「なぜ? ここに? いつから? こんなものが存在するのか? 疑問が湧いた時。その時代の  
  年表を辿って見るのも、新しい発見につながるかもしれません。 ( 時代年表ページ へ Go 
このページは地域に残された文化資源、旧跡・遺跡、神社・仏閣、伝説、昔話や芸能、お祭りや
習俗、交通機関、昔の生活や伝統を集めて後世に伝える 『生きた郷土史(ツバメペディア)』 を
めざしています。多くの皆様から広く情報をお寄せいただくことで、さらに充実した内容に育てる
ことにつながります。 「いつでも、どこからでも、気軽に」、情報をお伝え下さるようお待ちします。
上杉謙信も武田信玄も見ていた 光照寺 「弥陀の尊像」
信州信濃の山からやって来た「そまぎのいかけの(杣木・居掛)『光照寺』」さま。


光照寺の場所と地図をたしかめてみよう (地図 => クリック)


1523
大永3年 創立開基:信濃の国水内郡富倉郷瀧脇村に上越高田の瑞泉寺の末寺として(富倉村光照寺住僧西眼とある)
1561
永禄4年 北信地域における対決は永禄4年(1561年)の第四次川中島合戦を契機に終束する
1569
永禄12年 永禄12年(1569年)、後北条氏の一族三郎(上杉景虎)を養子に越相同盟が成立する
1573
元亀4年・天正元年 武田信玄は元亀4年(1573年)に死去
1573
天正年代 丸山光照寺は越後国に移り。弥彦、麓の鳥喰嶋(浮島)に移転した
1575
天正3年 武田勝頼は天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗北
1578
天正6年 天正6年(1578年)6月、越後において上杉謙信が急死
1579
天正7年 甲斐の武田勝頼と越後の上杉景勝の間で「甲越同盟」が結ばれる
1598 慶長3年 上杉景勝が、豊臣秀吉から「会津に移封」を命ぜられる
1617
元和3年2月 蒲原郡大槻の荘(三条)杣木の里居掛に寺基を移転する
1772
安永年間~ 本堂の再建にとりかかる。 (この頃、杉田玄白が「解体新書」を著し、平賀源内が没している)







1770年頃より悪天候や冷害により農作物の収穫が激減、さらに岩木山や浅間山が噴火するなどして追討ち


この頃の世相 深刻な飢饉状態となった。米価上昇に歯止めが掛からず、結果的に飢饉が全国規模に拡大することとなった。



農村から逃げ出した農民は都市部へ流入し治安が悪化。江戸では米屋への打ちこわしが起こり、その後全国へ波及した




1805
~文化年代 光照寺の「本堂再建」は31年かかって、文化年代になり漸く完成した (第八世住職・恵頓)
1811
文化8年 火災に遭い、本堂と坊舎を焼失。唯一残ったのは 「弥陀の尊像」だけだった (第九世住職・恵玄)
1819
文政3年 第十世住職の恵深によって、焼失した本堂が再建される
1828 文政11年 三条大地震で燕にも被害が発生、大部分の家屋が倒壊したと伝わるが、本堂の被害記録などは無い
1997
平成9年 180年の星霜を経た本堂は、第十七世住職・釈智英によって改築をされる

上杉氏臣下には81名にのぼる武将(二ケ寺も含む)が居て、光照寺の本寺である「高田の瑞泉寺」も名前が記載されている。
当時は戦国時代。信濃の国に上杉の配下であろうはずの光照寺が、いわば、宿敵武田信玄の領内に前進基地を構えたよう
な状況にあったのでは??と推察すると、少々緊張感を覚えてしまう。和睦によって、実際に役目が終えたものかどうか?は
不明ではあるが、その後、光照寺は弥彦の麓地区(黒滝城の下)に移転をしている。当時の黒滝城主は、信濃源氏の流れを
汲む「上杉家の重臣山岸出雲守光祐、山岸秀能、村山慶綱」が務めており、上杉家から見守られているらしい状況が偲べる。


光照寺はその後、上杉景勝が、豊臣秀吉から「会津に移封」を命ぜられて、黒滝城が廃城になってから、1617年(元和3年)
に現在の蒲原郡大槻の荘(三条)杣木の里居掛に寺所の移転をしている。当時はすでに「直江工事」等もあって対岸の三条
地域(大槻荘)の開拓も進んでいたらしい。 群れから「村」へ進展する過程で、中核的存在としての寺社は重要視されており
「杣木村落」としても、羽黒山八幡宮を中心に考えた場合、鬼門(東北)の守り(備え)として考えても、光照寺の存在は意味が
深かったものと考察できる。安永年間からはじまった最初の本堂建設には31年もかかっているが、当時の社会状況も反映を
していたらしい。ところが、完成して数年後には火災に遭い本堂も坊舎も焼失してしまい、御本尊だけが、唯一残ったという。

本堂は文政3年(1819)に再建された。文政11年(1828)に起きた三条地震では燕や杣木地域でも多大な被害を被ったものの
光照寺は堅牢に作られたとみえて損害は免れていた。 爾来180年の星霜をかさねていたが、平成9年(1997)に改築された。

瀧脇山  光照寺
中央通り5の2(居掛) 0256-62-5492

上記の光照寺に関わる考証は、筆者の推察を交えて書いたものである。ところが、実際に現・光照寺住職からお聴きしてみると、筆者が推測していたことと、寸分違わぬ程の
由緒来歴を辿ってきた様子が判った。現在も飯山市に富倉、瀧脇が存在しており、村落の全てが丸山姓であり、開拓した祖先が奉納した「太刀2振り」を祀った神社があること
や、物見台の跡があること。・・・・・・・・(現在、調査、書きかけ中)

「街中を歩いてみよう」のページに戻る
 メインページに戻る
前に
もどる
 画面左上の【←】で
前に見ていたページへ
●制作のために参考にさせていただいた 資料、文献、書籍、施設、人物、会合など (順不同・敬称略)
燕市立図書館、三条市立図書館、インターネット、 Wikipedia、「燕市史・資料編」、 「郷土史燕」、「県央の人物」、「新にいがた歴史紀行」、
五百川 清:(西川を創る会)、見附市まちづくり協議会、五十嵐 勝(新潟県アマチュア映像フェスティバル)、五十嵐神社(金沢光幸宮司)、
八木神社(石沢功宮司)、戸隠神社(星野和彦宮司)、「戸隠神社の七不思議(著石黒克裕)」、上越市居多神社宮司(花ヶ前盛明宮司)
「上杉謙信」花ヶ前盛明著、弥彦村「春日山専稱寺」(村山神社)住職・新潟市教育相談センター指導主事・藤澤眞璽、光照寺(丸山住職)
上越市春日山城、糸魚川市教育委員会、宝昌寺、糸魚川市徳合自治会、海蔵院(三条市吉田),西明寺(三条市如法寺),如法寺(三条市長嶺)
法圓寺(弥彦村)、福楽寺(三条市井栗)、新潟市白根図書館、新潟市月潟図書館、長野県須坂市村山町194-3黒岩巻夫(コマドウ会)
 国立歴史民俗博物館総合研究大学院教授・史学博士・井原今朝雄、米沢図書館、新潟市立歴史博物館、五十嵐勝也(ハワイ大歴史学部)
 
この 「燕の街んなかの歴史」 のページでは、単に、燕市域や地域に関する身近な話題だけに拘らず、県央に暮らす人々にとって、知識の一環として
「覚え、知っていて楽しいこと、次世代の人に伝え残したい事柄」などの場合、狭い地域の範囲や枠組みを超えて取材や編集をしていることがあります。
inserted by FC2 system