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上の文章は「活動家として」の視点で書かれた文章です。
ひとつ言及しておきたいのは、これは一つの目線から描かれたものであり、中間総括というシチュエーションにおいての視座(切り口)から描写した という点です。
つまりは“プロパガンダとしての側面が多分に含まれ”ています。
プロパガンダとは「〔主義・思想などの〕宣伝」という意味であり、デマやウソと言った概念とは異なります。
もちろん上に書いたものに関しては、私の知る限りの事実を書いており、虚偽や誇張は含まれていません。
しかし、自身で読み返してみても、「この表現は大げさだなぁ」とか、「ナチの親衛隊やアイヒマンは言いすぎだろ」と思うくらい、表現は強めています。 ですが、あえて強い表現で印象に残るようにしており、「活動記念館の意義」をわかりやすく伝えるには、これが適切です。
自分で読み直しても「言い過ぎ」と思ったりもするのに、あえて「誇張ではない」と、但し書きするのはなぜでしょうか? そうすることにより、問題に取り組む姿勢やスタンス、現象に対する解釈やアプローチ、方法論が浮かび上がってきます。
私は13年以上、この問題へ活動家として取り組んできましたが、様々な場所へ赴き、色々な人と会って話を聞いたり自分で調べたりするうちに、もう一つの視点も持つようになりました。 その視点は もともと持ち合わせていましたが、最近は特に「意識するようになった」というほうが適切かもしれません。 なにせ 千年先まで残るようなウェブページを作ろうと、気合を入れてドキュメント制作しているので 必然といえば必然でしょう。 それは「ジャーナリズム」としての視点です。 ジャーナリズムというと、日本では「報道」や「社説」みたいなイメージが伴うかもしれませんが、 ここでは社会的な役割としてジャーナリズムへ期待される「公共性」や「客観性」のことだと思ってください。
活動家としてではなくジャーナリズムの視点からみると上の文章は偏っていますが、嘘を書いているか?と言われると 嘘ではありません。 話を盛っているか?と言われると 誇張ではなく事実です。 実際に処分機のボタンを押して虐殺を実行し、粛々と殺生を行う職員は存在しますし、その施設へ連れて行く人々も居ます。 それをナチの親衛隊と言おうとアイヒマンと言おうと表現者の自由です。 むしろ 共通点や特徴を押さえた良い表現だとさえ言えます。
また繰り返しますが、あくまでもそれは「活動家としての一つの目線」「中間総括においての視座」「"活動記念館の意義"を説明する切り口」としてです。
そして後世の人間に大量虐殺(犯罪)を告発するという目的を考えると、やはり一番適切な例えは ナチスの親衛隊やアイヒマン以外は考えられません。
“犬猫の殺処分を日本から無くす”という目的を実現するには、大勢の人々に殺処分を知ってもらう必要があります。
それだけでは不十分で、「では どうすれば殺処分がなくなるのか?なくせるのか?」と、踏み込んでもらうことも重要です。
それら殺処分増加の原因であるペットショップや生体展示販売の邪悪さも、ポイントをしっかり理解してもらわなければ、啓発や活動になりません。
そういった観点では、上の文章は私の知っている限りの事実や思ったことをそのまま書いた真面目なものであり、必要なことを必要なだけ綴った情報です。
では、それらを踏まえて ここからはひとつ、ジャーナリズム的な視点から書こう。
まず保健所の職員さんなのだけれど、彼らはそんなに悪い人たちじゃない。 民間のNPOや団体と提携し、なんとか里親として犬や猫を引き取ってもらおうと頑張る姿は もちろん見かけた。 特に印象的だったのが「自分の子どもに職業を知られるのが嫌だ」「息子や娘に胸を張って仕事の事を話せるようになりたい」という声だった。 どこかの記事で読んだ記憶があるが、そういった思いを胸に、なるべく処分数を減らそうと里親募集へ励んだり、捨てに来る人たちに対して受け取り拒否ができるような体制にしていったのだ。
上の表は環境省が出している殺処分数の情報であるが、このグイグイと右肩下がりする嬉しいグラフが なにゆえ実現したか?と問われたのなら、その一つは「彼らの熱心な取り組みが実り 持ち込まれる動物は減って引き取られる動物が増えたから」と、素直に言える。
もちろん 民間でシェルターや里親募集のネットワークを作り頑張った人達の貢献もでかい。
ともかく感じられたのは「自分の職業に対する負い目」という気持ちだった。
彼らだって人間だ、むやみやたらと動物を殺すのは嫌だろうし、なんとか止めようとするのは自然だと思う。
保健所の職員さんの中にも良い人はいるし、その人らが活躍する気配は確かに感じた。 誰も何もせず、ただ粛々と業務をこなし、ためらいもせず処分機のボタンを押すだけのクズばかりだった というわけではない。
ナチス親衛隊でも、ノーベル文学賞のギュンター・グラスもいれば、人体実験の鬼として知られるヨーゼフ・メンゲレまでいる。
アイヒマンだって結婚記念日には妻へ贈る花束を買うような人間的側面は持っているし、アウシュビッツ所長のルドルフ・ヘースも そこは同じである。
ところで、元ジャーナリストである山下浩さんの引退宣言にさらには動物愛護界への失望感も相まって、活動を継続するのは困難という結論に至りました
とある。
保健所や愛護センター界の活躍はあったと思われる(山下さんの動画も愛媛県動物愛護センターの協力で撮れたものだ)が、私のような活動家(動物愛護界側)はどうだっただろうか?
実を言うと、最近まで自分のやっている事を動物愛護活動と勘違いしていた(実際は政治活動だった)ので、愛護側と言って良いのかどうかもわからないし、探しはしたものの結局どこの団体にも所属しなかった。
本格的に活動をし始め 手探りで情報を調べている時に山下さんも引退をしてしまい、当時の愛護界隈がどのようなものだったかは よく知らない。
けれど 失望感を感じる要素が全く無いかといえば、いくらか思い当たる。
それに関しては書くと長くなるので割愛するが、
なんとなくの印象論で言えば…
人間関係とか、内ゲバ が めんどくさそう。
別にこれは愛護界隈だとか、なんちゃら界隈だとか、右翼、左翼、ノンポリとか関係なく 日本人全般に言えるのかもしれない。 ともかくコミュニケーションが下手くそと言うか、意思疎通不能というか、議論や話し合いのことを「口喧嘩」とさえ勘違いしているふしがあるような…。 団体に所属しなかったとは言え、僕もARCには出入りしてたし、他の活動家の人と食事したり交流したり、デモや勉強会にはよく行っていた。 そのような場の雰囲気では、みんな親切で特になにか問題があるとは感じはしなかったが、たぶんネット上(匿名)だと、問題が吹き出すのだろうと思われる。
じつは、山下さんが引退宣言をしたときの記事に、ささやかな労いと、私の熱い気持ちを綴ったコメントを投稿してしまったのだが、匿名の第三者から半日ちょっとで こんな返信が来た。
↑のコメントを投稿した星野かなたさんへ。 山下さんとどういう関係かは存じ上げませんが 見かねてコメントすることにしました。 あなたは本当に山下さんに感謝し、尊敬しているのですか。 名前を間違うなんて、これ以上失礼なことはないと思いますけれど。 山下さんへの労いのコメントというより、ご自身の売名に受けとれます。 殺処分をどうにかしたいと思われるのは結構なことですが ここは山下さんのブログであって、あなたの自己愛や酔った発言は あなたのサイトで思う存分どうぞ。こんな長いだけで意味不明の、 読点・句読点の使い方もわからない人が書いた文章、読み手は苦痛です。 それからあなたのサイト、 寄付募集のページに現金の写真をそのまま載せてるようですが コピーやスキャンといっしょで通貨及証券模造取締法違反ですから。 そもそもあんなことしても意味がないし、 クリックしたら実物より拡大される画像、偽造幇助になりますよ。 動物愛護を語る前に、社会人としての常識を勉強し直したらどうですか。
— 2012-05-02 01:30 vivさんの投稿 http://yamashita.sapolog.com/e360104.html#comments
ヴォー コエー
(うぉー 怖え~)
もちろん、当時の僕はじっさい読点・句
クソバカで改行の使い方も変で、労いの言葉からの自分語りをするイラつくガキでしたから、今となってこれは大変ありがたいごもっともな お言葉です。
もっと早くに句読点の使い方を知っておくべきだったのは言うまでもありません。
読点の使い方もわからない
とりあえず性格が良くて素直だった私は一言も反論せず速攻で謝罪し、その場で「気をつけたいと思います」と言って侘びました。とか言いつつ 10年も句読点を間違え続けちゃった(ハート)
けれど、その後もコメント欄はこんな感じ…
ちょっとコメントを書いただけで、一面識も無い人にいきなり、常識云々から(まあ、これは今後お勉強して頂くとして)、「売名」「自己愛」「酔った発言」とまで決め付けられ、書かれなければならないとしたら、それを当たり前だとするなら、そちらの方がよほど恐いですよ。
— 2012-05-02 14:37 imumさん
こういうコメントの泥試合的な応酬って、 動物愛護界の人はしょっちゅうやりますよね。
ものすごく攻撃的だし。– 2012-05-02 17:33 泥仕合さん
私の手元には「人間万事塞翁が馬 / 山下 浩」のWebサイトのデータがあるのですが、引退宣言のあった日付までしか残っておらず、コメントも全ては収録されておりません。
他にデータが載ってる場所がないかどうか、当時のURL"yamashita.sapolog.com/e360104"で検索してみたのですが、
出てきたのはこんなサイトでした。
http://321bikkuri.blog.fc2.com/blog-entry-10.html
Webページをスクショしてみると…
ヴォー コエー
(うぉー 怖え~)
「そりゃ 山下さんも1年で引退したくもなるわ (T_T) 」
と、勘ぐってしまうのは私だけ…?
ってか、なぜみんな こんなに性格わるいの…?
もちろん、いい人もいますけどね。
オレとかオレとか、特にオレ。
なんか神妙な面して 「ここからはひとつ、ジャーナリズム的な視点から…」 とか言ってしまったけど、もうめんどくさいので やめやめ! そんな「報道」や「社説」みたいなイメージを伴った 社会的な役割としてジャーナリズムへ期待される 「公共性」がなんたら「客観性」がどーたらと宣いながら 偉そうなことを書き綴るってのは、どうにも性に合わない。 だったらなぜ こんな追伸など書き始めたのだろう? なにか言いたいことがあったのだけれど、 あれこれ言及しているうちに段々と壮大になっていって、 やれ動物愛護がどうしただの、人間関係だの、内ゲバ だの、 つまりは泥試合的な応酬が うんぬん かんぬん と、 いらん事に触れたせいでクソまみれ理論になってしまった。 大昔のコメント欄まで持ち出して引用し始めた挙げ句、 他人のウェブサイトのスクショなんか貼り付けて なにが ヴォー コエー だよ、そうじゃねぇだろ! で、結局なにしたかったんだっけ?
…ああ、そうそう! ちかごろ、Amazonで書籍のレビュー欄を読むのにハマっててさぁ。 本を読まなくてもレビュワーが書籍の概要をまとめてくれてたりするから、 一定のレビューがたまった本は内容に関しては多角的に突っ込まれてて、 Wikipedia読むみたいに けっこう正確なデータが得られるってわけよ。 しかも足りないデータや詳細な資料みたいな文章を引っ張って 参考になるコメントとか意見で補足してくれてたりもするんだよね~。 「Amazonのレビュー欄はバカしかいない」ってのも一理あるけど、 学術書とか歴史の本みたいなジャンルだと 役に立つんだよなー。 (けれど 食料品とか日用品だとバカばっかり) 例えばオウム真理教関連なんかは、当時の元信者からのコメントとか、 サリン被害者の生々しい証言とか リアル目線な情報があるわけですよ。 私も自分の文章を読んでくれる読者の人たちには、 なるべくぶっちゃけた実情や実態を生々しく知ってほしいし、 現実的で有意義なデータを得てもらいたいと考えてるわけなのさ。
というわけで、またしても引用が始まるんだよね。 これは 『神さまってなに? (14歳の世渡り術)』 [森 達也] という書籍のページにあった鋭いレビュー。
(前略)
善と悪について
「優しく善良であることの危険性(マジメな善人が暴走してしまう)」こと、「容易に転換する被虐と加虐」という事実についても、きちんと言及している点にも好感をもてました。社会問題や人権にセンシティブな善い人が陥りやすい思考として「すべて悪い他者(社会とか)が悪意を持って○○した結果だ! だから糾弾せよ」という感じのものがあるように思います。 もちろん特定の人が誰かを傷つけることはあるし、その場合の責任追求や糾弾が必要なのは言うまでもないけれど、善的なものは攻撃性のインフレーションの燃料となりやすいし「わかっている私達」っていう選民意識の温床にもなりやすい。
この世界は二元論や陰謀論で説明できるほど単純じゃないし、悪者探しや悪者攻撃は熱狂できるけど、けっきょくルサンチマンを噴出したり攻撃欲求を満たすために弱者や正義がネタに使われててキモい部分があるように思います。
— 神さまってなに? (14歳の世渡り術)[森 達也] Amazonレビュー欄の投稿[白_white]
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3AK5RVN23J2F6/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl
そう、これを読んだ時に
僕は ドキッ としたわけだよ。
特にこの
弱者や正義がネタに使われててキモい部分
って箇所にさ。
上に貼り付けたスクショの
とか読んだ時なんかも、普通は
「キモー!」って思うわけでしょ
(私もそう感じます)。
けれど、この『月末報告120 中括』だって、
そういうふうに見えるかもしれないし、
たぶん一部はそう見えますよ。
だからこの追伸を書いた。 はい、おわり。
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