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「SLAM DUNK」の先を行くものとなった「テニスの王子様」の「天衣無縫の極み」

「SLAM DUNK」についてのコラムは概ね書き終えたので、今度はその後継者となるポスト黄金期の「テニスの王子様」についてのコラムである。
「スラダン」という作品があそこまでの名作になった理由はそれ自体がバスケットいうスポーツの火付け役にして入口となった作品だからという時代性が少なからずあるが、それだけではない。
型破りな素人の桜木花道を中心に数々の個性豊かなキャラクターが織りなすドラマとバスケットに賭ける情熱など色んな要素が複合的に絡み合い、その極致たる山王戦はジャンプ漫画屈指の名試合だ。
しかし、「スラダン」とて決して完璧な作品だったわけではなく、全ての要素や伏線が未消化に終わってしまったことなども含めて必ずしも作品として100点満点とは言えなかった

これは何も下種の後知恵みたく、今日の視点だから見えてくるあげ足取りとして言っているのではなく、リアルタイム当時読んだ時から感じていた「スラダン」へのフラストレーションである。
「全国制覇を目標としている」を果たせなかったこともそうだが、何より名朋工業や愛和学院、大栄学園など全国の強豪たちと戦うという伏線が回収されずに未消化のまま終わってしまったのだ。
リアタイ当時全国大会編を読んでいた時、私はてっきり事前に提示されていた強豪たちとの対決をきちんと済ませ、準決勝で海南へのリターンマッチを果たし、決勝戦で山王に勝って全国制覇というシナリオだと思っていた。
その方が物語の構成として美しかったに違いなく、6年間頑張ってきた赤木の苦労も報われてハッピーになれるのかと思ったが、残念ながらそうはならなかった。

山王戦で全てを出し尽くした湘北が愛和学院のように嘘のようにぼろ負けして赤木の推薦もなくなった……この文字を見た瞬間「ふざけんな馬鹿野郎!!」と叫んだのは私だけではないはずだ。
散々期待させておいてこれかと、しかもこれが打ち切りでそうなったのではなく作者が元々そのつもりで描いていたことを知った後だったから尚更のことそう思ったのである。
一緒に楽しんでいた同級生や兄たちとも「いやこの結末はないわー」であり、私は「スラダン」を名作と認めつつも満足できていない部分がある作品となってしまった。
そうした不満点をことごとく解消したのが「テニスの王子様」なのであるが、今回はこの作品における「天衣無縫の極み」を中心にして私なりに作品の全体像を読み解いてみたい。

「SLAM DUNK」は「弱い者たち」の物語


「SLAM DUNK」という作品をキャラではなく物語の観点から読み解いていくと、それは「弱い者たち」の物語だったのではないだろうか。
主人公・桜木花道を中心に湘北高校バスケ部のチームは一貫して「弱いチーム」として描かれ、全国大会に入っても最初はCランクなんて評価されるくらい選手層の薄いチームだった。
何せ未経験のど素人がそにポテンシャルと吸収率の高さだけでスタメンとして起用される位だから、プロのチームだったら絶対そんなことは起こりえないことであるとわかるだろう。
しかし、多くの読者はその「弱さ」に魅力を感じたから桜木花道に感情移入して物語を楽しみ、そんな彼らが成長して強者になっていくプロセスが面白かったのだ。

また、ライバル校のコラムを特に見てもらえればわかるが、「スラダン」は選手の指導法や勝ち負けの法則などもシビアに物語のルールとして提示している。
例えば谷沢君への指導を間違えたばかりに死なせてしまった安西先生や選手育成を間違えて反逆を食らった田岡先生、また桜木に目が行くあまりに流川への対策がおざなりだった高藤監督など。
桜木を育てるにしても流川のようにオフェンスとして目立たせるのではなくリバウンドやディフェンスといった地味ながらも大事なポジションで目立たせるといったことをしている。
これは昭和の軍隊方式の指導法の欠陥を指摘しつつ、チームが成長していくためには個人の適性に合った指導をしなければならないという教育の本質を浮き彫りにしていたのではないだろうか。

よく考えてみれば、「スラダン」以前のジャンプ漫画、スポーツ漫画も本質的にはそういうものであり、適材適所というものが大事なのだという本質は何も変わっていなかった。
しかし、昔の作品はいわゆる「強さ」ばかりに目を向けるあまりに「弱さ」が見えにくくなり、強さや正しさを強調するあまりに「強いから勝てるのだ」という風になってしまう。
わかりやすく言うなら、24時間必死に寝ないで頑張ったやつこそが最強でありそれ以外は雑魚という極端に偏った「やりがい搾取」の構造に陥ってしまっているのである。
こうなってしまうと、そもそもそんなことのためにスポーツをしなければならないのか?ということになるのだが、そこでヒントになるのが赤木晴子のキーワードだった。

「桜木君、バスケットは好きですか?」

桜木花道のコラムを書いた時には書きそびれていたが、桜木花道が真のバスケットマンになろうと思った原点は赤木晴子がしたこの質問にある。
最初は晴子に一目惚れした桜木が「晴子さんに認められたい」という承認欲求でやっていたし、その弱点を柔道部の青田に利用されたことがあった。
ところが桜木は「バスケットマンだからだ」とはっきりいってのけ、そして山王戦のクライマックスでは「バスケットが大好きです。今度は嘘じゃない」と言い切ってみせる。
桜木のこの答えは「何のためにスポーツをするのか?」という問いに対する1つの答えとなり、「強くなるため」「勝つため」ではなく「好きだから」バスケをするのだと示してみせた。

「テニスの王子様」は「強き者」たちの物語


「SLAM DUNK」という作品が示したシンプルながらに最強の答えは「好きだからバスケットをする」であり、これが桜木花道にとっての「断固たる決意」となったのである。
強くなりたいからとか勝ちたいからとかではなく、ただ純粋にバスケットが大好き、そのバスケットが好きだという境地に辿り着くことが桜木花道の1つの答えだったのではないだろうか。
冒頭の部分で書いた私の「スラダン」に対する未消化に終わった要素に関してもおそらく同じであり、井上雄彦先生はおそらく単なる試合の勝ち負けや目的もなくチームを強くすることに意義を感じていなかったのだろう。
桜木花道が承認欲求を乗り越えて自分のためにバスケットをするようになった時が物語としてのゴールであり、そうなれば物語としては山王戦で終わっておくのがベストだったと納得できる。

とはいえ、やはり読者の思いとしては私も含めて湘北高校に全国制覇を果たして欲しかったのは間違いないし、ここから先にある可能性をもっと見せて欲しかったのは事実だ。
そこで許斐剛先生が「COOL」という作品を踏まえて作られた「テニスの王子様」という作品は、その商品展開も含めて「スラダン」の先を行く作品となったのではないかと思う。
「強くなりたいから、勝ちたいからスポーツをする」のではなく「好きだからスポーツをする」を今度は「強き者」たちの物語として表現したのだと私は考えている。
まず、主人公をど素人の桜木花道ではなく流川楓と沢北栄治をハイブリッドしたようなアメリカ帰りの帰国子女にしてスーパールーキーの越前リョーマに設定する発想が既に「たしけ、天才だな」と思ったものだ。

その越前リョーマは最初不気味なぐらいに表情や感情がなく、どこかで相手のことを見下して「まだまだだね」とバカにしており、非常に印象が悪い生意気な小僧として描かれている。
しかしそんな越前が青学の部長・手塚国光に1-6で惨敗した時、それまでの無感情さが嘘のように目に炎が宿り、内に秘める熱いテニスへの想いが溢れ出して物語は大きく変化した。
それまで自分の父親以外に強き者を知らず負けなしで来ていた越前が初めて自分の父親以外の第三者に負けたことで敗北の悔しさを知り、「勝ちたい」「うまくなりたい」「強くなりたい」と志す。
父親の英才教育を受けただけのテニスマシーンに魂が宿り、ここから越前リョーマは「真の強者」として青学の柱となるべく人間的にも能力的にも大きな成長を果たしていく。

特に越前が「青学の柱」ということを意識するようになったのは関東大会の氷帝戦の日吉戦からであり、ここで初めて越前は自分が勝たなければ青学はこの先に進めないという状況に追い込まれた。
ましてや自分がいつか超えたい・勝ちたいと望んでいた手塚が跡部に敗北した後だっただけに色々思うところもあったのだろう、それを全て自分のプレーに込めている。
ここからの越前は自分よりも格上の真田や跡部といった手塚クラスとも戦っていくようになり、手塚に変わって青学のS1を務められる程の器へと成長していく。
しかしその中で越前はいつしか「勝つため」にテニスをするようになってしまい、それ故に無我の境地で他人のテニスをコピーするという危険な方向へ行くのだが、ここで重要人物が現れる。

「天衣無縫の極み」の本質とは「テニスが楽しいからテニスをする」というシンプルながらに強い答え



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越前リョーマのライバル・遠山金太郎

青学の柱を意識するあまりに越前リョーマは自分がテニスをすることの意味を見失いかけていたのだが、そこで彼の目の前に現れたのがもう1人の主人公・遠山金太郎だ。
遠山金太郎は言うなれば桜木花道の発展形と言える正統派ヒーロータイプの明るいキャラクターであり、許斐先生は当初遠山を主人公にしようとしていたと言っていたことからも越前の終生のライバルである。
そんな越前と遠山が全国大会準決勝の青学VS四天宝寺の勝敗が決まった後、一球勝負という形で2人を勝負させたわけだが、実はこれが越前にとって非常に意義のあることだった。
もう既にチームとしての勝敗が決した後で、チームの為とか勝ち負けとかではなく純粋にラリーの打ち合いを楽しむ越前と遠山の戦いは作品として重要なテーゼを浮かび上がらせる。

それは「強くなるため」「勝つため」ではなく「楽しむため」「自分のため」にテニスをするという段階であり、遠山金太郎の本能に訴える縦横無尽のプレーは越前にそれを思い出させた。
遠山とテニスをしている時の越前は「こいつを倒したい」とは思いながら、それ以上に自分と対等に戦い切磋琢磨できる同期の出現にすごく嬉しそうな顔をしている。
そしてここで越前リョーマは天衣無縫の極みへのヒントとなるものを掴むため、南次郎に軽井沢へと連れて行ってもらい天衣無縫の極みに至るための特訓を行う。
そのヒントは「目に見える側に囚われるな」「もっと心の底からテニスを楽しめ」であり、その過程として一度リョーマは記憶喪失に陥るのだが、これもまた重大な意味がある。

それまで積み上げて来たテニスを全て記憶喪失という形で失ったリョーマは青学の同期やライバルたちとの対決の中で自分にとってのテニスをどんどん取り戻していく。
そしてその上での決勝S1、その越前リョーマにとっての「悪」であり、作品全体の「ネガ」として描かれる立海大附属の幸村精市との対決の中でリョーマは五感を奪われる。
誰もがテニスをするのも嫌になる状況まで越前は追い込まれるわけだが、その中で越前は自分が何のためにテニスをするのかを思い出すのだ。
その答えとは幼少期に父親と打っていた時、何もできなかったけど夢中でボールを追いかけ、上達するのが楽しくて仕方なかった……南次郎はこう問う。

「リョーマ、テニス楽しいか?」

これは「スラダン」の晴子が問う「バスケットは好きですか?」のオマージュなのだが、自分が何のためにテニスをするのかという最後の本質的な問いの答えについにリョーマは辿り着く。
「テニスって楽しいじゃん」という言葉と共にイップスを乗り越えた時、彼はとうとうテニスの本質へと辿り着いて天衣無縫の極みを覚醒させサムライドライブで幸村に勝利した。
そう、チームの為にとか強くなる為とか勝つ為とかではない、もっと本質的な「テニスが楽しいからテニスをする」という答えにたどり着いた時、リョーマは桜木花道を超えて見せた。
そして青学というチームも「テニスの王子様」という作品自体も「SLAM DUNK」が果たし得なかった答えを示して未来への物語を紡ぐことが可能となったのである。

大人になっても原体験を大切にできる者が「天衣無縫の極み」に辿り着ける


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天衣無縫の極み

このようにして見て行くと、「テニスの王子様」という作品の「天衣無縫の極み」は漫画の表現としてはぶっ飛んだように表現されているが、何も特別なことではない。

こちらの記事にも示されているように、「天衣無縫の極み」はどんな分野のどんな人にも本来持ち得る筈のものなのだが、大人になるにつれて誰しもが忘れてしまいがちなものである。
夢を語れば「クサい」「現実はそんなにうまくいかない」「こんな時代だから」「お前にできるもんか」とばかにされるが、そんな中でも自分のエゴを貫き通して諦めなかった奴だけが突き抜けるのだ。
幸村精市があれだけ強いながらにリョーマに敗れた理由は正にそんな「夢を否定する愚か者」だからであり、何かと条件付けをして自分以外のテニスを認めまいとし、自分の殻を破れずリョーマに負けた。

天衣無縫の極みというと誰しもが特殊なことのように思うが、実際はそんなに難しいことではなく自分が心の底から「好き」「楽しい」と思えるようなことをとことんまで突き詰めることである。
そしてそれは往々にして幼少期の原体験に答えが隠されいるものであり、例えばビジネスの例でいえば世界的大ヒットを巻き起こした「ポケットモンスター」の田尻智がそういう人であった。
あの人は幼少期に昆虫採集をしていく中で生き物への興味を持ち、それを本で調べたり山に行って採取したりする中で「昆虫博士」と呼ばれるようになり、それが「ポケモン」の着想の原点になっている。
そしてそれをゲームボーイでやろうと思ったきっかけも都市化が進んだ町田市のゲームセンターで毎日の如くゲームに明け暮れた日々があってのことであり、それを突き詰めた結果大成功を収めたわけだ。

また、ケンタッキーフライドチキンの創業者であるカーネル・サンダースにしたって、幼少期に父を亡くし工場で働く母の代わりにライ麦パンを作ったことが「世界中の人に美味しい料理を届けたい」という理念になった。
様々な不況を味わい不遇の日々を過ごしながらも、65歳という還暦を過ぎてからようやく自分のビジネスが成功したわけであり、これもまた幼少期の原体験をもとに自分の好きを極めた結果ではないだろか。
それこそ今ならばYouTuberやSNSでバズってビジネスをして大成功を収めている人たちだって、全部が全部ではないにしても幼少期や子供の頃に感じた原体験がきっかけとなっている人は多い筈だ。
許斐剛先生は越前リョーマというテニスの申し子の成長物語を通じてそれを描いているだけだが、その舞台版である「ミュージカル・テニスの王子様」の「天衣無縫の極み」でこんなフレーズがある。

「誰にだってきっと見つかる筈 天衣無縫の極み」

そう、誰にだって心の中に好きだと言えるもの、楽しいと思えるものはある筈であり、実はそれが自分の人格形成の原点となっている筈だとリョーマは問いかける。
「楽しんでる?」とリョーマが幸村に問うた質問は実は「人生楽しんでる?」と私たちに問うものだとも読み取れるし、同時に「真の楽しさ」とはこういうことを言うのだと思う。
私はまだ自分の中の「天衣無縫の極み」は形にできていないが、それでも「SLAM DUNK」という名作が切り開いた新境地の先を行く作品として「テニスの王子様」の天衣無縫の極みは凄く深い答えである。
自分の中にある筈の天衣無縫の極み、あなたも見つけてみてはいかがでしょうか?

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「SLAM DUNK」の先を行くものとなった「テニスの王子様」の「天衣無縫の極み」|ヒュウガ・クロサキ
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