松本聡香
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松本 聡香(まつもと さとか、ペンネーム、1989年4月6日-)は、日本の著述家。オウム真理教の元幹部で、同教団教祖の麻原彰晃(本名:松本智津夫)元死刑囚の四女で弟子。家族の中で最もステージの高い正報師の地位にあった。
誕生 |
1989年4月6日(36歳) |
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現在の活動 | 著述家 |
人物・略歴
編集1989年、富士宮市にあるオウム真理教教団施設、「富士山総本部道場」にて生まれる。オウム真理教では、唯一人の正報師という、麻原に次ぐ宗教的位階にあった。自分の霊性が高いことは自認している[1]。
出産の際に教団幹部の遠藤誠一が立ち会った。その際に遠藤は恋心のようなものを抱いたと言う[2][1]。
1995年、6歳の時に地下鉄サリン事件が起きた。事件当日、父は「今日はいいことが起きているんだよ。」と冷たく笑ったという。その後、麻原は複数の幹部らと共にサティアン奥へ歩いていった。
同年5月16日までにオウム真理教教祖、麻原彰晃を初めとする教団幹部らが次々に逮捕されていき、母である松本知子も逮捕され家族らは親不在となった。
15歳の時にオウム真理教事件を知る。それまでは宗教問題で拘束されていると思っていたと手記には書かれている[1]。「私が事件のことを知ったのは母の元を離れていた中学2年の時でした」とインタビューに答えている[3]。
事件について知ることになったきっかけについて、中学時代、社会科の先生が「オウムはヒトラーよりましだ」という発言を行い、それをきっかけとして麻原の弁護団長だった渡辺脩弁護士の著書『麻原を死刑にして、それで済むのか?』を家の中で見つけ出し読んだと述べている[4]。しかし、別の機会には、渡辺脩弁護士から『麻原を死刑にして、それで済むのか?』という著書が送られてきたことがきっかけだった、と食い違うことを述べている[3]。
2006年に家出し、それ以降、一度も家に帰っていない。
その後、江川紹子が四女の「家族や教団の束縛から逃れたい」という依頼を受けて未成年後見人となる。しかし、四女は江川紹子に隠れて独自の麻原崇拝のグループを形成する動きをしたため、江川紹子は後見人を辞退している(後述)。
2017年11月、親との縁を切りたいとして、父母に対する推定相続人の廃除(相続廃除)を横浜家裁に申し立て、認められたことを会見で明らかにした。Alephに対しては「教団の言うことを丸呑みにするのではなく、自分自身で行動してほしい。」と投げかけた。家族から距離をおいており、父親である麻原について「父親のことを、私は今も昔も父親とは思えません。私が生まれた時、父は既に教祖であり、『グル』でした。私は一度も直接、『お父さん』と呼んだことはありません。最初から尊師でした」と述べ、母に対しては「産んでもらった恩はあるが、育ててもらった恩はない」と断言した。その上で、「著しく問題がある親との縁を切れる制度があった方がいいと私は思います」と家族と縁を切るために推定相続人廃除の申立をした理由を述べた[5]。なお、四女は、麻原のことを詐病だと述べていた。
しかし、2018年7月、麻原の執行後、執行があった場合の遺骨を自分に引き渡すように、麻原存命中から法務省などに対して計5回にわたる申し入れをしていたことが明らかになった[6]。
麻原は執行時に自分のことを詐病だと言っていた四女を遺体引受人に指名した[7]。麻原と縁を切りたいと言いつつ、麻原崇拝のグループを作ろうとしたり、遺骨を引き渡すように申し入れていたことについて、「麻原と四女の間に、四女を教祖とする新教団構想があったのではないか」という指摘もある。
2018年現在、麻原の死刑執行に伴った遺骨を巡って姉の松本麗華や実母と対立している。四女とその弁護士滝本太郎側は「埋葬地の聖地化を防ぐため海に散骨する」との姿勢を示している[8]。そして、遺骨を自分に引き渡すようにと東京家庭裁判所に求めたが、認められなかった[9]。
『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』と題する手記を出版している。
手記には、「私には神が見えるし、霊も見えます。予知夢も見たことがあるし、前世のように思える夢も見たことがあるのです」「『見える父』と会話することもありました」「中学二年生のとき私の意思とは関係なく再び父の声が聞こえるようになる」、「次の日に何が起こるかが事前に予知できてしまう」などの幻聴、幻覚があった。このため、精神科で診察してもらい、統合失調症や解離性障害の幻覚や幻聴をなくす薬を処方されたが、見えているものは消えなかった。 四女本を執筆した2010年3月20日時点でも、心の病と闘っている等と記している[1]。
2015年のインタビューでは、「被害者の方々、ご遺族の方々に、申し訳ないっていう気持ちで、謝罪させて頂きたいという気持ちです」と被害者への謝罪の気持ちを表明しているが[10]、手記では、ホスゲン事件の被害者である江川紹子に対して「殺したいとまで思いました」と述べている[1]。このような矛盾から「社会から同情と称賛」を得るためのパフォーマンスに過ぎないとの指摘もある[11]。
一時未成年後見人を務めた江川紹子は、四女のことを「彼女は語り尽くしたり、語り疲れることはなく、むしろ語れば語るほど、『物語』を膨らませ、その中の『健気に美しく生きる主人公』と現実の自分とを混同していったようだ」と述べている。
教団との関係
編集オウム真理教時代は、麻原に次ぐステージの正報師であった。
2000年、事件を起こした責任を取る形で、兄弟はオウム真理教を脱会[12]。 2006年、悲惨な事件を引き起こした者の身内なのに、教団から得たお金で何食わぬ顔で贅沢をして暮らしているということを、おかしいと思うようになり、家出をしたとインタビューで述べているが[13]、自著では教団内部の権力闘争が家出の直接の原因、母に監禁されそうになったため荷物をまとめて家から避難したと書いており[1]、家出の理由ははっきりしない。なお、姉は、「自分のいうことだけを聞いてくれる人を集めたい」と言って教団のトップに立つために家出をしたと言う[14]。
家出をした時、家族はもちろん、教団関係者とも決別したと自著では述べている[1]。ジャーナリストの江川紹子に四女が送ったメールには、<もう父の娘という理由で誰かから援助を受けて生きたくない>と書かれていた[15]。
しかし、家出後も信者と連絡をとり、信者の紹介でしばらくは元信者の家を転々とする生活をする[1]。また、家を出てほどなく、上祐史浩、野田成人らと会って、近況を報告したり、談笑するなどしている[1]。
その後、2006年、「家族や教団の束縛から逃れたい」と江川紹子に連絡を取り[16]、2007年には江川紹子に後見人になってもらい、江川紹子の用意した家で生活する。後見人になってもらう際に、①教団の信者とは接触せず、②教団の活動をしない、という約束を江川としたが、その約束を無視する行動を始める。
具体的には、教団の信者や元信者らと接触して、「私には尊師から(霊的に)コンタクトがあり、尊師の意思がわかる。私について来なさい」と話したり、信者・元信者らに対して、麻原と同じように、オウム・アレフにおける宗教上のステージ(階級)を付与し始め、独自の麻原崇拝のグループを形成する動きである[17]。
この麻原崇拝グループ形成の動きについて、野田成人は、「2007年頃、『自分は最終解脱した』と述べて、在家出家の現役・元を含めた関係者に色々とちょっかいを出した。「あなたはアストラルヨーガを成就した」「あなたはマハームドラーを成就した」このように言われた人達もいた」と明かしている[18]。上祐史浩が代表を務めるひかりの輪もホームページで、四女が麻原崇拝グループを結成しようとしていたと述べている[19]。
この行動が江川に露見し、2007年8月中旬、「宗教に戻ります」との伝言を残し、江川紹子の元から失踪した[20]。
そのことにつき江川は「四女は、松本死刑囚を『グル』としてあがめる気持ちが深まっていた。教祖の後継者という自覚で行動している者を支援できない」と説明し[21]、後見人を辞任している。江川紹子の元から失踪後は、父親のかつての弟子たちを頼った[20]。
その後、滝本太郎弁護士と知り合い、教団とは決別したと述べているが、麻原の遺骨の引き渡しを麻原存命中から求めていた。
三女ら周辺の信者グループについての告発
編集この遺骨の引き渡しについても、四女は、次女・三女らと訴訟で争う等して対立した。前記のとおり、兄弟姉妹が教団から得たお金で贅沢をして暮らしていることをおかしいと思ったというが、具体的には、次のように述べている。
四女は著書(2010年発刊)で、三女ら松本家の周りには20人近くにのぼる側近(お付きの信者)が存在していると述べている。彼らの多くは事件に直接は関わっていないが、洗脳やマインドコントロールといった教団の権威を高める活動に貢献した者も多く、正悟師に次ぐ陰の幹部とも言うべき存在かもしれないという。高学歴者が多く、三女の指示ならば犯罪行為もいとわないという姿勢は、事件に関わった元幹部たちと変わりないともいえるのであって、実際に、2000年の旭村の長男連れ去り事件など、違法行為を行った者もいて、「教祖奪還をどうするか」という話し合いをしていたこともあったと指摘している。そして、表向きは脱会して会社員や自営業などをして無関係を装ってはいるものの、稼いだ金を献金して経済的に松本家を支え続けているという[1]。
そして具体的に十数名ほどの信者の名をイニシャルで挙げ、その各々について学歴・職歴・教団内での経歴・特技などを示し、金額がわかる者については、毎月どれほどの金を松本家に献金しているかを述べ(たとえばネットオークションで月に60万円を献金する者、プログラマーとして月に200万円を稼いで献金し、購入したマンションを松本家の住居として提供している者など)、三女ら周辺のアレフを表向きは脱会した信者グループの存在について告発している[1]。
なお、三女は、教団などつぶれても構わないので、ついてこられる信者だけでやっていければいいという考えで、そうした信者たちを100人ほど抱え、世間にばれないよう活動していくつもりだったと、四女は明らかにしている[1]。
消失したと見られる麻原への信仰心
編集四女は、上記の通り、三女らがオウム事件被害者への賠償を行わず、周辺の信者らの資金援助を受けて贅沢な暮らしをしていることを批判し、三女らが周辺信者らに指示して旭村事件などの暴力的な犯罪を起こした点において、父親と同じ暴力性・反社会性を持っているなどと指弾している[1]。
2015年には父親を否定し、その事件を謝罪するとともに、テレビカメラの前で、教団復帰を図る次男に直談判して、復帰をやめさせようとした[22]。
同年(2015年)に発刊された三女の著作の記載に対しては、社会を欺く多くの虚偽があるとして厳しく批判したことが、フジテレビの特集番組で報道されるに至った[22]。
2017年には、上記の通り、両親との縁を切りたいとして、父母に対する推定相続人の廃除(相続廃除)を横浜家裁に申し立て、認められている[5]。
2018年には、三女らと異なって、麻原の死刑について「罪の重さを考えると死刑の執行以外に責任を取る方法はないと思うので、当然だと思いますし、執行されるべき」と述べた[23]。そして、上記の通り、東京拘置所が四女を麻原の遺骨の引き取り先とした際には、引き取ったならば散骨する意思を代理人弁護士の滝本太郎を通して表明するなどしている[8]。
こうした一連の言動から見れば、途中には不安定な時期はあったと思われるが、2025年現在の段階では、麻原への信仰心・帰依心は見られないとも考えられる。
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m 『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』徳間書店、25-26,34,45-49,140-149,169,172,181-184,240頁。
- ^ “麻原の四女が語ったオウム真理教・地下鉄サリン事件の裏にあった一つの事実”. ダ・ヴィンチニュース. 2017年11月21日閲覧。
- ^ a b 『創』2014年3月号
- ^ 『週刊新潮』2008年1月31日号
- ^ a b “「父母と縁切りに」教祖四女に推定相続人の廃除”. 2017年11月21日閲覧。
- ^ AbemaTV2018年7月11日
- ^ 『毎日新聞』2018年7月9日
- ^ a b “四女側「遺骨、太平洋に」=警備など国に支援要請-オウム松本元死刑囚”. 時事ドットコム (時事通信). (2018年7月11日) 2018年7月20日閲覧。
- ^ “オウム松本元死刑囚 遺骨受取人めぐる四女の抗告 高裁が退ける”. 2021年3月10日閲覧。
- ^ フジテレビ『スーパーニュース』2015年3月20日
- ^ “「被害者に謝罪」というパフォーマンス”. 2015年5月22日閲覧。
- ^ 『サイゾー』2008年9月号p.110
- ^ 『女性セブン』2010年4月1日号 p.51
- ^ “3.松本聡香 2”. 2015年5月8日閲覧。
- ^ 『週刊ポスト』2006年9月15日号 p.172
- ^ 『女性セブン』2006年9月28日号
- ^ “麻原四女の著書における、上祐代表に関する記載の誤りについて”. ひかりの輪. 2011年8月23日閲覧。
- ^ 元オウム教団幹部 野田成人のブログ 修行人間性6
- ^ “麻原四女の著書における、上祐代表に関する記載の誤りについて”. 2010年6月10日閲覧。
- ^ a b 『週刊新潮』2007年9月20日号p.141
- ^ 『東京新聞』2007年9月13日
- ^ a b “スーパーニュース”. フジテレビ (2015年3月20日). 2025年7月9日閲覧。
- ^ “麻原彰晃・死刑囚の四女が訴える 「親と縁を切れる制度を」”. HUFFPOST (2017年11月21日). 2025年7月9日閲覧。