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「私だけが生き残って、恥ずかしかった」 “海の特攻”マルレ 80年隠し続けた元隊員

2025年7月12日 8:03

■16歳で二階級特進…曹長に  「申し訳ないが誤りだった」

訓練を終えた内野さんは、「移動」と聞かされ船に乗せられた。

内野さん
「(広島の)宇品に行った。船舶司令部がある。そこで新しい靴・新しい制服もらったんですよ。まあ、うれしくてたまらんかったですなあ。それが済んだらすぐに下関に、門司港に。門司港に行く時もまだ(戦地に行くと)分からん。そしたら、門司港にいたら他の部隊がいっぱい来ているのよね、岸壁に」

そして、内野さんを乗せた船は、門司港から福岡・三池へ。石炭を積みながら、内野さんはそこで、思いもよらない言葉をかけられる。

内野さん
「出港して初めて、戦隊長が『全員上にあがれ』と。なんだろうかと上がった甲板に、そうしたら『今見えているのが日本だ、お前たちが生まれた故郷の日本だ、よく見とけ。これでお前たちが日本の山河を見るのはこれが最後だぞ』と」

「初めて『今からお前たちはフィリピンの(ルソン島の)リンガエン湾に配置になった、そこに行く』と」

戦争に行くと聞かされたのは、それが初めてのこと。そして「日本を見るのは最後だ」とも言われた。

内野さん
「そのときには(すでに)覚悟を決めていた。仕方ないと。明くる日ね、今まで伍長だった。『階級章を取れ』と(戦隊長から)言われた。新しい階級章が来た。ところが(軍曹を飛び越して)曹長の階級章が来たんだよ。二階級特進したんですよ」

「今まで伍長だったでしょ? 軍曹・曹長となるんですよ。下士官の一番上ですよ。私なんかびっくりしたんですよ。16歳ぐらいでね。それが『申し訳ないが戦隊長の誤りであった。だから元に戻す』と。勝手なことですよね。だから元の伍長につけ替えた。そのときは、なんちゅうことかと思ったんですよ」

■マルレで相手の船までたどり着けると思っていたのか

そして、フィリピンへ向かう途中、敵の機動部隊が北上中との知らせが入り、内野さんたちの船団は、全部避難した。

内野さん
「私たちの船は台湾の高雄にいた。それが、その晩にやられたと。爆撃をくらって。もうひどかったよ。ばんばかB29が落とすしね、もう一気に高雄は焼け野原になった。ひどかった」

「我々は(輸送船を)下りていた。そしてね、岸壁に近い旭国民学校というところに、そこに入っていたんです。だから命は助かった。それで明くる日に行ったら、ああって…岸壁に(輸送船が)沈んでいるの。それで高雄にくぎ付け」

訓練は、台湾・高雄でも続いた。

内野さん
「(マルレで)貨物船を狙う。貨物船は上陸前の貨物船だから、兵隊がいっぱい乗っているのよ。一番効果的ですよ。上陸用の兵隊が乗っているんだから。それが私たちの目的だった」

「そして言うことは『お前たちが1人死んだら、1艇1艦じゃないんだぞ』と。『お前たちが1人死ねば、相手は2000人ぐらい死ぬんだぞ』と。じゃあ、戦争に勝つじゃないかと、そういう理屈。そりゃそうでしょうけれど、数字から見れば」

「逆に考えてみたら、アメリカ側からしたら、あんな(マルレみたいな)細かい船が来るわけない。ババンとやってしまえ、100人で撃てといったら確実に死にますよ。探照灯をばーっと照らして、昼のようにして上から照明弾を落として明るくして、アリみたいな船をバンバン撃って。成功せんですよ」

内野さん自身、当時、マルレで相手の船までたどり着けると思っていたのか。

内野さん
「私は信念としては、成功すると思っていた。行けばぶち当たるでしょう。ぶち当たれば、破裂するよ。これは成功する、絶対すると」

「私たちの八戦隊の中でね、一中隊、二中隊、三中隊とあったんですよ。その二中隊が先遣隊で(フィリピンに)行ったんですよ。他の船に乗って。全部…戦死(と聞かされた)。1人も残っていない、二中隊は。かわいそうにな。俺と一緒に外出していた者もいた、二中隊に。行かないでよかったのに、二中隊だけ先にやって、かわいそうにな、あいつら。かわいそうだよ」

昭和20年も3月がすぎると、内野さんの中隊にも出撃命令が下る。そのときの戦隊長の訓示には、内野さんの思いもよらない言葉があった。

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■戦隊長が「生きて帰れ」
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