※文章はウィキ引用で。青字は私の見解です。
1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災では、報道機関が機能不全に陥り、混乱に乗じて朝鮮人(「不逞鮮人」)による暴動が発生したなどの不確かな情報から自警団によって、朝鮮人の虐殺事件が関東各地で発生した。被害者には中国人や日本人もいた。
虐殺の原因は、朝鮮人が「暴徒化している」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」などの情報が流れたことに端を発しており このデマを流布した首謀者は、時の警視庁官房主事正力松太郎(後に読売新聞社主)であるとする主張もある。震災で焼け出された各新聞の記者が、警視庁官房に食糧や飲料が集まっているという情報を聞きつけ、手に入れようと次々に正力のもとを訪れ、そこで正力が「朝鮮人暴徒化の噂が流れている」とリークし、記者たちが記事にしたことによってデマが広がった(後に正力はこれを「虚報」と認めている)。
※何故こんなお偉方が誤解を招くような発言をするか?
それには二つの理由が考えられると思います。一つはポダムというGHQの工作員なので、対立構造を生み出すため。もう一つは、当時の在日たちがそう言われても仕方ないほど沢山の事件を起こしていたという事実があります。これは差別なんかじゃないです。事件の数々は事実に基づくものでしょう。下記にそういった捜査の中で彼らが警察に対してどんな態度を取ったのか記述が有りますので読んで見てください。
後藤新平内務大臣兼帝都復興院総裁は正力に「朝鮮人暴動は事実だが自警団に任せて力で押しつぶせば必ず朝鮮人は報復する」として鎮静化を図った。警察や戒厳司令部は、このような不正確な情報が流布していることを察知し、全ての朝鮮人が悪いわけではないとして、自警団の武装を禁止し、警察と軍を信頼するよう声明を出した(右図参照)。
また、横浜市の鶴見警察署長・大川常吉は、保護下にある朝鮮人など300人の奪取を防ぐために、1000人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返した。さらに「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干したとされる。また、軍も多くの朝鮮人を保護した。
※こうやってはっきりしないんだから取り敢えず止めよう。自分の身を犠牲にしてまで朝鮮人の命を守ろうとした。警察官や軍人がいたってことです。その事実も知らない人が多いと思います。日本人が一方的に虐殺したんだから全てが悪いと煽られた情報はおかしいと思いませんか?
10月22日には、東京時事新報は「関東一帯を騒がした鮮人暴動の正体はこれ」と題し、名前が判明している者としては鄭塋・金孫順・姜金山・崔先卜・金実経・林松致・李王源・呉河模の8名、名前が一部判明している者としては金某の2名、氏名不詳の者としては約59〜60名の、一部の朝鮮人暴徒が放火、殺人、婦女暴行、掠奪、騒乱を約30件起こした報じた(取り押さえられた者6名、解放され行方不明となった者約36名、逃走した者9名、射殺された者1名、毒殺された者1名、起訴された者23名、起訴件数10数件で、尚も捜査中としている。東京時事新報は、政府が朝鮮人による暴動事件について報道統制していたが、震災からしばらくたち記事差止が解除されたので、発表したとしている。
被害者数については諸説あるが
吉野作造は2613名余
大韓民国臨時政府の機関紙『独立新聞』は6415名
李承晩政府は1959年7月1日に関東大震災時に数十万の韓国人が大量虐殺されたと公式に主張した
※人数の違いに注目してみてください。ちなみに李承晩はGHQが大統領に決めたのでつながりが深い事でしょう。
ところがです・・・・数十万の韓国人が関東に一体どこに居るというのでしょうか?日本全国の人数を足しても136,557人つまり数十万どころか十数万人しか全体の朝鮮人の人口はいなかった事になります。これって知る人ぞ知るホロスコープ。南京大虐殺とか、アウシュビッツ収容人数の疑惑を思い出してしまうのは私だけでしょうか?
【名古屋大学研究資料より】1923年(大正12年)前述の関東大震災の日です
当時の日本の朝鮮人人口について各種統計はあるものの、確定することは難 しい。1923年の道府県別朝鮮人人口推計によれば、東京府は8,567人、神奈川 県は3,645人となっている。大阪府が33,626人で最も多く、福岡県が15,645人、 山口県が7,248人などで、この年の総計は136,557人と推計されている
~以上~
というより、戦前戦後を含めて沢山の朝鮮人が日本に好き好んで自らわたって来たので(笑)この事も強制労働させたという話にしている情報も有りますが(笑)住み着いて犯罪しまくりで国に送り返そうとしたら韓国政府から拒まれたたという経緯があるのも事実なので。
どのみち
【朝鮮人大量流入であります】
韓国併合(日韓併合)以前から朝鮮人は日本に流入し、留学生や季節労働者の朝鮮人が日本に在留していた[4]。韓国併合以降はその数が急増した。内務省警保局統計は、1920年に約3万人、1930年には約30万人の朝鮮人が在留していたとしている
日本テコンドー協会会長の河明生によれば、関東大震災における朝鮮人殺害は、関東在住の朝鮮人の、関西への避難と、新規渡航者の関東回避をもたらし、在日本大韓民国民団は官憲が意図的に民衆に朝鮮人を襲撃させたと主張した。
1931年の朝鮮排華事件の際には日本でも在日朝鮮人による中国人への襲撃事件が起きた。
日中戦争による戦時動員体制強化にともない朝鮮人の動員を進める必要に迫られたころ、日本政府は「内鮮一体」のもと、日本人と朝鮮人を同じく扱う政策をとった。朝鮮人は旧来の日本国民(内地人)とは別個の法的身分に編入されたが、日本国民としては不完全ながら公民権(選挙権、被選挙権、公務就任権など)を与えられた。「民族的出自によって差別的な不利益処分を受けることは原則としてありえない」という方針に、朝鮮の知識人が賛同した(李光洙など)。
●朝鮮出身者の中にも、日本国民として官公庁に勤務した者がいた。
●高等文官試験の受験資格も与えられており、キャリア官僚や判検事に任官した例もある。
●朝鮮人にも陸軍幼年学校や陸軍士官学校への入学資格が与えられ、日本陸軍の将軍・将校として日本兵を指揮した朝鮮人も多くいた。日本軍の将軍である洪思翊中将や李垠中将などは朝鮮名のままで日本軍に在職していた。のちの韓国大統領朴正煕も満州国軍軍官学校卒業後、日本の陸軍士官学校に留学し、卒業後は満州国軍で中尉となった。
●第二次世界大戦の終戦以前に行われた選挙では朝鮮名のままで立候補した者も存在し、実際に衆議院議員に当選した者(朴春琴)もいる。また、多くの朝鮮人も華族(朝鮮貴族)として貴族院に議席を持っていた。
※つまりこの辺から、官僚や政治家等そして軍部等日本の世相に影響を与える物に入り込み始めたという見解が成り立ちます。
【差別と事実は違います。実際に事件の数々は起きていたのです】
朝鮮戦争勃発後、朝鮮人は韓国側と北朝鮮側に分かれて反目し、下関事件、万来町事件、浅草米兵暴行事件、吹田事件など数々の大規模な騒乱事件や、枚方事件や親子爆弾事件などの工場襲撃事件を引き起こした。佐々淳行は、30万人の朝鮮人が日本共産党とともに武装蜂起し、「火炎瓶闘争」と呼ばれる暴力革命闘争を行い多数の警察官が死傷した としている。1955年に結成された朝鮮総連は、警察による朝鮮人部落への強制捜査には硫酸瓶や火炎瓶で対抗、1952年に制定された破壊活動防止法による調査指定団体となっている。
第二次世界大戦終結後、日本共産党とともにデモ活動などを積極的に行っていた朝鮮人は、1950年6月25日に朝鮮戦争が始まると共産主義者の処刑(保導連盟事件)を実行している韓国への帰国を躊躇するようになった。また、共産主義者ではなくとも韓国に帰国すれば韓国民として従軍しなければならなかった。6月29日、在日本大韓民国居留民団は義勇兵を募り6万名の志願者から選抜した2万名を韓国に送りだすことを発表した。韓国人647名、日本人150名の志願者が集まったものの[120]、当初は韓国政府が受け入れを拒否するなどの事態があったが[121]、後に占領軍が必要としたため、韓国人志願者644名を派遣した(その後、義勇兵の一部には韓国政府による工作訓練が施され工作船で日本に潜入し、新潟日赤センター爆破未遂事件を引き起こし
朝鮮北部では1946年8月以降北朝鮮労働党政権が成立、朝鮮南部では1946年11月に南朝鮮労働党が結成された。木村光彦(青山学院大学)によれば、朝鮮及び日本の共産党員は日本海を不法往来し、日本共産党員は自らの船を「人民艦隊」と呼び朝鮮・中国と密貿易・密出入国を繰り返し、日本に上陸した南北朝鮮の共産党員は工作員として活動した。日本共産党と在日朝鮮人は緊密に連携して日本での暴力犯罪を繰り広げ、日本社会に深刻な打撃を与えていることが国会でしばしば議論になるほどであった
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