第12話 にゃあやしゃ、キレる
順佑は美佳の下へと迷いなく向かっていた。
第六感めいた直感によるものでもなければ、少ない情報から見事に推理した訳でもない。彼は単にそこ知らなかったのである。逆恨みによる憎悪を滾らせる相手、田中の経営する喫茶ぱにゃ以外に、若い女性が足を運びそうな場所を知らなかったのである。
その愚かしさを自覚せぬまま、順佑は細い目の奥に愉悦を湛えていた。
見えて来ただで! オラの! ガチ恋と進む未来が!
地層を想起させるヘンテコな柄をしたよれよれの上着に、毛玉だらけで股間部の生地が目に見えて磨り減っているボロズボン。「神のコーデ」と自画自賛する不審者然とした装いの順佑は、喫茶ぱにゃの看板を遠くに認め、にたりと笑みを浮かべた。
更に進むと、看板の下、ベンチに掛ける人影に気が付いた。
にゃんたん! オラのガチ恋がオラに会いに来た! オラの小説を読んで濡れたんかな……濡れたに決まってるだで! だからオラを求めてるっ!
意味不明な因果関係を確信し、順佑は歩調を速めた。
赤く染めた髪を猫の耳を模した形に結い上げた特徴的な頭。猫を主題としたパンキッシュな意匠を施した黒いシャツ、丈の短いフレアスカートからすらりと伸びる脚は猫柄の入った網タイツで飾られており、その足先には底の厚いサンダルを履いている。
可愛らしい衣装姿の想像からは離れているが、猫という要素は一致している。
メイクもまた、アイドル時とは異なって少し強気に見えるが、どこか猫を思わせる凛とした顔立ちはそのままだ。
圧巻の猫尽くしは間違いなくにゃあやしゃであった。
「ふしぃっ……おほほぉ……」
順佑は気味の悪い声で笑いながら美佳の眼前へ立った。
美佳は小男を一瞥し、小さく会釈した。
ベンチに掛けたまま遠くを眺める美佳。その正面を走る道の真ん中に突っ立っている不審者。両者の間にしばしの沈黙が降りた。
喫茶ぱにゃへと至る道中、順佑はあれだけ独りで盛り上がっていたが、やや厳つい格好をした若い娘を前にして完全に萎縮していた。
順佑は腹の底で身勝手な不満を募らせる。
コイツ躾がなって無いだで! オラが会いに来てやったのに、オラが!! ガチ恋ならオラに媚びて握手を求めやがれ!! オラが何も言わなくてもオラの思ったことを察してその通りにしやがれ!!
「あの、何か……?」
諦めたような、呆れたような声音で美佳が訊ねた。
順佑は首筋をボリボリ掻きながら小さな声でボソボソと答える。
「オラ……ガチ恋……会いに来た……やがれ……」
辛うじて聞き取れた内容を繋げて察するに、ニトゲのにゃあやしゃだと気付いたファンだと主張しているようだ。美佳はそう判断して笑顔を作った。
「ファンの方でしたか。これはどうもありがとうございます。ですが、ご覧の通り休暇中、プライベートの身でありまして。出来ればご配慮いただけると幸いでございます。……もちろん、ライブやイベントに遊びに来てくれたら、めーいっぱいのファンサをさせてもらいますにゃん!」
前半は警告の意を込めて淡々と、後半はしっかりアイドルをやりながら、最後には猫の手を顔の横に掲げて飛び切りの笑みを浮かべた。これで上手くやり過ごせるだろう。経験則からそう判断する美佳だったが、相対しているのは実父がその姿を土着の妖怪に重ねて見るような業人だ。
順佑は不満げに唇を尖らせながら、細い目で美佳を睨み付ける。
コイツ何言ってるだで! オラのガチ恋やろ!? 馬鹿なファンとオラと同じように扱って! 侮辱だで! 早くオラにひれ伏して縋り付いて、配信機材とステーキを用意させてくださいって懇願するだで!! オラは神作家! オラは神配信者! オラは!! オラは!!
「オ、オラじゃないだで……」
意味が分からず、美佳は首を傾げる。
「オラば……オラ……オラ、オラッ……」
「えっと、ごめんなさい。その漫画、読んでないんです。それから先ほど申し上げたように、私は休暇中ですので申し訳ないですけど……」
「オラ……ファン……ちゃうやろ……」
「はい?」
「ファンは……そっちやろ……」
「ええっと……。何を仰っているのか分かりかねます」
「ガチ恋やろ……? 読んでるやろ……? ほいでえ、濡れたやろ……」
美佳の顔から愛想笑いがすっと引いた。ああ、こいつは。
「オラに会いに来ただで?」
願望をボソボソと呟いている内に、萎縮していた心に邪悪な炎が灯り始めていた。
順佑はフシィフシィと不気味な音を立てて息を吐きながら言葉を続ける。
「会いに来たんやろ、オラに。ガチ恋だからな。オラの小説でアイエキ出た? オラでしたんか? オラの神小説だからな。オラに忠誠を誓いたい?」
ネットに広まる悪評以上だ。気が狂っている。美佳はぼんやりとした目で小男を眺めながら考える。蹴散らしても良い。幸いにして人の姿はなく、相手がカメラの類を仕込んでいる様子もない。いや、そもそも一つ強めのを喰らわせてから立ち去れば追って来ないだろう。
だが、と美佳は手製の看板を見上げる。せっかくここまで来たのだからもう少し待っていたい気もする。さてはて、どうしたものか。
「オラは女を道具のように扱う奴は許せないけど、どうしてもって言うなら奴隷になっても良いだで? 許可するで? 欲しい? オラが。オラの女神になる権利が。争いになるだで? あま、あめ、天津やっけ? あの姉妹もガチ恋だで。覚悟、ある?」
美佳の眉がぴくりと動いた。アイドルになる以前から付き合いのある友人の名が醜悪な小男の口から出た為だった。
ああ。面倒なことになったにゃん。胸の内で呟く。
「覚悟ある?」
順佑がニタニタと笑いながら、美香へと更ににじり寄る。
「でもオラを迎えに来たのは褒めてやるだで。オラが書いた神作の通りに来たのは偉いで? 抱き寄せてからの頭撫で撫でしたるけん。こっち来い」
美佳は顔を伏せ、黒いネイルを施した長い爪を噛んだ。
「照れてるだで? 可愛い。処女、処女やな、この反応は。んー。百点。オラの為に我慢して偉いで。アイドル……アイドルなんて枕が当たり前やのに、立派なことやで、ほんまあ。男に媚びるしか能がないから当たり前やけど、当たり前のことが出来て偉いで、ほんま。出来へんのも多いからなあ」
白い歯の間で黒い爪の先がガリッと音を立てた。
「他の奴も? 処女? みんな処女? オラのこと好き? みんなで奪い合ってる? ガチ恋? 今濡れてる? 濡れてるんかなあ……確かめんとなあ……嬉しい? オラがここにおって。にゃんた?」
「……」
「……照れるのは結構なことです。けど、大切なことを忘れてませんか。オラは誰?」
「……」
「はあ、まったくまったく。雌猫は気まぐれっちゅうことやな。ほれ、撫でてやるけん。にゃんた」
全ての現実を置き去りにして妄想の彼方へ至り『覚醒』した順佑は、確信していた。その赤い頭に手を乗せてやれば、夢が叶うと。ずっと濡れてました。私は浜谷様のガチ恋です。私が浜谷様には決して勝てない馬鹿な男達に媚びて稼いだ、一生遊んで暮らせるだけの百万円を差し上げます。だからコラボ配信してください。そう懇願するに違いないと。
「触ろうとしてんじゃねーよ。つか、にゃんたって誰だよ。浜谷」
ドスの効いた低い声だった。
順佑は心臓が凍りついたような顔をして辺りを見渡したが、誰かが来た様子はない。
「黙って聴いてりゃあいい気になりやがって。訳わかんねえ事をボソボソ、ボソボソと。んなもん壁に向かって言ってろや」
ゆらりと立ち上がった美佳は、気だるげに背を丸めているが、それでも尚、順佑の顔を見るには視線を下に向ける必要があった。
「てめえ、あれだろ? ブリジョボプレイとかいう。知ってんだよ全部。最近はきんめえ妄想垂れ流してるんだってな? なあ? あれ読んで誰が発情すんだよ。てめえんちのゴリラか? なあ、オイ聞いてんのかよ」
「だ、だで……?」
順佑は後ずさりながら首をぷるぷると横に振っている。
「んだよ、その鳴き声。ふざけてんのか? ああ、あれか。てめえの得意なおふざけか。そうだよなあ? その腐ったピーナッツの天辺に黒カビが生えてるみてえな頭も、ガキかジジイかわっかんねー顔も、務所上がりでももう少しマシなもん着てるとしか言えねえようなだっせぇ服もおふざけだもんな? なあ? おい、人生おふざけ野郎」
順佑は信じられないものを見るような顔で、美佳からじりじりと後ずさっていく。
「何か言えや。てめえから女に声掛けておいて何も言えませんって馬鹿かよ。脳みそがおふざけしちまってんのか? なんとか言ってみろよ。なあ? 聞かせてみろや。ドアにぽこちん挟んで喜んでる様な奴と、アタシの膜に何の関係があんだよ。おい、なあ、おい」
低く冷たい声音と獲物を狩り立てる猛獣の目が、順佑を追い詰めていく。順佑に出来ることと言えば、お得意の現実逃避だけだ。
アンチが、アンチが、アンチが、アンチが、アンチがアンチがアンチがアンチがアンチがアンチが。
アンチが悪いと自分に言い聞かせたいものの、眼前の現実と妄想のアンチを繋げる案が思い浮かばない。結果、上唇をじゅぽじゅぽと吸いながら頭の中でアンチがアンチがと、唱え続ける他にないのだった。
「なあ、きめえからそれやめろや」
順佑がビタッと唇の動きを止めた。
起死回生の一手。覚醒前の順佑であれば、既に逃げ帰っていただろう。
だがっ! オラは! 覚醒したっ!
ここへ至って尚にゃあやしゃが自分を愛していると妄想することはもちろん、被った猫を投げ捨てて激怒している美佳の姿をアンチのせいにして自分を慰めることもできない。
ならば出来ることはただ一つであった。順佑は少しでも彼女に嫌な思いをさせたい一心で、激しく音を立てながら唇を吸い始めた。
美佳は一瞬酷く暗い顔をした後、その網タイツに覆われた長くしなやかな脚をビュンと高く上げた。
順佑がぎょっとして見上げた先に、美佳が履いているサンダルの底があった。視界の端にスカートの中が映るも、もはやそれどころではない。
「このまま踵をそのピーナッツ頭にぶち込んで地面にめり込ませてやろうか? 土竜らしくよお。それとも」
美佳が猫のように身をしならせる。華麗なサマーソルトキックが音を立てて空を切った。
「こうやって蹴り上げて金玉ぶっ潰してやろうか? ボンドみてえに皮肉の一つでも言えたら少しは見直してやんよ。どうする」
既に次の蹴りを放つ体勢を取った美佳を前に、順佑の覚醒状態が切れた。
じょっ。じょわああ。
広がっていく染みを一瞥し、美佳は吐き捨てるように言った。
「きったねえし、なっさけねえなあ、お前」
頭が真っ白になった順佑は、帰巣本能によって浜谷家へと駆け出した。
何時から居たのか田中の姿がすぐそこにあったものの、今の順佑には逃げ帰ることしか考えられなかった。
田中は順佑の背に哀れみの視線を送ってから、美佳へ向かって言った。
「お、お見事でした」
「たっ、田中さん!? 見てたんですか!?」
「ええ、まあ……」
「さ、さっきのは、あの……ほら、演劇とかもやってるんで。その時に身に付けた元ヤンの演技を思い出して……ひっ、必死だったんですよ!」
「そっすか……」
「ほ、本当なんです! こ、怖かったにゃ~ん! おめめウルウルッ!」
顎の下に両手の拳を持っていき、大げさな程の上目遣いで涙を溜めて見せる。
「そういうの良いんで」
流石にドン引きした田中が右手を前に出してブリッ子仕草を制した。
そもそも、と田中は思う。あんなの見せられた後じゃ、殺傷力に重きを置いたマイナー格闘技の臨戦態勢の一種にしか見えないんだよなあ、と。
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