第3話 回想田中
順佑は全身に汗をだくだくと滴らせ、アンモニア臭を立ち昇らせながら、歩を進め続ける。
日頃は自室に引きこもっており、運動する習慣などない。家事などの軽微な運動ですら殆ど行なっていない。
一般的な生活を送っていたとしても、四十ともなれば体力が衰えていてもおかしくない。今年四十一歳を迎えた順佑の体は、加齢に加えて怠惰な生活習慣によって老人のそれであるかのように枯れていた。
久方ぶりに汗を掻いた為か、順佑は全身の至るところに痛痒を覚え、肌を掻き毟る。
「汗……」
ぼそりと呟いた順佑の脳裏に、不快な記憶が蘇る。
「げらうっ!!」
奇声を発して振り払おうとするも、却って鮮明に思い出してしまう。よほど業腹だったのか、順佑は立ち止まり「フシィー……フシィー……」と嘴のような唇から息を吐きつつ、か細い体をプルプルと震わせた。
それは三年程前のことである。
田荷島へ越してきたばかりの頃、順佑は父親によって半ば強制的に一日だけのバイトに参加していた。内容はリゾートホテルでの軽作業であった。
順佑が周囲の不興を買うまでに長い時間は要らなかった。一時間弱の間に、彼の本性は見抜かれており、誰も関わろうとはしなくなっていた。ただ一人、田中という若者を除いて。
テキパキと業務をこなしつつも屈託のない笑みを浮かべ、周囲に気を配りながら明るく振舞う田中は、バイトも含めた従業員達の中心的存在だった。順佑に対しても分け隔てなく接していた。
「あ、順佑くん。それはやめようね。客室は土足禁止だから」
順佑は不満げに細い目を向けつつ、何をするでもなくふらふらとしている内に足を踏み入れてしまっていた客室からそそくさと抜け出した。
「後さ、何して良いか分からない時は質問して? ちゃんと教えるからさ」
順佑は壊れた玩具のような仕草で何度か頷いたが、その実、田中の話などまるで聴いていなかった。
年下から敬語も使わずに話しかけられ、更には下の名前で呼ばれる事への怒りが頭を支配していた。
オラのこと馬鹿にしてる! オラの方が年上なのに! オラの名前呼ぶっ!
当然ながら、順佑が仕事について質問をすることはなかった。
何をすればいいのか分からない順佑は、周囲の様子を形だけ真似て誤魔化すことを決めた。だが、それが良くなかった。
「ちょっと! そんな汚いことして何とも思わないの?」
従業員の中年女性が怒気を孕んだ声を上げた。
「だ、だで?」
「家でもそうしてるの? そんな汚いこと!」
順佑はトイレ掃除に使った雑巾で、壁付けテーブルを拭く真似事をしていたのだった。
「あのね、バイトとは言え仕事なの。分かる? お金もらうんだからちゃんと責任持ってやらないと駄目なの」
責任。その単語に順佑の体が自然と動く。不気味に首を振りながら「いやっ……いやっ……」と小さな声を漏らす。
その仕草が癪に障ったのか、女性は更に声を張り上げた。
「先輩に頭下げて、教えてもらって来なさい!!」
「……先輩」
「そう! 田中くん! あんたより年下なのにずっとしっかりしてるんだから! 田中くんに頭下げて来なさい! 仕事のこと、教えてくださいって! あんた自分じゃ何も出来ないんだから!」
剣幕に気圧されて渋々と田中の下へ向かう順佑だったが、どうして叱られたのは一切理解していない。
オラは悪くないだで! オラのこと名前で呼んでっ! オラに仕事を教えない田中が悪いだで! アンチ! 田中はオラのアンチ! アンチ、アンチ、アンチ!!
「ヴー」と不満げに呻いていると、田中の方から近付いて来た。
「聞こえてたよ。大変だったね。相川さん、切れると怖いから……。まあ、それはさて置き順佑くん」
田中が柔和な笑みを浮かべ、話を促すように頷いた。
順佑はしばしむっつりと黙り込んで俯いていた。
オラは悪くない! 悪いのはアンチ田中! オラは悪くないだで! なんでオラがこいつに頭下げなきゃいかんのや! オラは大物だで!? オラは凄いんだで! アンチ! アンチめ!
逆上する順佑の怒りはやがて頂点へと達した。
当時三十八歳の順佑がこれまで生きてきた中で最も勇気を振り絞った瞬間だった。
「おっ、おだ、オラ! オダのなばえ呼ぶな!」
「……は?」
田中がぽかんとした表情を浮かべる。元より童顔であるが、呆気に取られたその顔は子供のようであった。
順佑に細い目で睨みつけられながら、田中はしばし呆然としていた。
この人は何を言っているのだろうか。
名前? 出来るだけ色んな人と仲良くなる為に、姓ではなく名で呼ぶようにしていた。それが気に障ったという事は分かる。だが、何故、今なのか。
田中は困ったような顔をして緩く波打つ茶髪の先を弄びつつ、しばし考えてから口を開く。
「……あ、えっと、ごめんね? それは俺が距離感間違えてたね。本当、ごめん、浜谷くん。けどさ、それどころじゃないって分からないかなあ」
自分よりも一回り年下の相手に、名前で呼ばないで欲しい旨を伝えるだけで三十八年分の勇気を使い果たした順佑には、返事をする力など残っていなかった。いや、返事が出来る状態であったとしても、状況を正しく理解することなど出来ないのだから返事の有無は然したる問題ではなかった。
「うーん、何も喋ってくれないな……」
困り顔を浮かべていた田中だったが、やがて意を決して自分の頬をぴしゃっと叩き、笑顔を作った。
「浜谷くん。相川さんがキツイ事言ったのも謝るよ。ごめん。俺がもっと浜谷くんのことを見ているべきだった。とりあえずここは今居る人達に任せて、俺らはリネン室行こうか。タオルの畳み方教えるからさ」
順佑は無表情のまま田中を睨み付ける。
一回り年下の田中から掛けられる温情に、順佑の肥大化した自尊心が傷つけられたのだ。尤も、普通の人でも同じ状況に立たされれば思うところもあるだろう。だが、順佑の自尊心は常軌を逸している。膨らみ過ぎて脆くなっていた心は簡単に壊れた。
順佑は殆ど無意識の内に言葉を発していた。
「おでは、ブリジョボプレイのブリだで……」
ブリジョボプレイとは、順佑が田荷島へ越して来るよりも前に運営していたヴーチューブのチャンネルである。余りに幼稚で間抜けな内容が話題呼び、順佑を揶揄する二次創作が大量に製作された。紆余曲折あって現在は順佑自身の手で削除済みであるが、ネット上では未だに「ブリ」と言えば「ブリジョボプレイのブリ」として名が通っている。
「え、似てるとは思ったけど、マジでブリさん? 社会復帰出来て良かったじゃないですか!」
「オラは……オラはブリだで……おばえより偉いんだで! 敬語使うべきじゃん! オラはブリ……ブ……ジョボ、おばえ年下やろ!」
二人のやり取りを聞いていた男性従業員が憤然とした様子で近付いて来て、声を張った。
「何ほざいてイキってんだ馬鹿たれ! 馬鹿なこと言ってないで仕事しろ! 田中くんもこんな奴にまで優しくしなくて良いから! 少し厳しくしないと駄目なんだよ、この手の輩は!」
瞬間、順佑の細い目から涙が溢れ出した。
オラは悪くないのに、誰も本当のオラを分かってくれない……オラは悪くないのに、オラは人気者なのに、何も知らない癖に……オラは、オラは……。
独りよがりの悲しみに暮れる順佑は、田中が呼び止める声も無視してホテルを後にした。たった一日だけのバイトでさえ、順佑には勤め上げることが出来なかったのである。
帰宅した順佑はスマホを握り締め、SNSで未成年と思しき女性に性的な嫌がらせメッセージを送りつけながら、ドアノブに劣情を叩き付けた。
事が済むと記憶喪失でも起こしたのかと思う程にすっかりバイトでの出来事を忘れてしまった。しかし、自業自得の悲劇はその日の晩になってから佳境を迎えるのだった。
二時間分の給料を携えた田中が浜谷家を訪れたのだ。
田中は家にあがり、順佑の父に求められてバイト中の出来事を語った。
二人の居るリビングからは死角になっている廊下の隅で、順佑は青ざめながら耳をそばだてていた。
結論から言うと、この夜、順佑が鉄拳制裁を受けることはなかった。
順佑の父は田中を偉く気に入り、秘蔵の日本酒を持ち出して酒盛りを始めた。順佑は二人の様子を盗み見ながら憤慨していた。父がああも楽しそうに笑うところなど、何年も見ていなかった。
夜が更け、田中が帰宅する。廊下へ出て来た父は、ほんのりと顔を赤く染め、歓談の余韻である微笑を浮かべていた。
「こんなところにおったんか。いい子やな、田中くんは。仲良くしてもらうように頼んでおいたから、迷惑掛けるんじゃないぞ」
そう言って大きなあくびを一つして、どすどすと足を立てながら洗面所へと去っていった。
廊下の隅で縮こまる順佑は、じゅるじゅると音を立てながら、上唇を吸っていた。その小さく細い目には憎悪の炎が踊っている。
田中はオラの心を壊した! 田中はアンチ! オラは悪くないだで! オラは可哀想! 父親にも見捨てられた! 見返してやる! 見返してやるだで!
そうだ! オラは見返してやる!
あれ以来、何かとオラに構う田中を見返してやる!
この先にあるキャンプ場に、オラの女神が! オラのガチ恋女子がいるっ! オラに犯されたいと願っている天津姉妹が居るだで!
何かを決意したかのような表情で、順佑は再び歩き始めた。
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