第二話 楽し、恥ずかし銭湯の課外授業 『江戸っ子の裸像』


 江戸っ子は

 笑いと知識の宝庫

 16円の銭湯講座





柳森神社の
  「おたぬき様」
   敬礼!!


(お狸様↑は俺に
 似ている。!実は
「馬」の渾名の他に
「タヌキ」もあった!)




当時は蔵前橋の
袂にあった国技館


主な物価
・銭湯16円
・封書10円
・はがき5円
・バス15円
・ビール1本125円
・ラムネ1本10円
・都電13円
・国電10円~
・たばこ「光」30円
・映画40~100円
・床屋100円~
・トリスバー
ハイボール4~50円
・カレーライス100円
・チキンライス100円
・コーヒー50円

都電が通る「靖国通りの対岸」も戦災を免れた古めかしい看板建築が、ズラーと居並んでいる。須田町郵便局から
履物屋、カラメル屋、葬祭屋、食料品、ペンキ屋、魚屋、クリーニング屋と続いて・・・・・そのまた路地裏にも得体の
知れない人物までが住んでいたものだ!。銭湯に行くと・・・へたな国勢調査なんかより、よっぽどマシな調査結果
が得られたし 社会や景気の話やら意外な勉強の場にもなった。「あの家庭の夫婦の円満度?」まで計れたものだ。

魚屋のカミさんが街を通ると、たいていの男連中は、振り返って見送ったものだ。うしろ姿を見送りながら、最後に
ニヤつく連中が大半だった。!?
 なかには 『あーっ、あの奥さん幸せだなあ!』 と ため息を漏らす奴さえいた。!
実際に幸せかどうかは知らんが、いつもニコニコ愛想のいいおカミさんだったことはたしかだった・・・が、・・銭湯に
行くと、『幸せらしいと推測されている』妄言の理由が一発で分かる。魚屋のオッさんは、○○湯では堂々たる「東
の横綱」を張る巨砲の持ち主だったのだ。! (注:その後、実在した四股名のことではない)。西の横綱もいたが
実際に勝負をつけたわけではなく、見た目からランクされていたようだ。2人が同時に湯船にいる姿は見ていない。

「年がら年中 サルマタ一丁で歩き回っているオヤジ」もいた。手には『全身を顔にしよう』と書いた幟を持ってだ。!

蛇口に口をつけて、「水をガブ飲みしては体操をして、また水をガブ飲み」しているオヤジもいたが、こっちは 「一日
三升(5.5リットル)の水を飲めば健康」のスローガンを掲げていた。 本業は実務学校の経営者とか言っていた。

サルマタも水飲みも、テレビのヘンテコ人間番組にまで出張っているのを見て 大笑いさせてもらった覚えがある。
おまけに2人とも大失敗だ。水飲み親父は1升5合飲んだところでギブアップ。サルマタ親父は扇風機の風を当てら
れて「ハーク ションッ!」だった。こうゆうところが、江戸っ子の面白いところでいいところ、憎めないところなのだ。

いつも うるさいかかあにやり込められている タバコ屋の親父の背中が クリカラモンモンだったりもする。神田祭りに
なると急に元気を出して 若いもんに号令をかけたりする変身振りで 祭りが済めばショボンとする。実に面白いのだ。

ところで、序の口入門(職場)したての俺が一挙に出世する機会が起きてしまった。正確にいうと起こされたものだ。
世の中にはイジメというものがある。銭湯にいくと先輩の背中を流すのも仕事の一環にもなっていたのだが、この作
業には欠点が存在する。己の股間が無防備になり人目に晒される欠陥だ。意地の悪い先輩がいて、俺の作業中に
早速、横から品定めをしやがったのだ。意地の悪いコイツとは何年か後に殴り合いをして決着をつけたが、入門した
てのホヤホヤではなす術もない。奴さんの第一声は、「ほー、久々振りに見せてもらったぞ」。だけだったのだが・・・
帰り道からは、既に他の奴らにも「うま」「ウマ」「馬」と吹聴しはじめたものだ。スポーツ万能で鍛え上げてあった体
の俺と、青白いヘナチョコ野郎では比較対照にならない筈だが、この野郎はテメエのお粗末さを棚に上げたまんま、
俺の立派さを逆用して、自らの劣等感の解消を図ったものだろう。おまけにコイツは無類のおしゃべり野郎でもあっ
たのだ。 (世の中とは、じつに面白いもので、こいつのおしゃべりのお陰で、とってもイイ思いをする事にもなるが。
その件については、わが人性コーナーを準備して、たっぷりと、ご披露申し上げる予定なので、乞う ご期待だ!)


さて、あだ名を「ウマ」と命名された件に戻る。いや、出世した件だった。別の項でも お気づきのように 俺には立派な
教授がついていて知識も教養?も特訓を受けており日増しに成長を重ねていた。すぐにヘナチョコ野郎がグーの音
も出せないような存在になり、むしろ、アイツの方から遠ざかるようになった。ある時、「大横綱・魚屋のオッサン」の
話題が発展してゆくうちに、『お前(俺)だって立派なもんだ』・・・・から・・・とうとう、「千秋楽の一番を取って見ろ!」
てことになった。取り組みといっても、「大横綱が仕切りのガラス戸を開けて、堂々と湯船へ向かっている時に、俺も
並んで歩くこと」である。行司役は湯船に浸かっている先輩が勤めるというものだ。 (今考えても名案だったと思う)
決戦当日、事情を知らない大横綱・魚屋関は、なぜか?横に並んで歩く?俺に?アレ?と戸惑う表情だったが、い
つものように湯船まで進む。俺だって、天下の大横綱を横にして気後れしつつも、なんとか頑張ッテ行進した。最後は
湯船で待つ行事役の左右から「ザブン、ザブン、ドブーン!」だ。 ま。「ドブーン!」は横綱側の話だが・・・。行司役が
耳元で聞こえたってことだ・・・・横綱の音にかき消されて?・・・俺の音の記録はない。 その後、四股名が「ウマ」か
ら「ハリヨコ」に変わった。俺自身は歩きながら、「小結」程度が順当に思えたのだが、「張り出し横綱(ハリヨコ)」との
温情的軍配になった。(たぶん、大横綱と並んで歩いた勇気を賞賛したものだろう)  男は度胸も大事な資産だ。


 『番台の美人乙女よ あン時は ごめんなさい』 

銭湯の話題になると、どうしても謝りたい(本当かな?)『いたずら』もした。他の区まで、例の三男坊教授とともに
遠征したことがあった。行った先では、教授のダチも加わって、3人組での大イタズラである。もちろんダチのほうも
結構なシロモノであることはご想像どおりである。こんなイタズラを街頭で挙行したとあれば・・・たちまちパトカーが
飛んできて・・・御用なのか?どうかはわからない。 とにかく、2人して時計を見ながら 「よー・・・ よー・・・」なん
て相談していたが、やがて教授がニヤニヤしながら俺んとこに来て、「いいか、3人揃ってやるんだぞ!」と命令した。
命令の内容は、「銭湯に居る間中はアレを元気にしたまんまだぞ!」というもの。・・・・・。チンプンカンプンのまんま
開店したての、ある銭湯の暖簾をくぐった。・・・・・要約すると、・・家庭の都合か何かで、「若い娘さんが番台にいる
銭湯があった。3人のバカなお客が、揃いも揃って『連れ立ち?して』見せびらかしながら風呂に入る」って遊びだ。
家族の病気か?何かは知らないが、あの時間に番台に上げられていた娘さんこそ災難だっただろう。いや、災難で
はなかったかも知れないし・・・・ひょっとして・・・お互いに楽しんでいたのかも知れん。 とにかく、終って銭湯を飛び
出てから、3人して転げ回って大笑い大喜びしたものだった。じつは、俺はイイ年かっぱらってからでも、イタズラした
ことがあるのだ。(またまたゴメンナサイだ)。 よくもまあ!? あんなバカげた遊びを考え出して実行したもんだ。!

成田になんか

参詣すんじゃ

ねえぞ!!




成田は神田の敵?

(平 将門の祟り)

神田明神のお祭りでは、「須田町二丁目」の御神輿と、「和泉町」の御神輿をかついで暴れまわった。
時々、都電は止められて数珠つなぎになることもあるし、足で蹴られてグラグラさせられることもある。
うっかり、道端に車を駐車しておこうものなら、通り過ぎた後はベコベコになってしまうことさえあった。
決して、ワザとやっている訳じゃないのだが、神輿ってやつは何処へ進むのかわからないもので、足を
ふんばって防がないと、電車や車に激突してしまうおそれがあるし、担ぎ手だって圧死する危険もある。
●若い者でも、祭りのあと一週間くらいは体中のアチコチが痛いし疲れがぬけない。それでも懲りない。
ここで、盛んに「江戸
っ子」云々と、言って
いますが、筆者(俺)
の言っている方々は
主に「2の◎」に匹敵
すると考えています。














古今を通じて、江戸-東京ほど 捉えにくいところはない。
江戸時代風の江戸っ子、明治・大正時代風の東京っ子、そして昭和時代の現代っ子と、分類できそうだ。

1.関東七平氏・江戸太郎重長支配下の鎌倉時代、太田道灌の江戸、徳川家の江戸と、殆ど関連のない別の街と考える。
慶長十八年(1613)家康が来た頃、太田家の城下町は既に一寒村に近かったが、僅か80年後の元禄では80万、維新時は
120万の人口を持つ世界一の大都市に成長していた。120万人のうち、たえず交代した武士階級は一割足らずで、他は
すべて下級の職人や傭人などの町人だった。土地も持たず家も持たず、技術だけで暮らす職人たちは、金持ちや為政
者に対する抵抗意識を持ち、それが江戸っ子気質になった。こうした職人たちの居住地はいまの千代田区と中央区で、
表通りは蔵造りの商家、裏は総て横丁裏長屋の過密居住地、ここに貧困だが比較的楽天的な江戸っ子の生活があった。
居住地の条件は仲々厳しかったが、将軍家400万石のお膝元、諸大名の屋敷もあって、諸国の商人や職人が集まった。

厳しい江戸の自然と強い階級的圧制下における零細所得者の生活は、人々の連帯感を深め、相互扶助の意識を作って、
三代も経たぬうちに一つの気風を形成した。涙脆くお節介、侠気に富んだ江戸っ子の性格は、弱い庶民の連帯意識だ。

「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し」と言い、腹に一物もないという美点は、一方で粘りがなく、おっちょこちょいで
軽はずみという欠点も生み。殊に天災が多く、貯めてもすぐ火事に遭うので「宵越しの銭」を貯めることが難かしく、
やがて貯めないことを美風にするような気風ができあがった。よくいえば洒脱な性格や清潔な気風が育ったのである。
一方、将軍家のお膝元を誇り、江戸を大江戸、蒲焼も大蒲焼、隅田川も大川と呼び、大の字づけで日本一を気取った。
 ●江戸っ子の美点と欠点をあわせもつ下町の下級町人の気質は、同時に日本人の一面を代表するものでもある。


2.明治維新では、「江戸の人口が半減する」という形であらわれ、次第に人間の交替がはじまった。下町の町人宅に
特に極端な変化はなかったが、旗本住宅のある山の手の人々は、徳川慶喜について静岡に行ったり。空いた家に薩・
長・土・肥出身の官員が入りこんだ。消費人口の回復によって活気はとり戻されたが、新たに山手の住人になった田
舎出の官員やその家族、書生などは、東京に雑多な性格を持ち込んだ。各地からの寄り合い世帯だから方言同士では
意味が通じない。そこで「江戸言葉と地方語の中間である『標準語』がつくられていく。官員という新しい階級は、
サラリーマン生活であると同侍に一種の小権力を持ち、これが権威に対してスタイリストを気取る山手気風を生んだ。

下町の下級町人は、時代の変革には無関係で交替の必要もなかったし、多くは古い気風を新しい時代に持ち伝えた。


3.刺激が強くテンポが早い都会生活は利口そうな美しい人をつくる。表情が締り姿勢が良く洗練された好みや化粧の
技術が加わるので、東京人は美しそうに演出される。標準語のビジネスライクな断定話法は、更にこの効果を助けた。
江戸っ子、明治・大正の東京っ子を思わせる性格の持主は、今も下町などに少々認められるが、大部会は実利主義者、
エゴイスト、依頼心の強いスタイリストである現代人に変わった。所謂、江戸っ子風の人間は数%にすぎず、東京を
郷土と意識する住民も10%に満たない。関東大震災後の住民移動にはじまる昭和時代は、不況による農村人口の流入、
第二次大戦と戦後の産業隆盛による大集中を経て、世界一の人口集中度をもつ今日の東京が出現した。現代っ子の東
京人は、都会的な明るさをもち、陽気で、適当に社交的で、反応が機敏である。明るい一面は、各個人の自由の承認、
相互扶助、親切などの長所をつくるが、反面、都会的な孤立性は、身勝手、わがまま、社交のベールに包まれた孤独、
内面的に寂しさをもつスタイリストを育て、衝動的で偶発的な行動に走ったり、他人を気にかけない自己本位の人が
多くなった。しかし、長所としては、貪欲なほど受容性が強いことがあげられ、人も物も流行も拒否せず、不合理で
古いものはどんどん捨ててしまう。合理的で新しいものを抵抗なく取り入れる自由な態度は、一面植民地的な特色で
あるが、今日の東京の発展と近代化の大きい力であることは否めない。ところが、江戸っ子以来の東京土着者には、
官僚や学者の一部を除き、あまり傑出した人物がいない。生活水準の高さは日本一だが、それは『人物』を生む力と
無関係なのかもしれない。理想家、夢想家、親分肌、豪放磊落な開放的性格などが育たないのも東京の特徴である。

第一話 即製・江戸っ子修業への超大物教授 へ
第三話 神田は 学問、教養の宝庫でもあった へ
第四話 昭和中期 江戸っ子雑学・風俗研究所
第五話 昭和中期 江戸っ子雑学風俗・実践編
第五話その1 「三十で後家さん」 は つらいよ  へ
第五話その2 柴又で 一足お先に 寅さん誕生  へ
第六話 新宿 ションベン横丁で 学んだ日々  へ
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