第2話 天神姉妹

【取り調べ室】

「神谷圭佑。お前がやったんだろうが」

 狭い取調室に、刑事の低い声が粘りつくように響く。俺は力なく首を振るだけで、何も答えられない。やっていない。だが、証拠はすべて俺が犯人だと示していた。どうして。誰が。思考は霧散し、絶望だけが腹の底に澱のように溜まっていく。

「いい加減に認めろ! お前のくだらない動画のせいで、どれだけの人間が迷惑してると思ってるんだ!」


 絞り出すように、声が出た。

「……俺だって、誹謗中傷されてるんです。殺害予告まで……警察は、何もしてくれないじゃないですか」

 場違いな反論だった。刑事は鼻で笑う。

「誹謗中傷されるようなことをした、お前が悪いんだろうが。嫌なら、ネットなんてやめればいい」

 正論だった。その正しさが、ナイフのように心を抉った。もう、どうでもよかった。会社もクビになるだろう。親にも、妹にも、顔向けできない。俺の人生は、本当に終わったんだ。


 その時だった。

 重い鉄の扉が控えめにノックされ、許可を待たずに開いた。そこに立っていたのは、黒縁メガネをかけたスーツ姿の若い男と、その後ろから現れた、息を呑むほど美しい少女だった。年の頃は21歳くらいだろうか。シンプルなお嬢様ワンピース姿だが、その佇まいだけで、澱んだ取調室の空気が浄化されるような錯覚を覚えた。

「なんだ、あんたたちは。ここは関係者以外、立ち入り禁止だぞ!」

 刑事が色めき立つ。しかし、取り調べを記録していた別の刑事が少女の顔を見て、椅子から転げ落ちんばかりに目を見開いた。

「て、天神財閥てんじんの……玲奈れな様!? なぜこのような場所に……」


 天神玲奈と呼ばれた少女は、刑事たちの動揺など存在しないかのように、ただ冷たい視線で室内を見渡すと、まっすぐに俺を見据えた。

「この男、私が引き取ります」

 有無を言わせぬ、所有者の言葉だった。

 隣の弁護士が、黒縁メガネをくいと上げ、冷静に告げる。

「不当な取り調べは即刻中止してください。証拠不十分なままの拘束は人権侵害にあたります。これ以上の異議は、我々、天神法律事務所が正式に申し立てます」

 玲奈は俺に向かって、小さく頷いた。

「行きましょう、神谷圭佑」

 俺は、夢遊病者のように立ち上がった。


【偽りの日常】

 手錠が外された手首には、まだ冷たい金属の幻影が残っていた。警察署の自動ドアを抜けると、弁護士の桐島が玲奈に深く一礼した。

「お嬢様、私は別件がございますので、これにて。後のことは、柏木にお任せしております」

 そう言い残し、彼は人混みへと消えていった。


 目の前には、一台の黒塗りのセダンが静かに鎮座していた。その傍らに、石像のように佇む初老の男。俺たちの姿を認めると、男は滑らかな動作で完璧なお辞儀をし、後部座席のドアを音もなく開けた。

「執事の柏木と申します。圭佑様、どうぞ」

 古びた教会の鐘のように低く、それでいて明瞭な声。導かれるまま、俺は柔らかな本革のシートに身体を沈めた。ドアが閉まると、外の喧騒は嘘のように遠ざかり、そこは完全に外界と隔絶された、静謐な空間となった。


「……俺を、どうする気だ」

 不信感を剥き出しにした俺の声に、隣に座った玲奈は足を組み、顔色一つ変えずに自分のスマホを差し出した。画面には、百万を超えるフォロワー数が表示されたアカウント。『天神玲奈』。

「知らないの?」

「……初めて見た。降ろしてくれ」

 俺がそう言うと、玲奈は執事に目配せした。車が静かに停まり、ドアが開く。外の生ぬるい空気が流れ込んできた。

「どうぞ。その汚れた服で、容疑者のまま、あの地獄へお帰りなさい」

 その「汚れた服」という言葉に、俺は思わず自分の姿を見下ろした。何日も着っぱなしで襟がヨレヨレになったTシャツ。膝にはいつ付いたかもわからないシミがある色褪せたジーンズ。この服には、取調室の埃っぽい匂いと、俺自身の冷や汗、そして拭いきれない絶望の匂いが深く染み付いている。玲奈の言う通りだった。これは、社会から拒絶された敗者の「ユニフォーム」だ。

 彼女は冷ややかに言い放った。「家は特定され、殺害予告まで届いている。会社も、もうあなたの居場所ではない。それでもいいのなら」

 降りかけた足が止まる。そうだ、俺にはもう帰る場所なんてない。

 玲奈は、悪魔のように微笑んだ。

「私はあなたのガチ恋リスナーよ。あなたには、才能がある。私に、あなたの見たい夢を見せてあげさせて」

 俺は、その蜘蛛の糸にすがるしかなかった。


 車が向かったのは、高級レストランではなく、どこにでもあるファミリーレストランだった。

「ステーキです。一番大きいの」

 メニューを渡された俺は、何かに憑かれたように注文した。玲奈は可愛らしい苺のパフェを頼んでいる。

「……あの弁護士、腕いいのか?」

 フォークを弄びながら尋ねると、玲奈はパフェのスプーンを口に運び、ゆっくりと答えた。

「桐島のこと? 彼は天神が抱える中でも最高の駒よ。負けを知らない」

 数時間前まで爆破予告犯として詰問されていた男が、財閥令嬢とファミレスにいる。あまりの非現実に、眩暈がした。


「お姉ちゃーん! Kくーん!」

 その時、店の入り口から金髪ツインテールの制服少女が駆け寄ってきた。天神莉愛りあ。彼女も席に着くなり、姉と同じパフェを注文する。

「Kくんのガチ恋リスナー、天神莉愛だよ!」

 彼女もまた、百万フォロワーを超えるアカウントを俺に見せつけた。「Kくん、大変だったね! でも、もう大丈夫! 私たちがKくんの女神だもん!」

「莉愛。騒がしいわよ」

 姉妹のやり取りを、俺は呆然と眺めていた。だが、その異様な組み合わせは、当然のように周囲の注目を集めていた。

「……あれ、天神姉妹じゃね?」

「隣の男、誰だろ。彼氏かな?」

 ひそひそと交わされる会話。俺たちに向けられる、好奇の視線。

 その空気の変化を敏感に感じ取った玲奈は、パフェのスプーンを置くと、静かに、しかし有無を言わさぬ口調で妹に告げた。

「莉愛。爺を呼んで」

「おっけー」

 莉愛は即座にスマホを取り出し、一言二言メッセージを送る。

 会計の際、玲奈が当たり前のように漆黒のカードを取り出したのを見て、俺は改めて彼女たちの住む世界の途方もなさを思い知らされた。


 レストランを出ると、まるでタイミングを計ったかのように、執事の柏木が運転する黒塗りのセダンが、静かに店の前に停まっていた。

 車が向かったのは、都心にあるシネマコンプレックスだった。エントランスに足を踏み入れるなり、女性スタッフが駆け寄り深々と頭を下げた。

「玲奈様、莉愛様、お待ちしておりました。本日は、何をご覧になられますか?」

 スタッフは、玲奈たちの隣に立つ、場違いな服装の俺を一瞥したが、その存在などまるで無いかのように、完璧な笑顔を姉妹に向け続ける。玲奈が「アクション映画を一本。いつものシアターで」と短く告げると、スタッフは「かしこまりました」と、俺たちを特別なエレベーターへと案内した。


 案内されたのは、ビロードのソファが並ぶ、プライベートシアター。巨大なスクリーンに、派手な爆発シーンが映し出される。その轟音に、莉愛が大げさに肩をすくめ、俺の腕にぎゅっと抱きついてきた。

「きゃーっ! こ、怖くなんて、ないんだからねっ!」

 そのあからさまなアピールに、反対隣に座っていた玲奈の眉がピクリと動く。彼女は、何でもない素振りを装いながら、そっと、俺の手に自分の指を絡ませてきた。

 暗闇の中、左右から伝わる、二人の少女の全く異なる温もり。心臓が、うるさくて仕方なかった。


 映画が終わると、莉愛が「ねえ、ゲーセン行きたい!」と提案した。

 シネコンを出て、歩いて数分のゲームセンターへ向かう。俺は、なぜか無意識に、華やかなオーラを放つ天神姉妹と少し距離を取って、その後ろを歩いていた。まだ、自分が彼女たちと並んで歩くべき人間ではないと、どこかで感じていたのだ。


「わー! Kくんの動画で見たレースゲームだ!」

 莉愛に手を引かれ、三人でプリクラを撮る。狭いブースの中、玲奈のシャンプーの香りがして、心臓が変な音を立てた。彼女は無表情だったが、ほんの少しだけ口元が緩んだように見えた。レースゲームでは、意外にも玲奈が圧倒的なドライビングテクニックを見せつけ、俺は惨敗した。

「Kくん、あれ取って!」

 莉愛が指さすクレーンゲームには、今流行りのアニメの、可愛らしいキャラクターぬいぐるみが入っていた。俺は、彼女たちの前でいいところを見せようと、なけなしのプライドで挑戦するが、アームはぬいぐるみを掴んでは無情にも落とすばかり。

「あー、もう!」莉愛がじれったそうに声を上げた、その時。近くにいた男性スタッフが駆け寄り、慣れた手つきでクレーンゲームの扉を開けると、ぬいぐるみを絶対に取れる位置へとずらしてくれた。そして、俺の存在などまるで無いかのように、姉妹に向かって完璧な笑顔でこう言った。

「玲奈様、莉愛様、どうぞ」

 俺は、その屈辱的な「お膳立て」を前に、ただ苦笑いするしかなかった。莉愛が、コインを入れて簡単にアームを操作する。ぬいぐるみがゴトン、と景品口に落ちた。

「Kくん、取れたよ!」

 彼女は、満面の笑みでぬいぐるみを抱きしめ、俺に自慢げに見せてくる。

「……ああ、よかったな」

 その無邪気な笑顔を前に、俺はそう答えるのが精一杯だった。束の間の、しかし歪な、普通の若者のような時間。それでも、俺の心に、何年かぶりに温かい光が差した気がした。


【美しい鳥籠】

 車は夜景の美しい高台にある、モダンな邸宅に着いた。ガラス張りの壁が特徴的な、まるで建築雑誌から抜け出してきたような家だった。

「ここが、あなたの物語の舞台よ」

 リビングから見える街の灯りが、手の届かない星空のように瞬いている。ソファに座る俺の前に、玲奈が立った。ゲームセンターでの柔らかな雰囲気は消え、彼女は再び、すべてを見透かすような冷たい瞳をしていた。

「あなたの才能は、あんな連中に消費されるべきものではない。あなたのあのフリーゲームの曲、あの絶望の中に微かな光を見出すようなコード進行……凡人には理解できない。でも、私にはわかる」

 彼女は一歩、俺に近づく。その瞳には、狂信的な光が宿っていた。

「あなたの作る音楽、書く言葉、そのすべてを最初に享受するのは、私たち。あなたの時間は、音楽は、未来は――すべて、私たちのもの」

 助けられたのではない。捕らえられたのだ。

 ファミレスも、映画館も、ゲームセンターも、すべてはこの瞬間のために用意された舞台装置だったのだ。

 俺が言葉を失っていると、玲奈は決定的な一言を、まるで天気の話でもするかのように告げた。


「生活の心配はいらないわ。何しろ、明日から私もここに住むのだから」


 俺の第二の人生は、天神姉妹という二人の女神(アクマ)への、甘美な隷属から始まった。

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