16-6 月に楯突く
黄昏世界の大神、御母様を倒す。考えられる中では最も冴えた選択だ。
ただ、天竺の女神は一番の選択に深い溜息だ。全く同意を得られていない。
「……此方の話を聞いておったか? 黄昏た女を打倒したところで何も解決せん。無意味であると言ったであろう」
「無意味ではありません。黄昏世界の人間をより多く救出できるようになります」
選択の意味を問う前に、前提を確認する必要があるか。
「天竺の最上階は脱出船ですよね」
「その通りだ」
「乗員の余裕は?」
「妖怪の妨害がある中、天竺まで辿り着ける者は限られる。十万の定員に対して、この半世紀で救出できたのは僅かに一万と数百」
乗員等を差し引けば助けられて残り七万人前後となる。豪華客船を遥かに超える収容人数であるものの、世界唯一の箱舟としては随分と少ない。
それでも助けられるのだ。
妖怪共を先導する御母様を倒して指揮系統を混乱させてしまえば、各地の壁村から人々を救出できる。管理神の妨害がなくなれば、黒八卦炉の宝玉を用いて地球から助っ人を長時間召喚できるようになるため人手も増やせる。
時間切れの瞬間まで救助を続ければ、万単位の命を救える。
「仮面の救世主職。其方は、たった数万のためだけに、間違いなく失敗する無謀に挑戦するというのか」
訂正して欲しい、数万もだ。
数だけで言えば確かに小さな値になってしまう。黄昏世界の減りに減った総人口に対しても低い割合、少ない人数。
それがどうした。人間を数で数え始めたら人間としては終わりである。もし俺が人を物のように数える人間だったならば、今も俺は天竜川のある地方都市で普通の大学生活を続けていたはずだ。裏でたった数人の少女達が人身御供となる不幸から目を背けて安全に暮らせていた。
無謀な挑戦で一人でも命を救えるのは、代えがたい奇跡である事を忘れてはならない。
「救世主職の性質であるな」
「職業に縛られているというのは偏見ですね。俺はもう救世主職を離職していますよ」
「む? 救世主職を離れるなど、あり得るのか? いや、そうであろうと救世主職の素養がある事に間違いあるまい。誰かを助けずにはいられないという衝動が、正常な判断を狂わせるのだ」
女神嫦娥は否定的だ。まあ、彼女の肩には多くの命が乗っかっているので当たり前の拒否感だろう。
「仮面の、此方の罪を改めて認識させてくれる。此方が召喚せし救世主職達は皆、世界を救わんとして、人を救わんとして、夢半ばにして散っていった。もう間違いを犯させてくれるなよ」
失敗の前例も嫦娥の拒否感を補強している。
「命は数ではない。その通りだった。この半世紀で思い知った。だから、仮面の。お前は死ぬ事はない。ここ、天竺にて余生を過ごせ」
玉座から立ち上がった嫦娥が手を叩く。
すると控えていた壁に穴が開いて跳び出てくるカエルの兵隊達。
案内役だったスノーフィールドも不服そうであるものの、背後で手をゴキゴキと鳴らして威圧している。力尽くでも御母様との決戦を制止するという意思表明だ。
「これはどういうつもりだ、女神嫦娥。無理やり俺を引き止めるつもりか」
「止めるべき立場におるゆえ止めねばならん。黄昏世界は不幸が多過ぎた。これ以上は不要であろう」
抜本的な打開策のない状況において、惑星脱出手段を有する天竺の協力は不可欠だ。敵対はありえない。
けれども、このまま大人しく脱出船の中に幽閉されて終わりを待つのもありえない。
「御母様から逃げられる保証はどこにもないはずだ。既に妖怪軍による攻撃を受けている以上、妨害される可能性が高い」
「黄昏た女が本気で此方を始末するつもりであれば、すでにやっておる。妖怪の好きにさせているだけならともかく、あの女を刺激する方がよほど危険だ」
「死に際に方針を変更する可能性は? すべての命を道連れにして無理心中を図る可能性が高い気がするぞ」
「……否定はできん。ただし、その場合でも備えは用意しておる」
「どこまで信用できる備えか教えて欲しい」
「明かせんな。最重要機密とのみ言っておこう。信じろとは言わん」
天竺陣営も楽に惑星脱出ができるとは考えていないようだが、危機感を煽るだけでは方針変更させられない。
「もっと確実な手段がある。俺が御母様に対して『斉東野語』を使って、天竺は滅びたと信じ込ませてやる」
「どこが確実なものか。嘘を信じ込ませる前に、そもそも灼熱宮殿の門を潜る事さえ不可能だ」
「生き残るための策は多く用意するべきだ。試させて欲しい」
「……ならん。此方はもう、失敗を味わいたくはない」
俺としては究極生物さえ葬る御母様の攻撃から脱出船を守る事こそが無茶に思える。
平行線だった。説得力のない言葉だけでは嫦娥を納得させられない。
となれば、感情に訴えるまでだ。
「仕返し、したくはないと? うまくいけば一撃を加えられるかもしれないのに。負け犬……いや、負けカエルになって身を縮めてひっそりと生き残るだけか、女神嫦娥?」
「な、に?」
玉座の間の体感温度が明らかに低下した。神性相手に暴言を吐いたというのに、クーラーの気温を22℃にした方が肌寒い程度とはお優しい限りだ。
「子供を惨殺されてカッとなった女神と聞いていたのに、考えの温い」
「お前ごときに、何が分かる」
「せっかく御母様に意趣返ししてやろうと言ってやっているのに、まさか止められるとはな。太陽の光を反射するだけの月だから、太陽には従順なんだな。それとも、カエルになって子供がオタマジャクシ程度にどうでもよくなったか」
「お前ごときにッ、何が分かるッ」
壁が一気に結露した。
逆鱗を逆なでされた女神の心情により部屋が更に冷えた結果だ。月桂花の細い足で踏まれた床材が、ミシりと悲鳴を上げて亀裂を生じさせている。というか、足場どころか建物全体が左右に揺れたのは気のせいだろうか。
釣れた。
月の女神を一本釣りだ。
「よくぞ此方を軽んじたな、仮面の? 魔王討伐で成り上がった救世主職崩れが何を勘違いした? 人間は憐れまれる立場にあると黄昏世界の徒人は皆知っておるというのに、これはどうしたものか?」
怒らせてしまったのは正直、下策だ。けれども、一方的に保護して何もするなという態度が気に食わなかったのも確かである。よく考えれば俺の方が怒るべきではないか。
宇宙に逃げ出すしかないのは分かる。代案もない癖に否定はできない。
されど、妖怪共を先導していた御母様に何一つ復讐しないで逃げるなどできるものか。
「保護が余程気に入らなかったと見える。であれば、余計な事を仕出かそうとする輩は放逐するに限るな」
いい機会なので活用する。
これは天体型の神性との戦いを学ぶための通過儀礼だ。月の女神に勝てずして太陽の女神に勝てるはずもない。
「惑星を這う一匹に過ぎぬ憐れな生命が天体を軽んじた末路よ。真空宇宙の藻屑となるがいい」
足元の感覚が急に消えた。
掃除機に吸われるゴミのような気持ちを味わって数秒、三百六十度、全周が深い暗闇にどっぷりと浸かる。
四足獣の混世魔王に連れられて一度経験した宇宙の感覚だった。息苦しさを感じるよりも先に、手触りの無さに背筋が寒くなる。
驚く程に大きく見える灰色の月が、真空に溺れる俺を冷徹に見下ろしている。