16-7 手の平の上
海で溺れるのとは別の苦しさが宇宙にはある。具体的には、ゼロ気圧ゆえの内側から外側へと空気や体液その他が膨張して噴き出しそうになる感じの苦しさだ。
何はともかく蟲星由来の『環境適応』スキルを発動させた。『既知スキル習得』スキル経由のため一定時間でかけ直しが必要になるが、しばらくは安泰である。
クマムシのごとき頑丈さで真空に耐えたならば、次は天竺を探す。
凶悪エイリアンであればエアブロックから放出された時点で終わりであるが、凶悪アサシンは必死に舞い戻る。
「『暗視』発動」
声にならない声を発して『暗視』スキルを発動だ。
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“『暗視』、闇夜でもしっかりと周囲が見えるスキル。
可視領域が向上する。深夜でも夜行性動物のように周囲がくっきり見える”
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癖のあるアサシン職のスキルの中においてシンプルな内容。されど案外、実用性が高いのが『暗視』スキル。
夜行性動物が宇宙でも視界を確保できるかは定かではないものの、少なくとも俺の目は暗黒の中に鏃型の巨大構造物を発見できた。黄昏世界の舞台たる渇いた惑星に細い糸のような軌道エレベーターを垂らしているので、あれが天竺の本拠地で間違いない。
泳いで戻れるかをチャレンジする。
……うん、無理だな。クロールでは駄目だと分かっていた。摩擦のある水中と異なり宇宙には何もない。体をバタバタ動かしたところで前に進むはずがない訳だ。
ベクトルに従ってむしろ離されている。
向かう先には異様に巨大な月が浮かんでいる。黄昏世界の月は三十八万キロより近いのだろうか。
「とりあえず色々試してみるか。『既知スキル習得』発動。対象は死霊使い職の『グレイブ・ストライク』」
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“『グレイブ・ストライク』、墓場に存在する物品を呼び寄せて投擲する罰当たりスキル。
墓地の物に限定した召還と投擲が可能。基本的に投げつけるだけ。召喚できない物としては実体のないゴーストや魂の入っている動く死体など”
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仮面の中から悪霊を呼ぶよりも安いとはいえ、罰当たりな行動によりカルマ値が上昇する。感覚的なものであるが悪霊魔王へと心が傾く感じが確かにある。そのため多用は厳禁なのだが、今は緊急避難なので仕方がない。
どこかの墓地から召喚した墓石を足元に呼び出した。失礼、と一言謝罪してから強くキックだ。反動を利用して前へと進む。
「……微妙か」
無重力の所為でうまく踏めなかった。
墓石がゆっくりと月に向かい、体はゆっくりと天竺方向へと進んでいるので無駄ではなかったようだが。ただ、数百メートル離れた先に行くのに毎秒一センチでは困る。
「踏むのではなく掴むか」
再度呼び出した墓石を『グレイブ・ストライク』の本来の使い方通りに投擲する。
投擲寸前に墓石を掴んでおけば、俺も一緒に飛んでいけるかもと期待しての行動だ。
結果は良好。思った通りに墓石と一緒に飛んでいく。これなら天竺まで戻って女神嫦娥に挑めるぞ。
“――宇宙で徒人が、普通に足掻くでないわッ”
嫦娥の声らしき幻聴を聞いたと思えば、鏃型構造物との距離が離れていく。スタート地点に戻されてしまったぞ、これ。
前に進んでいるのに距離が縮まらない。後ろに引っ張られているのだろうか。宇宙は距離感が膨大で、目安となる月や惑星が巨大過ぎてよく分からない。
「嫦娥か! 邪魔をするなっ」
“小さき魂には相応しい領分があろう。手も足も出せぬまま暗き世界を無力に過ごすがよい”
普通に見られていて、普通に邪魔された。
嫌に背後の月の圧が強いと思えば監視されていたらしい。
もう少し速く飛ばした墓石に乗り移っても無駄だった。まったく進まない。同じ場所に拘束されている感がある。
「くッ、『環境適応』発動」
息が苦しいと思った瞬間に『環境適応』をかけ直した。存外、時間が経過していたらしい。距離も時間も宇宙ではすべてが曖昧だ。
巨大なる存在に手の上で転がされている。
いや、手の平から抜け出せないという方が黄昏世界としては適切か。
西遊記の冒頭ではやんちゃ――天界騒然――な猿を諫めるべく、釈迦と猿は勝負を行う。猿が釈迦の手の平から抜け出せるか否かという単純極まりない内容の勝負であったが、結果は猿の惨敗だった。
釈迦と嫦娥はまったく別の存在であるが、人智を超えた天の存在にカテゴライズされるので似た芸当が行えるのかもしれない。
「……せめて、指に落書きくらいはさせろ」
姿は見えていないが嫦娥との戦いは既に始まっているらしい。
神性の権能は魔法とはまた異なる理不尽さがある。されど、人間が猿より賢い事を分からせてやるのだ。
玉座で足を組んだ嫦娥は、深く溜息をついていた。
「これが救世主職というものか」
玉座の床は綺麗な平面を保っておりひび割れていない。御影達を招いた状態から何一つ変化がない。
おかしな話だ。御影の挑発により嫦娥は激高し、床を叩き割ったはずである。それなのにどこも壊れていないとは、まるで妖怪に化かされたみたいである。
「御影君が急に倒れて目を覚ましません。あの、そこの神様。何かしましたか?」
「した。幻術をかけて無力化している最中だ。仮面のが大人しく此方の提案を受け入れるなどと思ってはおらん」
いつから幻術を御影に仕掛けていたかと問われれば、最上階ブロックにエレベーターが到着した時からである。
御影は無防備にも嫦娥入りの月桂花に背中を向けていた。術をかけるのは酷く簡単だった事だろう。
天竺の神性に対して喧嘩を売った御影は礼儀がなっていなかったが、先に仕掛けていたのは嫦娥の方であった。どちらにも非がありそうだ。
意識の戻らない御影をクゥは膝枕で眠らせている。
御影を人質に取られているも同然のため、黒曜も動いていない。腕を組んで静かに玉座の嫦娥を睨むだけだ。
「お前達とて世界と一緒に焼け死ぬのは本意ではなかろう。仮面の救世主職と同じく真空宇宙を漂う経験をしたくなければ、抵抗するでないぞ」
嫦娥は優位に立っているが、内心、幻術の中で抵抗する御影に焦りつつも呆れている。
自ら戦う事に慣れていない神性である。絶対的な力の差を見せつけているというのに抗うのを止めない人間には、優位であっても怯えてしまう。
「足掻くな、仮面の。他の神性の真似事なれど徒人に破れるものではない」
月属性の幻術は鉄壁である。体の持ち主の性能も相まってかなりの強度だ。リアリティは高く、たとえ、幻術と気付かれたとしても脱出できるものではない。
その内、すべての行動が無意味だと分かれば抵抗を止めるだろう。こう、嫦娥は楽観視していた。
色々と試行した結果を簡潔にまとめると、天竺には決して近付けない。そういう法則が敷かれている。
「『暗影』でも無理ってどういう事だ??」
とっておきの『暗影』でも位置移動できた気配がない。移動したはずなのに元に戻っているという奇妙な状況だ。俺の周辺の宇宙だけ膨張でもしたかのようだった。
「近付けないなら、逆に、遠ざかるのはどうだ?」
墓石を投じる方向を変えた。背後で俺を監視している月に向かって飛んでいき、目的地たる天竺より遠ざかる。
やけに近くてリアリティに欠けるが、月に近付く場合はむしろ距離が短くなる。そういった法則でも働いているのだろう。アポロ計画は膨大な予算を注ぎ込んでやっと到着したというのに、俺の場合は酷くあっけなく月へと到着、落下してしまう。
着地の衝撃で細かな砂塵が舞う。
異なる星に到達したという感慨を覚えるのを遮り、幻聴が耳に届く。
“――神性の手の平から抜け出す事さえできぬ矮小なる魂が、黄昏た女に挑もうなどともう思うな。お前は弱い。諦めろ”
重力六分の一とはいえ、惑星降下を生身でこなすのは堪えるな。月の岩肌が剥き出しの地面に手の平をついたまま立てそうにない。
「……なんちゃって。スキルコンボ発動――」
天竺に近付けさせたくないのは分かった。宇宙空間に放り出されたのであれば元に戻ろうと努力するのは当然なのだから、それを邪魔する思考はまあ分かる。
ただ、女神嫦娥。
自分自身を蔑ろにしてまで手の平に俺を留めたのは間違いだ。お前の手の平が届く時、俺の手の平も届くのだ。
「――『武器強奪(強)』発動。続けて『暗器』格納ッ!!」
月が、消失する。
女神の神体たる月そのものを、俺の手の平に収めてやった。
“……は? ハァァァッ?!!”