18-4 『白の力』牛魔王4
大気圏突入時にコースを外れたのであれば数百、数千キロ単位で着陸地点が遠ざかってもおかしくはなかった。そういった意味では不幸中の幸いにも灼熱宮殿の近場――数十キロ以内――に落ちて来られたものである。
ただ、落下した先は妖怪勢力のど真ん中。
というか、妖怪勢力の中で最大最強の牛魔王にジャストミートだ。あの白馬め、絶対に狙って落としてくれたな。
「やりやがったなッ!」
“鼻先でやかましい!!”
顕現を果たした牛魔王は山と比肩する巨大牛だ。声を荒らげられただけでも鼓膜が破裂しそうになる迫力がある。
比率は人間とノミ。
フィジカルが弱いという妖怪の常識に反する圧倒的な肉体が牛魔王最大の凶器である。以前の戦いでは惨敗だった。竜頭魔王を幽世より召喚する禁じ手を用いるしかなかったくらいの敗北だ。
“計都羅喉を再び呼ぶか? それしか手があるまい。仮面の救世主職の限界はもう見えているぞ”
「牛魔王っ。戦っている場合ではないんだ。太陽が爆発するんだぞ!」
“……その時が来ただけの事だ。未来永劫続く世界はありえん。不完全な我等はすべからず寿命で終わるのが運命よ”
「お前、それを知っていて!」
頭を振られただけでも直下型地震を超える上下移動が発生する。鼻の上にいる俺を落とそうとしている。
牛革を掴んだ手は絶対に離さない。牛の体の構造上、鼻に足は届かない。牛魔王の体の上は安全地帯なのだ。
「運命だ寿命だと言って生きるのを諦めるのか?!」
“世の理だと言っている”
「娘の前で言う事かっ!」
“お前が言うなッ。お前さえ、救世主職共さえ現れなければ、この世界はもう少し穏やかに終われたのだ。娘が非行に走って、家族が離れる必要もなかったのだ!”
断崖絶壁に楔を打ちつけるようにナイフを突き立てる。が、残念ながら皮一枚貫通できない。
仕方が無く、その辺に生えていた毛を掴んで揺れに耐え続ける。
「御母様の寿命と共に世界が燃える真実。紅は知らなかったぞ。無垢な子供と楽しむ余命は楽しかったか?」
“避けられない運命を教えて何とする! 親の務めをとやかく言いたければ、まずは子供を作ってから言ってみせろ”
「滅びると分かっていて子供を作るなんて、ただの狂気じゃないか」
“分かっていなかったのだッ! あの時、あの時代、誰も世界がこうも悲惨な結末を迎えるなどと誰も信じていなかった。未来を信じていた。紅を授かったと分かった時の喜びがお前などに分かるものか。紅を授かった後に世界の滅びが確定してしまった恐怖が、お前などに、お前ごときにどうして分かるのかッ!!”
強引に俺を振り落とすべく牛魔王は突進を開始する。
近場に存在した岩山へと頭から突っ込んでいき、鼻先から衝突してしまう。鼻の上にいる俺もそうだが牛魔王自身も相応のダメージがありそうなものを、無茶苦茶だ。
“家族を救えぬ父親の気持ちが、ぽっと出の救世主職ごときにッ”
一つの山を崩しただけでは止まらない。
続けて二つ目の山、三つ目の山を粉砕していく。牛魔王が通った後には一直線の道が生じていく。
背中へと岩石がぶつかってきた衝撃で手を離してしまった。大きく吹っ飛んでいく中、慌てて腕を伸ばしてもまったく届かない。
『マジックハンド』で延長してどうにか掴んだ先には長い毛があった。
何を掴んだのかは後で気付く。
“救世主職よ。俺は父親として最大限を果たしてきた。何も恥じるべき所はない。世界を救うなどと大言壮語を吐く救世主職と違って、俺は家族を助けるためにすべてを賭したのだ。非難を受ける筋合いは断じてないッ!!”
牛の丸くて黒い眼球が俺をジロりと睨んでいた。『マジックハンド』で掴めたのは牛魔王の睫毛だったらしい。
牛魔王の非難の目に対して怯みたくなる。強い言葉をぶつけているだけであり、戦闘ではまったく手立てがない。いや、言葉さえ、黄昏へと向かう世界を生きる父親の悲痛と比較すれば希薄なものだ。
ノミが牛に勝つ方法など最初からなかったのだろう。
ただ走られるだけでも危険であり、対して、俺からの攻撃は皮一枚切り裂けない。
このまま前回の焼き直しのように俺は敗北してしまうのだろう。
それでも……口は動く。ごく自然に反論を口にする。
「本当に、父親として恥じない生き方をしていたか? 一切の後悔はないんだな」
世界が滅びると知っていても家族を優先した。父親としては間違いなく正しく、非の打ち所がない。
牛魔王が完璧な父親ならば、俺に勝てる要素は皆無である。
“くどいッ”
「俺にではなく、紅に対してもそう言えるのか?」
ただし、あくまでも牛魔王の自己申告に過ぎない。己が完璧な父親であるという父親ほどに不完全なものはないだろう。
急に足を止めた牛魔王。
地から天へと伸びる一筋の光を目撃したからには止まらざるを得なかったのだろう。
居場所を示すスピキュールの発生元で、紅が大声を上げた。
「――クソ親父ぃぃィィッ!! 後ろめたくなかったのなら、どうして嘘をついてスイランを俺に喰わせやがった。言ってみやがれ!!」
牛魔王は明らかに動きを鈍くする。自己申告ほどに完璧な父親だったのであれば、紅はそもそもグレたりしない。
“――嘘をつかねば、お前は徒人を喰えなかっただろう”
「そうだ。そう、クソ親父が俺を育てたんだ。多くの真っ当な妖怪のように徒人を喰うのに抵抗のない悪鬼に育てなかった。クソ親父のお陰だろうが」
“それは……お前は生まれた時はまだ仏神であったからで”
「口で言う程に妖怪に堕ち切れていねぇんだよ、クソ親父。そんなクソ親父が、どうして御母様に尻尾振り続けていやがる。いい加減に腹を括ってみせろ。頼むから、少しは誇りある背中を見せてみろよっ」
いきなりのエンカウントで考え違いをしていたが、牛魔王を物理的に圧倒できなくてもまったく問題ないのだ。
大きさなど、恒星の女神に挑もうとしている時点で意味のない単位である。
見えている弱点を突かずに正面から挑もうなどというのは、まったく俺らしくない。強者に対しては徹底的に対策を行って弱点を突く。これがスマートな戦い方というものだろう。
「家族のためにというのなら、娘の我儘くらい、ちったぁ聞けよッ!!」
精神的な勝利を取った。
深く瞼を閉じた牛魔王はその場に座り込もうとして……首を振る。
『マジックハンド』の効果切れもあって地面に落下してしまった俺は、牛の蹄の射程圏内だ。
“分かっている。分かっているとも。分かっていても……女神羲和にどうして敵う。であれば、せめて、この手で楽にしてやらねばとッ!”
牛魔王は頑固にも程があった。娘の懇願でも改心できないなら重症だ。
自由落下中を狙った蹄の攻撃が接近した。
『暗影』で回避するにしてもスケール違いでどうにもならない。
……荒れた大地の裂け目より根が飛び出してきて、牛の脚を雁字搦めにして拘束してくれたので、仮面を外す程の窮地にはならなかったが。
牛の体にも根が巻きついていく。
山のような牛魔王に巻きつけるのだから、根の大きさも相当のものだ。
「――後ろめたさについては、私に対してもあるのでは平天大聖殿。少なくとも、私の方には話があります」
地面を割って現れたのは根だけではない。
葉のない枯れた巨大樹の本体が、女性の姿をした人間体と共に伸び上がる。
巨大樹の名は、扶桑樹。