投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 4月17日(木)00時48分43秒
今日は出発点に戻って、黒田智氏の「勝軍地蔵と「日輪御影」」から、冒頭部分を紹介します。(『中世肖像の文化史』p345以下)
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はじめに
日本中世社会において、「調伏」という祈祷行為は神仏の戦争であった。神仏は仏法によって正当化された武をふるい、平和と安穏を創造するものとされた。
一三世紀に入ると、寺院に僧兵という実質的武力が出現し、神宝の動座による強訴が頻発した。寺社のみならず、天皇や公家・武家といった諸権門は対立・内紛を引き起こし、それぞれの神仏を掲げて戦争をくりかえした。さらに、一三世紀後半の蒙古襲来という未曾有の対外危機は、全国社寺一斉の異国調伏祈祷という空前絶後の神仏の総力戦であった。これにより「神風」「神戦(かみいくさ)」「神軍」「神国」という名の神仏の戦いがくりひろげられた。神仏の戦争は、それまでの世界の層序を大きく塗りかえてゆくひとつの原動力となった。
こうした戦う神仏のひとつとして登場したのが勝軍地蔵であった。勝軍地蔵は、一三・一四世紀の日本社会が生み出したもっとも典型的な軍神(いくさがみ)であった。この他国に例をみない和製の地蔵菩薩の実像は、中世日本に固有の国家・国土観念を映し出す鏡でもある。そこにあらわれた世界観は、のちの室町幕府・豊臣秀吉・徳川家康といった中近世武家政権はもとより、近代戦争・国民国家にまで少なからぬ影響を及ぼしていったと考えられる。
本章は、勝軍地蔵信仰の生成過程と、その背後にある中世的世界観の様相を解明することを目指す。軍神や塞神・防火神として馴染みが深く、現存作例は列島各地に数百体にのぼるといわれる勝軍地蔵が、中世社会のなかにいかにしてたちあらわれてきたのか。その信仰の背後にある国家・国土観念を、中世における太陽・月・星のシンボリズムの問題から探ってみたい。
素材とするのは、奈良県桜井市多武峯談山神社に所蔵される「日輪御影」と称する絵画である。多武峯談山神社は、十三重塔下に大織冠藤原鎌足の遺骸を埋葬し、聖霊院に鎌足の木像を安置して、その供養・祭祀を担ってきた摂関家藤原氏の墓寺であった。この多武峯に伝来した一幅の藤原鎌足像の分析・読解を手がかりに、勝軍地蔵の実像に迫ってみることにしよう。
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十三世紀に入ると僧兵が出現したというところは、ちょっと理解できないですね。
単なる誤植でしょうか。
それと、これから私が主として批判の対象としようと思っているのは、黒田氏が「日輪御影」に登場する「三眼の異人」を良助法親王に比定する過程と、論文の後半部分、即ち、黒田氏が「その信仰の背後にある国家・国土観念を、中世における太陽・月・星のシンボリズムの問題から探ってみたい」と言われている部分ですね。
黒田氏は「三つの円光─太陽と月と星のシンボリズム」に関係する絵画資料・文献を幅広く収集して、一定の結論を出されているのですが、その論証の過程を検証し、黒田氏がやっていることは歴史学なのか、これが果たして学問といえるのか、という基本的な疑問を検討したいと思います。
08/04/17