
1649(慶安2年) 燕組大庄屋に赴任した「樋口嘉兵衛」が、『戸隠神社』を創設したとの説があり。
1683(天和3年)の
創祀説もある。戦国時代の終る頃、戦から離脱した農民が定着をはじめて共同の生活や作業をするようになり、集団の
社会化が急速に進んだ。 群れから「村」へ進展する過程で、中核的存在としての『神社』が建立され、次第に
なくては
ならない施設となったものらしい。仏像や寺社の建立が徳を積むと考えられていて、力のある層は進んで寺社に寄進を
する事例も多かった。また、その頃は、村として世間に認めて貰うには「神社」の存在が重要視されてもいたらしく、村人
の多くも少ない労力、財力をあわせて協力しあい、信仰と教養と娯楽などで、地域社会コミュニティーを確立していった。
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境内社には、「天満宮(学問の神)」、「菓祖社(お菓子の神)」「幸福稲荷(繁栄の神)」
飛地境内社として「金山神社(金属、工業、刃物の神)」(燕市南三丁目)があります。 |
「樋口嘉兵衛」の名を聞くと、幼名が樋口与六であった『直江兼続』を思い浮かべる人も多いことだろう。
嘉兵衛の出自は明らかではないが、村上藩から命を受けて与板から赴任したともいわれている。兼続は
国替えによって会津に移ったが、与板では縁類者で地元に居残った樋口姓も多かったという話である。 |
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1649(慶安2年) 燕組大庄屋に赴任した「樋口嘉兵衛」の屋敷の表門。現在は東小学校の前にある。
通称赤門と呼ばれる東小学校の校門は、大正8年に燕町尋常小学校に寄贈されたもの。燕周辺の十八カ村を支配した
村上藩・燕組大庄屋「樋口家」の表門だったケヤキ材の薬医門。木羽葺きだったが、移築の際、銅板葺きにあらためた。
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中央通5の1と中央通5の2の境界近く(旧・杣木村居掛)の古い小塚に古木に守られ、ひっそりと建っている石碑がある。
永い間、地元の人々にも詳細は伝えられず
にきたが、古木が伸び過ぎた為、幹や枝を
切り払う必要が生じた。そこで石碑を調べた
ところ、三条の本成寺が関係しているらしい
とわかり、本成寺のお坊さんに供養(お払い)
に来ていただいた。
そこで解ったことは・・・・・
天保の頃、(1830~)疫病が流行し、上流か
ら次第に「杣木村」に近づいてきたため、怖れ
おののいた地元衆が、本成寺の僧に依頼して
この地で厄除けの祈願をしてもらった。幸いに
も、疫病はここで食い止めることができ、下流
まで流行ることはなかったという。その後、地
元の篤志家や本成寺信者などの手によって、
この供養塔が建立されたらしい?話であった。
●建てられた年は天保13年(1842)
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【余談:こぼれ話】
1617年は既に居掛集落には光照寺が存在した
にも関わらず、1830年にわざわざ本成寺の僧に
依頼して厄除けの祈願をしている?不思議さ?
実際に『疫病を食い止めた』のだから、それだけ
本成寺のパワーが強かったものか?。それとも
「頼んだ僧」が個人的に優れていたのだろうか?
石碑の由来が『疫病の流行を食い止めた』との
話が伝わるようになってから、珠に、参拝する
人の姿を見受けることもある。今も元気よく活躍
しているところをみると、病気、その他の難儀の
進行を『食い止める霊力』でもあるのだろうか?
もし? 不幸や不運を食い止めて貰えるなら?
霊験を試してみる価値もありそうな話だ(俗人)
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●そまぎのちんじゅさま 『羽黒山・八幡宮』(寺郷屋) には ホームページがあります (ここをクリックすると移動します)


平安時代の昔から存在していた!!!???
【右大臣、左大臣像の不思議な現象??】
拝殿には「右大臣、左大臣」の彫像(北越三島鳥越住御?殿之棟梁政綱次男弥惣七國綱作平時慶応二寅暦四月と像書)が
ありますが、 時々? 原因不明の不思議な現象が現れることがあります。 それは、『二体の彫像の足元が濡れる』ことです。
ある神道家のお話によれば、「この神社には、実際に神様が存在しているのだ」と教えているお印しだ!!。 とのことでした。
「吉凶」については未だはっきり判りませんが、この事を教え伝えられたのかな?と思い当たる事はあるらしい・・とのことです。
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<新潟~長岡の川蒸気船の船長>
この資料を集めて書いた者の祖父は、上杉景勝の会津藩移封に同行し会津藩士、その後
米沢藩士。幕末には沼垂税関にいた。 日清戦争は2等航海士、日露戦争は1等航海士。
日露戦争後、「新潟-長岡間の河蒸気船」の船長を勤めた。当時の船会社の「安進社」の
会社定款では、社長と同じ俸給の破格待遇で。 一日に三升もの大酒呑み伝説があって。
酒を呑めば「ロシアのバルチック艦隊をやっつけた!」 との自慢話が口癖だったとか。 |
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弥彦線が開通。機関車は上りの弥彦行きは前向き、下りは後ろ向き。
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大正5年 (1916) 越後鉄道・弥彦~西吉田(現・吉田)間開通。
大正11年(1922) 越後鉄道・西吉田(現・吉田)~燕間開通の際に駅舎新設。
大正14年(1925) 越後鉄道・参宮線(弥彦~西吉田間)が一ノ木戸駅(東三条)まで乗り入れる。
昭和2年(1927) 10月 越後鉄道が国有化。日本国有鉄道(国鉄) 弥彦線となる。
昭和8年(1933) 8月15日 新潟電鉄線(のちの新潟交通電車線)・燕~白根間が延伸し、全線開通。
昭和59年(1984) 4月8日 弥彦線・弥彦~東三条間が電化。
昭和62年(1987) 4月1日 国鉄分割民営化 によりJR東日本に移管。
平成5年(1993) 8月1日 新潟交通電車線・燕~月潟間が部分廃止。
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建設上技術的に特に困難を極めた小中川、灰方などの泥湿地帯の線路敷設工事は、底なし沼に土を盛るような苦労の連続で、
あったが、ようやく見通しがつき、昭和8年8月12日、最後の工区白根~燕間も完成、地方鉄道部分は全線完成をみるに至った。
『開業前の竣工検査の後日談』
昭和8年8月15日に開通した白根~燕間の線路は、道床がまだ完全に固まっていなかった。検査官は鉄道監督局の某技師で、
そうとう神経質な人のようだった。 白根から新飯田までは電車に乗ったが新飯田から先を乗ろうとしない。まだ道床が固まらず、
線路がガタガタしていたから怖かったのだろう。「こんなに早く走れるか、ここで待っているから灰方まで行ってすぐに戻ってこい。
我々はここで時間を計っている」と、とうとう電車に乗らなかった。当時責任者であった佐野さんは、ダイヤを引いた責任上悲壮な
覚悟で乗り込んだ。地盤の軟弱な泥湿地帯の埋め立てで難航したことを誰よりも知っていた。 「地盤の満足でなかった所だ。
まさか転覆という危険はないだろうが、うまくいかないと・・・あとはどうなる。」・・・・・・・・・・運転手を杖とも柱とも頼んで走った。
新飯田~灰方間を往復してピタリとダイヤ通り、新飯田駅へすべり込んだ時はさすがに嬉しかった、と。 語っていた・・・・ |
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中ノ口川沿線地帯は、明治から大正期にかけ全く鉄道の恩恵から外され、もっぱら中ノ口川を利用する
船の便だけという、誠に不便な暮らしを強いられてきた。昭和8年待望の電車線の開通で、中ノ口川沿線
の住民は喜びに沸いた。しかし、平成 5年 8月 1日、60年間の歴史を閉じた。60年間、ご苦労様でした。
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