| このページは 「燕中央まちづくり協議会だより」の 『みんなのひろば。 この指 とーまれ!』に 掲載された記事から抜粋して転載をしております。 |
| 旧樋口家の表門 | ||||
| 燕市民、なかんづく燕東小学校に通った人達にとって、赤門として親しまれている校門は、旧燕市内の数少ない文化財の一つとして、 大切に保護、管理されている。 東京大学の赤門が、旧加賀前田家上屋敷の門であったと同様に、この校門も江戸時代燕の中町に居 を構えていた、越後村上藩燕組の大庄屋であった樋口家の表門で、大正八年に現在地に三日がかりで移築され、それ以来校門として 生まれ変わったのである。 したことから、いつの間にか「赤門」と呼ばれるようになったと言われている。 東京大学の赤門と規模は異なるが、どちらも武家や公家の屋敷に用いられることがおおい薬医門で、 どっしりとした力強い存在感が感じ取れる。 門とは、ある空間とある空間との差違を明示するための 一種の結界(仏教用語・区域)を造形化したものであるという。 そのようなことと思いつつ、この重厚な校門をくぐって一歩校庭に入れば、そこは清冽な学びの空気が 漂っている。翻って、江戸時代、この門内で繰り広げられた人々の暮らしに想いを馳せれば、年貢の納 入、土木工事、宗門改めなどの監督や白州の裁判など、大庄屋としての権勢をを奮った姿を、この門は 見ているのである。 大正八年、取り壊しを免れ寄贈されることになった表門の、仲町から宮町、穀町の 大通りを通っての移築は、クレーン車など無かった時代、非常に危険な作業であった。表門の土台にごろ (丸太)をかませ、少しづつ綱を引きながら動かし、三日もかけて現在地へ移しかえたという。その時、綱を引く手伝いに小学生も加わったが、 男子のみで女子は外され残念だったと古老は懐かしんでいた。 (参考文献…『燕市の文化財』燕市教育委員会、『新潟歴史散歩』新潟日報社) |
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| 川蒸気船「安進丸の賑わい」 | ||||
| 一、はじめに 中之口川の土手を散歩し、ゆったりと時を運んでいる川面を眺めていると、子供の頃、祖母から聞かされた川蒸汽船の話を思い出す。 明治三十三年、中蒲原郡鳥屋野村女池(現新潟市中央区女池)の生まれであった祖母の、なにものにもましての楽しみは、年に一回新潟の 川開きに合わせ、蒸汽船・安進丸で実家へ帰ることだったという。 二、倉小路と燕川港の賑わい 和釘の出荷と、その原材料の入荷で中之口川終点の河岸場として栄えた。現在の本町通の東側には、村上藩 燕組大庄屋樋口家の米倉が建ち並び、真っ直ぐ堤防に上ったあたり一帯の河岸は、燕の表玄関として賑わった。 三、川蒸汽船の出現 明治八年、新潟の“交通開化”の一番手として、川蒸汽船が新潟―長岡間に就航した。そして明治二十二年、 中之口川の新潟―燕間にも、待望の蒸汽船「安進丸」による一日二便の定期航路が開かれた。従来途中の寄港 なしで、新潟―燕間の下り八時間、上り一日半かかったのが、下り四時間弱、上り七時間弱に短縮され、小旅行や 学校の修学旅行にも利用され盛況を呈した。蒸汽船は長さ二十二メートル、幅四メートルで、船内には売店もあり、 モクモクと黒煙を吐き出し航行する姿に、堤防伝いにこの汽船と一緒に走る子供たちの歓声がこだましたという。 燕の安進丸の発着所は、三條屋小路の坂を上ったところにあり、角にあった小川屋旅館でキップを売っていた。 四、蒸汽船の終焉 大正十一年の大河津分水の完成によって水位が低下するまで順調に運行してきた蒸汽船も、同年の吉田駅―燕駅間の鉄道の開業、 昭和二年大河津分水の自在堰が壊れ、下流が干上がり、一時蒸汽船の運行ができなくなったあたりから徐々に斜陽化し、昭和八年の 新潟電鉄の開通で、新潟―燕間は廃止となり、新飯田での折り返しになるに至った。 ここに、明治二十二年の就航以来、約五十年にわたり文化のさきがけとなった川蒸汽船の歴史は幕を閉じ、当時三ヶ所あったという土手の 川岸の石段も、その後の改修工事でなくなり、今ではそのおもかげは、追憶の中にも残っていなくなってきている。 (参考文献…燕郷土史考第十集、中之口川の水運、よもやま話) |
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| 火防の神様「古峰神社」 | ||||
| 三條屋小路の坂を土手に向かって登り切る少し手前右手に、うっかりすると見過ごしてしまいそうな、天狗面の鬼瓦を付けた、小さなこざっ ぱりとした祠(ほこら)がある。この社が「こみね様」と親しみを込めて呼ばれている、御祭神を日本武尊(ヤマトタケルノミコト)とする、火防、 天狗信仰の古峰神社である。 二、御祭神 日本武尊 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は第十二代景行天皇の皇子で、西征、東征を繰り広げ、大和朝廷の国家統一に大きな功績のあった英雄である。 され、野火による火攻めにあったとき、持っていた剣で草を薙ぎ払って窮地を脱したという故事 により、全国から火防の神様として信仰を集めるようになった。この時使った剣が、後日いわゆ る三種の神器のひとつである「草薙の剣」と呼ばれるようになったのである。 三、古峰神社と信仰 古峰神社の本宮は、栃木県鹿沼市の古峯ヶ原にあり、燕で創祀された時期は不明だが、古く から鍛冶仕事など、家の中で火を使う仕事を生業とする職人町燕の人達は、火に対して日頃 から畏敬の念を抱いていた。そして人智、人力の及ばない世界の神仏の力にすがって、火鎮め を願ってきた。いつの頃か、古峯ヶ原から来た修験者によってもたらされた、火防、開運の霊験 あらたかとする、「こみね様」信仰が根づいていった。 戦後、金属洋食器、厨房用器物の生産が勢いづくにつれ、業界の火を扱う分野の人達を中心に、 「こみね様」信仰が一段とひろがりをみせた。熱心な世話方の力もあり、こみね講も活発になり、一〇〇人規模の団体で汽車やバスをつらね、鹿沼の 本宮で一泊、日光か鬼怒川で一泊の本宮参拝旅行が行われるようになった。 近年になり、地場産地全体の多角化、新分野への業種転換が進むにつれ、価値観の変化や世代交代で、信仰心も徐々に薄れ、産業界、個人共 に以前のような「こみね様」信仰の勢いはなくなってきている。 しかし、前のように団体で行動することはなくなったが、熱心な信者も多く、単独で本宮まで参拝し、御祈祷の御礼を受けてこられる方も多い。 〈参考文献〉 「日本の神々」(株)東京美術 : 「歴代天皇総覧」 中公新書 |
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| 大正十一年 越後鉄道燕駅開業 | ||||
| 一、はじめに 通り抜けが出来るようになった、燕駅真裏の、昔新潟電鉄の線路があって電車が止まっていたと思われるあたりは、変わったアングルの風景が 見られる場所である。目の前の、人の高さ程もあるプラットホームに圧倒されながら、背伸びしてみる向かい側一番線ホームと駅舎の風景は、 子供の頃のように胸がときめく瞬間である。そして同時に、このプラットホーム造成の為の大量の土砂は、一体どこから、どのようにして運んできた んだろうかと素朴な疑問が湧いてくる。 二、燕駅開設予定地の決定 当初、新潟水電(株)燕営業所(現秋葉町三、遠藤工業付近)跡地が予定地として最有力であったが、信越線との接続点が三条駅から東三条駅 (当時は一ノ木戸駅)に変更になったのを受けて現在地に決定したという。 また、一度は現在地より下太田・新栄町寄り(当時は太田村地内)でも 検討されたが、それでは燕町の駅ではなく、太田村の燕駅となる等の反対もあり、燕町と太田村の境界の現在地へとなった。 三、燕駅の用地造成 さらにプラットホーム等を盛土するための大量の土砂をどのように確保するかであった。平坦地の燕では、取り崩す ような丘陵地はなく、ましてやダンプやショベルカーのような建設運搬車輌がない時代では、近くから調達してくる以 外に道はなかった。幸い近在の下太田、寺郷屋の農家の協力が得られ、田畑の土を掘って造成地へ運んだ。運搬 機材はレールの上を転がすトロッコで、朝鮮の人が多く働いていた。 土を大量に掘った跡には、「西子の池」「○○ ろんの池」などと屋号の名が付いた池がいくつも残ったが、時代は移り、今では前郷屋の簑口さんの蓮池が唯一、 当時の名残を止めている。 四、終わりに この燕駅の開業は、これ迄馬車か川蒸汽船に頼る以外になかった燕の工業製品を、直接燕駅から全国に出荷できることになり、燕飛躍の契機と なった。 しかし、自動車社会の進展につれて、まばらな乗降客の燕駅を見るのは、過去の賑わいを知る者にとって淋しい限りである。 |
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| 杣木村の鎮守様・八幡宮由来 | ||||
| この度、寺郷屋にある杣木村の八幡神社が、長年の雨漏りで瓦の下地葺が溶け、屋根の陥没も予想されることから、補修工事の話が 持ち上がったのを機に、この八幡様は、いつごろ、どういう目的でこの地に祀られるようになったかを、殆ど解っていないなか、杣木村の 一住人の立場で考えてみた。 はじめに 全国八幡神社一覧によれば、新潟県内の八幡神社は三八四社もあり、うち旧燕市内でも十一社ある。八幡神社は全国規模で、一、二を 明治十六年に当時の政府による神社に関する調査の際、地元杣木村の 氏子提出の県への報告に よれば、「創立年月不詳、社殿破壊、文久三年(一八六三)再建、氏子数一六四戸」とあるが、唯一 現存する書き物である。つまり、今から一四七年前に再建されたことだけは解る。 又、近年の出来事では、昭和三六年(一九六一)の第二室戸台風の暴風で、境内の大杉木七本が 倒伏した際、倒れた木を製材業者に引き取って貰うと共に、記念にこの杉材を使った衝立、扁額を 作成したが、製材業者から倒伏した一番太い木の年輪は、推定八百年であるとの連絡を受けたと 氏子の記録にある。この杉木が、もしも八幡様創建時に植えられたものとすれば、今から八百年遡る 西暦千二百年頃、この地に祀られることになったとも考えられる。 鎌倉幕府の誕生と八幡様の勧請 東北地方の八幡様はその由来、勧請について、源頼義・義家(八幡太郎義家)親子の奥州征伐との係りを由来とするところが多いが、越後 と源氏の関係は、もう一時代後の鎌倉幕府・源頼朝との係りで、八幡様信仰が広まったと考えるのが一般的であろう。 即ち、鎌倉幕府の誕生は、越後の国に大変革をもたらした。これ迄権力を誇っていた平家の流れをくむ城一族と、一時期城氏にとって代わった 木曽義仲の没落は、在地の領主も運命を共にし、見る影も無くなっていた。 文治一年(一一八五)に平家が滅亡し、頼朝が守護・地頭の任命権を獲得し、さらに越後の国が頼朝の知行国となると、頼朝と主従関係で 結ばれた御家人が、相模、武蔵の国から越後の国の守護・地頭に任じられ、一族郎党を引きつれ、大挙して入部してきた。そして土着の農民 と野地・谷地の開墾等共同作業を進める時、全村民心を一つにするもの=氏神様の必要性を感じるようになってきた。やがて出身地の相模、 武蔵で祀っていた八幡様を勧請し創建していったのは、自然の流れであった。 この時代、いかに多くのものが関東圏から越後に移住してきたかは、最近出版された「新潟県の名字」にも、「新潟県の名字の特徴は、相模、 武蔵等関東をルーツとする名字が多い」とあるのもこのことを物語っている。 おわりに 以上のことから、杣木の八幡様の創建は、千二百年ごろでなかろうかと考えるが、いずれにしろ貴重な文化財であることは事実であり、後世に 残してゆくのが、我々の務めと思う。 参考資料 『新潟県の歴史』山川出版社 : 『新潟県の名字』 新潟日報事業社 : 『八幡神社 歴史と伝説』 勉誠出版 ●上記 『羽黒山・八幡宮』 のいわれについて、関連情報があります。 |
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