|
||||
|
||||
| ※ 【律令制で定めれた国司の官名】 国司とは朝廷から各国に派遣され、今で言う知事にあたり、守(かみ)はその長官、介(すけ)は次官にあたる。 軍事部門では「将・佐・尉・曹」と書いた。明治期以降の軍隊でもこの字に大中少をつけて階級の呼称にした。 武士階級の呼び名の名残からか?、「○○さ(佐)」と呼ばれる旧家があるが、さわたり(佐渡)の地名の場合 『佐(さ)』と呼ばれるクラスの「高い身分の武士が旧信濃川を渡った場所」から発生したと解釈できるのである。 ◆ 筆者の「謙信さわたり(佐渡)渡河説」について、 後日、ある歴史研究家からも、 「うん。海音寺潮五郎も 歴史小説の中で、どこをどう調べたものか?『謙信がさわたり(佐渡)を渡った』と書いていた。」との話だった。 |
||||
| 謙信(景虎)は1545(天文14.10)の凱旋。 1546(天文15.2)再攻撃時と凱旋の3度、杣木を通った。 | ||||
|
||||
|
||||
|
兄の弥六郎(景康)の兄弟の者(景虎(謙信))にござります。黒田の思いもよらなかった件につき、 平三(元服名) 十月十二日 景虎(花押) 村山与七郎殿
|
||||
|
|
||||
1543年 14歳 元服して平三景虎と名乗る。長尾家領統治のため、三条城及び栃尾城に移り、城主となる。 1544年 15歳 近隣の豪族たちが景虎を若輩者と侮り、攻撃を仕掛けられるものの、 栃尾城代本庄氏、三条城代山吉氏、栖吉城主長尾氏の協力もあり、敵を見事撃退。初陣を飾る。 1545年10月 16歳 上杉家家臣黒田秀忠、景虎の兄・長尾景康を殺害して黒滝城に立て籠り謀反を起こす。 晴景の命により景虎は、直ちに秀忠討伐の軍を向ける。その時秀忠は降伏する。 1546年2月 17歳 黒田秀忠が再び黒滝城にて謀反。景虎は越後守護上杉定実の命により黒滝城へ出陣。 大いに破り、黒田氏を滅ぼす。 (二度あることは三度ある・・・・・・???) ------------------------------------------------------- 『上越市史 資料編3 古代・中世』 782号 長尾晴景書状(写) 『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 134号 長尾宗心書状(写) 天文16年(1547)10月 長尾景虎、守護代長尾晴景に反抗した黒田秀忠(文亀年間に越後上杉家の内衆として黒田良忠がいた。秀忠は守護代長尾家に 近い人物だったが、ここ数年は晴景に反抗的な態度を取っていた)を討伐するために上府し、守護代側の正当性を示して味方を募ると、 越後上郡国衆の村山与七郎が、「桃井(越後上杉家の一家衆、又は越後上郡国衆か)方」と談合して参戦を約諾したので、 10月12日、その決断を評価するとともに、反乱を鎮圧した後には、長尾晴景に軍忠を上申することを約束した。 |
||||
|
||||
|
【フリー音楽素材 H/MIX GALLERY 秋山裕和 http://www.hmix.net/】