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「文章・描画・造形・朗読によって表現される虚構」の規制をめぐる議論と、その波紋について


はしがき


 本稿は、2021年3月18日に、ソウル大学日本研究所が主催した国際学術会議「2020年代以降日本オタク文化の争点と展望」の第1部パネル「オタク文化と表現の自由」において、筆者が行った口頭発表を、書籍掲載用にまとめ直した草稿段階のメモである。完成原稿についてはソウル大学から韓国語で出版される予定となっている。


1.はじめに


 まず初めに、本稿の元となったパネル における筆者の立場について、若干の説明をする必要がある。私は他の登壇者の多くとは異なり、文化研究ないしはその隣接分野の研究者というわけではないからだ。
 筆者の立場を一言で説明するとしたら、「情報法政策に関するNGOに所属して、基本的には表現の自由を擁護するという立場から、政府や議会や利害関係者との政策調整にあたる人間」ということになる。最近の活動では、著作権保護のためにインターネットの情報流通をどこまで規制することが許されるのかとか、誰かの名誉権やプライバシー権に抵触する新聞や雑誌のバックナンバーの図書館における保存の在り方といった公共政策に関して、議論をしたり調整をしたりといった仕事をしている。
 そうした活動の一環として、2014年の日本の児童ポルノ禁止法の改正審議で争点の一つとなった「漫画規制検討条項 」(与野党の合意で削除となった附則条項)の問題等において、表現の自由を擁護する立場から働きかけを行ったことがあり、シンポジウムには、そうした活動の紹介報告という形でご招待を頂いた次第である。
 公正を期すため、あらかじめお断りしておかなければならない点が3つ程あるように思う。
 冒頭にも記したように、筆者は文化研究ないしはその隣接分野の研究者ではない。
 それから2つ目に、シンポジウム全体のテーマである「オタク文化」というものにも、個人的に馴染みがない。いわゆるオタクの文化やコミュニティと接点があるとすれば、それは本稿のタイトルにあるような表現の規制の問題に取り組む中でできたものである。したがって、「オタクとは誰か」「オタク文化とは何か」といった事柄についての深い考察は、他の論者の方々のご議論にお任せせざるを得ない。ここではあくまで、世間一般の印象として、オタクと呼ばれる人たちと親和性があるとされているジャンルのコンテンツ、すなわちライトノベルや漫画やアニメやコンピューターゲーム等のコンテンツや、その派生的な造形物であるフィギュア、プラモデル等の範囲について扱う。(表現規制の議論においては、オタクを自認する人たちによって、「二次元」という言葉が用いられることがよくある。この「二次元」という言葉も厳密な定義付けは難しいだろうが、だいたいの経験則としては、先ほどあげたような表現のジャンルを大まかに括って指し示す言葉として使われているように思う 。)

 ただし、この「二次元」という言葉は、「実写」(三次元)と対置する「非実写」(二次元)としての意味合い、「実在する人物」(三次元)と対置する「フィクショナルなキャラクター」(二次元)としての意味合い、3D表現に対置する2D表現としての意味合いなどが、その都度ごとに曖昧に絡み合って用いられる傾向があり、取扱いには注意が必要である。

 3つ目に、これはもしかしたら蛇足かもしれないが、筆者はヘテロセクシュアルでもバイセクシュアルでもない。本パネルにおいて、筆者が招聘のメールで主催側から主として求められていた役割は、「オタク文化」の中でも、とりわけ「男性向け」と呼ばれるジャンルを念頭に置いた「オタク文化と表現の自由」の問題についての発表だったが、このいわやる「男性向け」ジャンルというのは、ジェンダーないしはジェンダー・エクスプレッションとしての男性向けというだけでなく、セクシュアリティとしての意味合い、すなわち、女性を性的対象とする(とりわけヘテロセクシュアルの)男性に顕著とされる性的興味を想定した性表現(セクシュアル・エクスプレッション)という意味合いも色濃いジャンルの名称のように思う。しかし筆者は女性に対する性的指向がないため、その辺りについても当事者として何かを語ることはできない。
 言い換えると、筆者から見たオタク(あるいは「男性向けオタク文化」と呼ばれているような文化コミュニティ)の人々というのは、ある類型の表現規制問題における、かなり大きな「当事者」の一群ということになる。
 本稿では、最初に表現の自由・表現規制の問題について、私たちのような活動家が、どういうフレームワークで取り組んでいるかについて極簡単に紹介をする。それから、そうしたオーソドックスなフレームワークに照らして考えた際に、オタクの人々と関連した「表現の自由」の問題というのが、どういう特殊性があるのかという点について触れていきたいと思う。


2.表現の自由を擁護する活動


 日本国憲法21条1項には「表現の自由は、これを保障する」とある。この「保障する」は通説的な解釈に従えば、表現規制をどんな場合であっても一切やってはならないという趣旨ではなく、相対的な禁止事項として定めた条文ということになる。原則としては自由でなければならないことを謳う一方、政府による規制が例外的に許される場合があることを、あらかじめ想定しているわけである。
 このような表現の自由の保障の在り方の大枠は、条文の書きぶりは異なっていても、自由主義体制の立憲国家においては、ある程度は似通っている 。例外的に表現規制が認められるかどうかについて、表現以外の一般的な行為の自由を制約する場合よりも、より厳密に問われることを「表現の自由の優越的地位」と呼ぶ。憲法裁判においては、規制の目的は必要で正当なものであるのか、選ばれた手段は目的に照らして合理的なのかといった事柄の性質と程度が吟味され、規制によって実現しようとする利益と、規制によって制約される自由とが天秤にかけられるというわけだ 。
 表現の自由を擁護する活動においては、筆者自身も含め、基本的にはこのフレームワークにおいて議論を展開することになる。活動の場は、メディア等での社会的議論の局面であったり、国会における法案の審査の局面であったり、当局の捜査や立件に対応しての司法支援の局面であったりするが、そのいずれにおいても、表現規制の目的と手段を吟味するということが、表現の自由を擁護する仕事のほとんどだ。
 憲法上の原則、あるいは裁判所の憲法判断のプロセスと同様、例え結果的に規制される表現であったとしても、まずは表現の自由が保障されるからこそ、本当に規制していいのかどうかを厳しくチェックするというオーソドックスな枠組に沿った活動を、我々はしているつもりである。しかし、世間一般において、こうしたフレームワークで表現の自由を考える人は極めて少なく、政治問題や社会問題に関心の高い層の人々であっても、「表現の自由という太鼓判が押されるべき正当な表現」か、はたまた「表現の自由など端から認めるべきではない邪悪な表現」か、といった辺りの軸で議論をしていることが多いのではないだろうか。「悪質な表現に、表現の自由というお墨付きを与えてしまうことそれ自体が、人権という崇高な理念を毀損するものだ」という考え方の人も世間には少なくないように思う。
 そしてもう一つ、表現の自由を擁護する活動で重要な活動が、それが表現の自由の論点に当たることの議題設定をすることである。例えば、法令による禁止は、表現の自由の論点だということが一目瞭然だが、補助金をカットするといった手段の場合、それが表現の自由の論点にあたることを主張・立証しなければならない。あるいは、政府が規制するのではなく、大企業や業界団体によって遮断されたような場合に、表現の自由の論点であると位置づけようとしたら、それが政府による表現規制と実質的に同視できるような問題だということを主張・立証する必要がある。図書館とか美術館とか大学とか公共放送といった特殊な社会的役割を担う機関の在り方というものもある。そういった場面において、実質的に表現の自由を守るためには、「表現の自由」を拡張・派生させなければならない。この表現の自由の論点かどうかを主張・立証して、アジェンダ・セッティングしていくというのも、世間一般ではあまり意識されないプロセスではないだろうか。
 後で、オタクの人々が掲げる「表現の自由」と、通説的な憲法論・人権論とのズレみたいなことにも触れるが、そもそもオタクの人々の認識だけでなく、世間一般で呼ばれているところの表現の自由と、我々のような活動との間にも、少なくない齟齬があるということは、まず留意していく必要があるように思う。

 もちろん厳密に言えば、各国ごとにその枠組には違いも多い。日本の裁判所の表現の自由についての憲法審査基準と外国のそれとの比較については、松井茂樹2020『表現の自由に守る価値はあるか』などが分かりやすい。
 なお、本稿で扱うような虚構表現を規制する目的と手段の関係(関連性や比例性)が、表現の自由とのバランスの観点から正面的に争われた憲法裁判としては、合衆国最高裁でバーチャル児童ポルノ禁止条項の合憲性が争われた「アシュクロフト司法長官対言論自由連盟事件」(判決2002年4月16日)、スウェーデン最高裁でマンガ絵の所持が児童ポルノ犯罪に該当するかが争われた「シモン・ルンドストローム事件」(判決2012年6月15日)、ケベック州上級裁判所でホラー小説が児童ポルノ犯罪に該当するかが争われた「ヘンゼルとグレーテル事件」(判決2020年9月24日)などがある。


3.「オタク文化と表現の自由」とは何か?


 本パネルのタイトルでもあった「オタク文化と表現の自由」とは、そもそもどのような議題なのであろうか。
 法令で「オタク」を定義することは現実的ではないし、実際にそのような条文も存在しない。同様に、「オタク向け作品」とか「オタク系コンテンツ」といった表現類型も、法律によって定義されているわけではない。「萌え」や「BL」といった言葉についても同様である。
 しかしながら、オタクを自認する人々が、当事者意識を持つ表現規制の類型というものが存在することを、経験的に私たちは知っている。「オタク(的なコンテンツ)が規制された」と、オタクの人々が直感する表現規制の類型、あるいは、これはオタク文化の問題だと世間が直感する類型の表現を巡る社会的摩擦というものが存在する。
 表現の自由に関わる立法や法解釈やその他の公共政策を巡る議論の中でも使えるような形で、なるべく客観的に、オタクと呼ばれる人たちが中心的に当事者としてかかわってくるだろう表現の類型を抽出するとしたら、おそらくは私のこの文章のタイトルにもあるような範囲の事物になってくるのではないだろうか。
「文章・描画・造形・朗読によって表現される虚構」(以下、当該表現類型)。すなわち、ライトノベルとか漫画とかアニメとかコンピューターゲームとかの作品で、実写ではなく、フィクションであることが明示されていて、基本的には娯楽のための表現ということになる。
 しかしながら本パネルのテーマでもあった、「オタク文化と表現の自由」という問いとは、本当にそういう文脈の問いかけなのだろうか。その点についてまずは考えてみよう。
 当該表現に関係する法規制の問題というと、記憶に新しいところでは、2019年から2020年にかけて議論となった著作権法の改正問題があった。深刻化するマンガの海賊版対策を主な目的として、インターネット上に違法にアップロードされた著作物のダウンロードを、違法化・犯罪化する方法を巡って起きた議論である。現に商業作品として流通している単行本丸々一冊分や雑誌連載丸々一話分を海賊版でダウンロードしていく行為を何とかしなければならないことには多くの人が理解を示した反面、例えば有名漫画のコマを使ってSNSで面白い発言をするコラージュであったり、いわゆる「二次創作」の作品であったりが、それをダウンロードするだけで違法・犯罪となるかもしれないということについては、オタクの人々を中心に、それはやりすぎであり、自由な文化を殺すことにもなりかねないという反対の声があがることになった。それ以前から、著作権制度について国の審議会の議論にも関わってきた漫画家の竹宮惠子が反対論陣の中心にいたこともあり、二次創作同人誌コミュニティ周辺のオタク層などから大きな反対の声があがった。オタクたちの声に押される形で、政府与党は、いったんは内部手続が実質的にはほぼ完了していたフェーズにあったこの著作権法改正案を、総理大臣自らが慎重姿勢を示すという異例の展開で差し戻して、違法化・犯罪化の範囲を限定する方向での再検討を行うことになった 。
 2016年に議論されたTPP条約とその国内対応のための著作権法改正問題に関しても、似たようなことが起きていた。TPPによって著作権侵害罪の非親告罪化が締結国に義務として課されるかもしれないという情報が条約交渉中に漏れ伝わってくると、同人活動文化周辺のオタク・コミュニティがいっせいに動き出した。二次創作同人活動が、著作権者の意向とは関係なく、犯罪として扱われる社会規範が定着しかねないとの懸念からである。コミックマーケット準備会の共同代表である安田かほるらが、利害関係者として政府や国会の会合で意見を述べ 、与野党の有力国会議員らが参加するマンガ・アニメ・ゲーム議員連盟から政府への働きかけが行われた結果、総理大臣・経済産業大臣・主席交渉官の全てが、コミケや二次創作を守る趣旨のコミットメントを繰り返し表明するという異例の展開を見せ、その結果として、条約自体にも著作権法にもセーフガードが設けられることになった 。
 私の経験から見て、この2つの著作権法の問題は、オタクの人たちのコミュニティが、当事者として社会的・政治的に全力で声をあげ、その結果として成果を得た論点だったように思う。
 しかしながら、今回のパネルにおいてセッティングされた「オタク文化と表現の自由」への問いかけ、あるいは昨今の世間一般で、オタクと表現の自由の問題として念頭に置かれている何かとは、こういった文脈の話とはまた違うように思うわけである。
あるいは、アニメに登場する「タバコ」や「自殺」の描写が問題になることがある。世界保健機関からの勧告や、国内の各種自主規制機関のガイドライン、青少年健全育成条例の関係等で、原作の漫画にはあった描写が、アニメ化された時に変わっていたりする。市民団体等からも規制を求める声があがったりもする。こうした時にオタク層からの意見が出ることがある。
 しかしながら、おそらくこれも、「オタク文化と表現の自由」の中心的な問題とはみなされないのではないだろうか。
例えば、ネットの議論等を見ていても、「オタクは、自分たちがタバコ好きだから、喫煙シーンのカットに反発するのだ。彼らは日常生活において間接喫煙の加害者側であり、タバコの害について理解する気がないのだ」といった形での、オタクという属性に基づく人格的理由での批判みたいなものを目にすることはあまりないだろう。
むしろ、当該表現類型に関しては、著作権による規制や、タバコや自殺の描写の規制が、オタク層の間で相当に論じられている実態があるにも関わらず、オタクと表現の自由といったときに、これらが中心的な論点ではないと、オタク自身もオタクに批判的な側もが、ともに直感する何かがあるのである。
 さて、武器・兵器の表現が、残虐事件との関連や、「戦争賛美」という観点から、問題視されることがある。このトピックは、表現の自由とは本来論点が異なるはずの「サバイバルゲーム」や「モデルガン・エアガン」の規制の問題と、セットで議論されることが多いわけだが、この話題になると、このパネルにおいても想定されるところの「オタク文化と表現の自由」についての議論の核心に近付いているのではないだろうか。
 そして、「オタク文化と表現の自由」として、皆さんが直感的に想定するテーマの中心は、たぶん「暴力や差別の要素が相まった、特に性(ジェンダー、セクシュアリティ、あるいはその周辺)に関する表現の問題」ということになってくるのではないかと思う。日本で言うと、東京都の非実在青少年条例 で大きくインターネット上の関心事となり、児童ポルノ禁止法漫画規制検討条項を巡る国会審議へと続いた、いわやる「二次元」の「表現規制」の問題の中で顕著となった論点である 。
 この議論においては、立法事実として、「オタク」(特に男性のオタク)たちが想定されて、マスコミの報道等でも、オタク的なコンテンツの在り方だけでなく、オタクという種類の人間たちの存在そのものが議論の俎上に上がることになる。

 3月19日の第2部のパネルの方の質問チャットでは、「有害コンテンツ」についての日本での取扱いについての質問が出ており、「子どもが見なければ有害ではないという考え方には違和感がある」という趣旨のコメントがあった。一定の性質・程度を超えた性表現や暴力表現を含む漫画やゲーム等の「有害コンテンツ」については、日本では「有害図書等」あるいは「不健全図書等」という名称で、都道府県レベルの青少年健全育成条例によって規制が行われている。これらの条例の立法目的は、判断能力が未成熟な青少年にとって有害となりうるコンテンツに、青少年が触れてしまうことを防止するためのものであるから、その目的から逸脱しない範囲で規制は行わなくてはならない。判断能力がある(という建前になっている)成人が情報にアクセスできなくなるような規制手段を用いれば、それは過剰な手段ということになり憲法違反となる。よって規制の手段は、売り場の区分陳列や、青少年への提供の禁止といった限られた手段のみが用いられている。逆に、立法目的が成人も含めた公衆道徳を維持するための表現規制としては、刑法175条による猥褻表現規制がある。こちらは特定少数人以外への提供をほぼ全面的に禁止するという手段の法律であるから、逆に規制対象となる表現は「性的秩序を守り、最小限の性道徳を維持」(日本の最高裁の「チャタレー事件」1957(昭和32)年3月13日判決)するための非常に限定的なものでなければ憲法適合性を満たさないとなるだろう。現在の捜査当局の運用実務では、性器を視覚的に無修正で表現した場合のみが取締りの対象となっている。そういう意味においては、日本の青少年健全育成条例や猥褻規制は、表現規制の方法としては割と限定的なものとなっており、実在する児童の人身・身体という重大法益への差し迫った危険を防ぐ目的がある児童ポルノ禁止法制が強力な手段を用いるのとは、対照的な制度趣旨の法令ということもできるだろう。


4.「オタク文化と表現の自由」の論点の特殊性


 整理すると、オタクが当事者として感心を持ち、社会的・政治的に声をあげてきた表現規制問題は、ライトノベルとか漫画とかアニメとかゲームといった娯楽のための虚構表現に関わる規制全般であるところ、その中に、「立法事実」として、オタクという存在自体の是非・善悪のようなものが正面的に問われる分野というのがあり、それが「暴力や差別の要素と相まった性表現」といった分野ということになる。
 そこまで考えると、ようやく、そこでは何が論点になって、何が論点にならないかの、基本的なアウトラインというものが見えてくる。
 例えば、表現には「報道」という類型がある。実在の人物についての報道をするわけだから、名誉毀損や侮辱など、個人の人格的な権利とのバランスという論点が想定される。あるいは、「フェイクニュース」のようなことが倫理的な問題になる。イエロージャーナリズムのようなことも問題になる。しかし、フィクションであることが明示されている場合には、こういった報道で如実な論点については別の話ということになる。
 あるいは、表現には「実写ポルノ」という類型がある。出演者の人身の自由とか、身体の安全とか、人格的権利とか、そういった法益が論点となる。しかし、生身の身体を扱わない非実写の表現の方法の類型においては、人身の自由や身体の安全は別の論点ということになる。あるいは、特定の実在人物と紐づかないフィクショナルなキャラクターについての表現では、名誉権とかプライバシー権といった人格的権利の問題も生じることはない 。
 社会運動・政治運動としての表現という類型もある。「社会がこうあるべきだ」という比較的抽象度の高い提言もあれば、誰かが間違っている・不正をしている」という個別具体的な告発のメッセージもある。あるいは「どこそこへデモに行こう」とか、「どこかの会社をボイコットしよう」という具体的な行動の呼びかけが行われることもある。そうした場合、人々への呼びかけ・扇動のメッセージとの関係で、制約の是非が検討されることになる。例えば、トランプ前大統領が議会へ向かうことを呼びかけた発言のようにである。
 ところが、「オタク文化と表現の自由」の問題が難しいのは、表現の自由とバランスをとるべき反対側の法益というものが、どうも分かりにくい。表現規制の必要性を呼びかけている人たちでさえ、なかなかその理由を特定することや説明することには、苦労されているといえるだろう。
 最近の議論では、「社会的な風潮の形成の前提となる、人々の認識のようなものに、間接的に影響する場合があり得るのではないか」といった感じで語られることが増えてきたようである。
 それに対し、フィクションの自由を主張する人々の中でも、少し前に流行った言い方だと「データベース的に物語/キャラクターを消費する」といった態様でフィクションを受容するタイプの人たちとしては、何らかのメッセージを込めたコンテクストではないという認識になってくると考えられる。「そもそも、どんな社会的風潮も形成したくないし、人々の認識に間接的な影響なんてものを求めて表現しているわけでも、受容しているわけでもない」と、こういう立場が主張される。
 おそらく、ここが、オタクと表現の自由という論点を考えるときの、一つの大きなポイントになってくるだろう。というのも、他の多くの表現の自由の問題においては、発言の当事者は、表現の自由の抗弁は、普通は「予備的」に主張するのであって、一義的には、自らの発言についての正当性こそ主張するものなのだ。ジャーナリストが、「嘘の報道をするな。こんなフェイクニュースは規制するべきだ」と言われたとき、一義的に展開する反論は自分がした報道の真実性であろう。政治家が、「お前は売国奴だ。こんな政治団体は解散させろ」と言われたときも、一義的には自分の政治的信念の正当性で反論することだろう。あるいは同じく虚構のマンガやアニメという表現手法が使われていても、例えば石ノ森章太郎が自分の創作活動が理由に表現規制の当事者となったならば、一義的にはその作品に込めた作家的なメッセージに基づく反論があったのではないだろうか。
 通常、表現の自由を一義的に語る者がいるとしたら、それは当事者ではなく、表現内容そのものについては必ずしも賛成できなかったり、判断を留保したかったり、あるいはむしろ批判的であったりしても、それでも表現したこと自体を理由に処罰を受けたり、見解自体が不可視化されてしまうことの弊害を指摘するような立場の者なのだ。
 ところが、メッセージが存在しない表現だから、防御のロジックが一義的に表現の自由となるという点に、オタク的コンテンツの表現の自由の特殊性がある。表現(発信や受容)の当事者ではあっても、存在しない(と主張される)メッセージの当事者としての立場が引き受けられることはないからだ。
 これに対して、「いやいや、そういったフィクションにも、実在するメッセージの文脈というものは、実は存在するんだ」という立場からの反論もある。あるいは、現在のオタク・コミュニティの中で、居心地の悪い思いをされている一部のオタクの人たちからは、表現を規制してしまうことには反対ないしは躊躇しつつも、「責任あるメッセージを込めないオタク・コンテンツの作り方や、メッセージの文脈を切り離してしまうオタク的な物語の消費というのは、倫理的に間違っているのではないか」という批判が出てきたりもする。
 争点が非常に観念的なので、何となくオタクという生き方や気風のようなものが、現代的な人権感覚とマッチしない邪悪なものなのではないかという感じで立法事実としての議論がなされる。そして、それが「オタク的なコンテンツによる影響の有無」とか「オタクの人権感覚」みたいな議論となって、特にインターネット上の論争として広がっていくようである。
 ここで、冒頭で触れた、オーソドックスな「表現の自由の保障」を考えるフレームワークを思い出し、この問題に照らしてみてほしい。例外的に表現を規制することが許される場合かどうかを、規制の目的と手段から厳しく審査するという枠組で考えてみたとき、どうだろうか。
 目的としてもあまりにも抽象的すぎる。だから、手段として何をどう選びようがあるのかも、非常に抽象的で、連想ゲーム的にならざるを得ない。少なくとも何らかの表現類型を違法化ないしは犯罪化する法政策を支えられる程度の現実的な説得力には欠けるのではないだろうか。
 人文学的・文学評論的なご議論は大いにやって頂ければよいと思う反面、しかし、そうした文化をメタ的に分析していくような、非常に文脈に依存した、およそ解釈に決着のつかないものというのが、表現規制の目的や要件として入り込んでしまうことは避けたいというのが筆者の立場である。

 本パネルの聴講者たちからは、チャットでいわゆる「RPS」(Real Person Slash)についての問題提起が出ていたようである。文章や描画といった表現方法であっても、現に実在する特定人物についての性行為等を表現すれば、そこには人格的権利の侵害が生じ得る。このような場面で、先述の「二次元」という言葉は、表現方法が実写か非実写かという話と、表現される対象の人物が実在するか非実在かが混濁する場合があり、注意が必要である。


5.「表現の自由」の議題設定では、収まりきらない「オタクをめぐる論争」


 通説的な「表現の自由」の論点に限った話であれば、ここでフレームワークとしては終わりということになるだろう。あとは価値判断の話になってくる。
 しかし、おそらくここで期待されている「オタク文化と表現の自由」についての考察というのは、この範囲に収まりきらないご議論なのだろうと推察するわけである。
 例えば自治体や公共機関の広告物としていわゆる「萌えキャラ」の使用が適切かどうかといった、基本的には表現の自由とは論点が異なるように筆者からは見える議論が、批判側からも擁護側からも、なぜか表現の自由をめぐる問題として論じられるという場面に出くわすことがある。おそらくは、そのような混線が起こる遠因の一つには、前述のようなオタク・コンテンツ問題における表現の自由をめぐる攻守の特殊性もあるだろう。
 そして、個々のコンテンツに留まる議論ではなく、オタクという属性の人々の在り方自体、社会性や人権感覚、ジェンダー観とか人種的平等に対する態度とか、そういったもの自体が争点となっている。メディアというよりは、ファンも含めたコミュニティの在り方が問われている。こうした場面では、世間から主として想定されるのは男性オタクであり、また男性オタクたちの側も、こうしたオタクを巡る論争においては、男性特有の利害を見出している場面が見受けられるため、論点は歪に拡散することになる 。
 確かに、他者危害原理に基づく議論を展開していけば、「表現の自由」は守れるかもしれない。しかし、憲法上の権利という極めて消極的な範囲で表現の機会を守るだけでは、自由に表現できる実態的な状況というのは、あるいは厳しくなっていくかもしれない。そこから先は憲法的権利の話というよりも、「ガバナンスによる調整」の問題になってくる。
 オタク・コミュニティの部外者である筆者は、「狭い意味」での表現の自由に範囲に関わってくる問題でしか、彼らの役には立てないし、口出しすることもはばかられるわけだが、しかし10年以上、周辺の議論に少なからずコミットメントしてきた立場から個人的意見をあえて述べるとしたら、「作品の内側では自由に架空の世界観や登場人物を描き続けても、例えそこには現実のメッセージなどなかったとしても、作品の外側では一定の社会正義を尊重したり、あるいは無用な混線・混濁を解いたりといった、そういう実社会と接する際の責任の果たし方がオタク・コミュニティに必要な局面もあるのではないか」ということになるだろう。
 あるいは、逆に、外の社会の側が、アンフェアにオタクを断じている側面というのもあるのかもしれない。それに対して、オタクの人たちから、反論したいこともあるのだろう。しかし、「表現の自由」という主張に仮託しても、それは無理なのである。オタクに固有の文化や、あるいはオタクの人たちの中にあるジェンダー、セクシュアリティの非定型的な側面などについて、社会的文脈に位置付けた説明をしていくしかない。
 そういったコミュニティの内と外へのガバナンスへの参画というのは、オタクの人たち自身に考えてもらうしかないわけなのである。

 そのような一部SNS上の構図とは対照的に、虚構表現の規制に歯止めをかけようと日本の立法・行政や国際機関に実務的な働きかけをしていた「オタク系」グループの中核は、性表現規制の問題の際も、女性作家のグルーブや、女性比率が比較的高いとされるコミックマーケット周辺のグループであった。日本マンガ学会の会長でもある漫画家の竹宮惠子や、コミックマーケット共同代表の安田かほる等が、こうした政策形成の中心にいる構図についても、著作権問題の際とさして変わらなかったように見受けられる。この辺りの経緯は、山田太郎・永山薫等 2019『mangaの自由』の竹宮惠子、藤本由香里、水戸泉へのインタビュー等を参照のこと。


6.「オタク文化と表現の自由」をめぐる議論の現在と今後


 Twitterでは、2010年の東京都の非実在青少年条例問題以降、「表現の自由を守る」ことを掲げたオタク当事者による活動が次々に生まれた。最近では、反リベラル・反フェミニズムを掲げたオタク当事者と、そうした在り方を批判するオタク当事者とが、双方とも「表現の自由」を掲げて互いに争う光景も日常的になっている。しかし双方ともあまり成功しているようには見えない。
 そこで議論されているテーマは、公共広告における萌え絵使用の是非であったり、小児性愛と同性愛との相違点とは何かであったり、いわゆる「非モテ」「弱者男性」「インセル」等に関する議論であったりといった、表現の自由とは少なくとも直接的には関係のない問題の方が多いように見受けられる 。表現規制の目的、根拠、態様等を問うための何らかの傍証としてそうした周辺の問題を論じる場合もあり得るだろうが、むしろそれら自体が関心の中心事であるにも関わらず、表現の自由の問題に仮託されて論じられる場面も少なくないように見える。本来の筋でいえば、「表現の自由」というキーワードは、いったん忘れて議論してもらった方が適切なのではないだろうか 。

 もっとも、インターネット上の荒れた議論の中で生じる誹謗中傷や差別発言についての法的責任の解釈論や立法論、SNSのモデレーション等を考える場合は、もちろん「表現の自由」の典型的な論点となる。本シンポジウムの全体討議でも、ジェンダーやナショナリズムの対立に起因する「サイバー・ブリング」の過熱化が話題になったが、本来であればそちらの問題として対処すべき事柄までもが、虚構のコンテンツをめぐる議論の方に仮託されてしまっている側面もあるのではないだろうか。

 冒頭で私は、表現の自由の論点であることをアジェンダ・セッティングすることが、表現の自由を守る活動の一つであると紹介したが、ここで議論されているようなテーマを、表現の自由の論点としてセッティングすることは、いささか現実味に欠けるし、論者たちもそのような論点化を試みているわけではないようである。そうしたTwitter空間の一部においては、「表現の自由」というキーワードは、レスバトル(ネット喧嘩)を消費するための「タグ」としてしか機能していないように見える。
 逆に、法令やプラットフォームの在り方など、私が想定するような通説的な表現規制の問題にコミットしてきた中核的な人たちは、オタク当事者も含めて、既にTwitterでは、あまりこの話をしなくなっていったというのが実態だろう。2010年の非実在青少年条例の議論の頃は、Twitterが情報交換・意見交換の場であったが、そうした実務的な場は、2015年のTPP問題の頃にはサイボウズLIVE、現在はSLACKに移行してしまった。あるいはFacebookでやっている。GitHubにはパブリックコメント等を練っているプロジェクトのチームもあるようだ。これらは招待制・メンバー制で運営されており、Twitterで「表現規制」を論じている人たちとは、だいぶ顔ぶれが違う。プロジェクト指向の会議ということもあってか、オタクではない人たちの参画も多いのが特徴だ。オタク以外の分野のクリエイターやファンの人たち、あるいは、人間が性愛対象ではなく虚構それ自体が性的対象であるセクシュアリティの人たちなど、文章・描画・造形・朗読によって表現される虚構の規制問題の当事者ではあっても、必ずしもオタクという属性ではない人たちの姿がある。
 そういう意味では、筆者は「虚構表現の自由」の問題に取り組む枠組については、実はそれほど心配していない。むしろ課題があるとしたら、表現の自由という議題設定では収まりきらない「オタクをめぐる論争」を、誰がどこで適切に議論していくのかという点なのではないかと思うわけである。

 こうしたネット論争に関連して、筆者が時おり意見を求められることがある議論の一つが、「オタク的コンテンツの自由にしか興味のないオタクが、表現の自由を主張することの是非」についてである。筆者のような表現の自由を擁護する活動をしている者から見て、このようなオタクたちの行動は身勝手で迷惑だとは思わないのかという趣旨の批判的質問である。本稿の趣旨・射程から外れるため、個人的心情をコメントすることは差し控えるが、こうした観点から権利主張の当否を判断することは、基本的人権というものの本質に照らしていささか的外れではないだろうか。例えば収監されそうになっている人が適正手続保障の権利を叫んだとき、考慮すべきはその人物が「ミランダの会」の活動を熱心に続けてきたかどうかの経歴ではないのである。

 本パネルは、筆者の報告の他は、「オタク文化の争点としてのフェミニズム」、「オタク文化とネット右派」という報告によって構成されていた。いずれも、法政策的な意味合いでの表現の自由についてというよりも、むしろ、その枠組では収まりきらないオタクを巡る論争についての考察を深めるためのご議論であったように思う。本パネルの企画自体もまた、そうした「表現の自由」の論点になぜか仮託されて埋もれているオタクをめぐる難題を紐解くための、一つの試みであったと言えるのではないだろうか。


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  • 109本
1980年生まれ。静岡県富士市出身。NPO法人うぐいすリボン理事。『静岡に学ぶ地域イノベーション』(中央経済社)、『公共ガバナンス論』(晃洋書房)、『縮小社会の文化創造』(思文閣)などで分担執筆。
「文章・描画・造形・朗読によって表現される虚構」の規制をめぐる議論と、その波紋について|荻野幸太郎
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