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『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』感想/もう恐れてはいない

 映画は、現実における長い時間を二時間ほどのフィクションで語ることができるが、一本の映画を四半世紀かけて語る作品は稀だろう。

 四半世紀前に伝説と神話になってしまった作品が、長い時間をかけて「普通の物語」になるのを見届けた。清々しい気分だ。


【ここからは『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観賞後の方だけお読みください】

 ——1996年、3月の29日か30日。呼び出された友人の部屋で『新世紀エヴァンゲリオン』最終回録画を観せられた。私は放送をアルバイトで観られなくて、放送当日夜だったか翌日には仕事先でも最終回を見た同僚がやたらと怒っていた。「なあ、これどう思うよ?」と憤る友人がビデオテープの再生を始めた。録画を観終えて「えっ、いいじゃん。なんでみんな怒ってんの」と言うと、友人は「……うん、オレもくり返して二回目みたら、これでいい気がしてきた」と——

 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(以下「シン・」)を観た。95年に放送開始、96年に最終回を迎えたTVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のラストを目にした際、映画『蒲田行進曲』を連想したことを思い出した。そして東日本大震災後の現実と虚構について「シン・」同様に真摯に向かい合ったTVドラマ『あまちゃん』('13)のラストをこう予想していた記憶も蘇った。

 『あまちゃん』は、「紅白歌合戦」放送中にフィクション=虚構の中から飛び出して真の最終回をやり遂げた。「エヴァンゲリオン」は四半世紀かけて、人間が〈虚構と現実を等しく想像できる〉(「シン・」劇中セリフより)ことを証明した。

 「シン・」劇中で加持リョウジが行っていた地球の生物の種子を保存して次に繋げるという活動は、2012年に東京都現代美術館で行われた「館長 庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」や、現在進行形で「ATAC(特定非営利活動法人アニメ特撮アーカイブ機構)」にて庵野秀明、氷川竜介、樋口真嗣などの各氏が行なっていることと重なる。

 1974年『宇宙戦艦ヤマト』の衝撃が次世代に繋がった1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』、そして「シト新生」と「Air / まごころを、君に」を観た四半世紀後に「エヴァ」制作スタッフになったり、アニメに限らず他分野で人の営みや生み出した文化を「繋げる」役目を背負うことになった人々、そして次は「シン・」を観たひとたちが加持リョウジにとっての「種子」ということだ。劇中セリフでNEON GENESIS——「新世紀」という単語が出たときに、それをタイトルの回収や回帰だなどとは感じなかった。1974年や1995年という旧世紀から2021年という「新世紀」へと本当に繋がったのだという感動があった。

 「シン・」劇中での最後の作戦名が「ヤマト」なのは、そういうことだろう(あの場面にかかる楽曲が特撮映画『惑星大戦争』('77)からだとかはさておき。ちなみに劇場版『宇宙戦艦ヤマト』と同年公開の作品だ)。それはオマージュやパロディではなく真摯なネーミングだ。虚構と現実のどちらが正しいとか成熟しているとかそういうことではなく、人の営みや生み出した文化を「繋げる」行為が〈虚構と現実を等しく想像できる〉ことの存在証明であるかのように。

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 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』に関して、もしも願い一つだけ叶うなら。これはもう勝手な願いなのだけれど、中学生くらいのひとたちに観て欲しい。

 私が観たのは平日金曜の昼間ということもあってか、客席の半分くらいは三十代未満で、風体から想像するに学生と覚しいカップルや男の子三人組もいた。私は私で、自分と同世代くらいのオッサンがポップコーンを片手に持ってるのを見て「(これは『そういう映画』じゃないんだよ!若い奴がやるのはいいけど、あんたはダメだ!)」と心の中で苛ついていた・笑(やだねえ)

 私自身の青春はいまさら終わらせる必要もなくとうに終わっているし、ひとつの作品に心が呪縛されてもいない。しかしながら、こうも思う。物語の完結を見ることが叶わなかった友人知人の顔が思い浮かぶ作品というのもなかなかないものだよ、と。それでも——

 「シン・」はいま中学生くらいのひとに——四半世紀の物語がようやく終わっただとか、そんなオッサンの気持ちなどはどこ吹く風で、そしてTVシリーズ「エヴァ」よりも「シト新生」や「Air/まごころを、君に」よりも遥かに——きっちり真正面から観られるために、いま用意された作品だと感じる。さようなら、ありがとう

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 先日、子を自転車の後ろに乗せて何処でもないよな場所を走りながら、いま自分がこのまちに住む十三、四歳なら「何か起こらないかな、でも何も起こらないだろうな」とやるかたない気持ちの行き場を探して此処らを彷徨いてるだろうか?と思いつつ、「あの気持ち」が私自身の中に戻ってくることは決して無いのだという事実に愕然とした。

 それを想像はできる、それを思い出すこともできる、でも、あの気持ちが自分の中に自然と湧くことはもうないのだ。

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 子にAmazonプライムビデオやNetflixやhuluやYouTubeで何か番組を見せるとき、基本的には並んだサムネールアイコンで子が観たがったものを見せている。それが『マジンガーZ』でも『デビルマン』でも「ウルトラマン」でも『ヴォルトロン』でも「トランスフォーマー」でも『鬼滅の刃』でも『ポリス×戦士 ラブパトリーナ!』でも『トミカ絆合体 アースグランナー』でも。それぞれの作品で放送や公開の年代が違っても、同じサムネールアイコンのサイズなのでフラットに並んでいる。ロボットアニメで例を挙げると1972年の『マジンガーZ』 と2020年の『トミカ絆合体 アースグランナー』 で年代の幅は、ほとんど半世紀だ。それを交互に観たりしている。

 私が四〜五歳の頃から50年前の作品だと、1920年代『メトロポリス』や『アンダルシアの犬』や『戦艦ポチョムキン』や『蒸気船ウイリー』や『アクメッド王子の冒険』だ。そこをzap!zap!とワンアクションで50年の時間旅行ができる環境を想像はできても、私自身が実感として手に入れることは決してできない。

 配信や放送されているアニメやヒーロー番組に関して、(ルッキズムが目に余ったりジェンダー意識が現代にそぐわない場面では横から説明や補足や注釈は入れるにしても)こちらから「これを観た方がいい」とか「これはあかんやつや」などは、なるたけ言わないようにしている。予断に満ちたコントロールをしたくない。でも、正直なところ、ガンダムとエヴァンゲリオンについてはあまり観て欲しくはないな、とは感じていた。躊躇があった。エロとかグロとかレーティングとかそういうことではない。それが何故かは説明したくないし、同時に長々と説明したい気分もある。私自身はどちらもそれなりに熱中した時期があったので、とても勝手な言い草ではあるけれど。巧い表現が思いつかないけれど、端的に——怖かった。

だが、 
虚構と現実、そして

は、続く。
(『GAMERA1999』/総監督:庵野秀明 劇中テロップより)

 かつてのエヴァンゲリオンTVシリーズや劇場版にいなかった新たな主要人物として登場以来、個人的にはいまいちその存在意図にピンとこなかった真希波・マリ・イラストリアスが、「シン・」ラストに碇シンジと手を取り合い駆け出して階段を上り一緒に駅の外に出る役目なのは、あのひとだけが「序」以降のエヴァンゲリオンの登場人物のなかにいる唯一の「他者」で「物語の外」にいる人物だからだ。

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 「シン・」のポスターをあらためて見ると、ひとりだけ裸足でご丁寧にも「X」のポーズをとっている。エクス・マキナ。「物語の外側」にいるその者以外は、劇中唯一の実存である碇シンジと同一人物だ。なぜ真希波・マリ・イラストリアスが「匂い」のことを口にするかというと、画と音しかない映画というメディアの外側の者だからだ。映画は基本、画と音だ(OK、OK、ウィリアム・キャッスルもジョン・ウォーターズ『ポリエステル』も存じています)。画と音でつくられている映画では(一般的には)「匂い」はしない。

 「シン・」には「物語」と「キャラクター」が無い。これは批判でも悪口でもなんでもない。「シン・」は、まごうことなき傑作だ。物語は前作「Q」で終わっており、描き残されたのはドラマしかない。ドラマというのは感情曲線の構築だ。ドラマの設計図に合わせたパーツを組み上げるロジックを「シン・」では長尺を使い愚直なまでに積み上げている。渚カヲル=碇ゲンドウ(のシンジが望んでいた姿)だなんて、キャラクター先行で創ると絶対にやれないだろうけれど、ロジックでいうとそこにしか帰結しない。加持リョウジ(父)と加持リョウジ(子)の名前が同じである理由を劇中登場人物に、例えば母である葛城ミサトの内面に求めてもきっと答えは出やしないだろう。あれほど、なんとかインパクトだとか宗教の引用だとか用語の羅列だとか新たな枝葉末節が更に加わったのに、「シン・」には幹・背骨しかない。

 性愛に対してのオブセッションがほぼなくなったのも、旧作「Air/まごころを、君に」に比べてロジカルなドラマとして認識しやすくなった理由のひとつだ。(ヴィジュアルやサウンドや演出以外の)幹・背骨としては「シン・」と、ほぼ同じ展開の旧作「Air/まごころを、君に」では、性愛へのオブセッションがドラマのロジックを邪魔していた——とはいえあのオブセッシブな性愛への拘りが旧作を神話化した側面があるのもひとつの事実だ。

 「他者が存在しなかった物語」の外から来た人物であるマリが、物語内で唯一の実存であるシンジを虚構内から連れ出そうと伸ばしたその手。しかし、むしろ逆にシンジが率先するかのように手を取り外に出るってことは、旧作では「現実(または成熟や社会性)で虚構を救おう」としてみたけれど、新劇場版ではむしろ逆に「物語内にあった実存」のほうが「虚構に囚われていた現実」を外に連れ出したってことだ。旧作とはそこが逆転してるのだ。

 シンジとマリとが一緒に並んで〈虚構と現実を等しく想像できる唯一の存在〉(劇中セリフより)だ。だから二人で駆け出すのだ。

 現実対虚構ではない。虚構と現実が手を取り合い並んで駆け出すこともできる——いつか虚構が現実を助けに参上することもあるだろう。ヘアッ、デュワ、シュワッチ!とか言って。ひとが虚構=物語の中で描かれた真実味に助けられることは現実にある。私にもあったし、これからもあるだろう。

〈子供たちよ、小説とは虚構(つくりごと)の中にある真実(ほんとう)のことで、この小説の真実とは、いたって単純だ——魔法は存在する〉
(スティーブン・キング『IT』小尾芙佐 訳/文藝春秋)


 エヴァンゲリオンを子に見せるのには躊躇があったと先に書いた。でも、いまは、はっきりといえる。やがて『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』に辿り着くのなら、エヴァに関心を抱くことをもう恐れてはいない。

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【2011年8月13日追記】
Amazon Prime Videoで『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の配信が始まった。

前日夜に子と観ていたYouTubeにあらわれた広告で「シン・エヴァ」が「プライム会員なら追加料金なし」というナレーションを耳にしたときは「マーケットへの嗅覚が流石に鋭い!」と感じた。事前にAmazon Prime Video独占先行配信の報が出た際に「さすがに有料でしょ」という意見をTwitterのTLでもチラホラ見かけたが、「いや、そこは違うんじゃないかなあ」と思っていた。もし日本国内だけはセル/レンタル扱いの追加料金などというスタイルを選んだら「らしくないな」と感じていたのだ。予想が当たって嬉しいというか、庵野秀明氏や製作・制作スタジオであるカラーのビジネス感覚を私は信頼しているんだなと感じた。

Blu-rayやDVDなどビデオグラムのアナウンス前にデジタル配信がスタート、しかもAmazonプライム会員なら追加料金なしで観られるだなんて、ビデオレンタルショップの棚にズラリとTVシリーズのVHSが並んでいた光景を覚えている者にとっては不思議な感慨がある。当時「ぼくはエヴァに救われたんだ(売り上げ的に)」という店員の話を聞いたこともあった。

(レンタル落ちVHSをオークションやメルカリで記念品として入手しておこうかなとも思ったが……置いておく場所はないな……)

「VHS!? DVDじゃなくて? エヴァの最初の頃は、まだそんな時代だったの?」と違和感がある方もいらっしゃると思う。DVD再生機が家に初めてやってきたのは2000年3月発売のビデオゲームマシンPlayStation 2だったひとも多かったのだ。PlayStation 2と映画『マトリックス』DVD('99年公開/00年DVD発売)を一緒に買った話はよく耳にした。四半世紀前というのはそれほどのむかしばなしだ。

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24時が過ぎて配信が開始され布団にもぐり込む前に、いくつかの場面を観た。特に1時間50分以降を。クレジットロールの最中、やっぱり、とてもやさしい暖かい映画だな、と感じた。

普遍的な孤独や疎外感を描き、アニメーションはどうあるべきかの試行錯誤をし、虚構や寓話が現実にどう対峙しコミットできるか真剣に取り組み、新世代にも開かれた現代的作品で──それでいて同時に「最初のTVシリーズを四半世紀前に観た人々のための」作品としても成立させた、常軌を逸した傑作。

無論主人公は十四歳の少年、碇シンジだし、その物語が最初に語られた時代は作家もそちら視点にいたはずだが、四半世紀が経ち最終作のエピローグが終わったあとクレジットロールにかかる楽曲にて、主人公が断絶した相手で物語の元凶だった者、碇ゲンドウが救われる──どころか物語の視点がそちらにグルリと移行するのは、本当に本当に本当に言い表し難い出来事で、なかなか短い言葉では表現できぬので、本noteは長文になった。自分の文章なのに自分でも好きな文章だ。

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『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』感想/もう恐れてはいない|菊嵜了
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