第8話 大激怒お父さん
「オイ」
地の底から響くような、怒気を孕んだ声音。テーブルを挟んで対面する順佑は肩を縮こまらせる。俯き、唇を尖らせながら、ただじっと嵐が過ぎるのを待つ。
「何で呼ばれたか分かるか」
順佑は何も答えない。
オラは悪くないだで! オラはなんも悪いことしとらんけん!
自身の殻に篭り、自分を騙すようにオラは悪くないと声を出さずに繰り返し続ける。
「耳までおかしくなったんか! 業人!」
父親がドンと大きな音を立ててテーブルを叩く。順佑は肩を跳ね上がらせた。背筋が伸びた拍子に一瞬だけ彼の視界に映った父親の顔は怒りで真っ赤に染まっていた。
「いやっ……いやっ……」
順佑がボソボソと呟く。オラは何も悪くないだで! どうしてオラばっかりこんな目に! もう嫌だで! オラは悪いことしとらんやろ! アンチが悪さする! アンチのせいでえ!!
「オイ業人。それは何に対する答えや」
「いやっ……いや、いや……」
順佑は何も考えず、壊れた機械のように繰り返す。
「何の答えかって聴いとるんやろが!! オイ! 順佑! 答えんか!!」
今にも殴り掛かって来そうな剣幕に圧され、順佑は耳に残っていた言葉を思い出す。
答え? なんの話だで? でも、可哀想なオラは何か言わないと怒られるだで……。そうしてひり出す。
「ワカンナイ……」
「ええ加減にせぇよ!! この馬鹿たれ!! 警察の方まで来たのに分からん訳ないじゃろ!!」
今にも壊してしまいそうな勢いで何度もテーブルを殴りながら、父親は叫んでいた。
順佑はようやく父親が何に怒っているのか理解した。が、それはあくまで表面上の話に過ぎない。自分がキャンプ場で行なったことを悪事だとは考えていないのが順佑だ。
「アンチが……邪魔した。オラのガチ恋に……ソソソ……」
「訳分からんこと抜かすな!!」
「ガチ恋女子ぃ……フシィ……オラに会いにきた……」
怒りの余り食いしばった歯がギリギリと音を立てる。
「オラ……何も悪いことしてへん……」
その言葉に堪忍袋の緒が切れた父親は、いきなり机を掴みあげると壁に叩き付けるようにして放り投げた。阻むものがなくなると、ドスドスと順佑へ近付いていった。
ちょこん、と正座していた順佑は気の抜けた顔で父親を見上げる。
次の瞬間、父親は順佑の襟首を全力で掴んで、息子を強引に立たせていた。
「馬鹿抜かすな! 働きもせんでネットで悪さしてるような業人に惚れる女なんておる訳ないやろ!! いい加減現実を見んか!!」
鬼のような顔を近付け、唾を飛ばしながら叫ぶ。
アンチのせい……アンチのせいだで……。
順佑は尚も自分自身への言い訳を続けるが、激しく怒り狂う父親への恐怖ばかりは誤魔化せない。手足が震え、細い目からは涙がつーっと垂れた。
「悪いことしてへんのに警察が来る訳ないやろ!! 馬鹿たれが!! こんの馬鹿たれが!!!! 自分の口で言ってみい!! 何したんや業人!!!!」
「して……してない……」
「だからそんな訳ないって言うとるやろ!!!!」
父親は襟首を掴んだまま、順佑の体を強く激しく揺さぶる。
「その小さい馬鹿頭で考えてみい!! 何でもかんでも誰かがやってくれるとちゃうんやぞ!! 少しくらい頭使え!!!! 馬鹿たれ!!!!」
オラは悪くない。オラは……オラは悪くない……。
如何に自分を騙し続けてきた順佑と言えど、父親という圧倒的な恐怖を伴う現実が眼前に迫ると、常識的な物の見方をする他になかった。その眼で記憶を辿れば何が最も問題であったかは明白だ。
「アソコ見せた……オラの……アソコ……」
父親は絶句して息を呑んだ。数秒ばかり体をプルプルと震わせていたが止めることが出来なかった。
「馬鹿たれがああっ!!」
襟首を手放し、硬く握った拳を順佑の左頬に叩き込んだ。
「だでえっ!?」
間抜けな声をあげ、順佑の体は吹っ飛んだ。宙を舞った眼鏡がカランと音を立てて落下した。
オラ……殴られた! 虐待! アンチ! ウッタエル!! ウッタエル!!
頬を押さえながら父親の顔を睨み付ける順佑は、殴られた痛みとショックで混乱していた為か、これまで父親にはなるべく隠してきた本音を口にした。
「虐待……訴える……!」
「馬鹿たれが!」
襟首を掴んで順佑を立たせると、今度は強烈な頭突きを喰らわせた。
「きゃびゃっ!」
「ワシがおらんかったら生きていけんお前がなに馬鹿を言っとるんじゃ!! だいたい言えるんか、若い娘さんに汚いちんぽこ見せびらかした事を父親に叱られて殴られたから訴える言うんか!!!! 恥ずかしくないんか!!!!」
「ガチ恋……」
「まだ言うのかこの業人!!!! もうワシの質問に答える以外は何も喋んな!!!!」
順佑はフシィーフシィーと息を吐き、父親はふーふーと息を吐きながら肩を上下させている。その額には大量の汗が滲んでいた。
「これはなんや!!」
菓子パンとアイスの包装が順佑の顔に押し付けられる。
順佑は一瞬何の話か分からないといった風の表情を浮かべた。
「買った……だけだで?」
「誰の金でやっ!!!!」
「オラの……」
「嘘抜かすなっ! 業人がっ!!!!」
順佑はめそめそと泣きながら、自分が被害者であると疑わずに言う。
「オラのお金だで……オラの慰謝料……」
「……はあっ!?」
「田中がオラ傷付けた……ソソソ……」
「なん……やって……?」
「田中の慰謝料……」
「田中くんがそう言ってたのか?」
父親の問いを受け、順佑は田中とのやり取りを思い出す。同時に、覚醒したこと、その際に感じた全身に力が漲るような自信のことも思い出した。思い出してしまった。
故に、順佑はどこか誇らしげな顔で答えた。
「オラが出せって」
絶句。次いで絶叫。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛っ!!!!!!!!」
訳が分からなかった。もはや殆ど無意識に台所へ向かい、包丁を持ち出す。
血走った眼で順佑を睨みながら、全身を怒りで戦慄かせている。そんな父親の姿に対し、順佑はぽかんとした間抜け面を浮かべた。
どうして父親が激怒しているのか全く分からないのだ。包丁を持ち出した理由も分からない。自分がどんな状況に置かれているのかでさえ。そうでなければ決して出てこない言葉を口にする。
「ご飯、だで……?」
順佑は、事前に父親が移動させていた紙袋に目敏く気付き、指差した。
「ソソソ……田中、お土産……」
思わず視線を向けた父親は脱力する。手から包丁が滑り落ちた。
業人を手に掛けたと知ったら、田中くんは何を感じるだろうか。そんな考えが頭を過ぎってしまったのだ。
父親は床にへたり込み、ぐったりとして俯いたまま言った。
「もう、とっくにアカンくなってたんやな、お前は……」
順佑は床に転がる包丁に対して、危ないだで、まったくまったく、などとこの状況に於いては余りにも異常なことを考えていた。
「そんなんなってしまったんは、ワシの責任もある……悪かったなあ……順佑……」
順佑には、遂に父親が息子に対する一切の希望を捨ててしまったこの状況が飲み込めない。彼に分かるのは父親が自分に謝っているという表面的な事柄だけだ。ニタア、と下卑た笑みを浮かべる。
オラ、やっぱり悪くないだで! オラは正しいの! 明日天津姉妹が迎えに来て城へ案内してくれたら、すぐにでも配信劇を始めるだで! にしし! オラを殴ったことは許せないけど、オラが人気者になったらお父さんにもファミレス奢ってやるだで!
「何を笑っとるんや」
疲れた様子で力なく声をあげる。
「オラは……反撃するッ! フスッ!」
まともではない。
「田中くんにお金もらって、お礼は言ったんか」
「だで? アンチが慰謝料払うのは当然だで……?」
いかれている。
父親は、田荷島に伝わる民話に登場する妖怪を思い出す。自らを神だと称して人々から供物や労力を捧げさせようと試みる異形の化物――どんなに尽くしても感謝の一つもなく――どんなに罪を犯しても謝罪の一つもなく――悪を討たんとする勇敢な者が現れればさっと身を隠し――素知らぬ顔でまた人々の前に姿を現す――。
若い世代はともかく、父親の世代であれば誰もが一度は似たようなことを言われた覚えがあるだろう。
――ありがとうってちゃんと言わないと、“謝無”になっちゃうよ。
虚ろな目で順佑を眺めながら父親はポツリと呟いた。
「謝無、か……」
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