亭寅次郎も好きな町である。田舎とはいっても、総武線の北側には、なぜか品格を感じさせる
ところがあった。特に、結構有名らしい女子学園もいくつかあって、朝夕には清楚で、華やかで、明るい雰囲気が感じられたものだ。そのせいか? 暮らし
ていた割りには、飲食をふくめて歩き回るコースも決まっていて、悪さをした記憶もないし、思い出すこともない。当時は、結構、いろいろと勉学に勤しんで
いた時代にも重なる。市川市の図書館にも足を運んだことも思い出すくらいだから、寅にとって唯一の「青白き文学青年、勉学青年」の時代かも知れない。

千葉県民としては、市川市の他に船橋市海神でも暮らしたが、ここは夜遅く帰って、朝早く出かけるだけの生活の繰り返しだけで、なんら記録に値しない。
市川市本八幡時代は、「真間川→、矢切の渡し→、柴又帝釈天」のロマンチック散策街道を開発したが、ここは、ウグイスの声を聞きながら歩く春が気に
入っていたが、ほかにも桜の名所はいっぱいある。上記の写真は、印象に残っているお花見名所、多摩川園、新宿御苑、江戸川橋、砧公園、九段、皇居
北の丸公園など。恒例によって??、単なる花見に終わらずに、臨時弁論大会や、臨時発声練習など、意義のある?活動を繰り広げた場でもあった。。
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| わが、『 ションベン横丁 』 社会学習授業 講義録 |

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荷風亭寅次郎の脳ミソをかなり占領しているものに 「ションベン横丁」 がある。単なる、安い、旨い飲食街としての思い出ではない。社会勉強の課外教室と
してだ。 上の画像は、その時代をかなり過ぎたものだが、雰囲気は十分に感じていただける。
きっかけは、地理的、時間的、経済的事情などから、なにか
の会合が設定されたものだが、一発でションベン横丁が好きになった。余談になるが、かなり有名な代議士を誘って「社会勉強」をさせてやったことがある。
1人は、新宿を地盤にしている人。もう1人は、新進で当選ホヤホヤの人だった。大いにタメになった筈だと思っていたのだが、その後・・・あれが役に立った
ものかどうか・・・ワシャ知らん。代議士って職業は変貌する職業だ。小団体で押しかけるので、1階の店舗というわけにはゆかず、「お二階へどうぞ!」って
ことになるが、「この 『お二階』 が お二階なのだ」! 『お二階』 と言っても、四つん這いにならないと動けない、屋根裏みたいな部屋で、それが楽しい !
何かの挨拶や発言をする時も、電車のゴーゴー音の止んだタイミングを捉えて、声を張り上げて怒鳴る。 じつに楽しい、勉強と実習のできる場所だった
!
◆駅の線路沿いには、間口一間ほどのバーや飲み屋が連なり、共同トイレが道のどん詰まりにあって、飲み逃げ防止?にお店の人がついてきたものだ。
「今日、甲府市の監獄を出てきたばかりだ」というお客と、隣り合わせて飲んだこともあった。30半ばと思われる、ある歌手によく似た男性は必要最小限の
こと以外はほとんど話すこともなく、ラジオから流れる歌と電車の音に耳を傾けながら、終始静かに呑んでいた。人生こもごものションベン横丁である。

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当時は、新宿-池袋-浅草-今井間にトロリーバス路線があった。中央線も総武線も
今と同じオレンジと黄色いカラーの電車が走っていて、総武線には
頻繁に乗ったものだが、電車にまつわる失敗談や武勇伝も数多いのが、寅次郎の特徴でもある。パトカーを呼びつけて送らせた!こともあるが・・・何十年
経った今でも、当時を知る奴と顔を会わせる度に大笑談となってしまう。 おそらく、この先、地獄に落ちても、毎日毎晩、「笑い責めの刑」に遭うことだろう。
最終電で、千葉駅まで寝過ごし、「車庫に入りますよ!」と揺り起こされたこと。 駅名のアナウンスを聴いて、「乗り過ごした!」と、たまげて飛び降りた電車
が、実際には千葉で折り返してきていた電車で、なんのことはない、一駅手前で降りてしまったこと等々。しかし、反省も改善もしないまんまの寅でもある。 |
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◆議事堂前の尾崎講堂の大会や、いくつかの大学の弁論大会にも転戦して、ディベート術を鍛え上げた。声がかかれば、都外の茅ヶ崎まで出かけたことが
ある。元首相が顔を出してる大会もあったぞ。 賞金や賞品のついた大会もあったが、寅の最高獲得額は1万円止まりだった。弁論術は良かったが、内容に
深みがなく、学問の不足や欠けた部分があった。よく、芸人の遊びは芸の肥やしになるとか言われるが、寅次郎だって、駅頭や花見、多摩川の河原、ション
ベン横丁も赤坂の料亭も・・・・ありとあらゆる場面が「大肥やし桶」みたいなものだった。だから、寅次郎は鼻持ちならないクサイ肥やしまみれの男となった。
海千山千ならぬ海マン山マン、文武両道ならぬ文ん武ン三又道人間を目指していた寅は、富士に湧き出る聖水から、細菌ウヨウヨ水の果てまで呑み込んだ。
大江戸(東京)は、さすがに大都会だ。海マン山マン、文ん武ン三又道人間に仕立てるための材料には事欠かず、次から次と学習課題を与え続けてくれた。

【1】
NHKの大河ドラマで 『独眼竜正宗』が放送されたが、タイトル画面で1年間目にした
独眼竜正宗 の刻字は荷風亭寅次郎が
書道の手ほどきを受けた大師匠さまでもある 「長 揚石(長谷川清)」先生 の大作品が使われている。 寅次郎は二代に渡り
全く父親運に恵まれない男であったが、父親代わりのごとく現れて、寅に学問や知識を施してくださった人が非常に多かった
人生でもある。年がら年中バカゲた事をやってふざけながら、いざという場面で、ビシッと決められるのは、これら多くの有名で
優秀な方々の暖かい助力とご教育のお陰であり、決して忘れてはならない。寅と袖すりあった各界の大先生、大先輩の皆様
に決して感謝を忘れてはならない。 それに加えて俺を育てた 「大江戸・大東京」 にも 感謝をさせていただく
m(._.)m
この時代、学ぶ機会のあった恩師???、長揚石さん他、武者小路実篤、大松博文、細川隆元、小汀利得、福田赳夫
麻生良方、樺俊夫、高橋祥起、春日一幸、細田時久、村山達雄、小澤辰男、高鳥修、稲葉修、友松円諦、森陽一郎
『佐々木更三 (弥左衛門)』
【2】
昭和 3,40年代は日本の政界も左右のイデオロギー対立が激しかった頃、。寅が委員長をしていたゼミで、「社会党委員長だった
佐々木更三氏を招いて話を聴こう」という運びになった。席上、寅は『貴方のゴリゴリの政治理念を、私はとても理解できないが、
なぜ?そのような考えを抱くようになったのか? それを探るためにも、生い立ちから何からの全てを
ここでお聞かせ願いたい』
とやったものだ。。。。。!。 佐々木更三氏は、涙を浮かべながら講演されたが、ここで、「本名は弥左衛門であり、監獄で三度も
死ぬ思いをした。その後に佐々木更三と名乗るようになった。」という。佐々木弥左衛門という実名を知る人は数少ないだろうが、
寅としては、「その後の弥左衛門氏の発言や政治行動」を大目に見れる(見過ごす)ようになった。!なにしろ ヤザエモンさんだ!
『国会議員の金のやりとり』
【3】
最近の事情はまるで知らないが、とかく政治家と金の話題には事欠かないものだ。第3話で話した、高潔をもってなるわが恩師の
所にさえ、自民党の幹事長が突如訪ねて来て、ムリヤリ金を渡していく現場を、偶然に目撃したことがある。この人は総理大臣に
なったが、あまり詳しく書くと人物を特定できてしまうので秘しておく。 が、 その時は 「ナルホド。こうゆう方法でやるのか!」 と
妙に感心したものである。 某幹事長には、後に寅自身が「ご餞別」をいただく事もあったのは皮肉でもあり、有難かったものだ。
『ニュース映画で全国に放映された』
【4】
この頃は、色々と真剣にまじめに活動していた。ある時、俺の活動の様子がニュース映画に登場し、全国の映画館で放映をされた
事がある。 自分では気づかなかったが、たまたま故郷に帰った際に、昔の同級生に
「オイ、お前が映っていたぞ!凄いな~」 と、
結構、有名な存在になっているらしかった!昔の映画館では最初はニュース映画や次週の映画予告編など何本か上映していた。
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【 尾崎講堂 】→【憲政記念館】
憲政記念館は、昭和45年(1970年)にわが国が議会開設80年を迎えたのを記念して、議会制民主主義についての一般の認識を深めることを目的として設立され、
昭和47年(1972年)3月に開館しました。 この記念館のある高台は、室町時代に太田道灌が「わが庵は松原つづき海ちかくふじの高根を軒端にぞ見る」とよんだ
松原の一角に連なっていた景勝の地で、江戸時代の初めには加藤清正が屋敷を建て、その後彦根藩の上屋敷となり、幕末には大老井伊直弼もここに住んでい
ましたが、明治になってからは参謀本部・陸軍省がおかれていました。 昭和27年(1952年)にこの土地は衆議院の所管となり、昭和35年(1960年)には、憲政の
功労者である尾崎行雄を記念して、尾崎記念会館が建設されましたが、その後これを吸収して現在の憲政記念館が完成しました。憲政記念館は、国会の組織や
運営などを資料や映像によってわかりやすく紹介するとともに、憲政の歴史や憲政功労者に関係のある資料を収集し常時展示したり、特別展などを催しています。 |
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