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第一話
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東京人育成大学(社会雑学科)教授の愛弟子となる
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俺の社会雑学教授 は裕次郎ファン。
主な物価 ・銭湯16円 ・封書10円 ・はがき5円 ・バス15円 ・ビール1本125円 ・ラムネ1本10円 ・都電13円 ・国電10円~
・たばこ「光」30円 ・映画40~100円 封切り映画館150円 ・森永ミルク キャラメル20円 ・ナイロン ストッキング400円 ・大工の手間賃730円 ・床屋100円~ ・トリスバー ハイボール4~50円 ・カレーライス100円 ・チキンライス100円 ・コーヒー50円
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夕方になると、次第に番頭さん?達がオートバイ、スクーター、自転車などで帰ってきた。先輩は5人だった。 経営者家族は6人、お手伝いさんを含めて13人が一つ屋根の下で暮らしているってわけだ。とは言っても、 家族以外は、別棟の2部屋をつなげた仕切りのない部屋で寝る。布団を六つ敷きこむと畳は見えなくなる。
店舗兼母屋では、主人、評判の美人で威勢のいいおかみさん、大学生の長男、事務手伝いの次女、高卒した らしい?次男、高校入学ホヤホヤの三男だ。なんと!俺と同んなじ年だった。あとで分かったことだが、商売の 腕はいいようだが、「子育て」に関しては疑問符がつく家族だ。特に三男が問題であり、たまたま同じ年だった 俺にとっては、多岐にわたって影響を受けることになる。三男にとって、身近に手足のように使える便利な子分 が降って湧いたようなものだ。おまけに、脳力と多少の道徳心が俺より劣っている以外は、全てに勝っていた。 なにしろ、男っぷりも良かったし、体格もスタイルもいい。種目は知らんが、陸上競技では千代田区一番だった とか言っていた。毎朝ズボンにアイロンをかけ、足を少々引きずり気味に歩いていた。本人曰く「石原裕次郎の 歩き方を真似ているんだ。」・・・とか。
通う高校は 親の希望に反して? 23区を外れた郊外の学校だった。
仕事の方では、一日も早く
「ムダ飯食いから脱却させて戦力にして儲けよう」
とばかりに、主人が教育するし 三男からは
「役に立つ手先」に仕立てる?べく裏の英才教育を受ければ、元々秘めたレア原石の俺のこと。 あの口五月蝿いおかみさんでさえ、目を丸くして
『○○君は上達が早いネエ』
と陰で賞賛してることもあった。
断っておくが、三男は「俺を立派な人間に教育しよう」なんて気持ちは毛の頭ほどもないことだ。「忠実に言う事 を聞いて、ヤバイ事があったら身代わりにできればいい。」くらいに考えている。 ある日、『オイ、ちょっと』
と 手招きされてついていくと、家と家との間の、体を横にして
やっと抜けられる隙間に入って行った。家の角地に なって
少々開けた場所に着くと 『赤いベークライトの破片や残骸が山になっていて、傍らに南京袋があった』 南京袋の中には10円玉がギッシリ詰まっていて、運び出すのさえ
難儀だった。・・・・ さて ・・・ その袋を・・ 「銀行に持って行って両替をして来い」。との難題である。 今で言う 『マネーロンダリング』 と いうもの。
『十円玉マネロン事件』では大変な苦戦を強いられたが、俺の機転を利かせた対応もあって、結果的に成功裡 に終わった。体格のいい奴でさえフラつく量の十円玉を、俺が大汗を流しながら両替に担ぎ込んだのだ。怪しま れないほうがおかしい。(どうやって、うまく切り抜けたか?)は、いずれ、話すかも知れないが、今は
話す気に なれない。
呆れ果てたことに・・奴さん
もとい教授は、つかず離れず、つぶさに一部始終を観察していた事だ。! ようやく年配の銀行員との問答をかわして、数枚の千円札を手にして表へ出ると、教授がスーッと近寄ってきて 「や、ご苦労さん。」と受け取った札を胸のポケットに入れ、「ハイ手間賃。」と言って、札を一枚、俺のポケットに 押し込んだ。この件で、俺は立派な共犯者、立派な前科1犯となったわけだ。汗はいつまでも 止まることを忘れ たかのように流れ続けていた。こんな特別講座は、2度と受けるものかと誓いながら、断る口実を考えていた。
●ある時、風呂場から「オーイ、○○くーん」と呼ばれ、「背中を流してくれ」とのこと。
本人は背中を流して貰い ながら、湯船の熱いお湯と
水道水を 「おー」とか 「うー」とか呻きながら、自らの股間に交互にかけていたもの だ。
『15歳にして、金冷法を会得し実践する』という、タマゲ果てた男、いや教授でもあったのだ。それにしても 「この教授」。やること
なすこと 他人様に褒められるような事をしている姿など、一度も見た事のない教授だった。
講義の中に「視聴覚教育」もある。
ある時、教授が「オイ」と、ポケットから大事そうに取り出した写真の束で、ほ んの数分間だが講義をしてくれた。この「エロ写真」とかの教材はタメになった。一晩だけ「エロ(小説?)本」とか 称する書物も貸し出し?てくれて、翌朝までに学習させられた?こともある。この時ばかりは、教授の偉大さ?や 知識の深さに感心するとともに、いずれは実践教育にまで進むであろう・・・との期待感を抱かせるものだった。
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無免許常習で
暴走族の元祖
みたいな教授。

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三男坊教授は、車やバイクを運転する時も特筆ものだった。信号が青に変わる寸前に、猛烈にアクセルを吹か す。前輪は浮いて(持ち上がって)ウイリー状態である。ハンドルが効こうが効きまいがお構いなしだ!。教授 にとっては一般道路もオートレース場もおんなじだった。4サイクルエンジンの車種の場合はともかく、2サイクル エンジンのヤマハバイクやスバルサンバーに乗った時には、交差点中が排気のスモッグだらけになってしまう。 後続車なんか哀れなもので、暫くして霧が晴れてからノコノコスタートしなければならない。ただし、堂々たる無 免許人間だから、それほど遠方まで出かけることもできず、行動範囲も限定的であった。 ・・・ものだが・・・・
そのうちに、俺は誕生日を迎えて軽二輪免許を取れる年になり、武蔵小金井にあった試験場まで行って一発で 取れた。(先輩連中は何度もしくじるのが常識だったから堂々たる快挙だ。四輪免許も1時間練習で一発合格だ った。もともと俺は運動神経にも恵まれテストでも苦労知らず男だ) 俺の快挙をケチでガメツイ親父や五月蝿い おかみさんが見逃すはずもない。俺を見る目さえ変わって来ようってもんだ。仕事の面でも多少は出世?をして 雑用専門から外れるようになった。とは言っても、実際には「荷物が増えたり遠くまで行く用」が増えただけだ。!
●ところが、俺の免許取得をいいことに、「俺になりすまして、堂々とスピード違反をヤラかされて」しまったのだ。 発端は「一時停止違反」とかいうケチな事で免許証を巡査に取られた(昔は預かり書を渡された)のだが・・・・。 つまり、「顔写真の無い、紙っぺらの免許証」が出来るってもんだ!!。三男坊教授はこんなチャンスを見逃す筈 もない。「ちょっと、そこまで」とバイクで出かけたまんまで、ほぼ1日行方不明になった教授が夜半になってから 帰った時に返された「預かり書は3枚」に増えていた。 白バイに2度もお世話になったという話だ!(トホホ)
当時の免許証は、裏面に違反歴を判子でペタペタ押していたのだが。そんなこんなで、俺の免許証は余白なしの 判子だらけ・・・・おそらく、警視庁はじまって以来の歴史的免許証として
「額に飾られている」 かも知れない・・・。
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靖国通りが須田町で 交差するのが上野か ら銀座へ向かう中央 通りで、割合賑やか だ。肉の万世や木村 庄之助の菓子屋、有 名な「うなぎのきくか わ」や「藪そば」「まつ や」等は、有名とは言 え空腹時に何気なく 利用する感覚でしか なかった。今となって は、もう少し味わって おくべきだったと思う 次第だ。この通りに 「例!の銀行」や証券 会社があって、神田駅 に近づくと喧騒が増す。
当時、トランプ屋だった 任天堂もこの辺だった。
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 ガード下を巧みに利用した商店や飲み屋などが連なり、神田駅に近くなるほど賑やかさが増して行くが、おおむね良心的で 安価な店がほとんどで、客筋も商店や会社関係のサラリーマンだから、休日になるとガランとしていて、あまり役立たない!?
《
高島易断総本部
》 神田駅近くに「高島易断総本部」があった。三男坊教授の親も、時折足を運んでは、金儲けの知恵を授かっていたらしいが ある日の事、俺に「お前は源氏のサムライの子孫らしいな?」と聞かれた覚えがある。??? だったが、どうやら高島で 俺の素性やなんかを探ったらしかったことが後々になってわかった。当時の俺は、まるっきり井の中の蛙で一匹の丁稚奉公 の分際だから理解できる筈もなかった。ところが、数年後に、俺自身が「高島易断天命館長」とか名乗る人に因縁ができた んだから不思議な巡りあわせだ。師には「占いの基礎」を教えてもらったが、その後の人生にも大いに役に立ったと思う。
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教授のトレーニング道場 (吉原で金冷法鍛錬・実践) 昭和33年4月1日と聞けば、ピンとくる人もおありだろう。「売春防止法が施行された日」であり、俺が奇しくも江戸っ子の仲間?入りを させていただいた日である。本当に灯が消えたものと思っていたのだが、・・・・ある夜更けに、教授が寝ていた俺を揺すり起こしたかと 思ったら、コッソリ、「吉原までバイクで送ってくれ。」とのことだった。あそこは交通の便が悪いので、俺をタクシー代わりに使うつもり? だったのか。それとも、授業の一環だったものか?は分からない??。 昼間の寝ぼけたような様子とは様変わりした、『夜の吉原』は まさに不夜城のごとき賑わいだった。もっとも、俺は単なるタクシー代わりだ。教授が用件を済まして戻るまでは、「ちょいと、お兄さん」の 声には苦労させられた。勿論、「お誘いをお断わりする」苦労に決まっている。 『わが教授様の粋な計らい?』もあって、探究心旺盛な その後の俺は、【社会雑悪学部・風俗研究学科】の講座も受講し、首席で卒業証書を授与せんものと、日夜の努力を重ねることとなった。 (第四話として、「昭和期半ばの社会風俗編」を用意した。これは歴史研究家?その他大勢にとって貴重な資料となることだろう)
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