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【試し読み】ヨハン・ハリ『奪われた集中力』(福井昌子訳)「イントロダクション」/全文公開中!

著作が次々と世界中でベストセラーとなり、今もっとも注目を集めるジャーナリストの一人であるヨハン・ハリの、邦訳最新作『奪われた集中力』がついに刊行となります。

前2作のテーマである薬物と依存症うつ病と不安症に続き、現代最大の文明病である集中力の喪失に挑みます。世界中の専門家250名以上への取材から明らかになった原因と、その解決策とは? そして私たちが集中力を取り戻さなくてはならない真の理由とは?

本記事では本の中から「イントロダクション メンフィスを歩く」の全文を公開!
著者ヨハン・ハリの「集中力」を求める旅は、ここから始まります。

●詳しい書誌情報・販売情報はこちら→https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784867930908

※本文中の数字の表記を算用数字に改めた箇所があります。
※ウェブ公開用に段落の区切りを改め、また*で区切りを追加した箇所があります。
※本文中の原注を示す記号は割愛しました。
※初版第2刷のテキストを底本としています。

ぼくが名付け親になったその子は9歳の頃、長続きはしなかったがエルヴィス・プレスリーに夢中だった。声を張り上げて『監獄ロック』を歌い、エルヴィスよろしく低く落とした腰を右に左にと振っていた。その動きが物笑いの種になっていたとは思いもせず、自分はイケてると思い込んだ9歳なりに真剣に踊っていたのだった。

もう一度最初から歌い始める前に一息つくと、エルヴィスのことをすべて教えろと言い出した(「全部だよ! 全部!」)。だからぼくはこの人物の、心を揺さぶるような、悲しくもくだらない話を聞かせてやった。

エルヴィスはミシシッピ州でもっとも貧しい地区の一つで生まれた。ここからすごくすごく遠い町だ、とぼくは言った。生まれた時は双子だったんだ。弟は数分後に死んじゃったんだけどね。

エルヴィスが成長するにつれて彼のママが言ったんだ。「お月様に向かって歌ったら、弟にも聞こえるのよ」って。だからエルヴィスは歌ったんだよ。何度もね。エルヴィスが人前で踊るようになった、ちょうどその頃にテレビが一気に売れたんだ。

そのおかげでそれまでの誰よりも有名になったんだよ。エルヴィスの行く先々で歓声があがった。歓声しか聞こえないほどだった。そんなわけで、彼は自由を失ったけど、その代わり、自分の家をモノで埋め尽くしてね、そこにこもって悦に入っていたんだ。自分の母親のために豪邸を購入してね、グレースランドと呼んだんだよ。

続きは省略した。つまり、依存症に陥ったこと、ラスベガスでのステージで汗だくになって歌っていたこと、42歳の時にバスルームで倒れて死んだことなんかだ。ぼくが名前をつけたこの子(アダムとしておく。個人を特定されないように個人情報を一部変えている)に最後はどうなったのかと聞かれた時、それには答えずに二人で『ブルームーン』を歌った。「きみは一人で立っていた」。アダムは小さな声で歌った。「ぼくには希望なんてなかった。夢も」

アダムはある日、真剣なまなざしでぼくを見つめて、こう尋ねた。「ヨハン、いつかグレースランドに連れてってくれる?」。深く考えもせず、いいよと言った。「約束する? ほんとに?」。約束するさ。それからこの約束を思い返すことはなかった。すべてがうまくいかなくなるまでは。

   ***

10年後、アダムは自分を見失っていた。15歳で学校を中退し、起きている間は文字どおり引きこもって、スマホでホワッツアップとフェイスブックのメッセージを延々とスクロールするか、アイパッドでユーチューブやポルノをぼんやり眺めているだけだった。『ビバ・ラスベガス』を歌っていた陽気な少年の面影が残ってはいたが、その人物が粉々に砕けて小さな欠片になってしまったかのようだった。

一つの話題を数分続けようとしても、再び画面に目を向けたり、突然別の話題に切り替えたりして、続いたためしがなかった。

穏やかなものとか真面目なものにまったく関心を持たず、スナップチャットの速さで動く世界にいるようだった。アダムは賢く、真面目で、気持ちの優しい子どもだったが、彼の気を惹くものは何もないようだった。

アダムが一人前になっていったその10年間、この分裂状態はぼくらの多くに起きていたようだった。21世紀前半に生きているという感覚は、注意力――集中力――に亀裂が入り、崩壊しているという感覚でできていた。ぼくがそうなっていると感じていた。本を山ほど買い込んで、目の端でそうした本を捉えて後ろめたくなりながら、「あと1本ツイートするだけ」と自分に言い聞かせていたからだ。

それでも本はたくさん読んでいたが、1年が過ぎるたびに、下りエスカレーターを駆け上がっているような感覚を味わっていた。ぼくは40歳になったばかりだったが、同世代が集まれば必ず、集中力がなくなってしまってねと嘆いたものだった。それはまるで、友だちがある日突然海で姿を消してしまったかのようだった。

ある晩ぼくらは大きなソファに寝転んで、延々と音を出し続けるスクリーンをそれぞれ見つめていた。ぼくはアダムに目をやり、かすかな不安を感じた。こんな状態ではだめだ、とひとりごちた。

「アダム。グレースランドに行こう」。小さな声でそう言った。
「何だって?」

アダムに思い出させるように、何年も前にしたあの約束のことを言った。彼は『ブルームーン』を歌っていた日々のことも、ぼくとの約束も思い出せなかったが、感覚を失ってしまったかのようなこの日常を打破するという考えが、彼の中の何かに火をつけたのがわかった。目をあげてぼくを見て、本気なのかと尋ねたからだ。

もちろん。だけど、一つ条件がある。4000マイル[約6400キロメートル]の旅費はぼくが出す。メンフィスとニューオーリンズに行くんだ――南部の行きたいところは全部行こう。だけど、向こうに着いてお前がスマホを見ているだけだっていうんなら、金は出せない。だから、夜以外は電源を切っておくと約束してもらうよ。現実の世界に戻らないといけないんだ。ぼくらは、大事な何かと再びつながらないといけないんだから。アダムは約束すると言った。

数週間後、ぼくらはヒースロー空港を出発し、デルタ・ブルースの地[米国ミシシッピ州ミシシッピ川流域のデルタ地帯]へと飛び立った。

   ***

グレースランドの入り口に着いても、今では案内してくれる人などいない。アイパッドを手渡されたら小さなイヤホンをつけるのだ。そのアイパッドがどうしたらいいのかを教えてくれる――左に行ってください。右です。進んでください。どの部屋に入っても、そのアイパッドは、誰だったか思い出せないような俳優の声で、今いる部屋について教えてくれるし、画面にはその部屋の写真が表示される。

そうやってアイパッドを見つめながら、ぼくらは二人だけでグレースランドを歩き回った。ぼくらの周りは、カナダ人に韓国人、そして無表情のままうつむき、周りのものは何一つ見ようとしない世界各国からの旅行者だった。画面以外の何かをじっと見る人は誰もいなかった。ぼくは歩き回りながら彼らを見ていて、どんどん気持ちがこわばっていくように感じた。

時折アイパッドから目を上げる人がいると、ほんの少し希望を感じたりもしたが、そういう人たちと目を合わせようとしたり、肩をすくめて、きみ、まともに見て回っているのはぼくらだけだよと声をかけようとしてみたり、数千マイル遠くからはるばるやってきて、目の前にあるモノを実際にこの目で見ることにしたのはぼくらくらいだねと言ってみようとした――だがそういう場面になるたびに、彼らがアイパッドから目を離すのは、スマホを取り出して自撮りする時だけだということに気がついたのだった。

ジャングル・ルーム――その大邸宅でエルヴィスのお気に入りだった部屋だ――に入っても、アイパッドはしゃべり続け、ぼくの前にいた中年の男性は妻の方を向いて話しかけるところだった。エルヴィスが買った大きなフェイクグリーンがまだ吊られていて、そのおかげでこの部屋がエルヴィスが自ら作り上げたジャングルになっているのだとわかった。

「ハニー、こりゃすごい。見てごらん」。彼はアイパッドを指し、指を横方向に振り始めた。「左にスワイプしたらジャングル・ルームの右側が見えるし、右にスワイプしたら左側が見えるんだ」。妻はじっと見つめて笑みを浮かべ、自分のアイパッドをスワイプし始めた。

ぼくは彼らを眺めていた。彼らは右へ左へとスワイプし、部屋の右側を見たり左側を見たりしていたのだった。ぼくは身を乗り出して言った。

「ちょっといいですか。昔ながらのスワイプもあるんですよ。横を向くっていうやり方です。ぼくらはこの場所にいるんですから。今、このジャングル・ルームにいるんですよ。画面で見る必要なんてないんですよ。何かを介さなくても見られるんです。ここにあるんですから。自分の目で見てくださいよ」。ぼくが手を動かすと、フェイクグリーンの葉がカサカサと音を立てた。

その夫婦は数インチほど後ずさりした。「見てみろよ!」。ぼくは自分が思っていた以上に大きな声で言った。「わからないのか? ぼくらはそこにいるんだ。実際に、そこに立っているんだ。画面を見る必要なんてないだろ。ジャングル・ルームにいるんだから」。

彼らは、頭がおかしいやつだ、と言わんばかりに首を振り、ぼくの方にちらっと目をやって、慌てて部屋を出ていった。ぼくは心拍数が上がっているのを感じた。アダムの方を向いた――この皮肉な展開を一緒に笑い飛ばして腹立たしい気持ちを発散させるつもりだったんだが、上着の内側にスマホを入れていたアダムは、部屋の隅でスナップチャットをパラパラ見ているところだった。

今回の旅行中、どの場面でもアダムは約束を破った。2週間前に飛行機がニューオーリンズに着陸した時、まだ座席から立ち上がってもいないのに、アダムは即座にスマホを取り出した。「使わないって約束しただろ」とぼくが言った。彼は「電話はかけないって約束のつもりだったんだ。スナップチャットとメッセージを使わないわけにいかない」。まるでぼくが10日間息を止めておけと言ったかのように、アダムはとまどった様子で率直にそう言ったのだった。

ぼくは彼がジャングル・ルームで黙々とスマホをスクロールするのを見ていた。彼を追い抜いていく人びともやはり画面をひたすら見つめていた。ぼくは、周辺何マイルに人っ子一人いないアイオワ州のトウモロコシ畑に立っているような、独りぼっちでいる感覚だった。大股で近寄っていって、アダムが手にしていたスマホをひったくった。

「こんなんじゃだめだ! お前はこの世にいるってことがわかってない! 人生を見失ってるんだよ! 損をしたくないって思ってるから、画面から目が離せないんだろ? そうやって、みすみす人生を見逃してるんだ! たった一度しかない人生をな! 目の前にある モノが見えてないんだろ。ちっちゃい頃から見たがっていたのに。ここにいる誰一人、何も見てないんだ! あいつらを見てみろ!」

ぼくが大声でどなっていたのに、スマホにのめりこんでいた周りのほとんどの人は気がついてすらいなかった。アダムはぼくの手から自分のスマホをひったくり返すと、ヤバイまねすんなよ、と言い捨てて(根拠がないこともなかった)、ドタドタ踏みならしながらエルヴィスの墓を素通りして朝のメンフィスへと消えていった。

ぼくは隣の博物館に展示されているエルヴィスが所有していたいろんなタイプのロールスロイスの間を何時間もぼーっと歩き回った。夜になってようやく、通りの向こう側にある宿泊先のハートブレイクホテルでアダムを見つけた。彼はばかでかいギターの形をしたプールの脇でみじめな顔で座っていた。その場ではエルヴィスの曲が絶え間なく流れ続けていた。

アダムの隣に座った時に、気がついた。アダムに対して感じていた、火山が噴火するようなこれ以上ない激しい怒り――今回の旅行中ずっと噴いていた怒り――が、実は自分に対する怒りだったということに。彼は集中力に欠けて、気もそぞろだし、せっかくグレースランドまで来たのにその目的の場所をじっくり眺めることができない人びとはいるしといったことに対する怒りが、自分の中でふつふつと湧いてくるように感じていたのだ。

彼らが集中できなかったように、ぼくも集中できていなかったのだ。その場に心を向けていなかったのだ。それが嫌で嫌で仕方がなかった。

「なんか間違っているのはわかってるんだ」。スマホをぎゅっと握りしめたまま、アダムは消え入るような声でそう言った。「だけど、どうしたらいいか全然わかんないんだ」。そしてまたメールを打ち始めた。

   ***

ぼくがアダムを連れ出したのは集中できない状態から逃れるためだった――だが、逃げ場などなかった。これは世界中のどこにでもある問題だったから。本書のネタ調べのために世界中を旅して回ったが、気が休まる場所なんて、ほぼどこにもなかった。ネタ調べから離れる時間を取って、世界でもっとも有名な、静かでくつろげる場所に行ってはみたものの、そこにもその問題があった。

ある日の午後、ぼくはアイスランドのブルーラグーンで座っていた。ブルーラグーンはとにかく広くて、とことん静かで、あたり一面に雪が降り積もる時期でも熱い風呂と同じ温度でボコボコ泡が浮いてくるほど高温の地熱水を利用した湖である[天然の湖ではなく、隣接するスヴァルツエンギ発電所で発電に使われた地熱水が排出されているスパ]。

空から落ちてくる雪の結晶が、立ち上る湯気にすっと解けてしまうのを見ていた時、ぼくの周りは自撮り棒をかざす人たちばかりであることに気がついた。スマホを防水ケースに入れて、一心不乱にポーズをとっては投稿していたのだ。インスタグラムで配信している人も何人かいた。ふと、ぼくらの時代のモットーとは「人生を全うしようとしたんだが、ほかのことに気を取られちゃった」なんだろうか、と思った。インフルエンサーらしきドイツ人がカメラ付きのスマホに向かってがなっていて、その考えも邪魔されてしまった。「ぼくはここブルーラグーンにいます。人生最高!」

   ***

別の時のことだが、パリにモナ・リザを見に行ったことがあった。モナ・リザは今、地球上のあちこちからやってきた人が組むラグビースクラムの向こう側に永遠に隠されていることがわかっただけだった。その全員が最前列へ出ようと押し合いへし合いするのだが、前に出たとたんに彼女に背を向けて自撮りをするだけなのだ。そして、また周りを押しのけながらそこから離れようとするのだった。

その日、ぼくはそうした人込みを1時間以上も眺めていた。モナ・リザを数秒以上見つめていた人は誰も――誰一人として――いなかった。彼女の笑顔はもはや謎めいたものではないようだ。まるで、16世紀のイタリアの腰掛からぼくらを見て、問いかけているようだ。なぜこれまでのようにただ私を見つめないの?

これは、数年前から抱いてきたずっと大きな感覚と一致しているようだった。つまり、行儀の悪い観光客によくあるふるまいで片付く話ではないという感覚だ。ぼくらの文明にかゆみパウダーがまぶされているような感じだ。頭をひねったり、注意が削がれたり、気持ちがぶれたりして、大事なことに集中できずに過ごしていたのだ。

本を読むといった長時間の集中力を必要とする行為をする人はもう何年にもわたって急激に減り続けている。アダムとの旅行から戻った後、ぼくは意志力に関する世界的な権威で、オーストラリアにあるクイーンズランド大学のロイ・バウマイスター教授の著書を読み、彼にインタビューした。教授は30年以上も意志の科学と自律について研究しており、社会科学分野で行なわれたもっともよく知られている実験のいくつかの主席研究者だ。

66歳になる教授と向かい合わせに座り、われわれが集中力を失っているように思えること、どうやったら集中力を取り戻せるかについての本を書こうと思っていることを説明した。ぼくは、期待のまなざしを彼に向けた。

このテーマについて取材を受けるなんて、妙ですね、と彼は言った。「自分の注意力がこれまでのように続かなくなっていると感じていたところなんですよ」。これまでは、何時間でも座って本を読んだり何かを書いたりしていたのに、今では「注意が散漫になっているよう」だと言うのだ。

最近気がついたことなんですけどねと前置きして、「気が滅入ってきたら、スマホでゲームをしてしまうんですよ。それが楽しくなってきて」と説明してくれた。ぼくは、彼が自身の膨大な科学的実績に背を向けてキャンディークラッシュで遊んでいる姿を想像した。「以前のような集中力を保てていないことはわかってるんです」。さらにこう言った。「それを受け入れたようなもんです。後ろめたく思うようになるんでしょうね」

ロイ・バウマイスターは『意志力の科学』[ロイ・バウマイスター/ジョン・ティアニー著、渡会圭子訳、インターシフト、2013年]という書籍の著者その人で、この世界の誰よりもこの問題を研究してきた人物だ。その彼でさえ集中力を失いかけているのだとしたら、そうなっていない人がいるのだろうか?

   ***

ぼくはずっと、この危機的な状況は、ほんとは単なる思い過ごしだと自分に言い聞かせてきた。だが、先人たちも注意力や集中力が散漫になってきたと感じていた。なんなら、1000年近く前の中世の修道士たちが、自分たちの注意力欠如が悩みだとぼやいているものを読むこともできる。人間は歳を取るにつれて集中力が低下し、これを自分自身の判断力が衰えたという問題ではなく、世界中のすべての人の問題であり、下の世代の問題なのだと思い込むようになる。

もし科学者たちが何年も前から簡単なあることをしていたら、と考えれば、確実にわかる。つまり、科学者なら、どのような変化が起きたのかを追跡すべく、不特定の市民に注意力検査を行ない、何十年も継続して同じテストを行なうことができたはずなのだ。だが、そんなことをした人は誰一人としていなかった。長期的な検査を行なうことで得られる情報が収集されることはなかったのだ。

それでも、別の方法を使えば、これについての妥当な結論が得られると思う。本書のために調査をしていく中で、注意力を低下させると科学的に証明されている要因がさまざまにあることがわかった。これらの要因の多くは、過去数十年の間に(時には劇的に)現れたことを示す有力な証拠がある。

これに対して、ぼくが見つけた、注意力を強める可能性のある傾向は一つだけだ。だからこそ、これについて調べれば調べるほど、この危機は本物で、しかも喫緊の課題だと確信するようになったのだ。

これらの傾向がぼくらをどこに導こうとしているかについての証拠は明らかだ。たとえば、ある小規模な研究では、米国の平均的な大学生が注意力散漫になる頻度が調査された。研究に参加した科学者たちは、コンピュータに追跡ソフトウェアをインストールして、普段どおりのよくある1日に学生たちが何をしたのかを観察した。

この調査で、学生たちが平均して65秒ごとにタスクを切り替えることがわかった。一つのことに集中する時間の中央値はわずか19秒だった。もしあなたが社会人で優越感に浸りたくなったとしても、ちょっと待ってほしい。ぼくがインタビューしたカリフォルニア大学アーバイン校情報学部のグロリア・マーク教授が、オフィスで働く社会人が一つのタスクを続ける平均的な時間を別の調査で調べたのだが、それが3分だったからだ。

   ***

そこでぼくは、どうしたら集中力と注意力を取り戻すことができるのかを探るために旅に出た。3万マイル[約4万8000キロメートル]もの旅になった。

デンマークでは、注意を向けるという人間の集団的な力が実際に急激に衰えていることをチームで初めて明らかにした科学者にインタビューした。それから、その原因を突き止めた世界中の科学者に会った。最終的には、マイアミからモスクワ、モントリオールからメルボルンに至るまで、250人以上の専門家にインタビューする結果になった。答えを探し求めて、あちこちに出かけていくことになったからだ。

とくに悲惨な形で人びとの注意力が粉々に破壊されていたリオ・デ・ジャネイロのファヴェーラから、集中力を根本的に取り戻す方法を見つけていたニュージーランドの小さな町にあったリモートオフィスまで、本当にいろいろな場所に出かけたのだ。

ぼくは、実は人間の注意力がどうなりつつあるのかが大きく誤解されていると確信するようになった。もう何年も、自分が集中できない時はいつもイライラして自分を責めたものだった。ぐうたらだ、だらしない、しっかりしなきゃだめだ、というやつだ。それか、スマホのせいにしてキレたり、こんなもの発明されなきゃよかったのにと思ったりした。知り合いのほとんどが同じだった。

だが、実際には、個人的に何かがうまくいかなかったとか、何かの新しい発明品に原因があるというよりも、もっと深刻な問題が起きているんだということがわかった。

   ***

ぼくがこれに初めて気がついたのは、オレゴン州ポートランドに行って、子どもの注意力の問題に関する世界有数の専門家の一人であるジョエル・ニッグ教授にインタビューした時だった。教授は、注意力の問題の増加と肥満率の上昇を比べれば、何が起きているのかがわかりやすいと思うと言った。

50年前には肥満の人はほとんどいなかったが、今日では欧米の風土病だ。これは、ぼくらが急に強欲になったからでも、身勝手になったからでもない。「肥満に医学的な風土性があるわけではないんです。これは社会病です。たとえば、食事がジャンクなんですよ。だから太るんです」。

ぼくらの生活は劇的に変化した。食料の供給方法が変わったし、都市化したせいで歩き回ったり自転車に乗ったりするのも難しくなった。環境がそう変化したことによってぼくらの身体が変わったのだ。同じようなことが、われわれの注意力と集中力の変化として起きているのかもしれない、と教授が言った。

教授は、何十年間もこのテーマを研究してきて、われわれは今、「注意力を病ませる文化」を発展させているのではないかと問う必要があるんですと言った。つまり、一心に集中し続けることは誰にとっても非常に難しく、そうするためには流れに逆らって泳がなければならないという環境になりつつあるのではないかということだ。

注意力の低下には多くの要因があることは、科学的に証明されている。中には、生物学的な要因のせいでそうなっている人もいるという。だが彼は「社会がわれわれをここまで繰り返し追い詰めているのは、社会の中でうまく機能していない特定の何かのせいで、何らかの病が流行しているからではないのか」ということを解き明かす必要もあるのかもしれませんね、と言った。

後になってぼくは彼に聞いてみた。もし教授が世界を掌握できて、人びとの注意力を一掃したいと考えているとしたら、どうしますか? 教授はしばらく考えていたがこう言った。「たぶん、今の社会で起きていることと同じことをするでしょうね」

   ***

集中力を失いつつあるのは、ぼくやあなたや子どもたちといった一人ひとりが何か失敗をしたからではないという確かな証拠が見つかった。これは、すべての人が被っていることで、とてつもなく強大な力が仕掛けていることだ。大手テクノロジー企業もそうした力の一つだが、その力はそうした企業を凌駕することもある。これはシステムに関わる問題だ。

実は、ぼくらが生きているシステムは、毎日毎日、ぼくらの注意力に酸を浴びせかけている。そして、世界中の注意力がやけどを負っているその間、ぼくらは、自分のせいだと言われ、趣味にいそしんでいたらいいと言われているのだ。こうしたことすべてがわかった時、集中力を高める方法についてこれまで読んできた本には落とし穴があることに気がついた。

その落とし穴は巨大だった。そのほとんどは、注意力を危機にさらしている本当の原因について語っていなかった――その原因は主にこれらの強大な力にあるということだ。ぼくが学んできたことをベースにすると、そのすさまじく大きな力は12あって、それがぼくらの注意力をダメにしていると思うようになった。長期的にこの問題を解決する唯一の手は、これらの力を理解することだと確信するようになった。そうして、ぼくらに対するそうした力による仕打ちを一致団結して止めるのだ。

自分が抱えるこの問題を軽くするために一個人として実践できる現実的な手順がある。本書を最後まで読んでもらえたら、その方法がわかる。この方法で個人として対策を講じることには大賛成だ。

だが正直に言うと、ある意味、このテーマに関するこれまでの本はそこまでのものではなかったと言わざるを得ない。これまでの提案で変わることがあれば、少しは改善する。問題の一部を解消することにはなる。それだけの価値はあるし、ぼく自身で実証済みだ。でもよっぽど運がよくない限り、注意力の危機を克服することはできない。システムの問題にはシステム的な解決策が必要なのだ。この問題に対して一人ひとりが責任を負わなければならないというのは、そのとおりだ。だが同時に、これらのより甚大な要因に対処するためには共同で責任を持たねばならない。

現実的な解決策はある。実際に、注意力が回復し始めるきっかけになりうることだ。われわれは問題を根本的に捉え直し、行動を起こす必要がある。何から始めるべきか、ぼくにはその見当がついたと思う。

   ***

ぼくとこの旅を一緒にする価値がある決定的な理由は三つあると思う。

第一に、個人レベルで言えば、気を散らすものばかりの生活は劣化しているということだ。ずっと注意を払い続けることができなければ、やり遂げたいことをやり遂げることはできない。

本を読みたいと思っていても、ソーシャルメディアの通知音で気を削がれたり、そっちが気になって引きずられたりしてしまう。子どもと一緒に数時間過ごしたいと思っても、上司からメッセージが来ていないかどうかそわそわしてメールをチェックし続けてしまう。ビジネスを立ち上げたいと思っても、自分の人生はフェイスブックの投稿に埋もれてしまい、妬みや不安を感じるだけになってしまう。何の落ち度もないのに、立ち止まって考えられるような十分な静けさ、つまり落ち着いて澄んだ空間があるようには思えない。

オレゴン大学のマイケル・ポズナー教授の研究によると、集中している時に邪魔されると、同じ集中状態に戻るまでに平均23分かかることがわかった。米国の会社員を対象とした別の調査によると、ほとんどの人が、典型的な1日のうちの1時間で、一度も邪魔されずに仕事ができることはないという。こうした状態が何カ月も何年も続くと、自分が何者で何をしたいのかを理解する能力が混乱に陥ってしまう。人生で何をしたいのかがわからなくなってしまうのだ。

今日、世界でもっとも注目されている哲学者である、オックスフォード大学デジタル倫理研究所のジェームズ・ウィリアムズ博士にモスクワでインタビューした時、教授はこう言った。「どの領域であれ、どういう生活状況であれ、何か大事なことをするのであれば、まずは何をするべきなのかに目を向けることができなければいけないんです。それができなければ、何をするのも本当に難しいんでね」。

教授は、今置かれている状況を理解するには、こういうことをイメージすることが役に立つんですよと言った。車を運転している時に、フロントガラスに泥の入った大きなバケツを投げつけられて、ガラスが泥まみれになった場面を想像してほしい。一瞬で多くの問題を抱えることになる。バックミラーが外れるかもしれないし、道に迷うかもしれない。目的地に到着するのが遅れるかもしれない。だが、これらの問題を心配する前にするべきなのは、フロントガラスを洗うことだ。そうしないうちは、自分がどこにいるのかさえわからないからだ。どのようなものであれ、ほかの持続的な目標を達成しようとする前に注意力の問題に対応しておく必要がある。

ぼくらがこの問題について考える必要がある二つ目の理由は、この注意散漫が一人ひとりの問題であるだけでなく、社会全体に危機をもたらしているからだ。種としてのぼくらは、これまでにはなかったようなたくさんの仕掛けや落とし戸――気候変動のようなもの――に直面している。

一方、これまでの世代とは異なり、そうしたもっとも大きな課題を解決するために立ち上がっている人はほぼ誰もいない。なぜだろうか? それは、注意力が低下すると問題解決力が落ちるからというのが理由としてあると思う。大きな問題を解決するには、たくさんの人びとが何年にもわたって集中力を保ち続ける必要がある。民主主義には、現実の問題を特定し、幻想と区別し、解決策を考え出し、それを実現できなければ指導者に責任を負わせるために、長期間注目し続ける能力が必要だ。その力を失ってしまうと、きちんと機能する社会を保つことができなくなってしまう。

この注意力についての危機が、1930年以降の民主主義が最悪の状態になったという危機と同時に起きたのは偶然ではないと思う。集中できない人は、単純化された権威主義的な解決策にひきつけられがちで、失敗してもはっきりそう認識できない。注意力を完全に失った市民がツイッターとスナップチャットを交互にチェックするような世界は、どれ一つとして対応できないような危機が次から次へと広がっていく世界になるだろう。

集中力についてじっくり考える必要がある三つ目の理由は、ぼくにとって、一番希望が持てる理由だ。何が起きているのかがわかれば、変えることができる。ぼくに言わせれば20世紀最大の作家であるジェームズ・ボールドウィンは、こう言った。「直面しているものすべてが変えられるわけではないが、直面していなければ何も変えることはできない」。この危機は人間が作り出したものだ。何をすべきかがわかれば、解体することができる。

   ***

最初に、ぼくが本書で示す証拠をどのようにして集めたのか、なぜその証拠を選んだのかを説明する。ぼくは今回のリサーチとして、膨大な数の科学研究を読み、もっとも重要な証拠を積み重ねたと思う科学者にインタビューした。

注意力と集中力についてはさまざまな分野の科学者たちが研究を行なっている。その一つは神経科学者で、彼らの話も紹介するが、なぜ注意力と集中力が変化しているのかについてもっともすばらしい研究を行なったのは社会科学者だ。ぼくらの暮らしぶりの変化が個人や集団としてのぼくらにどのような影響を与えるかを分析するのが彼ら社会科学者だ。ぼくはケンブリッジ大学で社会科学と政治学を専攻した。大学では、科学者たちが発表する研究をどう読むか、彼らが示した証拠をどう評価するか、そして――願わくば――それを検証する質問をどう繰り広げるかについて、厳しい訓練を受けた。

彼ら科学者は、何が起きているのか、なぜ起きているのかについて、意見を異にすることが多い。これはこの分野の科学が脆いからではなく、人間が非常に複雑で、人間の注意力に影響を与えるほど複雑なものを評価することが実に困難なことであるからだ。

当然のことだが、本書を執筆していた間、これがぼくにとって一つの課題だった。もし完璧な証拠が出てくるのを待っていたら、永遠に待つことになる。だからぼくは、最善を尽くし、すでに得られているもっとも確かな情報に基づいて進めなければならなかった。この科学は誤りやすく、脆く、慎重に扱う必要があることを常に意識しながら。

そこで、ぼくが示そうとしている証拠がいかに物議を醸すものであるかを、本書のどの段階においても伝えるよう努力した。いくつかのテーマは数百人という多くの科学者によって研究されていて、ぼくが示す指摘が正しいことには幅広いコンセンサスが得られている。それが理想的なのは言うまでもない。

ぼくは可能な限り、自身の研究分野におけるコンセンサスを代表する科学者を探し出し、彼らの確かな知識の上にぼくなりの結論をまとめ上げた。だが、ぼくが理解したかった問題を研究している科学者が一握りしかいない分野もあり、ぼくが引き出せる証拠が薄っぺらいこともある。

実際に何が起きているのかについて、信頼できるさまざまな科学者の見解が一致しないテーマもある。そうした場合は読者のみなさんにあらかじめお伝えし、その質問に対するさまざまな見解を示すようにした。ぼくの結論は、どの段階においても、得ることができたもっとも確かな証拠に基づいて組み立てるようにした。

ぼくは常に謙虚な姿勢でこのプロセスを行なうように心がけてきた。それは、ぼくがこれらの質問の専門家ではなく、専門家にアプローチし、彼らの知識を可能な限り検証し、伝えるジャーナリストだからだ。

もし、こうした議論についてもっと詳しく知りたいと思われるのであれば、本書のウェブサイトに400以上の注釈を掲載し、そこで証拠をさらに深く掘り下げ、本書で取り上げた250以上の科学研究についての検討を行なっているので、ぜひ参照してほしい。

また、ぼくが理解したことを説明するために、個人的なエピソードも使った。ぼく個人の話は当然科学的証拠ではない。個人的な話を含めることで、ぼくがなぜ、これらの疑問に対する回答をどうしても得たいと思ったのかをよりすんなりとわかってもらえるはずだ。

   ***

アダムとのメンフィス旅行から戻った時、自分に愕然とした。ある日のことだった。ある小説の最初の数ページを読むのに3時間もかかっていたのだ。読もうとするたびに、別のことを考えて気が散っていたのだ。まるで酔っ払ったかのように。

このままではダメだ、と思った。これまでは小説を読むのが楽しみの一つであり、それができなくなるのは手足を失うようなものだった。そこで、思い切ったことをすると友だちに宣言した。

こうなったのは、ぼくが個人として十分に自己管理ができてなかったからだし、スマホにからめとられていたせいだと思っていた。それなら答えは明らかだ。もっと自己管理すること、スマホから離れること。ネットで、ケープコッドの先端、プロビンスタウンの海岸沿いにある小さな部屋を予約した。そこで3カ月間暮らすんだ。意気揚々とみんなに宣言した。スマホもネットにつながるパソコンもなしでね。予約完了だ。やったぜ。20年ぶりにネットから離れるんだ。

ぼくは友人たちと、「ワイヤード」という言葉が持つ二つの意味について話しあった。これには、躁、つまり精神的に興奮している状態という意味と、ネットにつながっている状態という二つの意味がある。ぼくには、この二つの定義が結びついて対になっているように思えた。ぼくは「ワイヤード」でいることにうんざりしていた。頭を整理する必要があった。だから、ぼくは実行したんだ。断ち切るんだ。これからの3カ月間はぼくに連絡がつかないという自動通知メールを設定した。20年間ぼくを刺激してきた雑音から離れることにしたのだ。

ぼくは、この極端なデジタルデトックスを試すにあたってなんの幻想も抱かないようにした。ぼくにとって、インターネットを完全に切り離すのが長期的な解決になり得ないことはわかっていた。アーミッシュになるわけではなかったし、テクノロジーを永遠に手放すつもりもなかった。それ以上に、ほとんどの人にとってこのやり方は短期的な解決策にすらならないとわかっていた。

ぼくは労働者階級の家庭の生まれだ。ぼくを育ててくれた祖母はトイレ掃除の仕事をしていたし、父はバスの運転手だった。注意力の問題を解決するには、仕事を辞めて海辺の小さな家に住むことだよと祖母や父に言うなんて、悪意に満ちた侮辱でしかないだろう。なぜかって、祖母や父がそうすることなど、文字どおり不可能なのだから。

これをやらなかったら、深く考える力が持つ重要な側面を失ってしまうかもしれないと思った。だから、実行することにしたのだ。必死だった。別の理由は、しばらくの間あらゆることから離れてしまえば、すべての人がより持続可能な方法で得られる変化を垣間見るようになるかもしれないと思ったからだ。ぼくは、この思い切ったデジタルデトックスから大事なことをたくさん学んだ。デジタルデトックスの限界もその一つだ。

5月の朝、グレースランドを映す画面に目をチカチカさせながら、プロビンスタウンに向けて出発した。注意力散漫な自分の性格とテクノロジーが問題なんだと思っていた。デバイスから当面離れるつもりだった――自由だ、自由!

――自由を求め、ネットに接続できるデバイスをすべて手放し、海沿いの田舎町へと向かった著者ヨハンの旅は、その後、思わぬ方向へと進んでいきます。気になる続きは本書でお楽しみください!

購入リンクはこちらから→https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784867930908

・『奪われた集中力――もう一度〝じっくり〟考えるための方法』
・ヨハン・ハリ 著
・福井昌子 訳
・発行 作品社
・四六判 352ページ 並製
・価格 2,700円+税
・ISBN 978-4-86793-090-8
・CコードC0036
・2025年5月30日 取次搬入

■世界100万部、隣国韓国で25万部の大ベストセラー
豊かな時間を取り戻したい、すべての人の必読書

以前に比べて仕事も読書も集中できない。
でも、スマホは片時も手放せない。
――なぜ、こんなことになってしまったのか?

現代人全員が、何かしら頭を悩ませている「集中力の喪失」はなぜ生じているのか?
世界各地の専門家や研究者250人以上に取材し明らかになったのは、私たちの集中力はただ失われたのではなく「奪われ」ていること、そして必要なのは個人的な努力にとどまらず、社会全体で「取り戻す」取り組みであるということだった。
仕事ではマルチタスクに追い立てられ、休日はSNSとショート動画に費やしてしまう、だけど本当はじっくり集中して、豊かな人生を取り戻したい、すべての人の必読書。


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1979年1月創立。軽薄短小の時代に抗い、硬派であるが人文・日本文学・海外文学・芸術・随筆など幅広いジャンルで独創的出版物を刊行。
【試し読み】ヨハン・ハリ『奪われた集中力』(福井昌子訳)「イントロダクション」/全文公開中!|作品社
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